彩りの四季_冬


 一年で一番賑やかなんじゃないかしら? と思える時期がやってきた。
 みかげは何だかんだと結局バイトを首にもならず年を越そうとしている。年越しそばと言う文字の躍るカップ麺の横には、クリスマス使用のチョーとケーキや、パーティー用のピザとか、ジュースが並ぶ。
 みかげは2Lのジュースの入った段ボールをよっこいしょと床に下ろし、その口を開ける。
 クリスマスらしい可愛くて賑やかなイラストのついたフィルムを着たジュースを島陳(陳列棚から少し離れたところに置いた陳列台に飾ること)する。
 店の中はすっかりクリスマスだ。赤や、緑、ポップな文字に、楽しくなるような装飾。それに入り口に置いた小さな―とは言え、30センチはある―ツリーに目を奪われる。
 客もどこかそわそわしたり、気忙しいのは、そろそろ来年のことをしなくちゃいけないからなのだろう。
 みかげはジュースを並び終え、少し下がってその出来を確認する。
「よし、いい感じ」
 段ボールを潰し、在庫置き場権事務所へ行く。
 いろいろあったが、篠崎もいい大人だ。今は前と変わらないように接している―と思う。
 ストーブに手を翳し、ご苦労さん。と一言言う。
「動けなくなりますよ、暖かくしてると」
「世の中は、クリスマスだの、忘年会だのと忙しいけど、こっちは年中無休のコンビに店主だからね、これがひと時の幸せなのさ」
「わびしいねぇ」
 みかげの言葉に篠崎は首をすくめた。
「クリスマスは、予定あるのか?」
「今のところはないですよ」
 みかげの言葉に篠崎が口を開いたとき、おしゃべり吉田が入ってきた。
 みかげは首をすくめ、補充用のお菓子の入った段ボールを持って店内へ行った。
 舌打ちする篠崎の側に吉田が近づき、
「なんか、タイミング悪かったすか?」
 と聞いてきたが、篠崎は相手もせず、パソコンの画面を見た。
「あ、そうそう。達端さんの例の男、あれすごいっすよ」
 篠崎は画面から目を離さなかったが眉がぴくりと動いた。
「あいつ、大通りにあるじゃないですか、旅行代理店、あそこの副社長なんですって、母親の会社らしいっすよ。そんで、いずれはそこの社長になるんだとか、秘書がめちゃくちゃ綺麗なねぇちゃんで、あんな美人が居るのに何で達端さんなんだか」
「あたしがなんだって?」
 みかげが途中から入って来て吉田の顔を覗く。
「いやぁ、なんも。じゃ、俺中はいります」
 吉田は首をすくめそそくさと入っていった。
 みかげは首を傾げ、次の荷物を台車に乗せる。
「さっきの話だが、クリスマス、」
 みかげの携帯がロッカーで鳴った。
 みかげが首をすくめると、篠崎は取って良いと顔を振った。
「もしもし?」
 相手は澪だ。声が自然と弾む。
「え? じゃぁ、23日から帰ってこれるの? お正月過ぎまで? 本当に?」
 篠崎はため息を落とし、パソコンを打った。
 みかげは携帯を鞄に押し込み、鼻歌を歌いながら店内に入った。
 みかげに篠崎の話の途中という記憶は抹消されたようだ。
 
 みかげはコートにマフラーをこれでもかと着込み、外に出た。手袋をはめながら自転車の側に近づく。
「さむぅ」
 みかげは自転車を突いて店の明かりの漏れる駐車場に出てくると、和矩の車が止まっていた。
「おや?」
 運転席に近づくと、無粋な和矩の兄佳彬と、にこやかに助手席で手を振っている徹が居た。
「お疲れさん」
 みかげは首をすくめ、そそくさと助手席側に向かった。
 徹が笑いながら窓を開ける。
「寒いから窓もう少し閉めていいよ」
「ありがと。それより、終わった?」
「一応」
「ご飯食べない?」
「……、ハンバーグがいい」
「いいよ、じゃぁ、自転車、」
「明日のこともあるから、家に置いて来る」
 みかげはそう言ってまたがると、必死な顔をしてこぎ始めた。それほど早く進むような感じはないのだが、
 徹は笑いながら窓を閉め、隣の無愛想な親友を見た。
「ほれ、行って」
「お前のフェミニストな声を聞くと虫唾が走る」
 佳彬はそういってギアを入れ、車を動かす。
「まったく、こういうちまちました車は好きじゃない」
「お抱え運転手に運転してもらってるくせに、」
 佳彬は鼻を鳴らし、みかげが曲がったほうへと向かった。
 日本に帰ってきて、和矩から鍵をふんだくると、二人して車に乗り込み、満タンだったガソリンを一回給油するまでドライブした。女ほどおしゃべりに花は咲かなかったが、でも、親友といういい者が二人の間を埋め、遠出した気分のよさが時間をあっという間に過ぎさせた。
 徹が腹が減ったと言い出し、わざわざみかげに会いに来たのだ。
 車がある程度で追いつくと、みかげは必死な顔から物凄い形相に変化し、息遣いも荒くようやく家に着いたようで、自転車から降りるとそこにしゃがみこんだ。
 徹は笑いながら車から降りると、みかげを後部座席に座らせた。
 ぜひぃぜひぃとみかげが息を治めたのは店に着いた時だった。
「高そうな店、あたし払えないよ」
「いいの、ヨシがおごってくれるから」
 徹はそう言ってみかげの手を引き店に入った。
 みかげは佳彬のほうをチラッと見たが、別段否定しない顔のまま、二人の後から入った。
 三人は奥のテーブルに案内された。
 落ち着いた店内で、程よく焼けた肉とソースの匂いがかすかに残りながら、すでに客層はバーを楽しむ大人な時間に変わっていた。
「ハンバーグを」
 徹のオーダーにウエイターは頭を下げると、席を離れた。
 
 旨そうな音を立てて運ばれてきたハンバーグだが、それを心底楽しむことは出来なかった。
「あ、そうだ」
 みかげは顔を上げる。
「何でまた私を誘ったの?」
 みかげの言葉に徹は水を口に含んで流すと、
「この前のお礼。言わなかったでしょ、こいつに。行かなかった理由。あの後カズに俺の所為だと言っとけと言ったが、こいつには通用しなかったようだ」
「この前、この前、この前……この前?」
「いいの、みかげちゃんのお陰だ。あの時は俺の所為でいいんだってだけ」
 みかげは納得していないように首を傾げ、ハンバーグを口に入れる。
「それより、カズと会ってる?」
 みかげはすぐに首を振った。
「あの日以来会ってないよ」
「何やってんだ、あいつ」
 徹の吐き捨てる言葉にみかげは笑いながら、
「用もなけりゃそんなに会わないよ。そりゃお客さんとしてきてくれたら毎日会えるけど、うちの店に来る間にいくつもコンビニはあるしね」
 みかげの言葉に徹は頬杖をつき、
「寂しくない?」
 と聞いた。
「今は。てっちゃんや、お兄ちゃん、いいねぇ、お兄ちゃん。あたしお兄ちゃんが居る人が羨ましかったんだ。お姉ちゃんはいいや、小うるさそうだから。お兄ちゃんかぁ、いい響きだよね、そう思わない? 思わないか。えっと、なんだっけ?」
「寂しくない?」
 徹が同じ事を聞くとみかげは微笑み、
「てっちゃんとお兄ちゃんが居るから、今は寂しくないよ」
 と言い切った。
「俺たちがカズの代わりになる?」
 徹の言葉にみかげはしばらく租借し、水を含んで見返すと、
「解んない。ならないかもしれないし、なってるようでもある。なんかね、どっかいつも寂しいなぁとは思ってるの。澪も居ないし、家族とも離れてる―と言っても、家族と居ると煩すぎるけど―そんなに親しい友達が居るわけじゃないから、ずっと寂しいとは思ってる。でもね、それだけじゃないような、なんかつまんなく感じるときもある。なんか、変なの。と思うけどね」
 みかげはそういって徹に微笑む。
「てっちゃんは解る?」
 徹は頷くと、微笑んだ。
「あ、えっと……お兄さんは結婚されてるんですか?」
 みかげは伺うように佳彬のほうを上目遣いで見た。
「ほら」
 徹が笑いながら佳彬のほうを見た。
「お前その無愛想どうにかしろよ、怖がってるじゃん。でもこいつ別に怒ってもないし、怖い奴でもないからね。ただ、笑うという筋肉がないんだ」
 とバカにする徹に佳彬は一瞥を投げかけ、ハンバーグを口に入れる。
「彼女とは婚約したんだよな?」
 佳彬は表情を変えなかったが、うっすらと赤くなり嬉しそうな目をした変化がみかげには解った。
「おめでとうございます。きっと彼女ってば幸せですね」
 みかげの言葉に佳彬は黙ってみかげを見る。
「だって、お兄ちゃん、じゃなく、お兄さん嬉しそうな顔したから。きっとすごく愛されてるんだろうなぁって」
 みかげの言葉に佳彬はフォークを皿に置いた。
 徹はくすくす笑い出し、佳彬を見た。
 
