夏が来る_2 夏休みの最中だと言うのに……。 美鶴はそういう目で、額の汗を腕でぬぐい空を見上げた。小さなスーパーのバイトは品出しもする。カンカンにいい天気の、こういう暑い日に、トイレットペーパーの品出しは地獄に匹敵する重労働だ。 重くないトイレットペーパーだが、ダンボールに八個、それが十何個も箱が転がっていて、それをペーパー専用の車に乗せる。高く積めば自分の背丈ほどもなるそれをし終えるのに十分、Tシャツはすっかり濡れきってしまう。 それが済むと、洗剤をバックから運び、同じように棚に陳列しなきゃいけない。 大型スーパーなら店内の冷房の効いた場所に置いてあるこれらも、ここでは店の入り口、一応テントの屋根がついているが、それが日に炙られて簡易サウナ状態だ。 「あつぅ」 ぼたっとペーパーのビニールに自分の汗が落ちる。ふうとため息をついて顔を上げると、瞬間辺りが暗くなる。 (やれやれ貧血だぁ) 美鶴は側にあるはずの棚のパイプを掴んで倒れるのを逃す。しらしらと辺りが戻っていき、心配したような見知らぬ顔に驚く。 「い、いらっしゃいませ」 「大丈夫?」 「ハイ、少しめまいがしただけで」 「暑いものね、女の子にさせるなんて、ねぇ」 「いいえ、当番なんで」 美鶴は作り笑いをする。以前「そうなんですよ、私ばっかり」と言ってクレームが出たことがあった。客は心配してくれただけなのだが、それ以来、女の子に重労働させられないからと日村が機嫌悪かったことがあった。 日村……。 美鶴は笑顔で客に会釈をし、ダンボールを折り畳んで台車に乗せバックに下がる。 バックと店内の仕切りのカーテンを押し開け、ため息を落とす。 「お疲れさん、すごい汗ね」 店長はそう言って首をすくめパソコンの画面を見た。 美鶴は台車を片付け、自分のロッカーに向かう。 「店長、もう品出し無いですか?」 「外(トイレットペーパー、ボックスティッシュ、洗濯洗剤など)?」 「ハイ、」 「もう無いわよ、後はオムツと、生理用品……、と、化粧品」 「じゃぁ、着替えます」 「はい」 店長の言葉のあと、美鶴は着替えのTシャツを持って休憩室に行く、すでに片袖を脱いで中に入る。この時間店長がパソコンをしているということは、休憩室には誰もいない。本当なら、ロッカーの置いてある通路で裸になってもいいのだが、ふいの来客が来ては面倒だ。 ため息をついて中に入ったので、一瞬ギョッとなった。靴があって、中には日村が座ってテレビを見ていた。 「お、おはよう……、てか、休みじゃないの?」 「休み」 いつもながら簡素な返事。 「あの、悪いんだけど、ちょいと出て」 「何で」 「着替えたいの」 日村はようやくテレビから美鶴へ目を向け、片袖を脱いで腹が見えている姿に、しょうがないなぁという顔をして立ち上がった。 戸を閉め、美鶴はTシャツを脱ぐ。汗で重いTシャツを落とすと、本来のTシャツらしからぬボタという音がする。 ブラジャーも変えたいと思いながら、新たに着替え、戸を開ける。 「いいよ」 脱ぎ捨てたTシャツをビニール袋に押し入れると、日村は入ってきて、再び定位置に座りアイスを頬張る。 日村が後ろを通る、横をすぎる、ふわっと漂ってくる日村の匂い、そのどれもを意識してしまう。だが、そんなことで意識していていられずに、美鶴は自分のロッカーに着替えを押し込むと、店長の側に行く。 あの日、 つい一週間前だった。同じ時間に帰った日。美鶴の自転車が壊れ、父親の帰宅が遅い所為で歩いてきたその日、日村と遅い夕飯を済ませ、海に行った。 潮風に、心地いい曲が流れている中、日村が急にキスをした。そして「事故」だと言った。 そのことに腹を立てる歳じゃない。まぁ、したくなったとき側にいたあたしが悪いんだから。と逆に思える。何故したの? 何て可愛いことをいう歳でもなかった。 (したくなっちゃぁしょうがないさ) そう思って1週間がすぎた。 