夏が来る_4
通り雨(前編)
松浦 由香



 夏休みが済むと、ぱったりと客層が変わる。と言っても、昼間の話しで、美鶴がバイトする時間はやっぱり、帰り組みのOLと、サラリーマン、部活後の学生だらけだ。
 ただときどき、買い忘れた顔の主婦が飛び込んでくる以外、夏休みもなく客層は同じだ。
 最近同じ客が、同じ時間にくると言うことを認めた。そういう客は何人もいる。化粧崩れしているOL、疲れすぎたサラリーマン。同じ顔の人たち。
 その中で不思議と美鶴の目を奪うのは、彼が美鶴を見ているからだ。
 美鶴は首を傾げながらバックに下がる。首の調子がおかしいように肩に手をあてがって。
「どうしたんですか?」
 夏休みからバイトを始めた辻宮が声を掛けてきた。
 彼は変わっている。大学生だと言っていた。美鶴に気があるらしく、ことあるごとにデートに誘う。でも本気で誘っている風ではない。まるで話のついでのような感じに、美鶴も笑顔で「嫌」と言える相手だ。
 その辻宮に声を掛けられ、美鶴は眉をひそめる。
「いや、気のせいだろうと思うからね」
 美鶴はそう言って、品出しを待っている積み上げられているコンテナに近付く。と突然それが動き面食らっている美鶴の前に、コンテナを押してくる日村の顔が見えた。
「あ、わりぃ」
「いえいえ」
 美鶴は道を空け、別のコンテナの前に行く。
「あ、居た居た、美鶴さん」
 高校生バイトの松本が声を掛ける。
 松本は日村がコンテナで移動しやすいように、店内との境に下がっているカーテンを開けながら話を続ける。
「また来てますよ、んで、美鶴さん捜してる」
 彼を意識したのはこの松本のお陰なのだ。
 彼が美鶴のあとを追うように店内を移動し、買っていくものといえば500ミリのペットボトルだけ。それがこの二週間ずっと続いていると話したことがきっかけなのだ。
 美鶴も知らないではなかった。よく来るようになったなぁ、この人。ぐらいの認知はあったのだから。
「誰?」
 日村が話の相槌のように聞いた。もし、それが美鶴でなくても聞き返すような、そんなトーンだった。
「サラリーマンだと思うんですよね、スーツ着た、」
「あ、眼鏡掛けてる人?」
 辻宮がすかさず言うと、松本は大きく肯く。
「美鶴さんのストーカーですよね」
 と相槌を求めた。
 辻宮は暫く考えて、肯き、
「確かに、なんかあと追っかけているようなときがある」
 とまで言い出した。
「あのねぇ、そういうこというと、そんなことなくても意識しちゃって、仕事出来なくなるから、それに、物の場所を聞きたかっただけかもしれないし」
「いい男だからって甘いです」
 松本の言葉に美鶴は噴出す。
「あはは、ああいうのが好み? あたしはパス」
 美鶴はそう言ってコンテナを店内へと運ぼうとする。それに合わせて日村は店内に行く。
 コンテナから歯ブラシなどを出していると、彼が近くを通った。
(ははっは、意識してる)
 美鶴は苦笑いを浮かべた隣に誰かが立った。はっと見れば日村が立っていた。
「あいつ?」
 小声に美鶴は首をすくめる。
「さぁ、で、何の用です?」
「あんまり酷かったら、警察に連絡した方がいい」
 美鶴は日村の顔を見上げた。
 普段温厚そうな口調と、穏やかそうな言い方。でもそれはただ単に熱がないだけなのだが、それが一転している。刺のあるような喋り方だ。
「ただ単に物色してるだけでしょう。欲しい値段じゃないとか、」
「さっきからこの辺りを何周してると思う?」
 美鶴は顔をしかめる。
「声掛けてみようか」
「いいですよ、あたしが掛けます」
 美鶴の言葉に日村は眉をひそめた。
「そんな顔する必要ないでしょ、お探し物ですか? ね?」
 美鶴は当たり前なようにそう言って日村を追い払った。
 確かに気持ち悪い。周りをうろうろしているのは美鶴にだって気付いていたし、声を掛けたいような素振りをしているのも解っていた。
 彼が近付いてきた。歯ブラシにはめもくれず、後ろを過ぎようとする。美鶴はくるっと振り返れば、彼は美鶴を見ながら歩いていた。