―鋭い観察力だろ? これで記憶力が揃ってるといい探偵になれるぞ、きっと―
 
 と思ったかどうか、とにかくみかげの観察力を褒めるような徹の目に、佳彬は黙って食べ続けた。
「あ、徹君」
 こざっぱりしたフロアマネージャーという札をつけた男が近づいてきた。さっぱりとした短い髪型。清潔そうなひげのない顔。彼は、高校時代、徹の後輩でよく一緒に居た仲間だという。
「聞いてませんか?」
 後輩村岡が顔を曇らせて言う。
「実は、ヒロさんが行方不明になったって」
「ヒロが?」
 三人は絶句した。
 宏樹がNYのショーの最中に行方をくらましたと言うのだ。しかも、書置きがあって、今にも自殺するんじゃないかの文面だとアメリカの心理学者は分析し、アメリカメディアは大騒動だと言うのを日本の夕方のニュースでやっていたというのだ。
 徹はすばやく携帯を掛けるが、
「あの馬鹿、切ってやがる」
「何でも行方をくらませてすでに一週間が過ぎてるとかで、現金も、その消える日にけっこう引き出されたままあとはさっぱりで、どこに居るのか、いろいろな方面が動いてるらしいんですけど」
 徹の険しく心配した顔にみかげが不安そうな顔色を浮かべる。
「女は居ないのか?」
「……さぁ」
 徹は苛立ちを押さえながら携帯を見たがかける様子はなかった。
「仕事、うまくいってなかったの?」
 みかげの不安そうな顔と声に、普段ならやんわりとした口調なのに、どこかつんけんどうに返事をする。
「いや、あいつに限ってそれはない。いい方向には向いてた。モデルとしては」
「澪に、」
「もしそこに居るなら、すぐに知らせが入る。無いってことは行ってない」
 みかげは携帯を握り締め額につけた。
「澪、多分、壊れるの必死に押さえてる、きっと……」
 徹はみかげの肩に手を置いて微笑んだ。
「あの馬鹿の所為でごめん」
 みかげは首を振る。
「やり難くなるぞ。これから」
「それが狙いなんだろ。辞める気か、相当詰まってたんだな。馬鹿」
 徹は吐き捨てるように言ってもう一度携帯を鳴らしたが、「現在電話に出ることが出来ません」というメッセージが流れるだけだった。
 
 
 宏樹は行方をくらました。そのショッキングなニュースは事務所が発表してすぐパリに居る澪たちの元にも届いた。それは宏樹が居なくなって三日目のことだった。
 澪は思い当たる場所も無く、事務所で仕事をしているがどこか上の空だったし、家に帰っても落ち着かず、何をしているのかさえまったく解らないまま一日を終えていた。
「澪」
 肩を触られて澪は美樹が隣に立っていることに気付く。
「あなた、寝てないんじゃない?」
 澪が少しだけ首を振って頷く。
「ステフ(ステファニー・オハラ、パリを拠点として活躍しているデザイナー)に言われた新作のデザインのこと、ヒーローのこと、気にしてるのは解るけど、寝なきゃ」
「ええ。解ってる。私が心配したって、どれほど心配してもしょうがないことも解ってるけど、でも、」
 美樹は澪の肩を掴む。
 澪に部屋が与えられたのは、ステファニーの事務所に着て五年目のことだ。一人の部屋は静かでいいが広すぎてあまり好きではないと、澪は戸を開け放している。そこへ美樹は戸を閉めて入ってきてくれた。宏樹の話をするからだ。
 親友の優しさに澪は椅子にもたれて背伸びをする。
「締め切りは正月過ぎだし、クリスマス休暇とって良いって言われて日本に帰るんでしょ?ペット(みかげのことを美樹はそう呼ぶ)とあってリフレッシュしてきなさいよ。とりあえずは、今日の夜のクリスマスパーティーに出ることよ」
「もう、ここ連日じゃない」
「そういうけど、あんたは一度も参加しないじゃない。今日ぐらい参加しなさいよ。今日はステフも来るんだから」
「そうね、解った」
 
 クリスマス月に入るとずっとクリスマスパーティーをしている気がする。日本で言うところの忘年会に似ているかもしれない。取引先やら、いろいろと先に祝うのだ。日本人が忘年会をする風習を見て真似しているのかもしれない。変なことをまねする。と思う。
 澪は事務所のパーティーに出るために服を着替えて会場に向かった。
 美樹はいつも地味だという。落ち着いたデザインで、飾りのない。ただの布。それが澪は本当は好きだった。
 髪を纏め上げ、いつもと違う様相の自分がガラスに浮かぶ。賑やかで華やかなその後ろの人々を見てため息が出る。
 
 彼(宏樹)はどこに居るんだろうか?
 
 しっかりと抱きしめてくれた日から会っていない。本当に一生分愛されたと思う。もう会えなくても、どこかに居ると信じて、そこで活躍している姿を見られるだけでよかったのだ。
 嫌だと言っていた世界だから、辞めたいと本当に投げ出したのかもしれない。
 
 一度も服を着てもらっていないのに。
 
 心残りが悲しく胸に影を落とす。クリスマスには不似合いな痛みだ。
 いくらパーティーが盛り上がっても、誰も澪の影に気付かない。
 澪はステファニーに近づいて帰ると告げた。
「大丈夫?」
 美樹が会場外まで見送りに来た。
 澪は頷いてタクシーに乗り込んだ。
 
 マンションの鍵を開ける。重い鍵音、ドアを押し開け、ため息をつくと澪を押し付けるようにして誰かが入ってきた。
 澪は抵抗し、悲鳴をあげるために息を思いっきり吸った。その口を、腕を、身体を押し付ける。
 戸が閉まる。
 遮断された外気と音。
 澪の口を強く押していた唇がゆっくり外れ、甘く優しい接触に代わる。
 手を押さえつけていた力も緩み、優しく腰に手を添える。
 澪は顰めていた顔を徐々に緩める。
 
 あの夜感じていた感触。
 
「ヒーロー?」
 唇が離れて澪が聞くと、薄汚れた背の高い不審者は頷いた。
 どこを歩いてきたのだろうか? どうやっていたのだろうか? まるで宿無しのような汚れ方だ。埃る服。何日も風呂に入っていない肌の色。
「脅かす気は無かった。先に風呂にでも入ればよかったけど、もう、金もそこをついて。澪に会えたら衝動が止まらなくなった」
 宏樹の言葉に澪はその首に腕を回しすがる。
「どこに行っていたんですか? もう、会えないのかと思いました」
 宏樹はぐっと力を入れて澪を抱きしめたが、すぐに手を解き、
「風呂を貸してくれないか? とにかく、着替えたい」
 澪は頷き、風呂を貸した。
 何日かぶりの風呂だといった宏樹は、洗いざらした髪と顔を触ってさっぱりしたと笑居、澪が用意した服に袖を通した。
「どうして、」
「会いたくなった。休みは当分取れそうもなかった。でも会いたかった。すぐにここにきちゃ迷惑かかるだろうから、あちこち飛んで、歩いて、ここに来た。しばらく、一緒に居たい。そしたらまたNYに戻る」
「あ、……ありがとうございます。でも、私なんか……、私、」
 澪の目から涙がこぼれた。
「ごめん、心配掛けさせて」
 澪は首を振った。
「旅行?」
 部屋の隅に用意していた鞄を宏樹が目ざとく見つける。
「日本に、休暇で……、いいんです。いっぱいだから、この時期は」
「あいつは待ってるんだろ?」
「解ってくれます」
「いいのか?」
 澪は頷いた。
 
