Je l'aime même comme ne conserve pas le baiser.
     〜キスさえ出来ないほど好き〜


 
 森沢 澪は深くため息をついた。アイデアが浮かばないといつもこうやってため息を落とす。すると「あの子」は必ず言う。
「大丈夫? 元気ないよ」
 あの声が今は欲しい。
 澪は灰色の空をガラス越しに見上げた。
 フランスのデザイナー、ステファニー・オハラについて勉強を始めてすでに三年が過ぎた。勉強はたくさんする。それが澪のやり方だったが、もう三年も勉強だけしているのでは、このフランスで食べてはいけない。そろそろアピールの時期よ。と言われ、この週末にでもデザインをステファニーに見せることになっているのだが、木曜の今日になってもいい案が浮かばない。
 ―向いていない―
 その言葉がため息となって出て行く。
 ぱら
 雨が落ちてきている。まだ、水滴は群れをなさず身勝手な雫が気を急く様に落ちている。
 澪は勘定を払い、雨が降る前に家に帰ろうと急いだ。
 天気予報は雨をさしていた。職場にも傘は持っていった。なのにそこで忘れて、別にすぐに帰るつもりだったから忘れてもどうってことはなかった。
 だが、この道を通るとき目にするポスターを暫く見たくなって、遠回りだけど、雨が降りそうだと気にしながらカフェに入ったのだ。
 時計屋の窓に張られたポスターの前になる席を選んで。
 フランスの広告で東洋人を使うなんて皆無に近い。だがそこの時計メーカーが彼を気に入って使ったこだわりのポスターは、美意識の高いパリジャンを納得させるものだった。
 白いシャツに黒いパンツ。シャツのボタンは三つ空き、何かにもたれているように腰掛け、左にはめた時計が見えるように右手で左腕を押さえ、左手は前髪を少し触り節目がちな目はこちらを見ている。
 ―あの目に、映りたい―
 澪はいつもそう思っては恥ずかしくなり目を伏せる。知人はよく口にする。「抱かれたい」と言う露骨な表現よりもその影に含んだ言葉のほうが実はいやらしいと感じるものだ。
 雨が手をつなぎ友達だって落ちてきた。二つ、三つ。
 澪が足早に歩く。ヒールの音が耳につく。
 あと二区間(ツーブロック)。と言う角で出会い頭に人とぶつかる。相手は傘を指し目深に帽子をかぶっている男だった。
「Oh! Pardon.(ごめんなさい)」
「C'est OK. Et Vous. (ああ。大丈夫?)」
 澪はその声に顔を上げた。
 ―ヒーロー―
 さっき見ていたポスターの男がそこに居る。そしてばら撒いた澪の荷物を拾ってくれている。
「あ、いいんです。大丈夫。一人で拾えますから。すみません。ありがとう」
「日本人?」
「ええ」
 ヒーローは最後のひとつ開いたスケッチブックの絵を見て澪に閉じながら渡す。
「いい絵だ。と言っても俺には画才は無いけど。あ、これどうぞ」
 そういって傘を澪に握らせるとヒーローは走って道路を横断した。
 澪は言葉が出なかった。
「傘、ありがとうございます」
 そう言えたのは、ヒーローが向こうの街へと消えてから暫くしてからだった。
 
 澪はアパートに戻った。
「ただいま」
「お帰り。……ん? それあなたの傘じゃないんじゃない?」
 アパートにはシェア・メイトの栗原 美樹が澪が手にしている傘に眉をひそめる。
「男物のようね」
「……ヒーローに借りたの」
「……、ヒーローって、あの? あのモデルのヒーロー?」
 澪は頷いた。
 美樹は応接間のソファに座ってまだ傘を手放さない澪を見ながら
「とりあえず、コートと、傘を片付けたら?」
 と言ったが絆されている澪に何を言っても無駄のようだった。
 美樹は首をすくめ澪の手から傘を取ると澪の意識は戻った。
「片付けよ、それじゃソファーも部屋も濡れるわ」
「あ、いやだ、あたし……ごめん」
 美樹は澪の肩を叩き、傘を片付けに行き、澪はコートを脱いだ。
「いい男だったでしょう?」
 美樹の言葉に澪は頷くだけだった。
 澪は入り口の壁にもたれソファーに座って俯いている澪を見ている。
「それより、ステフ(ステファニー・オハラの愛称)から、いい案が浮かべば遠慮無く持って来いって」
「買いかぶりだわ。私なんか、ぜんぜん」
「あたしは好きよ、あなたの絵が服になったらどうだろうって思うわ。あたしにはいい案は浮かばない。でも、いい服を作るオートクチュールの腕は持ってる。だからあなたの服を作りたいと思う。ステフが言ってたじゃない。皆が好きな服を作るのは本当に難しい。でも一人でもいいという人のために作り続けるのも、それと同じくらい難しいって。あなたには、あたしと、もう一人いるでしょ? いい案は必ず浮かぶわ」
 美樹の言葉に顔を上げ澪は頷いた。
「ありがとう」
「と言うことで、今日は派手に飲みに行かない?」
「私は、」
「苦手も無いの。気分転換が必要よ。気がまぎれるし、目線を変えることでいいものが出来るかもしれないわよ」
 
