Je l'aime même comme ne conserve pas le baiser.
     〜キスさえ出来ないほど好き〜


 
 それから三年が経った。宏樹はあの日聞いたステファニー・オハラとは仕事をしても、澪たちとは顔を合わすことは無かった。と思っているが、実際はちゃんと同じ空間で仕事を何度かしている。だが、まだ助手の中でも下っ端の二人など、トップモデルの位置に居る宏樹の側になどいけるはずも無く、宏樹を遠目でしか確認できない日々が続いていただけなのだ。
 それだから宏樹の頭の中では新しい思い出にとって変わられ澪を判別できる印象が欠けてしまって来ていた。
 澪は三年かけ、ようやくステファニーも賛美する服をかけるようになり、ステファニーブランドの一デザイナーとして手伝えることになった。今日はその初仕事で、パリを皮切りにフィレンチェ、ミラノ、ローマ、東京、NYへとデビューショー―と言っても、ステファニーのショーの間に二、三着用意させてもらうだけなのだが―になっているのだ。
 ステファニーが澪を紹介し、澪の服を宏樹とトーイこと、藍住 徹に一着ずつ着させると紹介した。
 澪が頭を下げ、
「足を引っ張らないよう、がんばります」
 と言う挨拶をしていたが、宏樹にその姿は目に入らなかった。
 どうでもいい女と連れ立って歩いているだけでも、女はそれを恋だといい、情緒豊かに表現を迫ってくる。それが面倒で、それが苦痛で、さらに人付き合いが苦手になる。
 やはり、この世界は自分にとって合わないのかもしれない。そう思うとき、決まって目の前でフラッシュするあの光景。
 何もないただ舗装された道。前を行くテールランプを必死に追いかけ、追いかけてくる後続を気にしてデットヒートを演じる。その興奮を快感を体で味わったとき、底抜けになれる自分が好きになる。それを味わいたい。
 宏樹は肩を叩かれ現実に戻る。そういう時、宏樹はどこか人を寄せ付けない顔をしているのだと叩いた相手が以前言っていた。
 宏樹が意識を戻せば、目の前に澪が立っていた。
「よろしくお願いします」
 そういって澪は頭を下げて向こうへ行った。
 宏樹が隣の、肩を叩いた徹を見る。
「何?」
「ショーで彼女の服を着ることになった」
「新人の?」
 宏樹の口調は嫌そうな意味を含む。澪は離れた場所でステファニーたちと構成のことで話していたが、宏樹の声は聞こえていた。俯いたがすぐに元に戻った。
「どんな人でも新人のときはあったさ。メシ、いくか?」
 徹の何気ない気遣いがありがたい。自分をこの世界に引き込んだ奴。自分が唯一心を許せている奴。自分のことを自分以上に解っている奴。徹は宏樹にとってそういう関係の奴だった。
 近くのビストロに入る。
「昼間からビストロとは、」
「昼だからだよ」
 徹はそういってギャルソンを捕まえ、適当に注文をして宏樹に向き直った。
「それで、文句は女か?」
 宏樹は何も言わないが、図星だと言う合図は徹が一番知っている。
「女運が悪いと言うか、なんか理想とかあって高すぎるんじゃないのか?」
 徹は先に運ばれてきた炭酸を飲む。宏樹は徹の、食事のときに飲む炭酸が嫌いだったりするがあえて何も言わない。
「理想なんか無いさ。ただ、煩くて面倒になるだけ」
「女なんてものは皆そんなもんじゃん。じゃぁねと別れる女なんてそうそう居ないぞ」
「別にそこまでの女を期待しちゃ居ない。でも、食事をしたらすぐにホテルに行こうと思っている女が嫌なだけだ」
「誘われたらいくだろ、嫌いじゃなきゃ」
「貞節に厳格だとか、古臭いとかじゃなく、食事をして楽しく酒を飲んでそれでいいじゃないかって時ぐらいあるだろ?」
「お前ってば、妙に淡白だよな」
「そういうんじゃねぇよ」
 宏樹はLe vin a aminci avec l'eau(水で薄めたワイン)で口を湿らせた。
「彼女はいい人そうだけどな」
「彼女?」