 宏樹が行方をくらまして二週間が過ぎた。宏樹は自分探しの旅に出ていたと、マイアミでマスコミの前に姿を現した。
 ほとんど無賃に近い状態でいったいどれだけ生きられるかということをしたかったのだと言った。
 過去、宏樹は徹と一緒に無賃に近い貧乏旅行でパリに出た。貧乏旅行でパリとはすごい話だが、それもこれも徹が親を困らせるために巻き込まれたようなもので、旅費は徹が持ったが、パリでの生活は段ボール箱という有様だった。
 天狗となり、モデルという職業にやりがいや張りを見出せなくなっていた宏樹は奮起し、
初心を思い出すために旅に出たという。
 生還で、まっすぐに話した宏樹にメディアは迷惑を被ったが彼や、モデル業界にはいい結果だったと口を揃えた。
 実際どんなことがあったのか誰も知らない。もちろんみかげや、徹でさえも。
 ただ、日本に帰ってきた彼の顔はすっきりしていた。
 
 
 みかげは膨れて喫茶店に居た。
 正月もすみ、街は平常に戻っていく。
 明けましておめでとう。も言う人も居なくなった。
 帰って来ると言っていた澪が帰って来れなくなって、予想だにしない寂しいクリスマスと正月を迎えたのだった。
 頬杖をつき、午後の日を浴びながら昼食後を過ごしていた。
 先ほどから出るのはため息ばかりで、温かかったはずのコーヒーも湯気が消えている。
「どう、しようかな」
 休みだから出かけてきたがすることがない。家に居ても、掃除や、趣味に勤しむ様なみかげではない。愛車の赤い自転車が主を待ってじっとしている。
 そろそろ出なければサテンのバイト姉ちゃんの目が厳しくなってきた。と感じているがさっぱり動く気配がない。
「すみません、コーヒーじゃなくて、カフェ・オ・レをすみません」
「ホットも」
 みかげはその声に店内を見れば、和矩が立っていた。
「二時間」
 そう言って向かいに座った。
「何?」
 聞き返す声が少し上ずっている。嬉しがっているのを悟られないようにみかげは冷めたコーヒーを下げてくれるウエイトレスに頭を下げる。
「二時間前にこの前を通った時も居た。何やってんだ?」
「暇ん人」
 みかげはそういって和矩を見返す。
 ホットコーヒーとカフェ・オ・レが運ばれてきた。
 和矩はそのまま口に運ぶが、みかげはそれに砂糖をたっぷり目に入れる。
「太るぞ」
「うるせぇ」
 みかげは口を尖らせる。
「で、平日の昼二時にサラリーマンがこんな場所に居て言い訳?」
「多分、言い分けないだろうな」
 そう言って悪びれる風もなく背もたれにもたれ、窓の外へと目を向けた。少し疲れているような顔色をしている。ネクタイも嫌々結んでいるような感じだ。
「仕事しんどいんだ」
「あ? それなり。楽な商売なんてないさ」
「そうね」
 沈黙が流れる。
「あ、森沢のこと。帰って来れなかった理由は解らないが、ヒロが心配かけさせたことで、帰ってこられなかったんじゃないかってテツが心配してた。クリスマスに一人だったんだってな。知らなかったから―。帰ってきてると思ってたから。すまない」
「すまない? 何で謝るの?」
「ヒロが迷惑かけたから。あと、連絡してれば、一人で居ることもなかったわけだし」
「平気よ。いつも一人だもん。ヒーローのことで澪が帰ってこられないわけじゃない。と思う。もしかしたらそうかもしれないけど、澪が帰れないという理由はたくさんあって、私に説明しても私が理解できないことを澪は知っている。だから言わない。あたしも聞かない。誰の所為でもないし、誰かを責める気もないよ」
 みかげはそう言ってカフェ・オ・レを口に近づける。
「今日、メシ食いにいくか?」
「美登里さんのところ?」
「がよければ」
「いいねぇ。でも、」
「仕事か?」
「休み。ただ、デートの約束とかあるんじゃない?」
 みかげの言葉に和矩は腕を組み、呆れたように首を振る。
「お前、わざとだろ。てか、本気ならよほど記憶力ねぇぞ。俺には居ないから、そういう人」
 みかげは口を尖らせる。あからさまに馬鹿にされていることぐらい解る。
「美登里さんところもいいけど、少し遠出をしないか?」
「いいけど、明日も仕事でしょう?」
「それほど遠くねぇよ」
「解った」
「家に行く。六時半ぐらい」
「待ってる」
 和矩はコーヒーを飲み干して出て行った。みかげの昼食と、コーヒー代を払ってくれていた。
「一食、いや、二食浮いたぞ!」
 みかげは背伸びをしてから家に戻った。
 
 時計はすでに九時半を回った。約束からすでに三時間。おなかの空き具合も最高だ。
「忙しいからね、後三十分待ってこなけりゃ、カップめんだな」
 みかげはそういって保存食用のカップめんを机に置き、それを転がしながら待った。
 
 十時。みかげはカップめんを開けずに居た。
 
 十一時。みかげは玄関に座り込んでいた。
 
 十一時三十五分。戸を叩かれた。覗き穴から見れば隣の学生が赤い顔で立て居た。
「あんたの部屋は隣だよ」
「あ、みかげさん? すんません。おやすみっす」
「はいはい」
 学生は隣の部屋に行った。
 みかげはセーターを脱ごうとしたが、その手を止め、再び玄関に腰をかけた。
 
 十一時五十分。戸が叩かれた。みかげはもさっと立ち上がり、覗き穴を見れば和矩が肩で息をしながら立っていた。
「ごめん、」
 みかげが戸を開けると第一声がそれだった。
 かすかに酒の匂いがする。和矩は玄関に置いた靴箱に手をつき前屈して息を整えている。
大きく深呼吸をして、携帯をポケットから取り出す。
「連絡先、教えてもらってなかったから、電話できなくて」
 そうだった。和矩の連絡先は教えてもらった。でもみかげは教えていない。そうだ、これないのなら電話をすることは出来る。そのくらいの用があったのに、わざわざこの時間やってきたのだ。
「ごめん、教えてなかった」
「いい。それは。……、急に、接待が入って、すまない。メシ……。食べてないんだ」
 和矩は机の上のカップめんを見つける。
「まぁ。いい。そがれたから。それより、上がったら?」
 頷き靴を脱ぐ。ため息をこぼし思い返すのは腹立たしい時間だ。
 
 帰りがけ、母親である社長が急に副社長室を訪ねてきた。
「これから藤井産業さんとの接待に行きます」
「いや、これから海岸ホテルのレストランへ行こうかと」
 海岸ホテルは松浦企画が融資しているホテルで、県外客が止まり場所として取引がある。そこに新しくレストランを入れた。そこの偵察に行くというのだ。
「そんなの明日でいいです。こちらのほうが大事です」
「しかし、」
 母親は有無を言わさず和矩を睨み、和矩を連れて行った。
 接待は表向きだった。藤井産業の社長には三人の娘が居て、その次女がちょうど和矩と一個しか違わなかった。
 藤井産業は解散の直営店で財を成し今では港近郊でのレストランやら、地場産などの土産物店を展開している。その関係で松浦企画との提携は必要だと感じているようで、社長はこの食事会は大乗り切りだったし、娘の方も気合十分な姿をしてきた。
 赤い振袖を着た接待がどこにあろうか―。
 和矩はため息を落とし、五分おきに時計を見た。母親はそれを机の下でぴしゃりと打ちやったりしたが、和矩はそれを辞めることはなかった。
 だが、松浦企画としてもこの話は大いに実があるからそうそう無碍に抜けることも出来なかったのだ。
「和矩君はなかなかな好青年だ」
「まだまだです。母親の会社でしょ、甘いと言われるのを嫌がって厳しくしてるんですけどね、どうしても、末っ子って甘やかしてしまいがちで」
 母親の言葉に藤井社長は高らかに笑う。
 藤井 京香は小さく微笑んでいた。綺麗な化粧。綺麗なしぐさ。申し分ない人だが、和矩の好みではなかった。綺麗で、抜け目がなくて、計算された人格はしんどい。
 母親と社長は難しい話をすると、席を話した。―ここからは若いお二人で―と席を立つ佳境時だ。
 和矩が時計を見る。九時。連絡先を知らないとこうももどかしいのか。
 
