彩りの四季_秋


「いらっしゃいませ、こんばんわ」
 みかげはいつもどおりの言葉を投げ客の顔を見た。
 
 今日も、来なかった―。
 
 あの日から彼―和矩―は姿を見せない。みかげに和矩の名前が解らない。宏樹が名前を教えてくれた気がしたが、どうも思い出せない。こういうとき、蚤の脳みそである自分の頭が腹立たしい。
 篠崎は客を気にしているみかげを見ていた。
 出張から帰ってきてすぐ、大学生アルバイトの吉田から、みかげを送ろうとしていた青いシエトロンC2に乗っていた奴がやってきたという話を聞いた。その翌日から姿を見せず、みかげが落ち着かないと言うことを聞き続けていた。
 自分の出張中に何が起きたのか知らないが、みかげの心がシエトロンごときに乗っている男に向いているのは確かだ。
「達端さん」
 篠崎は事務所に上がってきたみかげに声を掛ける。
 店との境の扉を閉め向こうに声は聞こえない。
「ハイ?」
「なんか、最近気になることでもあった?」
「はい?」
 みかげが首を傾げると、篠崎はみかげの側に近づき、
「この前の奴となんかあった?」
「この前……、何もないですよ。そう、何もなかったんですよ」
 みかげはそのままロッカーに向かい、制服を脱いで、篠崎のほうを見た。
「何もなかったんですよ。だから、気にしないでいいんですよ」
 みかげは頭を下げ鞄を肩に担いで出て行った。
 秋とはいえ外はまだじとっと暑く、コンビニの明かりが眩しく駐車場を照らしている。
 
 あの車は、ここに停まっていた―。
 
 青くて、和矩らしい車だと思った。
 篠崎は車が好きで、よく発売すぐの車雑誌を客より先に見ては、「これがいいんだよ」と説明してくれたが、みかげは好きになれない形をしていた。
 篠崎の好みは最近はやりのワンボックスにエアロが付いているものだったり、不恰好な羽が大きく付いているものがほとんどで、実際、篠崎の車もワンボックスにいろいろと中や外に付いている。
 
 落ち着かない。
 
 思いをしたことがあった。だが、和矩の車は至ってシンプルだった。内装を変にいじってないし、ただ好みなのだろうが、シフト・ノブが木で出来ていた。
 みかげは自転車にまたがり、家の方を向いて漕ぎ出した。
 毎日通う道も徐々に寒さと寂しさで嫌になる。寒くなると、就業時間を変えてもらいたいと思う。
 最近仕事が嫌になってきているのもあった。篠崎と顔を合わすのが苦痛と言うか、篠崎が仕事中でもみかげを意識していることを皆が気付いていることが苦痛なのか、和矩が来なくなったことが苦痛なのか解らないが、とにかく毎日が嫌になっていた。
 
 澪に会いたい。
 
 何か嫌になると必ず澪に会いたくなる。
 暗闇の中車がエンジンをかけて停まっていた。
 
 もしかして?
 
 と思うのは変なのだろうか? 隣を通ればまるで違う車で、中に居る人もまったく違った。
 みかげはため息をこぼしながら家に向かう。こんな鬱々とした毎日を過ごすなど未だかつてなかった。
 晃平と付き合っていた頃も、澪がフランスへ旅立ったときでさえもそうは思わなかった。寂しいとは思ったが、切なくて、やりきれないのは初めてだった。
 みかげは家に着くとすぐ電話を見る。今日は澪からのメッセージはなかったようだ。べつに毎日あるわけじゃない。忙しいときは一ヶ月ない。でも、今は声が聞きたい。
 みかげはため息を落とし、夜食用に買ってきたパンの袋を開けながらカフェ・オ・レを入れる。
 机に座り笑えない深夜番組をぼうっと眺める。
 電話が鳴った。
 みかげはすばやくそれを取り上げ耳に当てる。
「もしもし?」
「あ、俺」
「……店長?」
 篠崎は咳を一つした。
「やっぱり心配になって、さっきの物言いが。何もなかったような風じゃないから、なんか変な事されたんなら俺が、」
「ないですよ」
 みかげはころころ笑う。
「でも、」
「本当ですってば。まぁ、元気が無いのは友達から連絡がなくって。忙しいし、フランスに居るんで、いろいろ時差とかでこっちからも連絡できなくって、だからなんですよ。ただ、それだけ」
 みかげの心にチクチクと針が刺さる。
 
 何故、嘘をつくのだろう。
 
 みかげはころころ笑いながらさらに続ける。
「それに、夏バテが今頃来たようで、だるくって。やっぱりもう少しダイエットしなきゃいけないなぁと思って、甘いの控えてるのが一番かも」
「本当に?」
「それ以外何があるんですか?」
 みかげの笑い声にほっとしたように篠崎は納得したと電話を切った。
 みかげは受話器を置き、首をたれる。
「うそつき」
 みかげはそう言ってベットの側に座りパンをかじった。味気なくて美味しさを感じない。みかげはパンを睨み、半分を残して机に置いた。
「寝よう……」
 ため息をついてベットに入った。
 
 
 みかげは翌日いつもの時間に目が覚めた。だがどこかおかしい。
 のどが痛いし、妙な咳が出る。体もだるくて、悪寒がする。
 ため息をつき、昨日残したパンをかじって風邪薬を飲んだ。
 普段ならこのまま起きて、17時入りの時間に出て行くが、今日はぎりぎりまで寝ようと決めベットに戻る。
 
 16時半。みかげはコンビニへと向かっていた。
 出かけようとしたとき、誰のいたずらか、タイヤに釘が刺さっていた。不機嫌になりながら近くの自転車屋に修理を頼み、歩いてコンビニに向かう。
 まだ夏の余韻のする夕暮れなのに、悪寒が酷く身体を包む。
「歩き?」
 今日も17時から翌朝8時までの篠崎と駐車場で会う。
「ええ、タイヤパンクされてて、ほんと腹が立ちますよ。明日休みなんで、警察にでも被害届け出しに行ってやる」
 みかげは笑いながらそういってロッカーを開ける。
 
 無理、してる―。
 
 みかげは篠崎の前で繕っている。自分を装い、自分を見せないようにしている。何故だか解らない。彼はいい人で、嫌いになる要素は一つもないのだ。なのに何故か余所余所しく接している自分が居る。
 