 徹は口の端で笑い炭酸を飲む。そしてそれ以上「彼女」に対して何も言わなかった。
 
 ショーの開催を明日に控えたリハーサル。会場はEspace d'une déesse(女神の空間)というショービジネスを専門に扱うビルの三階のフロアだった。
 花道が会場の真ん中を占拠し、春夏のイメージに合う白と青を基調とした作りになっている。客数は100人までは行かないだろうが、広くなく狭くなくほどいい広さだと思われる。
 ステファニー・オハラの新作が目まぐるしく登場する。と言っても今はマネキンをスタッフが抱えて歩いていて服の順番を見ているのだが。
 そのあとで、モデルの順を決める立ち位置のリハーサルが行われる。宏樹と徹はすでに会場の隅に腰掛けていた。徐々に女性も出るがきらびやかできつい香水を漂わせて入ってくる。
 ショーの中盤、演出家の声がかかる。
「ここでステフには新人の作品を紹介するとか、そういう言葉が欲しいな。どうだろ?」
「いいわよ、」
 ブロンドの量の多い髪。体躯のいいパリジェンヌは台本と呼ぶべき紙を持って服の位置やら照明に至るまで口を出している。
 四十も後半だと言うのにバイタリティのお陰か随分と若く思える。化粧っけが少ないが大きな眼に引かれた黒い淵が独特の美観を持っている。
 新人発表は澪だけじゃなかった。他にも二人が居て、澪は彼らの最後の番だ。というのも、ステファニーの前半最後を徹と宏樹の二人が飾るので、裏での着替えを考慮したものだ。
 そこで始めて自分が着る服と対面した。ステファニーの服は何度も着脱を繰り返し―よりよく見せるためにするのだが―何度も見ているが、澪のはそれが無かった。ただ一度採寸し、型紙を合わせただけだった。それも、ステファニーの打ち合わせの合間の本当に五分とかからない間のことだ。だから宏樹も徹もそれを苦だとは思わなかったほどだ。
 だが、そこに現れた服は見ていた人の目を澪に向けさすのに十分なものだった。
「ね、楽しいでしょ」
 そう言ったのはステファニーだった。
「聞いてみる? 澪に何故これを着させようと言うのか」
 ステファニーは皆に意見を求めるように振り返った。
 澪はスタッフのほうへと目を向ける。
「さぁ、答えて。何故今までのイメージである、ラフなトーイにベーシックなスーツなのか、スーツの多いヒーローに何故フランクなのか」
「何故と言われても、」
 何の説明も無く、どちらがどちらを着るとステファニーたちががステージに出されたマネキンを見て判断できたのは、立ち位置が決まっているからである。トーイは左から出てくることを好む。その対象に宏樹は右側から出たがる。だから当然出てきた位置を考えればいつものイメージや印象に無い服に驚くのは難しい判断ではないのだ。
「私だってかつてやったけど、彼らは無理。いつもと違う服を着させると、なんだかおかしくなるものよ。それを知らないわけじゃないわよね?」
「知ってます。でも、……似合うだろうなと思って作ったので」
 一瞬沈黙が続いた。
 デザイナーはモデルに似合う服を作るわけじゃない。大衆受けする服を作る―ステファニーは日常衣服を心がけるデザイナーである―だからこそモデルには綺麗に歩き、できる限り服をメインとしてもらうのが目的なのだ。笑顔も必要じゃないし、器量もものは言わない。
「ね、面白いでしょ。私が澪の才能のどこが好きかといえば、この一途に着る相手を思うところよ。トーイとヒーローが着るから彼らに似合う服を作ろう。そこが私たちと違う。そう、私たちと違うけど、私は彼女の丁寧な心遣いで、それは彼女にしか出来ない仕事振りなのよ。二人はどう?」
 ステファニーは宏樹たちのほうを振り返った。
 徹はいつの間にか立ち上がり、ニコニコとしながら服に近づいていっていた。花道によじ登り、自分が着る服と宏樹が着る服を見比べ、マネキンから上着を取り上げた。
「狂いないね。ぴったりだ。どう?」