 あいつ、待ってるだろうなぁ
 
 和矩がため息をこぼす。
「どなたかと待ち合わせですの?」
 京香のやんわりとした、でもかなり鋭いほどの毒を含んだ声に和矩は目を向け、
「ええ、まぁ」
「京香と一緒に居られないほどの方ですか?」
「え?」
「京香は、お父様に申しましたの。一緒に行きたいって。最初は反対されましたわ。接待ですもの。でも、私が和矩さんを好きだって話したら、」
「ちょっと、待ってください。これは接待で、仕事です。そういう感情やそういう思惑があって開かれたんなら僕は帰ります」
「では、仕事ではないですわ。私が和矩さんとお近づきになりたいから父に頼んで開いてもらったものです」
「仕事でないのなら、」
「断るんですか? 帰るんですか?」
 京香の言わんとしている事は解った。あの社長は娘に弱い。まるで娘の言いなりだ。仕事でないと言っても、ここで帰れば取引は中止になるだろうし、それは大きな損失だ。向こうは他の旅行会社に話しを持っていくだろう。
 和矩は座りなおした。だが、目はじっと伏せている。京香は和矩が言いなりになって据わったのを見て気分を良くしたのか楽しげに喋り、食事をした。
 和矩はずっと目を伏せ、黙っていた。
 十一時、場所を変えようと言い出したのを機に和矩は走って逃げた。
「すみませんが、僕にもプライベートはあるんで、それじゃ、」
 和矩は走った。多分、タクシーを拾えば京香は追いかけてきただろう。でも走ったら、追いかけては来ないはずだ。それに、酒の匂いを消すにはこの寒空のした走ったほうがいい。だが、程よいアルコールが、走ることで混ざり合い、悪酔いを引き起こし、一時間もかかってしまった。
 
「すまない」
 和矩がそう言って二人がけの小さなテーブルの椅子に腰掛ける。
「いいよ。来てくれたじゃん」
「食事、ずっと待ってただろ?」
「いいよ。おなかは空いてる―腹の虫が鳴った―けど、食べる気がしないから」
 みかげはそういって隣の、ベットが置かれている部屋に行こうとする。
 和矩は一瞬躊躇した。多分、嫌がられる。でも―。
 和矩はみかげの腕を掴み立ち上がると、みかげを抱きしめた。
「嫌だろうけど、しばらくこうしていたい」
 酒の匂いと、かすかな香水の甘い匂いがする。
「やっぱり、彼女居るんじゃない?」
「居ない」
「だって、香水の、」
 和矩がすばやく離れてみかげを見返す。
「記憶力の乏しいお前に言うのは嫌だし、今はそんなことをしている場合じゃないんだ。仕事を考えなきゃいけないし、でもそれは俺の問題。俺は、お前が……、いい。あれもう一個ないか?」
 和矩はみかげから離れてカップめんを指差す。
 みかげはダンボールから一個取り上げた。
 和矩はカップめんをみかげと一緒に食べ、一時過ぎにタクシーで帰っていった。
 