 19時。
 サラリーマンや、カップル、塾帰りの学生でごった返す時間。弁当の温めと、レジに置かれているフライ系の注文に追われる。
 それがひと段落着く19時半。ふっと人が途絶え、みかげがため息をついたとき、綺麗な服を着た老婆が入ってきた。
 同じ老婦人でも畑山のおばちゃんとは雲泥の差がある上品な服を着ている。
「いらっしゃいませ、こんばんわ」
「ちょっとお手伝いしてくださるかしら?」
 老婦人はそう言ってみかげの側に近づいてきた。
「ハイ、何をお探しでしょうか?」
「飲み物とお弁当が欲しいのだけど、私こういうお店に来たことが無くて解らないの」
「飲み物は店の奥、お弁当は向こうです。どうぞ……あ、ちょっとお待ちくださいね」
 みかげはそう言うと入り口のかごを持って飲み物が置いている棚へと歩く。
「お弁当と一緒に飲まれますか? それならお茶のほうがいいですよね。お茶はこちらの棚になってますけど、どういったお味がいいですか? 緑茶、烏龍茶、などなど」
「あなたはどれが好き?」
「私ですか?」
 みかげは素っ頓狂に甲高い声を上げた。
「そう、そうですねぇ。いつも買うのはこの緑茶ですけど、給料日なんで今日。給料日はちょっと贅沢にこのお茶とこのカフェ・オ・レを買うんです」
「そう、美味しい?」
「私はそう思います。でも、味覚って人それぞれなんで、絶対はないですけど、でもこのお茶は入れたての玄米茶風味で好きですよ。一人暮らしなので、急須があってもお茶を飲む機会が少なくて、だから、これにしてるんですけど」
「じゃぁ、それを二本、それと、そのコーヒーも」
「かなりお砂糖入っててカロリー高いですけど、いいですか?」
「ええ、結構よ」
 上品な婦人はにこやかに笑い、みかげを見た。みかげもそれに微笑を返した。
「お弁当はどういうのにしますか? 油物は控えたほうがいいですよね?」
「いいえ、私じゃなく、孫が食べるの。だからあなたが好きなものでいいと思うわ」
 みかげは弁当の棚の前で唸る。
「普段はどれ?」
「え? ……普段は、これですね。給料日前はこのおにぎりパックで飢えをしのいで、」
「給料日には?」
「これですね、デラックスミックス弁当」
 みかげが笑いながら説明すると、大学生バイトの吉田から「変な客」の報告を受けた篠崎が店内に入ってきた。
「じゃぁ、それ……、でもこれ、」
「かなり油多めですよ。なかなかの量ですしね」
「あの子そんなに太ってはないけど、でもねぇ」
「じゃぁ、これはどうです? 新作なんですけど」
「食べた?」
「あ、いや……実験台にはなってもらえませんよね」
 みかげの言葉に老婦人も合わせて笑う。
 そのとき客が入ってきた。
「いらっしゃい、……ませ」
 吉田も篠崎も声を飲む。
「本人に聞きましょう」
 老婦人がそう言って手を振って入ってきた和矩を呼んだ。
「お婆様……、どうも……。藤沢が困って連絡してきましたよ」
「ええ、さっさと帰りなさいといえば、あなたに連絡すると解っていたからですよ。それより和矩さん、あなたはどちらが良い?」
「はぁ? ……どちらでも良いですよ、そんなことより、」
「もう、あなたは人の話を聞かない、ゆっくりと物事を考えない。少しは落ち着いたらいかがですの?」
 老婦人がぴしゃりと言い切ると和矩は黙った。
 落ち着いて言葉を捜す環境じゃない。篠崎も居るし、何よりももう会わないと約束したみかげが目の前に居るのに、それこそ祖母をダシにやってきたと笑われるのは和矩だ。
 和矩はため息を落とし、
「僕はそのデラックスのほうが好きです。飲み物はそちらで結構です。お婆様のお茶菓子はいかがしますか?」
「あぁ、そうね、お茶菓子が居るわ。えっと、お勧めのお茶菓子はあるかしら?」
 みかげは不意に現れた和矩に見入っていたが、すぐにお菓子コーナーへと行く。
「あたしはこれが好きです。お茶菓子にするには、でも高いから」
「給料日だけのお菓子ね。じゃぁ、それをちょうだい」
 みかげは下の棚にあった箱菓子を持って立ち上がる。そのとき上段の和菓子が目に入ったがすぐにかごにそれを入れる。
「でも、今日はそういう気分じゃないのね?」
「え? ……、ええ、和菓子もありかなぁと。この最中ときんつばなんかいかにも美味しそうじゃないですか」
 みかげがそう言った時、賑やかな声とともに客が入ってきた。
「みかげちゃん、みかげちゃん」
「いらっしゃいませ、どうしたんですか?」
 畑山のおばちゃんが慌てて入ってきた。普段でさえも賑やかな人だが、今日はさらに賑やかだ。だが少し顔色が悪く、酷く神経質な顔をしている。
「香典袋どこ?」
「香典? あぁ、こっちです。すみません。失礼します。あ、これ持ってもらえますか? すみません」
 みかげは和矩にかごを預け頭を下げて畑山のおばちゃんと香典売り場へと向かう。
 畑山のおばちゃんは御霊前袋を三つ掴んだ。
「ご不幸ですか?」
「弟がね」
「弟さんて、長いこと闘病していた?」
「そう。長いこと糖尿患ってて、まぁ、長くないと言われてたんだけど、それが風邪を引いてこじらしてね」
「気落ちしないようにしてくださいね」
「ありがとうね」
「じゃぁ、二、三日は向こうに?」
「そうね」
「寂しいです。おばちゃんに会えないと。秀雄さんも一緒に?」
「あの子は仕事もあるし、叔父だといっても遠いから」
「そうですか。本当に気落ちしないようにね。おばちゃんが塞ぐと皆暗くなるから」
「ありがとう。よかったみかげちゃんが居て。外に自転車がないから居ないのかと思ったのよ」
「それが、来るときに近所のお子ちゃまでしょうかね? 釘刺してて、修理に出してるんですよ……、あ、お金引いてなかった」
「あぁ、今日、給料日だったわね。あまり脂っこいもの買っちゃだめよ」
「はぁい。じゃぁ、気をつけて行って来てくださいね」
 畑山のおばちゃんは頷いてみかげの腕を二回叩くと帰っていった。
「あ、他にもお探しですか?」
「いいえ、……、これをもう一つ下さる?」
「ハイ」
 みかげはデラックスミックス弁当を持ってくると、老婦人と和矩はレジに立っていた。
「じゃぁ、和矩さん払ってね」
「はい?」
 和矩が老婦人を見ると、老婦人はみかげの方へと歩み寄っていた。和矩は眉をひそめ掲示された金額を支払う。
「お婆様、弁当は温めますか?」
「どういうこと?」
「食べるまで五分でしたら温めたほうがお得ですよ。家で温めて電気代を使うよりも」
「そう、じゃぁ、一つは温めてくださいな」
 老婦人はそう言うと微笑んでみかげの方を見た。
「あなた良い方ね、今度じっくりお話がしたいわ」
「はぁ」
 みかげの手を老婦人が掴むとすぐ眉をしかめた。
「お婆様、済みました。帰りましょう」
「あなた、熱があるんじゃない?」
 老婦人はすぐにみかげの額を触る。
「まぁ、ちょっと、熱があるのに働いてるの?」
「いや、無いですよ……たぶん」
 みかげは手をひらつかせるが、ふと思い出したように襲ってくる悪寒と、不気味なほどの倦怠感が肩に圧し掛かった。
「責任者はいらっしゃらないのかしら?」
「あ、私ですが」
 先ほどまでのやり取りを目の前で見ていたが、篠崎が下手にカウンターから出てきた。
「この人熱があるようよ、ちょっと帰してあげたら?」
「大丈夫です。後数時間も無いですし、ちょっと眠たいから手が温いだけですって」
「先ほどの方もおっしゃってたじゃない。風邪をこじらせてなくなったって、風邪って馬鹿に出来ないものよ」
「いや、ですから……」
「そうね、帰る足がないのならば和矩さん送って差し上げましょう。自転車がパンクしてきているとおっしゃっていたし。そうしましょう。でも、先に私を送り届けてくださいね」
「あの、ですからね」
 みかげの言葉は聞き入れられなかった。老婦人はさっさとことを決め、篠崎から了承を無理やり取ると、みかげの荷物を持ってこさせ、そのまま手を引いてみかげを連れ去った。
「すみません」
 和矩は頭を深く下げて老婦人の後を追いかけた。
「帰っちゃいましたね」
「まぁ、これからそれほど忙しくはないから……」
「でも、あいつ、店長の恋敵でしょ? いいんですか? てか、卑怯ですよね、ばあさん使ってやってくるなんて」
 吉田のたわ言に篠崎はむっとしたが、祖母を使ってやってきた。あたりは篠崎も賛成していた。
 