 上着だけなのだが、その下のラフな派手なシャツなのに、シックな色の上着が徹の顔に映えている。
「トーイ、あなたってばいい男」
 ステファニーが惚れ惚れするように言うと、
「今頃わかりました?」
 と徹はおどけて見せ、澪のほうを見た。
 澪は目が合うと俯き、宏樹に着せる服の袖の糸くずを取った。
 ステファニーの手を合図でリハーサルが再開される。徹が脱ぐのを澪が手伝う。マネキンに上着をかける澪に徹は小さな声で、
「ヒロの好みの色だ。よく見てる」
 と言った。
 澪はボタンを止めながら一瞬のどを鳴らしたが、他人にはまるで解らない光景だった。
 宏樹は体のだるさを感じていた。徹と一緒にステージに上がり、あの服に袖を通してみたいと思ったが、ひどく倦怠感を感じ、のどの渇きがあるのに、胸を押されるような吐き気がする。昨日の安い酒が残っているのだろうか? 横になりたかった。
 だが、リハーサルは夜中の三時まで続いた。翌日と言うか、その日の夜七時が開演だから、これから帰ってすぐに寝て体調を整えよう。
 宏樹の無口はさらに酷かったが、徹は何も言わず一緒にビルを出た。
「あ、どうぞ」
 澪が一台のタクシーを止めていた。
「君が乗るんじゃないの?」
 徹の言葉に澪は首を振り、
「もう、泊りです。顔色が悪いようだったので、ここで待つにしても寒いですし、呼んでおいたんです。よく使うタクシーなので、親切ですから、どうぞ」
 澪はそういってドアを開けた。
 徹が宏樹のほうを見れば確かに具合悪そうな顔をしてて、普段ならそういう世話にも無言の拒否を示すが、今日に限ってはそれが無い。と言うより、具合が悪い所為でそれどころじゃないのだろう。
「ありがとう、遠慮なく帰る。まぁ、こいつも、寝たらよくなると思う。じゃぁ、夜、」
 澪は頭を下げてタクシーを見送った。
「礼ぐらい言えよ」
 徹の言葉に返事をする気力は無かった。
 宏樹は家に帰るとすぐ腹痛の薬を飲んだ。混ぜ繰るような痛みに、脂汗。吐き気とトイレに行っても催さない便意。苦痛でトイレの前で座り込み、そこで時間が来るまで気を失うように眠っていた。
 徹が時間にやってきて、慌ててシャワーを浴びる。
「顔色悪いぞ」
「大丈夫だ。なんも食ってないから吐くこと出来なくて顔色が悪いんだ。化粧すれば見栄えはよくなる」
 徹と一緒にタクシーに乗り込み、会場へと向かう。
 会場控え室はすでにモデルたちの熱気で暑くなっていた。誰がどの鏡を使うか、口紅の色がかぶっている、ヒールの高さとか、そんなことでいちいち目くじらを立てては、開演までの時間で最終的リハーサルに向けてあわただしく用意をこなす。
 宏樹が澪の服に袖を通した。
「大丈夫ですか?」
 宏樹が顔をのぞく澪を見る。
「ああ」
「少し休みます?」
「いや、大丈夫だ」
「本当に?」
「しつこい」
 宏樹のイライラが大声となる。澪は即座に謝り俯いた。
 イライラする時なのに何を怒らせてるのよ。ヒーローに着せる服のデザインを頼まれたからっていい気になってんじゃないわよ。
 空気の流れが悪い。
 だが、宏樹の耳はもうすでにおかしくなっていた。さっきから痛さと苦痛の所為で視界はぼけてきていたが、風邪だろうと、昨日廊下で寝た所為だと思っていたのに、耳を覆うこの圧迫感は、風邪や腹下しのものではない。
 音楽が流れ、ステファニーの紹介の声が冗談めいている。ライトに当たった瞬間、頭の中が白く濁る。花道へは気力と惰性だけで進んだが、
 無理
 宏樹は花道の真ん中まで行って膝から崩れた。どっと汗が溢れ、その場に蹲る。
「おい! ヒロ、しっかりしろ! 救急車!」
 徹の声が絶叫と鳴り響く。慌しく行き交う人の中で澪は立ち尽くす。
 救急車の到着を待って、徹が付き添うのを澪が止める。
「今この会場に居なきゃ、ステフのショーは絶対に成功させたいんです。付き添いは、……私が行きますから。状況がわかり次第報告します」