 
 みかげは眉をひそめて立っていた。
 コンビニに和矩が忘れ物をしていったのだ。他の客ならまた来るまでお預かりだが、篠崎がみかげに鞄を突き出し、
「奴の」
といって渡した。
 鞄は重たくてたぶん重要書類が入っているようだった。
 真昼間コンビニに呼び出され、みかげはカバンを持って和矩の会社に向かった。
 重いため息。あの受付嬢の愛想笑いがどうも苦手だ。自分もあんな顔をして立っていると思うと、明日から笑顔を考えようと思う。
「ねぇ」
 みかげはその声に横を見る。
 一階にはロビーと喫茶店、そして旅行代理店が入っていた。その入り口にカップルが立っていた。手には北海道のパンフレットが握られていて、二人は代理店に入っているが入り口で立ち止まっている。カウンターの中ではちらちら気にはするものの、その中でおしゃべりに興じている社員の姿があった。
「あれ?」
 彼らを見ているみかげを徹が見つけた。
 徹は和矩を尋ねていて、そこに社長である和矩の母、藤井 京香が居てこれから食事に出かけようという話になって降りてきたところだった。
「みかげちゃん?」
 和矩もみかげを認める。
「あの鞄お前のだろ?」
「あぁ」
 みかげはずっと二人を気にしていた。
 二人は何度となくカウンターの社員のおしゃべりの切れ間を伺っていたが、なかなか止まないそれにとうとう出ようとする。
「北海道へ旅行ですか?」
 みかげはとっさに大声で話しかけていた。
「北海道っていいですよね、新婚旅行ですか?」
「いえ、私の、」
「あぁ、お里があるんですね」
「え?」
 彼女が首を傾げる。
「何か?」
「お里って、」
「変ですか? でも、他人のふるさとを聞くのに、あなたの田舎はどこですかって変じゃないですか? 田舎って寂れてて、酷い言い方ですよ。それってあなたの実家よりここのほうが都会でしょって意味を含んでる気がして。まぁあたしの勝手な感性ですけどね。で、北海道へは飛行機で?」
「えぇ、そのつもりですけど」
「じゃぁ、少し値段が張るけど、高いシートがいいですよ」
「でも、そんな贅沢は、」
「まだ、4、5ヶ月の身に飛行機は辛いですよ」
 みかげの言葉に二人は笑顔で喋りかける怪しいみかげを見返した。
「どんな理由であれ、その子はあなたたちの愛情がこもってる。見てて解ります。普通、いや、あたしの知ってる方は皆男性はそのくらいの妊婦さんに疎いんです。まぁしょうがないですよ。妊婦自体が自覚薄いんだから。でも、あなたは違うじゃないですか、奥さんを労わって、その身体を気遣って、本当に幸せそうな顔を向けてる。そんな人の子供は幸せですよ。どんな理由で行くにせよ。安定期に入るまでは止めた方がいいと思う。決着は速いところつけるべきだとは思うけど。それでも行くなら、多少お金がかかってもやっぱり身体を大事にしたほうがいいですよ。そういうのって多分何とかしてくれると思う。話せば、えっと、」
「プラン立てましょう。なるべく身体に負担をかけず安価な方法で、」
 和矩がそう言ってみかげの肩に手を置いた。
「じゃぁ、お願いします」
 みかげはそう言って大げさに頭を下げた。
「あ、これもどうぞ。店に忘れていったものです」
「どうも、午後の会議で居る資料が入ってたんだ。車にあるつもりだったけど、」
 みかげは微笑み、夫婦に向き直った。
「幸せだという顔をしてないと、幸せになれませんよ。あなたは幸せになる義務があるんだから。ね?」
 みかげにそう言われ夫は力強く頷いた。
 二人は和矩について旅行代理店へと向かった。
「さぁ、帰ろう」
 振り返ると、にやりと笑った老婆が立っていた。背が低く腰の曲がっている老婆はみかげの手を握り、
「あたし、アメリカに行きたいんだけど」
 と言い出した。
「いや、あたしここの人じゃないんですよ」
「解ってるよ。でも、あんたの声でここに居た全員が職務怠慢なあの女連中を睨んで、あの女たちはそそくさと仕事を始めた。だから、順番飛ばしてもらおうかと思ってね」
 みかげは乾いた声で笑い、
「じゃぁ、お土産買ってきてくださいよ」
 と旅行代理店へと入って行きパンフレットを一つ取り上げた。
「アメリカのどこへ?」
「ラスベガス」
「若いですねぇ、おばあちゃん」
「あんたはどこがいいよ?」
 みかげはしばらく考え、
「……好きな人が居るところならどこでもいい。……とか言ってみたいよねぇ」
 と大げさに笑いたてた。
「あれはあんたの彼氏じゃろ?」
 みかげは老婆が指差した和矩のほうを振り返った。夫婦共々こちらを向いている和矩と顔が合うとみかげは手を振るが、和矩は咳を一つして夫婦に説明を始めた。
「どうも違うようです」
 舌打ちをしてみかげは老婆を見下ろした。
「あたしはパリがいいです。大事な人が居るんです。多分今、すごく辛いんだと思う。辛いとか苦しいと言わないけど、あ、ベガスでしたね。カジノですか?」
「そうね」
「あたしテレビで見たんですけどね、スロット? あれで5万ドル稼いだ人が殺されちゃったって言うドラマ。だからあんまり稼ぐと大変ですから、ほどほどでやめてきて下さいね」
「あら、あたしギャンブル運は強いのよ」
 みかげは首をすくめ、ベガスの街が見渡せるホテルが乗っているページを見せた。
「どういうことをして薦めるのか解らないけど、あたしなら、この部屋が気に入ったのでここにします。あとは値段だけど、ある程度お手ごろかと」
「そうね、いい部屋ね。でもあたしには安すぎるわ」
「安いっすかぁ。……あ、ここ好き。いや、あたしの趣味はどうでもいいですね。じゃぁ、」
「どこ?」
 みかげがページをめくる前に老婆はそれを取り上げた。
 三年ほど前にオープンしたホテルで、クラシカル・ビューティーというテーマどおり、重厚そうな家具の中に華やかで可愛らしい小物使いで人気のあるホテルだ。
「あぁ、ここなら去年行ったわ」
「行ったんですか」
「えぇ、でもこれほどたいしたことはなかったわね」
「これから行こうという人にはあまり聞かせない方がいいですね、その意見。あたしはそれでも行きたいけど。この布触ってみたくないですか? 何の意味があって天井に布がたれてるんだか、ねぇ?」
 みかげの言葉に老婆は笑い出し、
「いやぁ、あんたはいいねぇその感性」
 とけたたましく笑う。みかげが首をすくめていると、
「お客様、ご相談でしたら賜ります」
 と従業員の、それもフロア主任という名札のついた男がやってきた。
「ほらね、あんたのお陰だ」
「じゃぁ、帰りますね、そうね。あ、もう一人相手してくれないかい?」
「はぁ?」
「あそこに居る人、面白そうじゃないかい?」
 老婆が指差したところに居たのは、眉間にしわを寄せ憤怒しきって顔の中年のおばさんだった。
「嫌ですよ。絶対に文句があるんだから」
「だからよ、ごらんよあのカウンターの女たち。皆彼女を見ようとしない。どうせいつも文句を言いに来る常連なんでしょうよ」
「なら尚更」
 と言ったが老婆は笑いながら主任と一緒に向こうへ行った。
 みかげはため息を落としながら頭を掻く。
 中年のおばさんは目が会った人を遣り上げようとでも言うのか、従業員を睨むような目配せをしていたが、皆俯いていて話にならないとでも言った様子だった。このまま放っておくと、もしかするとここで大声を張り上げ、暴れだすのじゃないか? とすら思えるほどの顔色に変わったとき、
「あ、グアムに行くんですか?」
 みかげは声をかけた。
「え? いえ、行ってきたのよ」
「いいですね、グアム。あたしも今検討中なんです。グアムにするかサイパンにするか。青い海、青い空、白い砂浜。素敵じゃないですか、こんな寒い日本を飛び出して常夏ですよ。南国ですよ」
 みかげはうっとりするような目を上に上げた。
「そうでもなかったわ。ずっと雨だったのよ」
「雨? 何で降るんですか?」
「え?」
「だって、パンフレットには雨は降ってないじゃないですか、青い空だけ映してる。それって詐欺じゃないですか」
「と言っても、どこへ行っても雨は降るし……、」
「そりゃ、確かにそこの人にとっても雨は大事なものですから、降るでしょうけど、でも、パンフレットには、」
「……書いてるわよ小さく」
「こんな小さな字見てる人なんか居ませんよ。やっぱり詐欺だわ」
「いや、そんなことは、」
「だって、写真は青空と青い海でしょ? 雨が降ってたら海にだって入れない。寒い日本をわざわざ脱出して雨に降られたんじゃぁ何のための旅行だか、……あ、でもあなたは凄いですよ」
「凄い?」
「だって、そこに住む人のことを考えて雨が降ってもしょうがないんだと、そこで生きている人だって居るのだからって、優しい。あたしなら訴えても飽き足らないですよ。うん、訴える。でもあなたはそれでも気に入ってまた行こうとしてるんでしょ。やっぱりグアムってそれだけ魅力なんですね。いいなぁ。行きたいなぁ。と言っても雨じゃない日に。いつが雨降らないかなんてそりゃ解らないけど、あ、でも、雨の降るイメージのない場所で雨にあったということは、ある意味凄くラッキーなことなのかしら?」
 みかげのけたたましくも派手なジェスチャー付きの言葉に中年婦は圧倒され、まさにみかげがまくし立てた言葉を言いにやって来たのに気がそがれたらしく、
「また厄介になろうかと思ってね、でも、受付が忙しいみたいだから、また今度にしようと思うわ」
 と踵を返しそそくさと帰っていった。
「じゃぁ、今度また会ったら、また話して聞かせてくださいね」
 みかげは手を振ってそれを見送る。見送って、大きくため息をこぼし、和矩のほうを見て首をすくめた。
「お見事」
 みかげの前に徹が立った。
「てっちゃん?」
「ずっと見てた。巧いもんだね扱いが」
「そうでもないのよ。でも、人が怒られるの見るのいやなの。それよりどうしてここに?」
「べつに用はない。そうだ、ねぇお昼どう?」
「カズと食べるんじゃないの?」
 徹はみかげの背中に手をあてがい外へと歩き出す。
「いいのあいつは、仕事してるから。それよりみかげちゃんと居たいから」
 徹の言葉にみかげは首をすくめ、
「いいよ。じゃぁ、何食べに行く? あたしね朝起きてすぐの電話でここに来たからお腹空いてるのよね」
 と笑った。
 じゃぁ、と徹が店の場所を言う間みかげは和矩の方を見て微笑んで出て行った。
 和矩は鼻で笑うと顔を上げている夫妻と目が合った。
「すみません、お昼一緒にするつもりだったんでしょう?」
「いえ、大丈夫ですよ」
「でも彼女に悪かったですね」
「……大丈夫。ええ、大丈夫です」
 夫婦にチケットの手配と料金の取引を終了させ、夫婦が帰ったあとすぐ、老婆は主任に、
「もう結構よ。あとで息子にやらせに来ますから」
 と立ち上がって帰っていった。
 和矩は苦い顔をして頭を下げた。
 
 
 和矩は朝から社長の訪問を受けていた。
 副社長室に入ってきた母親の顔はすでに機嫌悪く、兄由彬の冷淡な顔色は母親似だといつも思う。
「藤井さんのお嬢さん、京香さんを置き去りにしたそうね」
「置き去りじゃないですよ、タクシーを用立てたし、行き先は知りませんからね」
「先方は酷く怒っていたわ」
「藤井産業と手を結ばずとも他にあるでしょう」
「何を言っているの? 山陰一帯は藤井産業が大手、そこの店に寄れないなんてバスツアーが大打撃を受けるに決まっているでしょう?」
「だから、僕に見合いをしろと? そして結婚までさせる気ですか?」
「そうは言ってないでしょ?」
「向こうはその気でしたよ」
「それでも、お付き合いすれば、」
「お断りです。僕はその気はありません」
「和矩、」
「僕は嫌ですよ」
 和矩はそういって顔を背けた。
「いいでしょう。でもあなたの行動は逐一報告されていることをお忘れなく」
 母親は音を立てて出て行った。和矩は大きくため息を落とした。
 みかげのことはすでに話が行き届き、どうせあの母親のことだから、気に入らないと思っていたところにこの話が来たのだろう。社長婦人として苦労したははのことだ。芯のしっかりした人を選ぶように仕向けたいのだろう。
 確かに、みかげでは頼りないから。
 