 卑怯者め―。
 
 篠崎の視線を感じ和矩は車に乗る前に店に向かって頭を下げた。
「何をしてるの?」
「いや、ちょっと。で、送っていけばいいんですね?」
「先に私よ。じゃないとお爺様がへそを曲げるわ」
「じゃぁ、こんなわがまましないで藤沢と帰ったらよろしいじゃないですか」
「まぁ、そうやって私をイジメル」
「虐めてませんよ。電話があって迎えに出てきた僕の苦労を、」
「大丈夫かしら?」
 老婦人は話を切り捨ててみかげの方を見た。みかげは頷く。
「ったく、聞いてねぇ」
 和矩は舌打ちをする。
 みかげは制服のまま鞄を抱きかかえ、強引な老婦人の隣に座っていた。
「ごめんなさいね。風邪を引いていると無理やり連れ出したのに、私の家が先だなんて。そうそう、あのお弁当。一つはあなたのだから」
「え?」
「和矩さんも一人で食事って言うのは味気ないでしょ? もしよかったらよ。いっしょにたべてあげてくれないかしら? と思ったのだけど、具合悪そうだから、ちゃんと送って差し上げてよ」
 老婦人はそう言って家の前で車を降りて家に入った。玄関を開けるとお手伝いらしき女性と、中年女性が出迎え、中年男性が二人、車に近づいてきた。
「悪かったね和矩」
「いいえ、どうしたんですかお婆様」
「いつもの夫婦喧嘩さ。……そちらの方は?」
 みかげが頭を下げると、和矩は返事に困って言葉を濁す。
「彼女よ、不躾な事を聞くもんじゃありませんよ典孝」
 老婦人がやたらと大声を出す。
「あぁ、それは失礼しました。和矩の伯父です。今日は遅いから後日ゆっくりといらっしゃい。なるほど、婆様のわがままも理由があったようだ」
「いや、違うから、って、伯父さん」
 和矩の伯父はみかげに頭を下げて笑いながら家に向かった。
「和矩お坊ちゃま」
「藤沢、」
「申し訳ございませんでした」
「いいよ。お前の所為じゃない」
「あ、私、本家で運転手をしております藤沢と申します。また、日を新たにお目にかかれる日がございましたらよろしゅうございます」
 藤沢はそう言って深々と頭を下げると家へと向かった。
 和矩はため息をついて車を出した。
「すみませんでした。変なことになって。すぐに家に送りますから。具合、大丈夫ですか?」
「え? えぇ。……お弁当、どこで食べます?」
「はぁ?」
「いや、一緒に食べてねって言われたし、私まだ夕飯食べてなくて。風邪なら風邪で何か食べてから薬飲まないと、何で、どこで食べます? うちに……きます?」
 和矩はバックミラー越しにみかげを見た。
「大丈夫ですよ。一人で食べるのには慣れてますから。それに、家にお邪魔するのは、極力避けたほうがいいでしょう」
 和矩の言葉にみかげは俯く。
 
 なんだかくらくらするな
 
 和矩の他人行儀な言葉を聞き、久し振りに会えて喜んでいた心と、妙な寂しさと、奇妙な一瞬に目が回りそうだった。
 みかげは後部座席に横になった。
「大丈夫か?」
 和矩は慌てて車を止め振り返る。
「大丈夫、ちょっと、しんどくなっただけ……。家の場所覚えてますよね? あたしじゃないから」
 みかげは目を閉じた。
 和矩は車を出て後部座席のドアを開ける。
 みかげの額に手をやれば確かに熱がある。
 和矩は眉をひそめ運転席に戻ると自宅へと向かって車を走らせた。
 
 ふわっと身体が軽くなったのは一瞬で、後はなんだか引きづられて、どっかに足がぶつかって、頭の上で舌打ちが聞こえ、なんだか大変そうな息遣いにみかげは目を開けて身体をこわばらせた。
「動くな、落とすぞ。あと少しだけ、待ってろ」
 そう言った和矩の顔は赤く、踏ん張っている足の震えがみかげにまで伝わる。
「重い、でしょ?」
「ああ」
 みかげは口を尖らせたが、重かろうよ。と呟いて和矩が言うようにじっとしていた。
 二段、やっと上って和矩はみかげをおろした。
「つれぇ」
 二階の踊り場まで登って和矩は短く忙しなく息をし、手すりに寄りかかった。
 みかげは駐車場に開けっ放しの車を見下ろす。
 車からみかげを引きずり出し、抱きかかえ階段を上ったが、重さに二階が限度だったようだ。
 みかげは手を出す。
「あ?」
「鍵、車の。閉めてくる。それと、お弁当持ってくる」
「いいよ、俺が、行く」
 和矩は弾んだ息のまま階段を下り、弁当を持って上がってきた。
「どうした?」
 みかげが和矩の顔を見上げている。みかげが首を振ると和矩が手を差し出す。
「歩けるか? 歩けなかったらおぶるけど」
「大丈夫。でも、ここ……って」
「俺んち。お前すごい熱で寝ちまったからさ。カバン探って家に上げるのも近所の目があって嫌だろうと、あいつ……店長に頼むのは俺的にすんげーやだったからさ」
 和矩はみかげから顔を背ける。まるで初々しい恋を始めた高校生のような純粋な照れた顔だ。
「よかった」
 みかげが和矩の前髪に触れる。
「な?」
 和矩は身体を大きく反らして避ける。
「あ、ごめん。なんか好き。その前髪。だから触りたくなって」
 みかげはそう言って首をすくめた。
「どうする、起きたら、家に行くか?」
 みかげは首を振り。
「お弁当、食べよ。おなかすいた」
「……お前本当に熱あるのか?」
 和矩は眉をひそめるとみかげ首をすくめる。
 和矩と階段を上がる。三階には通路は無くドアが一枚階段上がってすぐにあった。
「どういう構造?」
「何が?」
「いや、何でここには扉が一つ?」
「横をぶち抜いただけ」
「ぶち抜いたって、このフロア全部カズ、……カズの?」
 
 そうだ、トーイが言っていた名前だ。いやぁ、よく覚えていたねあたし。
 
 みかげに呼ばれ和矩はじっくりみかげを見た。
「おばあちゃん呼んでたでしょ、かずのりさんって、だから、カズかなぁって。それにトーイがこの前言ってたし」
「……よく覚えてたな」
 和矩は扉のほうを向き、みかげに悟られないようにほくそえんだ。
 鍵を開け戸を開ける。暗い玄関と廊下に明かりがつく。
「なんか、広すぎない? いやみな廊下」
 和矩は鼻で笑い、家に上がっていく。
 みかげもそれについていく。
 南いっぱいに突き当たる廊下の左にある扉を開けると、広々としたダイニングキッチンの部屋が現れた。
「なんじゃ、この広さ」
「下の一戸分」
「いやみ」
「兄貴に言えよ」
「あ、人の所為にしてる」
「兄貴がこういう家が欲しいって作ったくせに、アメリカに行ったきり帰ってこなくて、とうとう永住するってんでお下がりもらったんだから」
「お下がりで家なんかもらうなよ」
 和矩は首をすくめ、大所帯が座るようなソファーにみかげの鞄を置き、弁当を持って食卓へと向かった。
「食べれるのか、本当に」
「大丈夫よ。さっきはちょっと……ショックだったからね」
「ショック?」
「カズが他人行儀で、なんか寂しかったから。久し振りに会えたのになぁと思って」
 みかげがテーブルに近づく。
「お前、ソファーで食え、持って行くから」
「はぁ?」
「これ以上近づくな」
 和矩の言葉にみかげが眉をしかめる。
「あ、だから、その……。この前みたいに暴走するから。セーブできる保証が無いから」
 みかげは頷いてソファーに向かう。
 和矩が深くため息を落とす。
 