 澪の言葉にすばやくステファニーは反応した。
「そうね、澪の方が冷静で首尾よくやってくれるはずよ。お願いするわね」
 澪は頷き救急車に乗り込んだ。
 有名なモデルなのにマネージャーをつけないのは、束縛されるのが嫌いだと言っていた。
 救急隊員が酷く腹を抑える宏樹の腹部に手をあてがう。その様子を救急隊員の背中越しに見るしかない。
 ―なんて、無力なんだろう―
 病院に着き、診察二十分ほどかかって医者が出てきた。
「急性虫垂炎。つまり盲腸だが、暫くほったらかしていたようで、あまりよくない状態だと判断する。だからすぐに手術を行いたいんだが、家族は?」
「彼は日本人です。近くに居る家族は居ません」
「承諾書を書いてもらいたいんだが、一応痛み止めを打っているから、彼と決めてもらえるかな?」
 医者に言われ澪は頷き部屋に入った。
 診察室はどこも同じらしく消毒液と白い殺風景だけがそこに広がっている。
「トーイはショーに残ってもらいました。ステフのショーを失敗に終わらせたくなくて。だから、私が付き添ってきたんですけど、手術許可書が必要なんですって、すぐにでも手術をしたほうがいいらしいのですけど、」
 澪は俯いたままでそう告げる。宏樹は痛み止めのお陰でやっと眠れた気がして、澪の話が疎ましく、
「いい、あんた、スタッフだろ? 書いといて、俺、眠い」
 宏樹は眠った。
 澪は部屋を出て手術の用意を頼むと、入院道具を買いに走った。
 
 それから二時間後には手術。終わったのが夜の十一時だった。破裂しては居なかったが移動型の虫垂炎が動き回ったあとがあって腹痛の酷さを物語っていたと言った。
 下肢麻酔だが宏樹はよく眠っていた。
 澪は引き出しに服を片付けていた。時計が十一時半になったとき、徹がやってきた。
「さっき終わりました」
 澪は小さな声でそういって、枕元から遠のく。
「ありがとう」
「いいえ」
「ショーは成功させた。君の服は着なかったよ。君が側に居ないんじゃ、紹介したってしょうがない。ステフの意見。俺も同意見。よかったかな?」
 澪は頷くだけだった。
「あ、着替えはその棚に片付けました。のどが渇いた時ようの水と、イオン系のドリンク、あとは小物ですけど揃えて置きましたから」
「じゃぁ、金を、」
「いいえ、元気になったら請求します。では、おやすみなさい」
「気をつけて帰ってね」
 澪は頷いて出て行った。
「起きてるだろ」
 宏樹がゆっくりと目を開けた。
「盲腸だってよ、ったく」
 徹は椅子に座り、澪が買ってきたと言った小物を見る。
「コップ、フォーク、タオルに、これは? ポータブルCD……、目覚まし時計に、リップクリーム。乾燥するからな病室って」
 徹はそう言ってポータブルCDのふたを開けた。
「彼女らしい……」
 有名洋楽のインストメタルのCDだ。
「知り合いか?」
「お前、どっから起きてた?」
「金がどうこうと言う辺り」
「あ、そ」
 徹はCD位のイヤフォンを耳につけスタートさせる。
「で、」
「お前が着そこなった新人デザイナー」
 宏樹の朦朧としていた頭の中がすっきりした気がした。
「言っちゃなんだが、あの会場でマネージャーをつけないお前に付き合えるのは、役割の少ない下っ端のスタッフ。彼女もその一人だよ。今日のショーで評判がよければ、雑用係から昇格しただろうけど、」
 俺は、何であの人を何度も虐めているんだろう……。
 覚えているのは綺麗な黒髪が降りて見えない横顔だけ。
「名前―」
 宏樹はダルそうに聞く。
「徹、」
 宏樹は徹を睨む。
 徹は手術承諾書の控えを見せる。
 綺麗な字で「MIO MORISAWA」と書かれていた。
「連絡先、退院したら電話しとけ、これすべて彼女が用意してくれたんだから」
 徹の言葉に宏樹は頷くだけだった。

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