 みかげは大きなくしゃみを一つした。
「棚替えって埃からなぁ」
 最後の商品を棚に置き、みかげはため息をついて立ち上がる。
「バレンタイン、バレンタイン。いやぁ、いい感じ、いい感じ」
 みかげが出した段ボールを手にしたとき、スーツの気配がする。顔を上げれば藤沢(和矩の実家のお抱え運転手)が立っていた。がみかげにそれだと言う認知はない。
「いらっしゃいませぇ……、あのぅ。どこか出会いましたか?」
 相手はみかげに用があるような顔をしている。客が探し物をしている顔ではない、何か別な表情ぐらい様子は解る。
「えぇ、以前に。あの時は夜でしたし、あなた様は車の中で、熱も出ておられたようですから」
「……、あらら。すみません。覚えてません。あの、それで、何の御用でしょう?」
「これをお持ちしました」
 みかげは手渡されたものを開く。
 分厚い影の出来る模様が施された高そうなカードに、来る二週間後の夜七時にヘルメスホテルの15階にあるレストランで開かれる食事会に招待する内容が書かれてあった。
「あの、何で、私なんでしょ?」
「鶴子様、和矩お坊ちゃまのお婆様の招待です」
「はぁ……、断っても大丈夫ですかね?」
 藤沢は微笑み頭を下げる。
「無理だよねぇ。……、こういうのって苦手なんだよなぁ。澪、あぁ友達なんですけどね、ずっと前に彼女と、彼女が招待された『食事会』に行ったんですけど、なかなか窮屈で、五分居て帰っても招待を受けたって事になりますよね?」
「その時はお送りいたします」
「じゃぁ、行きます」
 みかげが微笑むと、藤沢は頭を下げ、胸ポケットから名刺を取り出した。
「私の連絡先でございます。どうぞお持ちくださいませ」
「藤沢、さん。解りました」
 みかげは微笑み、それを大事そうにポケットにしまうと、藤沢は頭を下げて店を出た。
 レジカウンターに篠崎が無駄口吉田と居た。
「またあいつの?」
 みかげは乾いた笑いを出して、奥へ向かった。
 
「俺は、諦めたわけじゃないからね」
 事務所に入って来た篠崎はそういって微笑んだ。
 みかげは小さく頷いた。
 
 あたしのどこがいいんだろう?
 
 みかげはその日の仕事を終えると、マフラーとコートで防寒し家に戻った。
 寒すぎて、夏なら汗だくになる坂道もまったく汗ひとつかかずに家に帰り着く。急いで暖房をつける。
「寒い、寒い」
 暖房が暖まるまでコートは脱がずに夜食の用意をする。
 外で車が止まった。すぐに走り去る音。隣の大学生が今日はリッチにタクシーで帰宅してきたようだ。
 そんなことを思いながら、少し暖まったとコートのボタンをはずしたとき扉が叩かれた。覗き穴から見れば澪が立っていた。
「澪?」
 戸を開けると澪が微笑んで立っていた。
「連絡くれたっけ?」
「予定外の帰国。だから知らせる間がなかったの」
 そういって澪を中に入れる。
「帰ってきたところなんだ。だからまだ暖房が暖まってないけど」
 みかげの夜食―カップ麺―を笑いながら食したあと、みかげが鞄から招待状を取り出した。
「これもらったのね、でも、着ていく服がないのさ」
 澪はそれを見て眉をひそめる
「もらったの?」
「そう、直々に。カズのお婆ちゃんからの招待状だって」
「カズ?」
「てっちゃんとかとよく居る日本に居る人。覚えてるよね?」
「……えぇ、その人の?」
「そう。あ、あたし言ってなかったね」
 みかげは大雑把に説明した。
「夏前に出会って、仲良しになってね、店長さんとなんだか張り合ってるけど、でもいい友達でね、そしたらなんだかお婆ちゃんが出てきてね、そんで今回呼ばれたの」
 澪はその説明に補足を付け足すほど状況が解らない事態に歯がゆさを感じた。みかげはその「カズ」を好きで居るようだ。昔あれほどショックを受けた恋愛から立ち直ったと言うのだろうか? 本人は意識していないが好きになっているのは解った。
 自分が宏樹のことで頭がいっぱいで居る中、みかげは自分の知らない記憶をためている事が寂しかった。
「二週間でしょ、あたしが何とかしてあげるわ」
「ありがと。ないからジーンズで行こうかとか思ってたんだよね」
 澪は微笑んだ。みかげは舌を出し首をすくめた。
 
 
 澪はその朝九時にどこかへ出かけた。仕事だといったので、仕事なんだろう。べつにみかげに詮索する気はない。 
 みかげと違って澪は方向音痴でもないし、立派な大人だ。
 澪はステファニー・オハラデザイン日本進出するビルにやってきていた。開店は三ヵ月後。内装はパリ本店と変わらない。でも置かれている服が日本人用に少し丈が短い。
「ステフが来るのは?」
 日本支店主任の如月が澪に話しかけてきた。スーツの良く似合う男で、彼もまたデザイナーを目指していたがビジネス才能の方が伸びたと笑って話したことがある。
 すっとした面に、別段気取った風のない仕草。時々浮かべる笑みをパリのスタッフはセクシーだと言ったが、澪はその笑みが小ばかにされているようで嫌だった。
「ステフは来月になると思います」
「その前にあなたに会えてよかったですよ」
「そうですか?」
 澪はそっけなく返し、マネキンに着せた服のしわを伸ばした。
「どうです、今夜?」
「あいにくですが、予定がすでに入ってます。ごめんなさい」
 澪は非常に苦手だった。この男が何を考えて自分を誘うのか不明だった。好意を寄せているとか言う甘い感情は感じられない。あるのは地位向上か、そういった類の野望を感じる。
「澪ちゃん」
 入り口から徹が入ってきた。
「あら、もう来てたんですか?」
「知ってる? 以外に正月のショーをサボると春先までモデルは暇なんだよ」
 徹の笑い話に澪は首をすくめた。徹はインフルエンザだった。こじらす前に緊急入院をして正月にあるショーをキャンセルした。その付けが春先までショーに出れないと言うのは非情な世界だ。
「お昼どう? 夜はみかげちゃんと」
「私がご一緒でいいんですか? 夜はみかげはバイトですから夜中ですけど」
「構わないよ、ちょくちょく会ってるから」
 徹は笑ってその後ろで厳しい目を向けている如月を見た。
「あの、……お昼にお話します」
「いい話だとうれしいな」
 澪はほくそえんで頭を下げた。
 澪が他のスタッフの元へ行くと、如月が徹に近づいてきた。
「手の早いモデル」
「光栄です」
 徹は大げさに頭を下げた。如月の反感を買ったような目に徹は笑顔を向けた。
 
 気に入らぬ
 
 如月は徹を睨んでいたが、徹はそれを無視するように入ってきた宏樹に近づいた。
「よぅ、行方不明者」
 徹の言葉に宏樹はむっとした視線を向けたが、すぐに口の端を緩め
「久し振りだな。相当ヨシに遊ばれたか?」
と言った。
 佳彬の名前を聞いた瞬間、徹の顔が険しく変わった。
「あの野郎、聞いたか?」
「あぁ、メールが来た」
「どうせ香澄ちゃんだろ? あの野郎がよこすわけないからな」
 宏樹は小さく笑うと、携帯を徹に差し出した。
「婚約披露パーティーだぁ? 俺にはよこさなかったぞ。てか、あいつら婚約して何年だよ」
 徹の悪態に周りがいつもの様子との差を怪しむ視線を投げる。
「最後を読め、」
「あ? ……あぁぁぁ?」
 「テツは来るな」の文字に徹は赤い顔をして携帯を投げつけるように手を振りかぶった。
「俺の。壊すな」
 宏樹の一言に徹は怒りを何とか納め、鬱々と携帯を手の中でこねる。
「行くなよ、」
「あ?」
「カズのとこ、なんか大変そうだった」
「何が?」
「いろいろ」
 宏樹の言葉に徹の熱は徐々に下がる。怒りは収まっていないが冷静になっていっているようだった。
 徹は窓の側に近づき、和矩のビルがあるであろう方向を見た。
「気を抜かなきゃな、妙な責任感の固まりになってる」
「ヨシも気にしてた」
「あの馬鹿があとを継ぎぁあいつはもっと楽だったんだよ」
「あいつにサービス業は向いてない」
「だな。正解なんだが、」
「バイク行くか?」
 徹は宏樹に指を鳴らしほくそえんだ。
「雅さんに電話する」
「行動が早い」
 宏樹の嫌味に徹はにやりと笑うと電話を掻けあちらこちらへと連絡をした。その迅速な行動は明らかに仕事とは比べ物にもならなかった。普段の温厚そうな徹ではなかった。口調も目つきも変わっていた。
 澪は徹を見ている宏樹の楽しげな顔に安心したように仕事を続けた。
 