 何やってんだよ、俺
 
 弁当を、ソファーとテーブルと離れて食べる。無駄な空間に二人で、それに合う様に殺風景が相俟って味気ない。
 
 これじゃ、一人と変わりねぇ
 
 和矩がそう思いながらみかげを見ると、みかげは箸を置き、窓の外をじっと眺めていた。
「なんか、あるのか?」
「……向こうのアパート」
「もう、食えないのか?」
「そうじゃないけど、なんか、一緒に居るって言うのに味気ないなぁと思って」
 和矩は弁当にふたをして立ち上がった。
「あいつ……店長にどういうか困ったって知らないからな」
 和矩はみかげの対面に座った。
 みかげは微笑みご飯を口に入れる。
「でも、なんか、のどに入らないや。風邪なんかなぁ?」
 みかげが額に手を持っていく。
「家に送る」
 和矩がみかげの方を見る。みかげは咀嚼しながら外を見る。
「今動くのってすごく面倒だなぁと。しんどいんだなきっと。このまま横になるのが一番! て感じ。だめだね、うん。もう帰る。これは明日のご飯にするとして。おばあちゃまにごちそうさまって伝えてよ」
 和矩は頷いて片付けをするみかげを見る。
「客間なら、客間なら空いてるぞ。どうしてもしんどくて動きたくなけりゃ」
 みかげは弁当を袋に入れ、鞄を膝の上において和矩を見た。
「……冗談。奴に悪いからな。送る」
 和矩が立ち上がると、みかげは見上げる。
「あたし、店長と付き合ってないよ。言ったでしょ?」
「だが、奴は意思表示をして、そうなるかならないか別にしてもその方向で付き合ってるんだろ?」
 みかげは首を傾げる。
「付き合ってる……。一度食事に行っただけ、そんとき言われただけ。ずっと店では会ってたけど、会話なんか今までと変わらないし、どこが良くて言ってきたんだろ。物好きにもほどがある。そう思わない?」
 みかげが見上げると和矩はすっとソファーから離れた。
「もう行ける?」
「あ? うん……」
 みかげは立ち上がって顔を顰める。
「どうした?」
「なんか、身体が痛い」
 和矩はみかげに近づき、その額を触る。
 みかげの熱は冗談じゃなかった。
「お前、……もう、いい」
 和矩はみかげの手を引き、奥の扉を開けると廊下があり、左右に四つ。正面に一つ扉があった。
「ここは確かベットメイキングがされている客間だったはず。あぁそうだ。ここを使えよ」
「すんげー嫌な家」
「いいから、ほら」
「カズは?」
「俺は正面の部屋。お前の前はテツ、あぁ、トーイ。その横はヒロ。お前の隣は物置ってところかな」
 戸を開け、電気をつければベットに、低い箪笥に机に本棚に、姿見まで置いてあった。
「客間?」
「あぁ。ほっとんど使わないがな」
「多分、箪笥にパジャマぐらいはあったし、箪笥の上の木をずらせば鏡になってて、その前が洗面道具。トイレと洗面所は、玄関からの廊下にある。他に欲しいのあるか?」
「……一度に言われても覚えません」
 和矩はため息を落とし、箪笥を開け綺麗にクリーニングされたホームウェアの上下をベットに投げた。
「男物だが、誰も着てない。着替えたら、トイレと、洗面所と教えるから」
 和矩は部屋の外に出て行った。
 みかげは出されたスエットに着替える。確かに男物らしい。袖は二回、足なんか三回も四回も折らなきゃいけないかもしれない。だぶだぶのまま部屋を出ると、廊下に和矩が立っていた。
 和矩は黙って居間に行く。そして通り過ぎて廊下に出ると、ここがトイレ、その横が洗面所。向こうが風呂場。まぁ、適当に戸を開けりゃ解るさ。にしても、でかすぎだな」
「でも、あったかいよ」
 みかげは袖にすっぽりと手を入れその素材で顔をこすっていた。
 和矩は呆れながらみかげに案内した客間へと戻る。
「まぁ、他に何かあればあそこに居るから」
 正面の扉を指差した。
「お休み」
 和矩はそう言って自室へと向かった。
 みかげは頷いてあてがわれた部屋を見る。
 六畳ぐらいはあるかもしれない。そこに狭さを感じさせない家具の配置だから、もしかするとそれ以上の広さがあるかもしれない。みかげの部屋よりも広い。ベットに腰掛けぽつねんとした空間にため息が出る。
「そりゃ、家に居るよりはいいのだけど、部屋に行くと、いやらしいと思うかな? そういうことに発展するよね。……でも、一緒に居たい。……? あたし変じゃない? ねぇ? って、誰に聞いてんだよ。いや、その、あれ?」
 みかげは独り言を言って自分の思考に気付いた。
「でもそう、(店長)より好き。でも、なんか、違う? あれ?」
 みかげはぞくっと悪寒がして身震いを起こす。
「さむぅ」
 身を抱き、立ち上がると和矩の部屋の戸を叩いていた。
「なんだ?」
 和矩は慌てて戸を開ける。
 正面の壁面いっぱいの本棚にはたくさんの本があり、机の上にはパソコンとたくさんの紙、バイクの写真が飾ってあったり、する中で、入ってすぐ寝られるように置かれたとしか思えないベットが中央にあった。
「寒い。うん。しんどい」
 みかげは和矩の返事を聞かずにベットへと近づき、起きたままのベットに入り込んだ。
「お、オイ」
「薬、ある?」
「あ? あぁ」
 和矩は部屋を出て行った。数分が経って薬と水を持ってきた。
「ほら」
 みかげの側に行き、薬と水を手渡す。
 みかげはそれを飲むと、すぐに横になった。
「しんどいか?」
 みかげは頷く。
 和矩は立ち上がり机へと向かった。
「仕事?」
「あ? あぁ」
「そう……がんばれ」
 みかげはそういって寝息を立て始めた。
 あまりに寝つきの良さに和矩は呆れながら首を傾げた。
 時計の音がする。キーボードを打つ音と紙をめくる音。時々何かを書いているペンの音。
 
 みかげが目を開けると和矩は机に居なかった。少し身体を起こすと、和矩がコーヒーを手に入ってきた。
「どうした?」
「何時?」
「あ? (質問を質問で返すな)十一時」
「大変だねぇ、サラリーマンは」
 ぎしっと椅子にもたれコーヒーを口に含む。
 みかげはぼふっと音を立てベットに横になった。
 
 居なくなったから、寂しくなった。
 
 みかげは頭から布団をかぶって眠った。
 初めてのいい感じの温さの気持ちに遭遇した。晃平と付き合っているときも、篠崎の側に居るときも感じない柔らかい温さ。
 でもそれを感じたということは、篠崎の側はいい加減居心地が悪いものになってしまう。あんなにいい人なのに、自分がそう思っていいのだろうか? みかげは心苦しさも手伝ってそれからの数時間の眠りは酷く浅かった。
 
 
 みかげはコンビニのお菓子売り場に居た。
 冬に入るためチョコレート売り場を増設。代わりに夏場売れ筋だった小物菓子を減らす棚替えをしていた。
 篠崎は一昨日のその後についてみかげに聞きそびれていた。ちゃんと送ってもらったのか、何で、あいつが出て来るんだ。とか、色々といいたい事が胸を出ようともがいて逆に言葉にならないで居た。
 みかげは店内曲に合わせて鼻歌を歌いながら商品を棚から取ったり、並べたりしている。
「あ、居た居た、みかげちゃん」
 畑山のおばちゃんが辺りを見回し、篠崎も店内に居ることを確認してみかげに近づいてきた。昼間、今日みかげが仕事かどうかを聞きに来たくせに、偶然通りかかったかのようなそぶりで近づく。
「いらっしゃいませ」
「ねぇ、あなた、おととい、男の人の車に乗ってなかった?」
「おととい? あぁ、乗ってましたよ」
「それで、その人の家に行ったでしょ」
「……行きましたよ―てか、おばちゃん、どこまで着いてきたんですか、家ってこの近所でしょ? かなり遠いのに―」
「息子の車に乗ってたの。探偵みたいで楽しかった。で、しかも、お姫様抱っこして」
「……、散々ぶつけられて、結局二階まででしたけどね」
「それで、暫く居たでしょ」
「泊まりましたよ。昨日の夕方送ってもらうまでずっと」
「どういう関係なの?」
「友達ですよ」
「友達って、男と女が一つ屋根の下に居たなら、」
「あたしあの時熱があったんですよ。計ったら39度近く。で、車で寝込んだ私の家にあがるわけにも行かないから、自分の家に連れて行ってくれたんですよ。それに、妙な金持ちでね、あのアパートの中に客間があって、あたしそこに泊まらせてもらったんですよ」
 みかげが板チョコを棚に置いて畑山のおばちゃんのほうを見上げた。
「それだけ?」
「他に何があるんですか? それに、平日でしょ、あいつ朝には居なかったし。仕事が終わった頃までご飯さえお預けで、晩御飯おごらせて家まで送ってもらったんですよ」
「でも、そういう事を許せるってことは、」
 畑山のおばちゃんは怪しい含み笑いをして出て行った。
「なんだろ、あれ?」
 みかげは首をひねり、大学生バイト(こちらは女の子で青木 しおりさん)に笑いかける。
「また明日もきますよ、きっと」
「多分ね。あ、しおちゃん、これあげる」
 みかげがレジにからのダンボールを差し出し、お菓子売り場に戻ろうとすると、生活用品で補充をしていた篠崎と目が合う。
 鋭くて、居た堪れなくなる様な視線だ。
 ドアが開く。一斉にドアの方を見れば和矩が入ってきた。
「よぅ」
 みかげが声を掛けると、和矩が呆れたような顔をして近づいてきた。
「お前、何やった?」
「何とは?」
 和矩が暫く怒りを静めるように黙って、やっと口を開く。
「冷蔵庫の側にあった、」
「腐った丸いの?」
「……毬藻じゃ」
「毬藻? 何、それ」
「……藻の一種で丸くて、成長すりゃ大きくもなる奴」
「ほぅ、そんなん飼ってたの?」
「俺のじゃねぇ。……。俺だってあんなもの迷惑千万なんだけど……、あれ、兄貴のなんだよ」
「ほ、ほほほ。腐ってると思って流したぞ。一応、水槽きれーに洗って」
「あぁ、洗ってた」
「いやぁ、腹へってたもんでね、散策した訳で……」
「解ってる……やばいなぁ」
「買う、とかは?」
「ありゃ北海道の土産なんだよ」
「そりゃ遠い。送ってもらうことは出来ないの?」
「出来なくないが、その兄貴が明日帰ってくる。しかも、これで二度目なんだよなぁ。捨てたの」
「カズも捨てたの?」
「俺じゃねぇ。テツが」
 二人は黙ってため息を落とした。
「いいよ、謝りに行く。家には居るんでしょ?」
「……お婆様の家にな」
「……難問じゃ」
「いいよ、しょうがない、腐ってるようにしか見えないから」
 和矩は俯いて頭を掻いて弁当売り場に向かった。ふとジュース棚のほうを見れば、篠崎が睨んでいるのがガラス戸に映っている。
 