その間シフトが巧い具合に重ならず、日村と仕事をしたのは一昨日二時間ほどだけだった。 盆休みにはパートさんが休むし、県外学生は帰省する。だから、美鶴のようなものが昼間出てこなくてはいけなくなるのだ。 だが、ほとんど二週間働き詰めたので、三日ほど休みが待っている。 「あと二時間」 美鶴の言葉に店長が苦笑いをする。 「明日も来る?」 「遠慮します」 首をすくめとぼけた風に言う美鶴の視界に、日村が休憩室から出てきたのが見えた。 「日村君、この前の注文のあれね、どうも無いみたい」 「じゃぁ、お客様に連絡しときます」 「よろしくね」 細身の体。のわりに肩幅のある人。指は細くて長い。口癖は「ああ、そう」疲れたような、生気の無いような、でも安心するトーンの言葉。 美鶴はため息をついた。 (いかん、しんどい) 美鶴は側の椅子に遠慮なく座った。 ドンという高い音に日村も店長も美鶴を見た。だが当の美鶴はめまいから立ち直れずに、真っ暗い視界に目を瞑った。 「美鶴ちゃん?」 「めまい、です」 微かに聞こえる声に返事をする。耳が塞がるような感じがするのは、貧血の所為だ。にしても、気分が悪い。 自然と口元に手が行き、そのまま前屈する。 (このまま倒れたら、どれだけラクか) そんなことを思っていると、視界は晴れる。徐々に視界が白んできて、顔を上げると、心配した店長が水で冷やしたタオルを持っていた。その向こうで、心配しているのか、それとも驚いているのか日村がこちらを見ているのが見えた。 「はい、タオル」 すみません。と肯き、タオルを受け取るとそれを額に当てる。ひやりっとするタオルに熱が奪われていく。 「気持ちいい」 「ちょっと休憩室で寝てらっしゃい」 「でも」 「日村君に手伝ってもらうから」 美鶴は日村を見た。日村は無言で制服を着込むと、店内に入っていった。 「休憩室に行ってなさい」 美鶴は肯き、休憩室に向かった。 休憩室の畳が目に入ると、そのまま倒れるように崩れ落ちた。 それからどれだけの時間がすぎたのか解らない、でも頬にひやりとあたり物を感じて美鶴は慌てて目を開けた。 「あ……、日村さん」 日村が濡らしたタオルを交換していた。 「わり、起こした?」 「あ、まぁ」 日村は畳に腰掛け、暖まっているであろうタオルをもてあそぶ。 「大丈夫か? 店長は、月一だろうからって言ってたけど、あれからなんか、……、会ってもぎこちないし」 美鶴は少しだけ体が熱くなった気がした。生理という事を知られてではなく、(ぎこちないと思っていたんだ)と言うことにだ。 平気な素振りをしよう。たかがキス一つでどうこうする歳じゃない。そう思おうとしていたのは、美鶴だけじゃなかったようだ。いや、どう思っているのかは知らないが、意識しない振りをしてぎこちないと思っていたのは、同じだったようだ。 「そう? 気にならなかったけど」 美鶴は横目で畳の目を見る。 「ああ、そう」 口癖。 美鶴は目を閉じた。先ほどまで感じていた息苦しさはもうなくなったが、でもまだだるい。生理前だからじゃなく、違うものを感じる。 ふとタオルが除けられ、そこに冷たいものを感じる。タオルじゃなくて硬くて冷たいもの。でも柔らかい 美鶴は目を開けた。 日村が額に手をあてがい、自分の額にも手を当てていた。 「熱あるんじゃないのか?」 美鶴は言われて少し熱っぽさを感じる。それは日村と一緒だからだと思っていたが、どうも違うようだ。 「夏風邪?」 「かも……、」 「まぁ、明日、明後日と休みだから、ゆっくり休んで、もう帰りなさい」 店長はそう言って風邪薬のサンプルを美鶴に手渡してくれた。 (最悪ぅ) 休みに風邪を引くなんて。そう思いながら店の奥から店内に出れば、夏休みを謳歌している学生の女子中高生たちが、色とりどりの、露出度の高い服を着てにぎわっていた。 「若いっすね」 振り返ると原が立っていた。 同じくアルバイトの青年で、背が高くて、がたいのいい男だ。無口で愛想が悪いのが難点だが、高いところへは便利がいい。