「森沢さん?」
 日本のスタッフの声だろう。
 宏樹がトイレから出てくると、まだ倉庫となっている一階奥の試着室で声がした。
「凄い美人でモデルが彼女と一緒に出たくないって言ってるのよ」
「解るわ。美人過ぎて近寄りづらいわよね。あれでもっと冗談でも言えばいいのに、」
「あたしはパリ帰りなの、あなたたちとは違うのよってガード作ってさ」
「如月主任が狙ってるようだけど、」
「物好きよね」
 くすくすと笑う声。
 宏樹は壁に持たれた。
 昔、高校時代に徹に言ったことがある。すでに泪と隠れて交際していたのを見かねた宏樹に徹は言った。
「俺が道化をすれば泪は被害に遭わないんだよ。俺と一緒に居るだけで好奇に晒され敵が増える。知ってるか? 俺が一緒に居た人の半分は、残りの半分の脅しに負けて消えていったのを。泪をそんな目に合わす気はない。皆好きで居る「振り」は俺なりのあいつを守る手段なんだよ」
 宏樹はため息を落とす。澪はそうでなくても容姿で敵を作りやすい。それなのに宏樹と一緒に居ればどんな敵を生むだろうか?
 
 澪と徹は近くのパスタショップに来ていた。宏樹は雅也の所に行って用意を手伝うと言って消えた。
 奥の方の音楽も届きにくい場所で二人は向かい合った。
「話って?」
「ええ、その」
「ヒロのこと?」
「え? いいえ。それをあなたに相談するのは、私には出来ません。私が聞きたいのは、」
 澪は黙って俯き、覚悟を決めたような顔を上げた。
「お友達のカズさんのことです」
「おや、趣味を変えた?」
 澪にその冗談は通じなかった。鋭い目を向けている澪に徹は首をすくめた。
「カズの何が聞きたい?」
「みかげの説明じゃぁどうも要領が得なくって、カズさんてどんな人なんですか?」
「まるで母親だね」
 徹の言葉に澪は俯く。
「カズはいい奴だよ。澪ちゃんがみかげちゃんを庇うように俺たちはカズを庇う。みかげちゃんを辛い目に合わす奴じゃない」
「解りませんよ、だってみかげは」
「あんなことはしないさ。そりゃ喧嘩ぐらいするだろうけど、」
「あんな? どういう意味です?」
「カズから聞いてる」
「どうして?」
「君の記憶にも残ってないのかあいつは、」
 澪は眉をひそめた。
 徹は澪が机に置いた手に手を重ね、ゆっくりと高校のときの話を、あまり深くは知らないとは言えある程度の話しをすべてした。手を握ってくれていたお陰か澪は冷静に座っていたが、身体は芯まで震えてきていた。
「みかげは、そのこと―カズさん、がすべて知っていると、津田君の親友だったと―知ってるんでしょうか?」
「さぁ、そこまでは。でもあいつは言わないよ。言ったろ、喧嘩はするだろうし、仕事で会う約束のドタキャンぐらいはする。でも、あんなことはしない。やっと話が出来る仲に成ったんだから」
 澪は黙った。
 
 あの時―津田 晃平がみかげと別れる為に他の女を抱いているところに呼び出し、みかげはそのショックで過食と拒食を繰り返した。立ち直るまでには相当な時間がかかったし、そのお陰で記憶力に欠陥が生まれた。本人はその所為だとも、抱いているところを見た記憶もない。ただ、息苦しい中で別れを宣告されたとしか記憶されていない―それを思い出すかもしれない。
 
 和矩と付き合うことで思い出したら、もう二度とみかげは立ち直れない。
 澪の顔は険しくなるばかりだった。
 
 
 みかげは鏡の前で眉をしかめていた。
「何でこんなに肩が開いてるの?」
「みかげはね、あなたが思っているより肩のラインが綺麗なのよ」
 澪はそう言ってみかげの肩に触れた。
「なんかあった?」
 鏡の向こうの澪が顔を傾け聞き返した。
「なんか楽しそうじゃない」
 ため息をつき、澪は静かな声を出した。思いを押し殺しているのがそれで解るほど静かな声だ。
「松浦君、」
「やっぱり澪だね、覚えてたんだ」
「……、少し違うけど。彼のこと、聞いてる?」
「何のこと?」
 澪は黙って首を振った。もし下手に聴いて知らない事実ならどれほどショックを与えるだろうか。知っていたとしたら何故それほど平気なのか、澪には想像もつかなかったのだ。
「お金持ちだって事? なんせお婆ちゃんをお婆様と呼ぶんだよ。それにお抱えの運転手つき。すごいよ」
「そうね」
 澪が何か言いたげなのはみかげにも解った。でも何を言おうとして口ごもっているかは知らないほうがいいだろう。澪が口走ることは絶対だ。口ごもっているときは言うだけの何かが足りないからだ。待っていれば必ず言ってくる。それまでは聞かない。聞いても言ってくれないからだ。
「明日だけどさ、澪も招待されてたら澪は残ってね。仕事が大事。あたしは藤沢さんに送ってもらうから」
「一緒に帰るわよ」
「ダメよ、オハラさんの代わりに出席するんでしょ?」
「ステフをそう呼ぶ人って少ないのよ」
 澪は笑いながら残ることを約束した。
 
 
10
 みかげと澪は藤沢も迎えの車でヘルメスホテルに着いた。
 家では十分すぎるほどの派手なドレスも、ここでは安っぽいただの布のように感じられた。でも、みかげはそのシンプルにできた自分のドレスが気に入っていて―少し肩を出しすぎだと思うが―姿が映る場所に立ってニコニコと微笑んでいた。
「やぁ、みおちゃん」
 声を掛けてきたのは徹だった。
「あ、てっちゃん、こんばんわ」
 みかげが澪のそばに来て徹に挨拶をする。
 徹はみかげの姿に言葉を失った。
「何?」
「いや、その」
「馬子にも衣装? 孫と言っても子供の子供じゃなくて馬の子供って書くのよ」
「みかげちゃんだね。随分と綺麗だ」
「普段が汚いから」
 みかげはころころと笑った。
 徹は澪のほうを見た。澪は少し目を伏せている。その伏せ方にいろんな意味が含まれているのだろうが、そう簡単にそれを理解できない。
「あら、来たのね」
 そういって近づいてきた老婆が二人。
「招待受けてくれてうれしかったわ」
「あら、あたしが送ったのよ、ねぇ」
 みかげは二人の老婆に眉をひそめる。
「カズのおばあちゃんにもらって、」
「あたしがそうよ」
 二人は同時に言った。
「鶴子さん、あなたは普段から和矩の側に居るんだからこん時ばかりはあたしに譲りなさいよ」
「亀子さん、そういうわけには行きませんわ。みかげさんを見つけたのは私が早かったんだから」
「そんなの藤沢に偵察させたんでしょ?」
 二人の和矩の祖母鶴子さんと亀子さんは互いに睨みあった。
「あ、あたしは、……藤沢さんから招待を受けたんです。ええ、藤沢よりと書いてました」
 みかげの言葉に二人の祖母はみかげを見た。
「あ、そう。それじゃしょうがないわね」
「そうね、そうなら。ところでお隣の方は?」
 亀子さんが澪のほうを見る。
「あたしの大事な人です」
「あなたそっちの方?」
「どっちですか?」
「だから、」
「心友です。心のともって書く心友です」
「そう、」
「森沢と言います。ステファニー・オハラ事務所でデザイナーをしております」
「あぁ、絹子んところの?」
「絹子?」
 みかげと澪が同時に聞き返すと、鶴子さんと亀子さんは会場を見渡し、ステファニーを見つけると揃って手を振ってみかげに向き直った。
「あたしたちが学生のころにあんな美人が来たらどうだったと思う? GHQだの、チョコレートだのが珍しかった時代によ、目立ってそりゃ酷い虐めでしたよ」
 亀子さんは当時を思い出したようにむっとした顔をした。
「そこを、亀子さんが助け、」
「あら、鶴子さんだって生徒会長だからって辛く当たっていた先生に強弁したじゃない、人間は皆同じです! 贔屓は差別は人間を貧しくしますわ! ってね」
「あら、そういう亀子さんは、ステファニーじゃ言い難いから絹子になさいな、絹子ってね、亀子さんが大好きな女優さんの名前なのよ。その名前で呼ばれることが嫌なら止めるけど、あなたはとっても綺麗な髪をしてるわ。まるで絹(シルク)の様よって褒めて、」
「懐かしい思い出よ」
「そのとき、亀子さんの勇ましさに堤さんは引かれたのよ」
「そうでしょうとも、うちの人はいつでもあたしの好きにさせてくれる人ですもの」
 老婆は懐かしい話を繰り広げた。
「で、今では同じ孫が居るおばあちゃんですか」
 みかげの言葉に老婆はみかげの方を見て、
「あなた、今日はとても綺麗よ。本当に、」
 と手に手をとって微笑んだ。
「亀子さん、おたくの秀子さんの目、おかしいんじゃなくて?」
「わが娘ながら情けないったりゃありゃしないわよ」
 老婆たちは同時に振り返ると、和矩の側に立っている淡いピンクのドレスを着た人を睨んだ。
「あれがその娘?」
「ええ、そう」
 二人が見ているのは和矩に寄り添うように満面の笑みで立っている藤井 京香だった。
「藤井産業の次女で、京香さん。押しの強い人で、和矩の大学の後輩らしい」
 徹がそういうと老婆は同時に振り返り、
「あなたはどう思う?」
 と聞いた。
「僕はみかげちゃんが好きです」
「うそつき」
 みかげが冷たくこぼす。澪の背中がびくっと跳ねた。
 みかげは徹を見上げ冷たく視線を投げた。
「嘘でもそんなこと言わないでね」
 みかげの冷たい言葉に老婆たちは同時に手を離しみかげと徹を見た。
「厳しいね」
「友達泣かす人は嫌い。どんなことがあっても、あたしの前だけでも嘘はつかないでね」
 みかげの言葉に徹は微笑した。その憂いを含んだ笑みを澪は逃さなかった。
 