 忘れてた、あいつが居るの。
 
 和矩は弁当を買い、レジに向かう。
「なぁ」
 みかげが支払っている和矩の側に行く。
「あ?」
「その藻って、高いの?」
「……、いいよ。そんな事させる気ねぇから」
「どんなことよ」
「払うってんだろ? いいよ。ネチネチ俺が小言を言われたら済むことだ」
「それで済むの?」
「まぁな。だから、気にすんな。じゃぁな」
「おう、お休み」
 和矩は出て行った。車のテールランプを見送りながら、
「で、気にしないわけねぇじゃんなぁ。言いに来たら、気にするっちゅうねん。……、毬藻って知ってる?」
 みかげは青木に聞くと、青木は頷いた。
「有名なんかぁ。あたしゃ知らんかった」
 お菓子売り場に戻り、すべての商品を居れ終わると、十二時、上がりの時間になっていた。
「お疲れ様です。お先に失礼します」
 みかげはロッカーに制服を押し込み、椅子に座っていた篠崎に声をかけ出て行く。すべてのバイトは店内に居る。篠崎は立ち上がると、みかげを追いかける。
 従業員で入り口は建物の横にあり、その隣はアパートの壁になっている。そんな閉塞的な場所で篠崎はみかげの腕を捕らえた。
「なんです?」
「あいつなのか?」
「はぁ?」
「あいつを選んだのか? この数ヶ月で、あいつの方がより親密になってるじゃないか。俺の方が先に好きだと言ったぞ。なのに、何故あいつなんだ?」
「何が?」
 みかげの身体の中に言い知れぬ恐怖が襲い掛かる。
 
 怖い―
 
 篠崎は切迫した顔をしている所為もあるだろうし、押し殺した声は異常に興奮している。掴んでいる手の強さからもみかげは逃げるように顔を顰める。
「俺のことどう思ってんだよ」
「どう、と言われましても」
「じゃぁ、あいつは? あの男はどうなんだよ」
「……さ、さぁ」
「それで納得すると思ってるのか? 俺が欲しいのは、ちゃんとした返事だ。俺か、あいつか、はっきりと」
 みかげは片手で耳を塞ぎ座り込んだ。
 息が続かない。苦しくて、気持ち悪さ―悪寒的で憎悪的な気持ちの悪さ―に立っていられなくなった。
「そんなことして、逃げようと、」
 篠崎の肩に誰かが手を置いた。振り向くと和矩が俯いて立っていた。
「……口出しする気は無かったけど、」
「じゃぁ、するな」
「……、そうもいかねぇ。そいつ、また壊れるの見たくねぇんだ。やっと笑って、普通にしていたのに、また……、壊れてぼろぼろになって行く姿見たくねぇんだ。だから、手を離せ」
 和矩の低い声に篠崎はみかげの前に立つ。
「お前が手を引けばいいじゃないか、お前が現れなきゃ俺だってこんなことはしねぇ」
 和矩は首を振る。
「俺はずっと手を引いてるさ。手を引きすぎて、もう手も出せ無いんだよ。あの時だって助けに行けたのに行かなかった。あの時だけじゃない。言える時は容易くあった。なのに言わなかった。でも、もう、見たくないんだ。そいつが、みかげがみかげで無くなる姿は」
 みかげは篠崎の手を振り解いて横をすり抜け飛び出た。
 ドンと和矩の腕の中に突っかかると、肩を震わせた。
「ゆっくり呼吸しろ。大丈夫だから」
 和矩はみかげの髪を撫でながら静かに優しく言う。
「あんたに、こいつのすべてを受け入れる気があるなら俺はまた手を引こうと思った。俺より、こいつがいいと思った相手なら。でも、この状況じゃぁ、俺は口を出す。こいつに嫌われたって、こいつを苦しめる奴に手渡すくらいなら、俺が側に居る」
「な、なんなんだよ、お前」
 篠崎の声が裏返る。騒ぎを聞きつけた客や、従業員がそろそろと見に来た。
「じゃぁ、つれて帰りますね」
 和矩は静かにそう言ってみかげを支えて車に向かう。
「……、もう、明日から来なくていいぞ」
 篠崎はそういって店へと戻った。
 みかげは助手席に、和矩はそれを手伝いながらその言葉を聞き、運転席に戻った。
「悪かった。でも、」
 みかげは黙って和矩の手を握った。
 和矩は頷くとみかげの家へと車を出す。
「カズの家がいい」
「俺の家は、」
 和矩は車を戻し、家へと向けて走った。
 
 
 和矩の家に着くと、みかげはすぐに口火を切った。
「あたしが壊れた時の事知ってたね。同じ、学校だった?」
「記憶力乏しいし、俺、目立たなかったから」
「でも、壊れたのを知ってるのは、」
「ごく一部だろうよ。卒業前に別れた話は風の噂で流れたが、それも遠距離に耐えられなくなったからだろうってことになってる」
「でも、そうじゃないことを知ってる……?」
「いいじゃないか、忘れろ。俺が知っていたとしても、俺は口に出さないし、出す気は無い。森沢のように深く知ってるわけじゃない」
 和矩は麦茶を入れみかげに差し出す。
 みかげはそれを受け取り、ため息をついた。
「ごめんね、覚えてない」
「いいって、だから。ついこの間会ったばかり。それでいいって」
「でも、カズはずっとあたしを見ていてくれたみたいじゃない、」
 みかげの言葉に何かを言おうとして言葉を飲む。
「もう遅い。飯は食ってるんだろ? 今日は客間で寝ろよ。あの日、俺寝れなかったんだからな」
 和矩は笑って廊下の扉を開ける。
「ほら、」
 促すような声にみかげは立ち上がったが、和矩を見ている。
「いつから、あたしを知ってるの?」
「……、中学」
「ちゅ、中学?」
 みかげは意外なほど遠い昔を言われ眉をしかめる。
「いいから、」
「よくないよ、あたし」
「思い出せないだろ、記憶に無いさ。俺が晃平とつるんでいた事すら覚えていないものを……、」
 和矩は顔を顰め唸ると、
「客間はここ。いやなら、タクシーで帰ってくれ」
 和矩は髪をぐっと掴んで倒れるように自室に戻った。
 
 コーヘーと一緒に居た人?
 