重いものも簡単に持ってくれる。 「大丈夫すか? 顔色悪いっすよ」 「なんか、夏風邪らしい。寝床で食べるもの買って帰る」 「太りますよ、逆に」 原の言葉に笑って美鶴はゼリードリンクを取りに行く。 「これのほうがまだ喉越しがいいというか、」 日村が接客をしていた。老女がイオン系のドリンクのどちらがいいのか聞いている様だった。 「いら……、大丈夫?」 「たぶん、お先に失礼します」 「ああ、気をつけて」 美鶴は頭を下げてゼリードリンクを取ってレジに向かった。 「いいですよねぇ、休みって」 夏休みに入ってすぐバイトを始めた南がそう話し掛けてきた。 女子大生の彼女には、夏休みに遊べない、でも金が無きゃ遊ぶことすらできないことの葛藤に顔をしかめていた。 「まぁね。お金を稼げたときには夏は終わってる。そんなもん」 「大人になりたくなぁい」 南の言葉に美鶴は小さく笑う。 ―大人になりたいと思っていた頃は、大人は自由だと信じていた。でも、子供のほうが自由だと思ったとき、大人になった気がした。でも、本当に大人だろうか? 歳を重ねているだけで、まるで変わっていない―美鶴は千円札をお札皿に置く。 「じゃぁ、お先です」 「お疲れ様です」 南の声が弾み、その後接客に消える。 南はため息をついて戸を開け、駐輪場に向かうと、自転車がなかった。 「な、何?」 一気に熱が上がった気がした。辺りを見渡せば、日村が車にもたれて煙を吐いていた。 「ねぇ、自転車しらな……、何?」 日村のワンボックスカーの後部座席に自転車が乗っていた。 「送る」 「だって変わってくれたんでしょ?」 「すでに二時間ワーク済み。しかも金にならない一時間追加」 美鶴は腕時計を見た。確かに残り二時間だったはずの時間が三時間進んでいた。美鶴は空を仰いだ。 「日が高いから、」 「乗れよ、送る」 「いいよ、帰れるし」 「乗せたから」 日村の言葉に美鶴は俯く。 「いやなら、降ろす」 すねたように言う。そう言うと美鶴が断れないことを知っているようなときがある。 ―「残業?」― ―「いやならいい」― ―「いいよ、やるから」― そう言って何度サービス残業したことか。そう言って何度、日村は手にかかったと言わんばかりに口をゆがめたことか。 「じゃぁ、送って」 美鶴はそう言って助手席に回る。少し歩いただけで、いや、自転車が無いと一気に興奮した所為か具合が悪くなってきた。 「大丈夫か?」 振り返ると、なかなか乗り込まないのを心配したのか日村が立っていた。 ため息をこぼし戸を開け、乗り込む。 「座席倒せよ」 「すぐだもん、車だと」 日村は車を動かした。慣れた道を行くように車は滑る。 「どこを入ればいい?」 「この前、……あそこでいい」 「自転車、下ろせないからあそこじゃ」 美鶴は小さく肯いて、道案内をした。 小学校近くの一軒屋。小さいながらも兄は居なくなり三人でちょうどの広さになった。築二十年の年季のある家に、朝顔の鉢が並んでいた。 「朝顔?」 「お母さんが好きなの」 自転車を降ろしてくれるのを見ながら返事をしたとき、家から両親が鞄を手に出てきた。 「もう、美鶴ったら遅い」 「何よ、その荷物」 「誰?」 (人の話を聞けよ、ばばぁ) 「バイト先の日村さん、賭けで勝ったから送ってもらったの、で、何よその荷物」 「言ったでしょ、今日から一週間、定年祝いでもらった温泉旅行に行くって」 「……、そうでした」 「送ってくれなきゃ困るって言ったのに」 「ああ、そうだった」 「俺が送りましょうか? 言っちゃぁなんだけど、彼女の運転怖いでしょ」 母親が美鶴と日村を交互に見た。美鶴は上目遣いで日村を見ている。父親の視線はずっと日村だけを見ていた。 「いいよ、貸し作るとまたおごらなきゃいけなくなる」 「どうせ駅でしょ? 俺、そっち向いて行くようもあるし」 母親が父親を見たが、父親は目線をそらすだけだった。 「じゃぁ、お願いしようかしら」 「お母さん!」 