 美鶴が振り返ったことは予測不可能だったらしく、あわてて通り過ぎようとするのを、美鶴が冷静に声を掛ける。
「お客様、何かお探しですか?」
 美鶴の声に、逃げようとしていた彼は、立ち止まり、頭を掻きながら美鶴に向かった。
「あ、いや、その、あの、……、これを……」
 そう言って差し出したのはボールペンだった。しかもそれは美鶴ので、いつ頃だったかなくしたものと思っていたものだ。
「これ」
「前に、所用で書き物したいから貸してくれって声を掛けた時貸していただいてたんですよ、そのときすぐに用事で立ち去られて、返しそびれて」
「……、他のものに言付けてくださって構わなかったんですけど」
「いや、お礼も言いたかったし、その、今日、何時に終わります?」
 豆を食らった鳩は、たぶんこういう間抜けな顔になるのだろう。そんなことを頭が過ぎるほど、美鶴は面食らって彼を見つめ返した。
 彼の名前は、佐々山 修吾と言って、近くの警備会社の営業をしていると言った。そして、仕事が終わるころに店の前に居るから、少し話がしたいと、名刺を置いて出て行った。
 美鶴がバックに下がると、興味津々な辻宮と、松本の顔があった。
「なに? すごいナンパじゃないですか!」
「店長がいなくてよかったよ」
 美鶴がボソッと言うと、辻宮が舌打ちをする。
「美鶴さん、僕とデートしましょうよ、そいつより付き合い長いし」
 美鶴は辻宮の顔をちらりと見て首を振る。
「もう、そう言うのは辞めて、なんかすごく疲れた」
 椅子に座り、パソコンに目を向けると、店内から日村が空のコンテナを下げてきた。
 物凄い不協和音を立て片付ける日村に美鶴は顔をしかめそちらを向く。
「わり、手が滑った」
 そう言って後は普段のような片付け方をしているが、どこか不機嫌そうなのは無言を見れば解る。
 閉店九時半。
「お疲れ様っす」
「松本、今日はどうやって帰るの?」
 毎日の声掛けに、松本は首をすくめ、
「今日はお迎えが来るの」
「彼氏?」
「ママ」
「ああ、そう」
「お先です。ああ、そうだ。美鶴さん、明日ちゃんと話して聞かせてくださいよ、おやすみなさい」
 松本の明るい声が消える。
 美鶴がため息をこぼすと辻宮が笑顔で自分自身を指差して立っている。
「なに?」
「デートしましょうよ」
「お休み、気をつけて帰ってね」
 美鶴の言葉に辻宮は明らかにわざとらしく肩を落として帰っていった。
「まったく」
 美鶴が店長室を覗くと、日村がいつもの倍近い手際で閉店作業を済ましていた。
「もう帰っていいぞ」
「手伝うよ」
「待ってるだろ、どうせ」
 美鶴が眉をしかめると、ちらりと振り返った日村は
「お疲れ」
 と言葉を投げて机のほうへと向き直った。
(何?(怒り))
 その態度に美鶴はむっとして隣の席に座った。
「もうすること無いって」
「私何かへましました? クレームとか、なんかで日村さんに迷惑掛けました?」
 美鶴の言葉に日村は暫く黙っていた口を開いた。
「お疲れ」
 売上金などをレジに戻し、立ち上がり、休憩室に入ってタバコに火をつける。
「何かあったんなら言ってくださいよ、クレーム? それともミス?」
「煩いなぁ、帰れよ」
 美鶴がむっとして鼻を鳴らすと、日村はまだ吸ったばかりのタバコをねじ消し立ち上がった。
「ちょっと」
 美鶴が休憩室を出ようとする日村の腕を掴むと、日村は凄むような目で美鶴を見たあと、無言のまま唇を合わせた。
(また、事故だ)
 のんきな事だと解っていながら美鶴の思考にその言葉が浮かんだ。日焼けして黄色い天井。
 美鶴が日村の胸を押す。
「また、事故?」
「…、ああ」
 美鶴はため息を震わせながらロッカーから自分の荷物を持って飛び出した。後ろのほうで何かが当たったような音がしたけれど、美鶴は振り返ろうとはしなかった。
 九月に入ったとたんなのか、涼しい風が吹いてくる。
 駐車場にあるワンボックスカーは日村のもので、他に一台停まっている。