 みかげの頭の中に、晃平との記憶が蘇る。
 本屋で告白されて付き合い始めた初夏。ファーストキスをしたクリスマス。イベントには何かをした。好きだと言った香水をつけ、女の身だしなみだと言われて化粧をした。大人の女はタバコを吸うと言われて吸った。澪にはみかげらしくないと言われたが好きな晃平の為に自分は変わろうと努力した。その結果が―。
 みかげが膝を突き、思い出した恐怖に震えて絶叫しそうになる前に和矩が居間に帰ってきた。
「俺も、人の事言えないよな」
 みかげの前に座り、手を差し出す。
「怖くなけりゃ(手を)乗せろ。お前が聞きたいことすべて話す。聞きたくないこと、思い出したくないことはしゃべらない。こんなんで安心するなら。でも家のほうが落ち着くなら、家に送る。好きなように」
 和矩の手をみかげはじっと見つめ、身体を抱きしめ全屈する。
「中学?」
「あぁ、中学三年の夏休みから。転校生で、夏の暑い中、自転車の鍵を落とした俺に、キーホルダーをくれた」
「あぁ、覚えてる。一番好きだったキーホルダー。バイクの絵の付いてる奴」
「あぁ。礼を言いそびれ、卒業と同時に俺は転校するから、なんだかいろいろと言いそびれた」
「でも、」
「高二に戻ってきた。まさか同じ学校になるなんて思ってなかった。最初、あいつと友達になった。つるんで、遊んで、そしたらお前を紹介された。お前はまるで覚えてなくて、お前らしかったが、でもお前らしくなかった。無理したような格好と、アンバランスに見え隠れする笑顔が、見てて辛かった。卒業式前の事は、不穏な気配を感じて行った所であいつにすべてを聞いた」
 みかげが手を差し出す。和矩はその手をしっかりと握る。
「今日も?」
「あ?」
「今日は何で戻ってきたの?」
「今日のやり取りを見ていた店長がどうかしそうな感じだったから、危害は加えないだろうが、それでも、」
「本当にずっと見ていたくれたんだね」
「……天然ストーカーだと言われるがね」
「ストーカーなんだ」
「あほ」
 みかげが顔を上げる。
「あたし、あの頃よりは随分と強くなったんだよ。でも、やっぱり思い出すと息苦しくなる。それだけ好きだったんだと澪は言った。あたしもそう思う。あの事を忘れて、全然関係なく過ぎていけば、本当に店長と付き合っていたかもしれない。いい人だし、優しい人だから。でも、カズが現れて、なんか、」
「悪かったな、現れて」
「……桜の所為だね」
「はぁ?」
「写真展の桜。あの桜がいい事を運んでくれたのよ。桜を見て気分のよかった年には必ずいい事が起きる。あまり花には興味ないけど、桜は好きなんだ」
 みかげの言葉に和矩は顔を覗くように首を傾げる。
「大丈夫か?」
 みかげが頷くと、和矩は安堵のため息を漏らし、手を引こうとするのをみかげが両手で握る。
「離せ」
 みかげは口を尖らせて離すと、和矩は立ち上がる。
 二人がほくそえんだとき、玄関から物凄い音を立てて何かが入ってくる音がする。
「かずぅ」
 居間の戸を音を立て開けて入ってきたのは徹だった。
 くしゃくしゃの髪に興奮しているらしく赤い顔、いきり立って和矩を指差して近づく。
「あ、あ、あ、あ」
「兄貴?」
「あの馬鹿、会ってそうそうなんつったと思う?」
「……能天気そうだな」
「くらぁ」
 徹は和矩にヘッドロックを掛けその頭をぐりぐりと捏ね繰り回して、みかげに気付く。
「あれ?」
「こんばんわ」
「どうしたの?」
 急にテンションが変わり、和矩を放り出してみかげの前にしゃがみこんだ。
「あんな陰湿で、ストーカーな男の家に居ちゃ、危ないよ」
 徹の言葉にみかげが笑う。
「で、どうしたの?」
「一緒に居たかったの」
 みかげの言葉に徹は暫くみかげを見ていたが、和矩のほうをちらりと見た。和矩は台所の方を見て、台所へ行き、麦茶を三つ用意した。
「カズは、いい奴だよ。ストーカーだけど」
 徹の真声にみかげは微笑み、頷いた。
「ストーカーだけどね」
 みかげはそこを繰り返した。
 
「何で、そんなに嫌いなんですか?」
「誰を?」
 みかげは眉をひそめて徹を見た。
「カズのお兄さん」
「ヨシ? 嫌いじゃないよ。好きでもないがね。いい友達だよ。……だけどあいつの根性悪い陰険な性格がすごく嫌なんだよ。俺の顔見りゃ馬鹿にして、俺が口答えできないと解ると高みから見下ろして、ばぁかって鼻を鳴らすんだよ。挙句の果てに俺が突っかかっていけば、子供をあしらうかのように、解った、解った。お前は偉い。で済ます。チョー嫌な奴なんだよ」
「でも、好きなんですよね?」
 みかげの言葉に徹は黙って首をすくめる。
「ところで、何で帰ってきたわけ?」
 和矩が口を出すと、徹は和矩のほうを見上げる。
「あいつが珍しく、帰る。って連絡よこしたんだよ」
 和矩は呆れて首を振る。
「テツも暇じゃないのに、兄貴も連絡しなきゃいいのに」
「いいんだよ、そういう奴だから。チョー自己中だから」
 和矩と徹はお互い顔を見合わせ苦笑いを浮かべる。
「聞こうと思ってたんだけど、何でテツ?」
 みかげの言葉に和矩が顔を顰め、いそいそと居間を出て行こうとする。
 みかげはその和矩の姿を見送り、徹を見れば、怒り再燃らしく顔が赤くなってきていた。
「同じクラスにトオルってのが居てね、同じ名前だと面倒だから、どっちか名前を読み替えてあだ名にしようってなったんだが、向こうの読み名がわからねぇ。で、徹夜のテツだからって、そうなったんだが、その疑問をあいつも聞いてきて、そう返事したら、あいつなんつったと思う? すんげー澄ました顔をして、それはリョウって読むんだよ。ってさらーっと、さらーっと言ってどっか行きやがったんだ。もう、すんげー腹たって追い掛け回して文句言おうにも御託ならあいつのほうが上なもんで、丸め込まれて、」
「勝てないんだ」
 徹が肩を落とすのをみかげは笑いながらその頭を撫でる。
「まぁ、いずれ勝てるよ」
 徹は優しく微笑み、みかげは頷いた。
 
 
 
 篠崎は何も言えないでみかげと向き合った。
「辞めろと言われても、落ち度が無い以上それは不当解雇ですよ。公私混同は経営に響いちゃいけないでしょ。もし辞めさせたいと思っても、後任を見つけなきゃ後に残る人が困るでしょ。あたし、そこまで無責任じゃないですから」
 みかげはそう言ってロッカーを開ける。
 篠崎は黙って制服を着込むみかげを見た。
「店長はいい人です。でも、あたしはあたしらしく居たいんです。もう、嘘ついて居たくないんです。だからって、カズを選んだわけじゃないんですよ。あの時、本当に怖くて、カズの方へ逃げたけど、別な人だったかもしれないわけですからね。これでも、ええ、ぼさーっとしてますけど、いろいろとあったんですよ、あたしも」
 みかげはそう言って店内に入る。青木と、臨時に呼び出された吉田がみかげを見て驚く。
「来ないって、」
「このメンツで十二時まで大丈夫? 制汗剤の棚替えもあるのに、」
 みかげの言葉に青木も吉田も
「そうなんですよ、出来ないからどうすんだろうって困ってたんすよ。でも、もう辞めるとかって聞いて」
「後任が見つかればね、そうそうあたしも無頓着に行動してません」
 みかげは笑いながら、店内をモップで拭いていく。
 
 23:30
 今日は思いのほか人の出入りが少なくて、みかげの棚替えがスムーズに進んだ。空の段ボールをつぶし、まとめている所に半時間振りのお客が入ってきた。
「いらっしゃいませ、……」
 全員が黙ってお客のほうを見る。
 客は店員を一巡し、みかげの方へと近づいてきた。
「解るかな?」
「ええ、てっちゃんが酷く憂鬱になっているカズのお兄さん」
 和矩の兄、佳彬は頷きメガネをくいっとあげると
「では、明日ここに迎えに来ます」
「はい?」
「お婆様がどうしてもあなたの参加を希望してますから」
「いや、あの、何で?」
「親戚一同、楽しみですし」
「いや、その……何があるんでしょうか?」
「明日は休みだと聞いておりますが?」
「いや、休みですけど、あの?」
「七時に、この前に居て下さい。そうそう、これは馬鹿弟には内緒で」
「あの、ですね?」
「では、失礼」
 佳彬はそう言うと出て行った。
 みかげは眉をしかめ、青木や吉田と首をひねる。
 