だがすでに二人は日村の車に乗り込み、美鶴を置いて出かけていった。 「戸締りと、ガスの元栓気をつけてよ。じゃぁね」 美鶴は手を振るだけで精一杯だった。もし日村が名乗り出なかったら、送っていけなかっただろう。 角を曲がるまで見送り、家の中に入る。 自分の家の匂い、手を洗いたい、うがいをしたい、シャワーを浴びたい、だが意識はもう先へ行く気がなかった。 風呂場の前の廊下の、風が抜け涼しい場所で崩れた。 どのくらい経ったか解らないが、体を起こされ美鶴は目を開ける。 「日村、さん」 「鍵かけろ、そこら辺で寝るな」 「違う、手と、うがいと、風呂、入りたくて」 「濡れタオル持って来てやるから、それで、」 「いや、シャワーがいい」 「俺も一緒に入れと?」 美鶴は拳を日村の顔面に突き出す。 「いた」 ふらりと立ち上がり、そのまま風呂場にいく。 意識は朦朧としていて何をしているのか解らなかったが、シャンプーに、コンディショニングに、体まで洗ってタオルを巻いて廊下に出た。 「まだ居たの?」 タオルの下は裸だ。そんなことは解ってる。この家に日村と二人だけだとも解っている。でも、だからなんだ。 ―風邪とは、恐ろしい― 美鶴は階段を上がり、部屋に入ると、下着を着け、パジャマ代わりの大き目のTシャツを着た。 「着替えたか?」 日村の声にベットに腰掛ける。日村が戸を開けコップに麦茶を入れて入ってきた。 「気がきく」 「髪、ちゃんと乾かさないと、風邪余計に酷くなるぞ」 「そうっすね」 美鶴は麦茶を飲み干しそのまま倒れた。 「おい」 呆れた日村の声がするが、体は動かなかった。 髪を引っ張られている感じがする。熱が当たる。ドライヤーの音。微かに目を開けると日村が髪を乾かしてくれていた。 それが解ると目を閉じてしまった。 目を覚ますとすっかり暗くなり、時計は9時をすぎていた。 「なんか、食べよう」 明かりが無いところを見れば日村は帰ったのだろう。 階段を下りると、居間に明かりが着いていた。恐る恐る暖簾をはぐると日村が椅子に座ってテレビを見ていた。 「何してんの?」 「テレビ見てる」 「じゃ無くて、」 「ビール飲んでる」 「馬鹿」 美鶴ははき捨てるように言って、台所にいった。 「腹減ったのか?」 背後に日村が立つ。 「鍵かけとくから、もういいよ。ありがとう」 そっけないと感じながらも、それ以上言いようが無いと内心で弁解しながら振り返る。 「ありがとう」 美鶴は俯きぎみにそう言って顔を上げる。日村のごく普通の、いつもの顔がそこにある。あの顔で「事故」を起こした。 「……、じゃぁ、帰る」 日村はそう言ってきびすを返した。 美鶴の手がすっと反射的に上がる。だがすぐに自らの意思で引っ込め、胸に押し当てる。 ―帰らないで― といって、どうするというのだろう? 一人で居ることが寂しいなら、相手が日村じゃなくていい。友達を呼べばいい。誰を呼ぶ? 美鶴は流しに体を向け、鍋に水を入れる。 玄関を開け閉めする音。車の音。駐車場の砂利を蹴って出て行く音がする。 鍋の水をこぼし、その場に座る。 「苦しい」 胸が苦しいのは風邪の所為だ。 そんな言い訳が通用しないほど、側に居て欲しい。 でもそれは、日村じゃなければいけないのか? 両親でいいじゃないか。風邪引いてるから、行かないで。と親になら言えただろうに。何故今ごろ? 美鶴はそのまま部屋に上がった。 ベットに横になる。開けた窓の外であの日の夜聞いていた曲が聞こえる。 美鶴は起き上がり網戸を開けて下を見た。そこには日村の車が停まっていた。 「何してんのよ」 日村がエンジンを切り、車から降りてきた。 「気になって、」 「居る理由がないでしょ」 「病人の介護」 「そんな理由で、納得するわけ無いでしょ」 (何を期待してる?)美鶴は自分をあざ笑うように口の端をゆがめる。 「じゃぁ、」 車が一台過ぎる。時計が10時になろうとしている。 「一緒に居たい。