 彼にこういう切ない格好をさせるのもいいのかもしれない。
 
 みかげは澪のほうを見て、窓を指差すと二人して窓に向かった。
「何かあったの?」
 亀子さんの質問に徹は微笑み、
「亀子さん、そう詮索するのは悪い癖ですよ」
 口を尖らせる亀子さんに頭を下げて徹は立ち去る。
 窓の側に立ち、みかげはため息を落とす。
「しんどいの?」
「苦しい」
「松浦君のこと?」
「はぁ? 違う。ウエスト。けっこう締まってきた。これじゃなぁんも食べられない。目の前にあんなに料理あるのに」
 澪は肩から息を抜くように肩を下ろした。その視界、ガラスに宏樹がこちらを向いている視線とぶつかった。
「行っていいよ。そろりそろりと帰るようにするから」
「でも、」
 みかげは静かに流れているBGMを口ずさんだ。澪は肩に触れて会場の真ん中へと向かった。
 時々振り返る様子の澪にガラス越しにみかげは微笑む。
 都会のネオンの上月は少し欠けて明るい。
 和矩の視線がずっとみかげにあることを京香は気付いていた。
「ねぇ、和矩さん、飲みましょう?」
 和矩は首を振ると徹や宏樹たちのところへ行った。
「いいのか? すんげー睨んでるぞ」
 和矩は頭を振る。
「その頭痛の種、もう一つ増やしてやろうか?」
 徹の言葉に和矩が顔を上げる。
 徹は微笑み、澪のほうを見た。
 澪は京香とは違う疑いを込めた目で見ている。
「もてるねぇ。お、帰ろうと動いた」
 みかげが少しだけ入り口に向かって動いた様だった。見ていればガラス越しに会場に目を配っている。
「連れ出してやるか?」
「簡単に出来るならね」
「度胸がないから、和矩さんは」
 鶴子さん口調で言った徹を和矩が睨む。徹は手を広げ微笑んだ。
「また動いた」
 徹の言葉に反応する。
 みかげは静かに曲に合わせて踊る振りをして一歩ずつ動いている。
「彼女をご存知?」
 女の声に和矩たちが振り向くと、京香が声を掛ける前に京香の後ろに立っていたステファニーが声をかけたようだった。
「ステフ、今日も綺麗ですね」
「ありがとう。で、彼女をご存知? あなた話していたでしょ」
「話してましたけど、もし彼女に何か聞きたかったら、まず森沢さんの了解を得なきゃいけませんよ。マネージャー兼、番犬ですから」
 番犬って。と言い返したが、ステファニーは澪を見て頷くと、
「解ったわ」
 と澪のところへ行こうとする。
「彼女がどうかしましたか?」
「あれは澪のデザインよ。澪が細心の注意で作ったもの。彼女が着てこそあれはいいドレス。他の誰も似合わないガラスのドレスよ」
「ガラスの靴でなく?」
「ええ、彼女をモデルに、」
「ダメですよ」
 徹と和矩が同時に言った。
「……、本人の了承が、」
「あってもダメです。いや、そりゃ彼女の自由だけど」
 和矩は口ごもって、ふとみかげが居た辺りを見て走り出した。
「消えたようだ。あれほど血相をかくならもっと早くに行きゃいいのに」
 徹は言って首をすくめた。
 
 みかげがようやく会場外に出たとき、携帯がなった。
「もしもし?」
「みかげ様ですか? 藤沢です」
「藤沢さん、」
「もうそろそろだと思いましたので、地下駐車場にお車を用意しております」
「解りました」
 みかげはすぐにエレベーターに乗り込み、地下のボタンを押す。自然と閉まるドアのほんの隙間から和矩が乗り込んできた。
「か、ず」
「帰るんだろう? 送る」
「いいよ。藤沢さんが地下で待ってくれてるから」
「藤沢? あ、そう。それならいい」
 誰の昇降もなくエレベーターが地下へ向かう。
 地下に着き、ドアが開くのを和矩は閉ボタンを押し、みかげの前に立った。
「肩、」
「澪が綺麗だって言ってね、あたしは好きじゃないんだけど」
「……、キスしていいか?」
 みかげは首を振った。
 和矩は身を引き、ドアを開けた。
「藤沢、」
 駐車場の影から藤沢が現れた。
「ちゃんと送ってくれ」
「解っております」
「じゃぁ、」
「あ、飲み過ぎないようにね」
 和矩は頷き、エレベーターで上がっていった。
 みかげは藤沢が開けたドアに身体を滑らせた。
 車は静かに走り出した。
「お疲れのようですね」
「疲れた。本当に……、少し遠回りして、いや、ごめんなさい」
「……私のいい場所があるんですが、そこへお連れいたしていいでしょうか?」
「静か?」
「だと思います」
「藤沢さんていい人ね」
「ありがとうございます」
 藤沢の運転で車は高速脇の道を行き、山の上に上った。
「ここはなかなか人が来ません」
「殺人現場にはもってこいね」
 みかげの冗談に藤沢はくすりと笑い、指を指した。
「高速の帯が綺麗でしょう。家の明かりも、本当は展望台に行くのがいいのですが、寒いのでここでいいでしょう」
「綺麗……」
「お嬢様もお綺麗です」
「お嬢様……、ってあたし? あたしはみかげさん。お嬢様なんて呼ばないでください。あ、みかげとかぽちのほうがあたしは楽で好き」
「では、みかげ様と、」
「さまはいい。藤沢さんだけに許すわ。せめてさんで、」
「解りました」
 しばらくみかげは靴を脱ぎ、ネオンの街を見下ろしていた。
「カズはいい人。本当にいい人。いい人は好き。好きは、好き……」
 藤沢は黙っていた。
 みかげはガラスに頭を付けもう一度言った。
 みかげの目には和矩の横で笑っている京香の顔が、晃平の側に居た後輩の子の姿とダブって見えた。



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