 
 和矩の兄佳彬に言われたが、昨日は行かなかった。
 次の日、おしゃべり吉田が、昨日来ていて、三十分居たけど不機嫌そうに帰った。と言った。みかげは首をすくめ、舌を出し、店内掃除にモップを持ち出した。
 八時を少し回った頃、不機嫌そうな顔が窓の外に現れた。中に入ってくる気は無い様で、みかげと目が合うと、出て来いと言わんばかりに駐車場に消えた。
 みかげは篠崎に頷いて了承を得てから外に出る。
 そろそろ冬に差し掛かっていくのか、空は澄み、ほどいい欠け月の下空気が静かに冷やされていた。
「待っていると言ったが、」
「すみません、行く気無くなったんで」
「連絡をよこすものだろ?」
「でも、カズに連絡するなって言うから、……あぁ、店に伝言頼めばよかったですね。ほうほう、今頃気付きました」
 みかげは暢気にそう言って佳彬に微笑んだ。
「約束を破ると言うのは社会人としてはあまり感心しないな」
「ごもっともです」
「馬鹿にしているのか?」
「何故でしょう?」
「口調がわざとらしい」
「……、では、すみませんでした」
 みかげは頭を下げると、佳彬はますます機嫌悪い顔でみかげを見下した。
「テツに聞いて要らぬ知恵を付けられたのか知らんが、」
「とんでもない。本当に行く気がなくなったんですって、店に連絡するなんて思いつかなくて、ええ、ぐっすり眠りこけてましたから」
 みかげはそう言って笑った。
「なんか楽しみにされていたようですけど、行けなくてごめんなさいと、おばあちゃんに言っといてください」
 みかげはもう一度頭を下げる。
 佳彬は納得したのか車に乗り込むと出て行った。
 みかげは肩で息をついて店に戻った。
 
 昨日は、行く気なんかすっかり忘れていたさ。
 
 みかげは商品補充をするためにしゃがみこみ、膝をついて商品を入れる。奥のものを手前に、新しいものは奥に。先入れ先出しの遂行。
 
 昨日、昼間みかげは買い物に出ていた。ぶらぶらとするのは好きだが、どこか特定の流行の店に行くのは嫌いだった。
 適当にぶらぶらと歩いていると、制服を着た泪(彩りの四季_春に登場。空と木の写真展でであった小柄で可愛らしいショートカットの女性)がOL仲間と連れ立って喫茶店に入るのが見えた。
 みかげが後を追うように喫茶店に入ると、泪たちが座った席の後ろに当たる一人掛けの席に徹が座っていた。
 ちょうど、泪と徹は背中合わせになっていた。
 みかげはカウンターに座り、ミックスジュースを頼む。
 泪たちはおしゃべりで盛り上がり、お昼のランチを食べ、昼休みいっぱいそこに居るとそそくさとお勘定をして出て行った。
 みかげが泪の閉まる扉の向こうへ行った泪の背中を見ていると、隣にアイスコーヒーが置かれ、徹が座ってきた。
「一人?」
「お、新手のナンパ」
「内緒だよ」
 徹の言葉にみかげは頷く。
 黒いサングラスをしていても徹だと解る。多分、泪だって、徹だと解っているはずだ。でも二人の距離は背中越し以上に遠く深いようだった。
 店を出て、公園をぶらぶらと歩く。ベンチに座ったとき、徹がぼそっと呟いた。
「解けなくなる想いって解る?」
「解けない?」
「側に居ると声が聞きたくなる。声を聞くとその体温を感じたくなる。すると離れることが出来ないんだ。離れている時間が不安で、焦燥と虚無を生んでしまう。それに耐えるくらいなら、初めから手を出さない。彼女にはね、そんな強制してないんだよ。ただ、俺は離せなくなるから。迎えに行くまでは、手もつなげないからって……もう、いい年なんだけどねお互い」
「じゃぁ、あれがデート?」
「そう。みかげちゃんのお陰で、写真展で顔を見合わせて笑いあえた。声を聞けた。でも、普段はあれが精一杯のデート」
「もし、泪さんに、」
「そのほうが、楽なんだよ。本当に」
 徹はそう言って手を組むとそれに額をつけて暫く蹲った。
 
 泪は一人でビルから出てきた。他の人はみんな飲みに行ったり、デートに行く。だが泪はほとんど断る。特に徹が姿を見せた日には。あの一時間程度の背中越しのデートに想いを馳せて幸せで居たいのだ。
 だが、今日はそうも行きそうも無かった。
 ビルの前でみかげが辺りを見ながら立っていた。
「あ、泪さぁん!」
 みかげが泪を見つけ手を振ってきた。
「どうしたの?」
 走り寄って来たみかげに泪が声を掛ける。
「ねぇ、ご飯食べました?」
「え? まだ」
「そう、じゃぁ、一緒しませんか?」
「あたしと?」
「そう。てか、本当は他にも居るけど、メンツが揃わなくって。ってよく言われません? 合コンするんだけどぅって奴です」
 みかげは笑顔でそういって、泪の顔を見る。
「あたし、そんなに面白くないよ」
「いいの、本当に頭数を揃えるだけだから。静かに静かにお酒飲んでいてくれさえすればいいから」
 みかげの強引に押され、泪はみかげと一緒に小さなビストロに向かった。
 苔むしった外装に、一度来たいと思いながらなかなか来たことのない店だと泪は知っていた。
 だが、店には、「closes」と掛かっていた。
「閉まってるんじゃない?」
「貸切ですぅ」
 みかげがドアを開けると、ちょうど美登里さん(この店のオーナーシェフ)がすぐそこに立っていた。
「あ、いらっしゃい」
「こんばんはです」
 美登里さんの笑顔に店の中に入る。
 泪はみかげが入り口で手を握ってきたことに妙な違和感を感じながらも、手を引かれて中に入って、その意味を知る。
 中央に用意された大人数掛けの椅子に徹が座っていた。だが徹は気付いていないようで、本を読んでいた。
「やぁ、てっちゃん」
 みかげに声を掛けられ柔らかいいつもの徹の顔が、目線をあげ泪の姿を見た瞬間どうしようもない動揺に駆られた目に変わった。
「友達の泪さん。すごいでしょ、あたしの友達にはモデルが居るんだから」
 みかげは泪を椅子に座らせてもなお手を離さなかった。
 美登里さんと、奥に居た雅さんが厨房から三人を見ている。徹に彼女がいて、名前が泪だと知っているのは二人だけだ。姿を見たことがあるのは、誰も居ない。
「ありがとう、みかげちゃん。手、離して。大丈夫だから」
 泪はそう言ってみかげに頷いた。
「泪って言います。夕飯、ご一緒していいですか?」
 徹は頷き、口に手を持っていく。
 食事が運ばれ、みかげと泪は話をするが徹は黙って机の上の一点を見ているだけだった。
「本当においしいね。あたし、このお店の前をよく通るけど、なかなか入れなくって」
「そうなの、おいしいの。というかね、あたしこれで二度目なんだけど、もう一度行きたいなぁって。でも一人じゃなかなか行き難くって。美登里さんはいつでもどうぞって言ってくれたけど」
 泪とみかげはデザートのアイスクリームを食べる。
「みかげちゃんは、好きな人できた?」
「そんな人……あ!」
 みかげはこの時やっと思い出したのだ。時間はすでに八時を回っていた。
「約束あったんじゃない?」
「ははは、約束……ねぇ。どうしよう」
「今から行く?」
「いや、居ないと思う」
「でも彼なら、」
「いや、そんな人じゃなくってね、どういうのか、用件だけを述べて帰ったんでね、実際なんであたしが行かなきゃ行けないのかさっぱりなんだよね」
「……ヨシか?」
 徹が久し振りに声を発した。
 みかげが頷くと、
「放っとけ、勝手に機嫌悪くなるだけだから」
「でも、機嫌悪くなるとたち悪そうだよね」
「それは昔からじゃない」
 泪ははっとして手で口を塞ぐ。
「思い出も共有できないなんて、辛すぎない? ここなら、大丈夫だよね? ね、てっちゃん。あたしのことは放っといていいから、ちょいと二人だけでいなよ。あたしは、その間にお兄さん対策を考えるぅ」
 みかげはアイスのカップを持って美登里さんたちのところへと向かう。
 美登里さんが笑顔で椅子を勧めてくれてそこに座り、洗い物を始めた。
 店内に響く洗い物の音。―煩くて、聞こえませんよ―
 徹が厨房のほうを見て頷く。
「ごめんね、会えるなんて思わなかったから」
「いいよ。みかげにこぼしたの、俺だから」
「もう、無いね。こんな時間、きっと」
「そうだな、暫くは」
「あたし、すごく幸せよ」
 徹は頷く。
 手を伸ばせは触れられるところにあるのに、届かない。お互い顔を背け何かを必死でこらえている。
「辛いなぁ、あんな恋愛」
「あいつは不器用だから」
 前にビール箱の椅子に座って雅君がチャーハンを食べていた。
「入り込みすぎて何もかも見失ってしまう。あの関係は付き合い始めた頃からなんだ。あいつが誰にでももてるから、彼女がそれを理由に妬まれ傷つけられるのがいやだ。初めはそれだったんだけど、そのうち、親がモデルなんかしてる奴と反対し、その親、親戚に納得してもらうためにあいつはあの姿を通している。頑固で不器用だから、あんなことしか出来ない」
「あたしなら、ヤダ。絶対に、ヤダ」
「そうね」
 美登里さんはしみじみそう言って、頷いた。
 