じゃ、だめか?」 (何を期待持たせてるの? 何をしようというの?)美鶴は窓の下に隠れた。 一緒に居たい。その言葉に喜び、日村が自分を好きだと思うには、美鶴は素直じゃなかった。自分でも解っている。だから、日村から隠れたのだ。 「返事聞く気ないけど」 部屋の戸を開けて日村が入ってきた。 「網戸閉めて、さっさと寝ろよ、俺、下に居るから」 「泥棒だ」 見上げている美鶴を一瞥見下し、日村は鼻を鳴らして出て行こうとして、くるっと戻ってきた。 美鶴の側に膝をつき、その耳元へ口を持っていく。 「馬鹿」 色っぽい声に体が熱くなる。顔をしかめると日村はにやりと笑って部屋を出て行った。 「なんなのよ、あいつは?」 襲われる。いや、合意するかもしれないが、ともかくそうなると思った瞬間(ああ、勝負パンツじゃなかった)とか、(シャワー浴びてぇ)と考えたことが癪だったりする。 美鶴は不服だったが、反論しに行く気も、側に行き話す気力もなんだか失せた。 熱が上がるような言葉、冷静になろうとする自分。その行為に体が疲れていたのだ。ベットに這い上がるとそのまま眠った。 眠って、眠って、体の痛みが消えて、不思議と楽に目が醒めたとき、すっかり日が上がっていた。 時計は九時だった。 「よく、寝た」 起き上がると、おなかすら快調らしく鳴る。 美鶴は笑って部屋を出て下に行く。階下に行けば誰かが居るらしいテレビの音。そろりと居間を覗けば日村が丸まってソファーに寝ていた。 「マジで、居たの?」 美鶴の声に跳ねるように目を開け、美鶴を確認すると目を閉じる。 美鶴は呆れながら側に近付き、煩いだけのテレビを消した。 「ちょっと、今日仕事じゃなかった?」 「喉、痛い」 美鶴は顔をしかめた。日村から出た声は、寝起きのかすれじゃなかった。日村の側に座り、額に手を当てれば熱を感じる。 「嘘、移ったの?」 美鶴は唇を噛んで考える。どうすればいいか、とりあえず薬と、毛布。いや、食事か、それとも、何だ? 「電話、」 「電話?」 「店にかけなきゃ」 「ああ、じゃぁ、あたしが代わりに出る。そう言って、代わってもらってって、」 日村が起き上がり、携帯を手繰り寄せる。 登録名簿を押し、耳にあてがう。 「あ、店長? 僕です。あの、ですね、そうなんすよ、もらったみたいで、で、今日は、済みませんが代わりを、え? 無理でしょ、昨日かなり参ってたし。済みませんが他を、はい。じゃぁ」 「ちょっと、あたしが代わるって言ってたじゃない? 昨日変わってくれたから、聞いてる?」 日村は携帯を閉じ、目を閉じる。 「ちょっと、ねぇ」 美鶴が日村の膝に手を置くと、日村は滑るように美鶴に倒れかかってきた。 「え? ちょっと、何? ねぇ?」 床に崩れる。美鶴は目を閉じ顔をそらす。 五秒。 何もしない日村に美鶴は目を開ける。日村は何もする気配を見せない。 「あの? 暑いんですけど」 「わり」 日村はそのままごろんと寝返った。 「だりぃ」 美鶴は起き上がり、とりあえず毛布に薬に、自分の食事だと、気合を入れて立ち上がろうとするのを、日村が服を掴んで止める。 「何?」 「側に居ろ」 かぁっと体に昇る熱。まだ熱が残っていたのだろうか? と思うほど一気に上がる熱を振り払うように日村の手を打ち、 「布団と、薬と、食事を持ってくるの。上に運ぶほど体力無いから、」 日村はどんと腕を下ろした。 美鶴は二階に上がり自分の布団を取りに行き、着替えをすませる。 (簡単じゃない、ビックTシャツにパンツしか着てないのに、そのまま脱がせるのだって簡単じゃない。脱がせるのって、脱がされてどうするのよ、何をするのよ。何がしたいのよ、美鶴? 彼に、何をしてもらいたいのよ……) 美鶴はしゃがみ込み頭を抱えた。くしゅくしゅと髪をむしり、ため息を落とすと、ボタンのあるシャツに、パンツを穿いて降りていく。 薬箱から薬と、お粥と、トーストを用意する。 「ご飯。