 ドアが開くと、佐々山が出てきた。
「あ、あの」
「あ、どうも」
 美鶴は小さく肯いた。
「ずっと、待ってたんですか?」
「え? ええ、まぁ。教えてくれなかったんで。迷惑ですよね」
 佐々山はそう言って頭を掻いた。
「迷惑です。でも、何で私なんですか?」
「それは、どこが気に入ったか。と言うことですか?」
 佐々山は少し照れながらもはっきりとそう聞いた。
「ま、まぁ、そういうことです」
「どこと言うか、全部なんですけどね。優しく笑ってくれるところとか、いや、職業柄だといわれたらそれまでなんですけど、ちょうど、仕事で失敗してて、いろいろとへこんでたんで」
(辛いときにゃぁ誰でも女神だな)
 美鶴は苦笑いを浮かべると、バックのシャッターが下りる音がした。
「あ、もうここ(駐車場)も閉めるんですね、あ、あの、ほんと、いつでもいいんで、食事でも、」
「いいですよ、今からでも」
(おい)
 美鶴は言葉と同時に頭の中で突っ込んだ。
(日村さんへのあてつけなんかしても、どうにもならないでしょうに、)
「本当ですか?」
 喜ぶ佐々山の声。
 後方から無愛想に車のドアを開け乗り込む音がする。
 美鶴は小さく肯いて、佐々山の車に乗り込んだ。
 近くのファミレスに来た。十時過ぎとはいえ人がまだ居て談笑して賑やかだった。
「何食べます?」
「あ、軽めに」
「そうですね。じゃぁ、これは?」
 佐々山は楽しい男だった。
 営業職にあると言うだけ合って話題には事欠かなかった。そして柔らかで美鶴を気遣うその言葉に美鶴は少しだけ安心した。
 日村と居るとどうしても何か突っ張っていなければいけないようなものが、佐々山には感じなかったのだ。
「今日はありがとう」
 佐々山は食事の後駐車場に送ってくれた。
「いえ、僕こそ、無理を言って」
「楽しかったです」
「また、どうです? あ、迷惑でなければ」
「考えておきます」
「じゃぁ、お休み」
 美鶴が頭を下げると佐々山の車は帰っていった。
 美鶴はため息を落とす。気付いていた。駐車場に帰ってきてまだ日村の車があることを、そしてその車に佐々山自身も気付いていたことも。
 美鶴は車に近付かずに自転車にまたがって帰る。遠くの方で車が急発進する音がしたが、振り向かなかった。
 何で、彼と居るとぎすぎすするのだろう。いくら考えても思いつく言葉はなかった。ただ、居づらいのは確かだった。
 最初のキスから、ずっと。

 その日は夕方五時から閉店までの仕事だった。四時半頃にバックに行くと、松本がすでに居て、そして化粧品メーカーの鈴木と店長、そして日村が居た。
「おはようございます」
「おはよう」
 声が揃うのが少しおかしかった。鼻で笑う美鶴に、鈴木が声を掛けた。
「聞いてくれる、日村君さぁ、この前の花火大会(すでに二週間前の話だ)、私すっぽかして浴衣の子と行っちゃうのよ。酷いと思わない?」
「はぁ」
 返事をどうしろと言うのだ、相手が美鶴だと知っていて言わそうと仕向けているような素振りはない。まるっきり美鶴だと知らないようだ。
「紺地に朝顔の浴衣でね、それがなんか古くって」
「あ、美鶴さんも行ったんですよね?」
 松本、何故にあんたの記憶力はいいの? と突っ込みたくなるほど松本は覚えていた。
―「高校のときの娘と行くの」―
 そんなこと覚えていても何の得にもならないのに。
「行ったよ」
「浴衣?」
「そう」
「へぇ」
 たぶん不可読みは無いのだろう。祭りだし、浴衣なんぞ別に珍しくも無い。
「紺地に朝顔の浴衣よ」
 美鶴はそういい捨てて休憩室に入った。入ってすぐ一段高くなっている畳の間に腰を降ろす。
 言ってどうなるのだろう。どうなったところでもう、どうでもよかった。
(はぁ、生理前って鬱に入るから嫌い)
 美鶴がため息を落としたところに日村が入ってきた。暫く美鶴を見下ろしていたが何も言わずにタバコに火をつけた。

 美鶴の休憩中、松本は仕事がおわって休憩室に入ってきた。
「一緒だったんですか? 日村さんと」