 泪は雅君が車で送っていった。
 みかげは徹と並んで帰る。
「怒ってるでしょ。勝手な事してって。でも、」
「怒ってないよ。いや、少しは腹が立った。俺の計画がって、俺は認めてもらうまで泪に会わないって約束したんだ。偶然会うのは別だけど。それを邪魔されたと思った。でも、泪の声を聞き、泪の笑顔を見て、俺やっぱり泪が好きだって思った。そして、その笑顔の側に居たいと思った。ちょっとフラ付いていた事もあってそれを思い出してよかったと思う」
「何かあったの?」
「べつに。仕事すりゃ何かしらあるでしょ?」
「そうだね」
「ありがとうね。みかげちゃんに助けられるとは思わなかった」
「あたし、泪さんもてっちゃんも好きだもの。二人の笑顔が好きだもの。だから、」
 徹はにこやかに頷いた。
「あ、そうだ。ヨシの野郎のことだから、明日そうそうに来ると思うから、」
「大丈夫。謝るから」
 みかげは頷いてアパートの階段を駆け上がり、徹に手を振って家に入った。
「ありがとう。お休み」
 徹は踵を返し、和矩の家へと向かった。
 
 みかげは段ボールを潰し、新規に入ったお菓子を一つ持って立ち上がった。
「あ、またみかげさん新商品お買い上げ?」
 目ざとい吉田の言葉にみかげは舌を出す。
「実験台だよ、吉田君」
 二人は笑いながら、その日も更けていく。
 
 翌日。
 和矩は眉をひそめて一階の受付へと降りてきた。面会があって、しかも女性ということに、受付嬢の反応も少々とげがあった。
「どこ?」
 そう聞いてきた和矩に、えらく澄ました受付嬢が指を指したほうにはショートカットの小柄な女性が立っていた。
「あの?」
「夏木と言います。私がどう言う者だなんてどうでもいいんです。ただ、一昨日、みかげちゃんお約束してたと思うんです」
「約束? いや、」
「でも、してたんです。行けなかったのは、私の所為なんです。私のわがままで、だから、もしみかげちゃんが悪くなるようなら、彼女は優しくて、一人寂しくしていた私を介抱してくれたんです。だから、」
 和矩は頷き、
「ありがとう。あいつの事庇ってくれて。ちゃんとやっときます。貴重な昼休みにわざわざすみませんでした」
「いいんです。そりゃ、受付の人にすごい眼で睨まれたけど、会いたかったので」
 泪はそう言って頭を下げて出て行った。
 
 会いたかった?
 
 和矩は小さなかわいい人を見送った。あんな人に会いたかったと言われて嬉しくない訳ない。
 和矩は頭を掻きながら自室に戻った。
 その夜。
 居間で寝そべり寛いでいた徹に同じ事を言われ、和矩は眉間にしわを寄せた。
「なんだ?」
「いや、昼間……」
「……それは気にするな。ヨシがみかげちゃんを誘ったが、俺と一緒に食事をしてたんでいけなかった。そう言っとくんだ。解ったな」
 徹は念押しにそういって和矩を頷かせた。
 詮索はすまい。あれが徹の彼女だと。言いもせず、思い出しもせず。知らぬ顔が一番だ。いろいろと難しいらしいから。そこは、年上である以上、和矩に言えない事だと、みんなの弟である和矩はわきまえている。
 和矩は実家へ電話した。
 一昨日、兄である佳彬の帰国で食事会が開かれた。確かに佳彬は主役でありながら八時過ぎに不機嫌極まりない顔で登場した。だが、その時は何も言わず、和矩に嫌味すら言わなかった。
 ただ、佳彬独りの登場に祖母が酷くがっかりしていただけで。
「あ、兄貴?」
 意外な人物が出るものだ。と思いながらちょっとすっ飛んだ声が出てしまった。
「電話番号が出るからな。どうした?」
「いや、一昨日のことなんだけど」
「食事会がどうした?」
「兄貴、その、みかげ、誘ってたんだ?」
「お婆様がそうして欲しいと頼んだからな」
「でも、来なかった」
「あぁ。それが?」
 妙な怒りに触れたようで、口調がつっけんどうになった。
「あいつ、テツと、テツと会わせてたんだ。兄貴も知ってるだろ、変なデートしたり、すんげー反対されたり、それ知って、多分、あいつの事だから、あたしが何とかしなきゃとか思ったんだろうよ。それで、行けなかったらしいんだ。だから、お婆様にあいつのこと、」
 和矩の話の矛盾に気付いたが、佳彬はあえて何も言わず、
「……言っておこう。テツの事は俺も気になっていたし、……解った。側にテツいるか?」
「あ、部屋に、ちょっと待ってな、」
 和矩は徹の部屋に子機を渡しに行った。
 
 
 徹と佳彬はバーで待ち合わせをした。カウンターにはすでに佳彬がラフとはいえジャケットを羽織って座り、ソルティードックを飲んでいた。
「好きだねぇ。塩分取りすぎて死ぬぞ」
 徹はそういって隣に座る。
「あ、俺烏龍茶氷無しで」
 徹のオーダーにバーテンは顔を顰めたが、黙って烏龍茶を出した。
「それでなんだ?」
「いつまで続ける?」
「何を?」
 徹は出てきた烏龍茶を口に含んで佳彬を見る。
「夏木さんとの事だ。和矩から電話があって、お前と会っていたと。どうせ半分は嘘だろう。お前の顔を見ても、いつもの変則なデートで無いことぐらい解る。あまりにも側に居たのに離れた寂しさからか? 顔色が悪いぞ」
 佳彬の言葉に徹は烏龍茶をじっと見ていたが、不意に鼻で笑うと、くいっと飲んで、佳彬のほうを見た。
「俺、いったいいつまでこんなことしてなきゃいけない? お前はどう思う? 俺じゃまだダメなんだろうか? 名誉も名声も、富も得た。でもダメなんだろうか? 俺には親父のような仕事は向いていない。人をこき使ってただ召し食らうのは嫌だ。だからって、サラリーマンなんかもう無理だ。あの舞台の上が俺の居場所になってる。あそこしか居られないのに、俺が諦めたら、終わることなのか?」
 徹は笑いながら言ったが、徐々に肩が落ちていき、最後は俯いてしまった。
「夏木さんはお前を待つさ。それこそ、行かず後家と言われ、世捨て人となっても」
「お前、泪になんか恨みでもあるのか?」
「無いさ。その前に行けとハッパかけてるだけだ。彼女はいい人だ。委員会が一緒だったからよく解る」
「そうだったな、生徒会長殿」
「彼女のフォローは完璧だった。だからこそ、お前なんぞに惚れる理由が解らん」
「って、おい」
「早くしてやれ。彼女からは絶対望んで言わないぞ。そう言う事を言わない強くてもろい人だ」
 そう、高校の時熱があるにもかかわらず学園祭の切り盛りを最後までやり遂げ、翌日から三日ほど入院しなくてはいけない状態だった。それでも周りには平気な顔をしていた。あの強さの側に、独りで居られない女性らしい一面を兼ね揃えている。独りで生きていく強さは無いが、誰かのためならば強くなれる素敵な女性だ。そう佳彬は付け加えた。
 徹は頷き、烏龍茶を飲んだ。
 
 
 みかげは、駐車場へほうきを持って出た。六時など、まだまだ明るかったはずなのに、すっかり暗闇に変わっていく。外にたむろって居た学生集団も寒さと暗さに人が消えていく。
 吐き出す息はまだ白くないが、そろそろ冬が近づいているようだ。
 和矩と、三日。会っていない。
 澪と一ヶ月連絡取れていない。
 空を見上げれば、月はやけに明るくそこにあった。



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