それから薬」 日村に声をかけ、側にお粥を置くと、美鶴は食卓に座ってトーストをかじった。 「あつ」 「作ったばかりだからね」 「冷めたら食べる」 日村はごろんと寝る。 美鶴はため息をこぼし、自分が食べ終わってから再び声をかける。 「めんどくせぇ、体いてぇ」 「食べなきゃ薬飲めないでしょ」 日村は憮然と座っていた。それは風邪の所為なのか普段からなのか、さっぱり解らない。 (もう、見ない) 美鶴は薬を数だけ小皿に移し、水を置くと立ち上がる。その腕を日村が掴む。 「どこに行く?」 「どこって、ここはあたしの家よ、どこにも行かないわよ」 だが日村は手を離そうとしない。逆に言わそうと強く握る。 「向こうで椅子に座るの。何よ」 「座るんならここでいいだろ?」 「いやよ、風邪が移る」 「お前の風邪だろ、もううつらねぇよ」 美鶴は日村を見下ろす。日村はずっとお粥を見ていたのだろうか? 美鶴など見ずに喋っていた。 美鶴はその場に座る。座ると日村は腕を放しお粥を食べ始めた。ペタッと座る板の間は冷たい。 お粥を食べ終わり、薬を飲み干す。 「美味かった」 日村はそう言って寝転んだ。 「そうやって、食べて寝るだけなら、ここに居なくてもいいじゃない。ここに居なきゃいけないことなんて、無いじゃない」 美鶴は俯いたままそう言った。寝起きで梳いて無い髪が重く垂れている。 「いったい、何したいのよ」 美鶴の言葉に日村が起き上がる。 「何? どうした?」 「どうした?? どうしたはこっちの台詞よ。何で泊まったのよ、何で居るのよ、なんなのよ、もう!」 「何で泊まったって、昨日からしんどくて、帰るのが面倒で、だから居る。何だと言われても、俺は、」 美鶴が日村を睨む。俯きぎみなのでかなり怖い。しかも髪がくしゃくしゃなのがなお怖さを煽る。 「もう帰って、帰れるでしょ。何もしないんなら、もう帰って」 「何もしないって、……、する気だった?」 美鶴の手が日村の横っ面を叩いた。 「何であんたとしなきゃいけないのよ、何であんたなんかと、大っ嫌い」 美鶴は素早く立ち上がると階段を駆け上がり部屋に入った。 美鶴は戸にもたれ、大嫌い。とお経のように呟いた。 美鶴は顔をしかめて目を開けた。いつのまにか寝ていたようだ。よく考えてみれば病み上がりだ。時計は昼になっている。 階段を下りる。 (まだ居たら、好きだと思う。居なかったら、嫌いなんだ) しょうも無い賭けだと思いながら、美鶴が居間に行くと日村は居なかった。布団は畳まれ、チラシが一枚乗って居た。 ―悪かった。 それだけがぐじゃぐじゃと消されずに読めた。消された文字を無理して読めば、 ―一緒に居たいと思ったのは、本当だ― 美鶴はその紙を破り捨てる。 日村はその日、翌日と来なかった。 美鶴が二日ぶりにスーパーに向かう。夕方二時間の仕事だ。 「おはようございます」 美鶴が裏に入ると日村と、化粧メーカーに勤める鈴木が談笑していた。 「まったく、日村君てさぁ、おかしいねぇ、そう思わない、美鶴ちゃん?」 「……、変な奴ですからね」 美鶴はくしゅっと笑顔を見せて休憩室に入った。 談笑は続いている。ときどき日村の笑い声もする。 「大っ嫌い。大っ嫌い。大っ嫌い」 呪文を掌に「人」という字を書いて飲み込む。(これは上がらないおまじないだなぁ)と思いながら飲み込む。 「何してんの?」 振り返ると日村がいぶかしげな顔をしている。 「別に」 「あのさぁ」 「さ、ジュース買って来ようっと」 日村の横を過ぎる。鈴木の香水の匂いが微かにする。俯いて顔をしかめる。 「おい」 日村が呼び止めるが、他のアルバイトの目に追いかけても来ない。 店内に流れるあの曲。美鶴は天井を見上げため息をこぼす。 「さぁ、仕事、仕事」 美鶴はジュースを買いに行き、そのあと十分後に仕事を始めた。 おわり www.juv-st.comへ |
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