 小声なのは、すぐ隣の部屋に日村が居るからだ。
「花火見ただけ」
「でも、この前の人と食事行ったんですよね?」
「別に付き合ってないから」
「好きな人って居ないんですか?」
「好きな人ねぇ。どうなんだろうね?」
 美鶴はにやりと笑って、「そういう松本は?」と聞き返す。
 松本は可愛らしく首をすくめて、
「居ません」
 と言った。

「店長」
 閉店作業は店長と二人だけになった。
 店長に声を掛けると、すっかり用事が済んだらしく鍵を持っていた。
「ああ、美鶴ちゃん」
 店長の呼び止めに首をかしげる。
「ハイ?」
「日村君と付き合ってるの?」
「は?」
「一緒に祭りに行ったんでしょ?」
「行っただけですよ。花火見ただけ」
「そう?」
「はい」
 美鶴が肯くと、店長は立ち上がった椅子に腰を戻した。
「このところ。と言うかね、この夏あなたたちの様子がおかしいでしょ、口を利かなかったり、つんけんしあったり、パートナーさんとかが面白がって噂してるし、バイトの子もそういう目で二人を見てるのよ」
「でも、何も、……」
 俯いた視界がにじむ気がした。
 何も無い。事など無い。キスされた。抱きしめられた。何も無い。いまどきの若者なら、どうってこと無い。そう、どうってこと無いのだ。
「何も無いですけど。そんなに噂になってます?」
「もし、なんかあったら言いに来なさい」
「そのときは」
 美鶴は肯いた。何かあったらしいことは薄々気付いているようだ。でも、美鶴がそういうことを話さない性分だと言うことを知っている店長は口をつぐんでくれた。
(そろそろ、辞めようかな)

 佐々山がこの三日ほど姿を見せなかった。店が忙しかった所為もあって気にもしなかったが、今目の前に立たれると久し振りだと気付く。
「あ、いらっしゃいませ」
「あ、今日、どう?」
「今晩と言うこと?」
「そう」
「あ、まぁ、いいですけど」
「今日も、九時半?」
「いや、今日は六時まで」
「じゃぁ、あと三十分?」
「ですね」
「じゃぁ、待ってる」
 佐々山が立ち去ったと同時に鈴木が近付いてきた。
「誰?」
「お客様」
「が、デートの誘い?」
 鈴木はバックにまでついてきていろいろと聞いてくる。
「ねぇ、彼は何?」
「だから、お客様で、」
「おはようございます」
 松本の挨拶に苦笑いを浮かべる。
「どうしたんですか?」
「さっき、美鶴ちゃんをデートに誘う人が居たのよ」
「ああ、佐々山さん?」
「佐々山って人?」
「美鶴さんナンパされたんですよねぇ?」
「あのねぇ」
 呆れた笑いを浮かべる美鶴に鈴木がぽんと手を打つ。
「ねぇ、合同デートしましょ」
「はい?」
「私日村君誘うから。四人で食事しましょう。で、その後は別行動で。そのほうが気楽じゃない。美鶴ちゃんは佐々山さんと巧く行くように私応援するから、あたしの応援もしてね」
 鈴木はそう言って帰っていった。
「いまどき、女子高生でもしないわよ、そんな同盟。なんなのあの人」
 美鶴がため息混じりにそう言うと、松本がくすくす笑っている。
「松本ぉ」
「だって、変な組み合わせじゃないですか、四人で気楽ってわけにいかないのに、まるで鈴木さんの彼氏が日村さんなのって誇示するみたいで」
「したいんでしょ。馬鹿馬鹿しい」

 と言ったが、何故だか四人でテーブルを囲んでいた。
 松本の言うように不格好な組み合わせだ。でも他人から見れば仲良しの女の子が彼氏同伴で食事をしているように見えるのだろう。
 仲良しな女の子じゃないのだけど。
「美鶴さん」
 美鶴はすっと佐々山のほうを見た。
 何故名前を知っているの? という顔のあとですぐ、ああ、名札を見たんだ。と解った美鶴の顔に佐々山は首をすくめメニューを広げた。
「なに食べます?」
「え? 美鶴さんなわけ?」
 鈴木の言葉に佐々山と二人で顔を上げる。
「ええ。まぁ」
「呼び捨てじゃないんだ」
「そんな、彼女が迷惑しますから」
 美鶴は佐々山のほうを見た。名前など呼び捨てられようが別段気にもしない。名前なんか呼んでもくれない奴さえ居るのに。
「別に、どう呼ばれても気にしないけど」
 美鶴の言葉に佐々山は笑顔を見せ、
「やっぱり、呼び捨てと言うのはまだ不味いですよ」
 と言った。
 いずれ呼び捨てする気だったら、初めからすればいい。と思うが、この人の性分上無理なようだ。
「それで、二人はどこまで行ったの?」
「は?」
 鈴木の言葉に美鶴は眉をひそめて聞き返す。
「どこまでって、この前食事をしただけですよ」
 佐々山の言葉に美鶴が肯くと、鈴木は少し不服なのか
「そんな昔じゃないんだから、もっと進んでるかと思った」
 と言った。
 なにを進むのだ? と聞き返そうとしたが、食事が届けられたこともあり、美鶴は黙った。
「じゃぁ、まだ付き合って間もないわけね?」
「付き合っても無いですよ、知り合いになった。程度です」
 佐々山は至って丁寧に答える。美鶴は返事をする気にもなれず黙ってハンバーグを口に運んだ。
「お友達から始めましょってこと? 美鶴ちゃんて案外硬いのね」
「案外ですか?」
「だって、今時の子って、じゃぁ、すぐにって感じじゃない」
「そうなんですかね?」
「そうでしょ?」
 日村に同意を求めたが、日村は相手にもしていないように頬張っていた。
 美鶴はその日村をちらりと見た後で口を動かす。
 佐々山と鈴木だけが喋っていた。それが妙に話が合い、笑って、楽しそうだった。だから美鶴と日村は蚊帳の外に居た。だが同じ蚊帳の外でも、随分と距離のある外だった。

「じゃぁね」
 鈴木は迷うことなく日村のワンボックスカーに乗り込んだ。助手席の戸を空け、それに乗り込むのを見て、美鶴は激しい焦燥を感じ、車に背を向けて佐々山の車のほうを見た。
「店まで送ればいいですね?」
 美鶴は肯いて車に乗り込む。
「ドライブとかって、好きじゃないですか?」
「え?」
「いや、遠出してみませんか?」
 佐々山は返事を聞かずにエンジンをかけた。そして店とは逆に走る。
「佐々山さん?」
「彼【ら】から離れた方がいいでしょう」
 佐々山は少し笑って運転を続けた。
「美鶴さんが少し不機嫌で居るのって、やっぱり僕的に言ってあまりいい感じしませんからね。何で彼「ら」と食事をすることになったのか経緯は解りませんけど、乗り気じゃなかったんでしょ?」
「まぁ」
「話題を合わせやすかったのは、彼女も営業職だからですよ」
 何の言い訳だか、佐々山は鈴木と話があったことに対して暫く弁明を続けていた。信号が赤になり車が停まる。
「どこへ行くんです?」
「どこへ行きますか? とりあえず、一、二時間程度のドライブでもしようかと思ってて、格別場所までは決めてませんけど。海にでも行きますか?」
「海は、いい」
 美鶴の頭に海でのキスが浮かんだ。
―「ああ、事故」―
 最初のキスを日村はそう言った。日村のようなことはしないだろうけど、海へ行って思い出すことは佐々山に悪いだろうと思った。いや、すでに思い出している今も悪い気分で一杯だった。
「帰りたくなったら行ってください。引き返せますから」
「あ、あの、私と居て楽しいですか?」
 美鶴の言葉に佐々山は少し考えるように首を傾けた。
「そうですね、楽しい、……美鶴さんはどうです? 僕と居て楽しいですか?」
「…、と思います」
「僕は、そうは思わないんですけど」
 美鶴は佐々山を見た。
「美鶴さんが今楽しいとは思えないんですけど。違いますか?」
「え、楽しいですよ」
「そうですね、楽しいと言うことに対しての尺度の問題なのかな? 僕と居て格別苦労してないでしょ」
 美鶴は首を傾けた。
「僕は知り合って間もない男だけど、いい人で終わってしまう相手ですね」
「あの?」
「いいんですよ、よく言われます。万人受けいい分、深く進行してくれないんですよ。いやな面とか見ると、即刻嫌いになるタイプ。なんだそうで」
「そうなんですか?」
 佐々山は笑顔で肯いた。
「営業向きなんですかね、恋愛も。本心を隠して外面ばかり。そういう点で、彼と違いますかね?」
「え?」
 佐々山は笑顔のまま黙った。
 「彼」とは、日村の事を指しているのだろうけど、何故ここで出てくるのかが解らない美鶴は同じく黙った。
「嫌い、ですか?」
「なにが?」
「彼のことです」
「あの?」
「無理して嫌っているように見えたので」
「あの?」
「僕が好きだなぁと思った美鶴さんは、すごくいい顔で仕事してました。お年寄りに接する態度も、同僚に対する態度も。時々意地悪を言って困らせた相手と笑って仕事をしている態度も。あ、よく見てるでしょ。かなりストーカーですね。でも目に付くんですよ、ああ、この人はすごく楽しそうだって。その笑顔が消える瞬間があるんですよね、彼が後ろを通ったり、彼に用事があるとき。ふっと笑顔が。いや、笑顔なんですけど、僕の好きな笑顔じゃないんですよ、苦痛そうな、窮屈な。それを発見したのが一ヶ月ぐらい前ですか」
 キスされた直後。
「なんかあったのかなぁって。それからですよ、何故だか毎日見ずに入られなくなって、そしたら僕はこの人が好きなんだって思いましてね。名前が知りたかった。声が聞きたくなった。そして今横に居る。でも、楽しんでいるようには思えなくて」
「佐々山さん」
「正直なところも好きだから。相手によって少しだけ接客態度変えるでしょ、難しいことを言う人には適当な笑顔を見せるとか。だからね、よく解るんですよ」
「あたし」
「責めてませんよ。僕が言ったことに対してあなたが否定しないほうが、かえって辛くないから」
 佐々山はそれっきり黙った。
 店から半径三十分程度の道をぐるりと走って車は店の駐車場に着いた。さすがに閉店まであと少しと言うだけあって店は片付けをはじめ、駐車場には車は停まっていなかった。
「今日は、」
「好きだって、言ってみたらどうですか? ためしにあなたから。彼は、絶対に言いませんよ」
 佐々山はそう言って笑顔で肯いた。
「あの」
「お客として、話し掛けていいですよね? また買い物に行きます」
「あの」
「押し倒そうと思えばいくらでも出来ました。いやな思いをするより、友達のままでいいです」
 佐々山の言葉に美鶴は俯く。
 はっきりしないまま車に乗ったのは美鶴の所為。謝らなければならないのに口が動かない。
「じゃぁ、また明日」
「明日は、休みなんです」
「あ、じゃぁ、あさって」
「……、お待ちしてます」
 佐々山は肯いた。
 車から降り会釈をすると車は発進した。
 謝ったら佐々山のプライドを傷つけそうだった。いや、自分のプライドかもしれない。「ごめんなさい」と謝る女は何て酷いんだと常々思っている。そんな女になりたくなかった。
 佐々山に感じる安心は、ときめきや、どきどきには変わらない。側に居て何の気も無い。それは隣に居れば伝わるものなのだろう。
 車を見送る美鶴の頭に雨が落ちる。空を見上げれば、ぼつ。ぼつと雨が落ちてくる。
「嘘、雨?」
 美鶴が駐輪場へと向こうとしたそのとき、車が停まった。
(日村さん)
「乗れよ、送る」
「自転車が、」
 美鶴が「自転車があるからいい」と言い掛けたとたん、物凄い雨が降ってきた。
 日村がドアを開け、美鶴は車に体を滑らせる。
「し、しんじらんない」
 雨は夜の路面に霧を棚引かすほどの豪雨だった。
 車の中はやけに効き過ぎるほどの冷房で、瞬間的に髪から滴の落ちている美鶴には寒かった。
「ほら」
 後部座席からタオルを取り出し日村は美鶴に差し出した。
「ありがとう」
 美鶴はそれで髪の裾を拭く。
 日村が車を動かす。
「自転車、」
「この雨で帰るのか?」
「夕立、と言うか一時的だと思うから」
 日村はちらりと美鶴を見て運転を続ける。
「聞いてないでしょ、話」
 美鶴は返事など期待せずに窓の外を見た。どうせ引き返す気はないだろう。家に帰るまで五分。黙っていても構わない時間だ。
「デート、どうだった?」
「…、振られた」
「振ったんじゃなく?」
「振られたの、」
「何で? 向こうが声掛けて来たんだろ?」
「いいじゃない、つまんなかったのよ」
 角を曲がれば小学校の通りだ。でも日村は角を曲がらずにまっすぐ進む。
「どこから行くの?」
「どこへ?」
「送ってくれるんでしょ?」
「…、そのうち」
「なに?」
「ドライブ」
「いやよ。髪だって濡れたし、服だって、肩の辺りなんかすごいんだから湿ってて」
 信号で止まる車。日村がギアをニュートラルに入れ、サイドブレーキを引く。そして美鶴のほうを体ごと向ける。
「信号、変わる」
 美鶴の言葉に前を向き、ドライブに入れ車は動いた。車はそれから数分走りとある駐車場で停まった。
 雨は止み、空には星さえ見える。
「どこ?」
「俺の家」
「……、俺の、家、ねぇ」
 どうする気なの? なにがしたいの? そりゃ、佐々山とのデートの話を聞くだけじゃないだろう。ここから無碍に帰す気かもしれないが、それより、このまま家に上がったら、
(セックスしないことはあるまい。またせずにあたしを怒らせて笑う気なのか? 期待させてるのか? ただ、単に話を聞くだけなのか? ほんと、この人が解らん)
 美鶴はため息を落として日村を見た。
「このあと、どうなるのかしら?」
「なにが?」
「あたし。このままここから歩いて帰るのか? それとも、」
「歩ける?」
「それとも、家に上げてもらって、お茶でもして送ってもらえるのか? それとも、」
「お茶だけでいい?」
 日村は後部座席からコンビニ袋を取り上げる。見る限りアイスクリームと、ジャンクフードがわかる。
「それとも?」
 日村の聞き返しに、美鶴は平常心を保つよう、でも心臓は早鐘を打ちながら口を開いた。
「事故に遭う?」
 美鶴の言葉に日村は黙って車を降りた。
(降りて、家に上がれば同意の元、文句は言えない。かといって、このままここに居ても埒もあかない。ここから帰るには、うちは遠すぎる。いや、帰れないことはないし、帰れるけど、帰りたがっていないのが、ますます気に入らない。どうしたのよ、あたし)
 美鶴も車から降りた。
(嗚呼)
 がっかりするのはたぶん理性で、行動は本能だろう。家に上がったから危ない。そういう「危険」はないらしい。―危なくなれば、叫んだらいいじゃない―
(くそ、楽観的な思考め!)
 日村のアパートはわりと新しく、一人暮らしの男の人の家にしてはすっきりと片付いていた。
「一人にしては、部屋、多くない?」
 個室が三つあって、リビングキッチン付き。台所なんか対面キッチンだったりする。
「家族用のアパートだから」
 日村はそう言って定位置らしいソファーにコンビニ袋を落とした。
「まぁ、座ったら?」
 リビングの入り口に立ったままの美鶴に日村は声を掛け、冷房のスイッチを入れる。
「タオルもってくる」
 美鶴はソファーに近付く。入り口からは見えなかったが、ソファーの周りには生活居住空間のようにいろんなものが散らかっていた。
「ここ以外住んでいない訳ね?」
「テレビに、寝床、それにリモコンがあればどこにも行かなくていいから。ほら、タオル」
 美鶴はそれを受け取り、日村は寝床代わりのソファーに腰掛ける。タオルケットを無造作に側に放り投げ、コンビニ袋からスナック菓子の袋を取り出す。
「便利な場所」
 美鶴はソファー側の床に腰を降ろし、ソファーを背もたれにしてついたテレビを見た。
 髪を束ねているゴムを外し、湿った髪をタオルでくるむ。
 ふと眠気が襲い、何かに触って目を開けると、日村が顔を近づけてきていた。触れているのは腕だった。
―あの?―
 声が出ないのは、あまりにも側に居る所為だ。
 唇が重なり、もそもそと服の中に入ってくる手と、体を触るあの綺麗な指。感じていく自分の体が、風呂上りの時よりも上気していく。
 自分にもあったのかと思えるような甘い声を出して、美鶴は目を固く閉じた。
「いいよ、声、出して」
 その声に美鶴は目を開ける。




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