 澪は美樹の強い勧めで夕飯がてら街へと繰り出した。
 若者が氾濫する中、ビジネスマンたちも一杯やろうと繰り出していて、昼とは違う年齢層が町に溢れている。
 美樹が案内したのは近所でも人気のあるバーで、大きなソファーに座って飲食をするスタイルの店だ。
「ミキ!」
 二階のソファーから美樹を呼んだのはフランス人の彼ジョシュアだ。彼は舞台照明の仕事をしている。この店のオーナーと知り合いでこのライトはジョシュアの手がけたものだ。
 美樹は澪の手を引くようにして階段を上がる。インテリア、壁、ソファーは白だが、ライトが青とオレンジなので何とも異空間に感じる。
 客はどれもソファーに沈み込んでいるので、より下に見える。
「澪を連れてきたけど、大丈夫よね?」
「ああ、こっちも連れがいるんだ」
 そう言ってジョシュアと彼の連れが立ち上がる。
「やだ……」
 澪は声がでなかった。声を出したのは美樹だった。
「会いたいって言ってたろ? そりゃ、照明係とじゃぁ話なんかしないけど、それでも、こいつら―ヒーローとトーイは日本人の癖に結構いい奴らなんだよ―は特別でさ、今晩は俺の彼女を紹介したいって言ったらやっとついて来てくれて、まぁ、渋々だろうけど」
 ジョシュアの言葉など耳に入っていなかった。
 関係性で美樹はジョシュアと並んで座ったから、澪はヒーローの隣に座らざるを得なかった。
 ジョシュアと美樹が話す中ヒーローと澪は黙って食事を口に運んでいた。
「あ、ちょっと、いい?」
 美樹がジョシュアを立たせトイレの方へと消えた。この険悪な雰囲気を打破する会議でもするのだろう。
「悪かった」
「え?」
「本当はこういう場所は好きじゃないんだ。ジョシュアとはいい友達だからついて来たけど、迷惑だったみたいだし」
「いいえ、迷惑じゃないわ。本当に……、あ、あの……。さっき傘を、」
「傘?」
 ―そうだよね―
 ヒーローにしてみれば傘を貸したことなどどうでもいいことなのだ。ぶつかり、スケッチブックを拾ったことも。
「雨でしょ、傘もって来ました?」
 と言い換えた。
 ヒーローは車だったから傘は無いと返事をした。
 そして沈黙。店内のBGMだけが鳴る。
 澪のかばんから携帯の音が鳴る。
 取り出せば美樹からのメール。
 
せっかくだから、二人で楽しんでね
 
 澪は携帯を閉じ、ヒーローの方を見た。
「あの二人、」
「帰ったんだろ。来いと言いながら。……食事を済ませたら送るよ」
「いいんです。それは。ごめんなさい」
 ヒーローが首を傾げる。
「ジョシュアと飲みたかったんでしょう? わたしお酒好きじゃ無いから、相手にならないですものね」
 澪は俯いたままでいる。
 黒くさらさらの肩を少し過ぎた髪が横顔さえ隠している。
「いや、酒が飲みたいときは一人のほうがいい。誰かの相手をするのが面倒なんだ」
「あ、……ごめんなさい。私、もう帰りますね」
 澪はそう言って鞄を掴むと、その手をヒーローが掴んだ。
「少し、少しだけ一緒にいてもらえないかな?」
 澪はヒーローのほうを見た。
 
 物静かじゃない。無口すぎて怖い。何を考えているのかわからない。と言われ続けてきた。自分から声をかけることはしない。人付き合いが苦手で、人を傷つけることが嫌いなんじゃなく、傷つけられるのが嫌なだけだ。
 だから、何でこの女(人)にこんなことを言っているのか、ヒーロー、神崎 宏樹は解らなかった。
 
 澪は暫く宏樹を見ていた。
「いや、冗談」
 宏樹は少し口の端を歪め俯いた。
「あ、じゃぁ、静かな場所がいいですね。私の家この近くなんです、……だめ、バーがいいですね、一緒に居ても怪しまれないし」
 宏樹は顔を上げ澪を見る。綺麗なつくりの顔だ。美人で近寄りがたい印象を受ける。まるでそっくりだ。
「いや、君の家がいい―」
 
 決して口にすることは無い言葉だと理解している。有名人である彼が個人のそれも女の家に行くなどスキャンダルもいいところだし、ステフの仕事を手伝っていて遠くで彼を見ているが、彼は決して自ら口火を切る性格ではない。
 だとすると今日はどうしたというのだろう? それが口説く方法なのか、それとも何かがあって塞いでいて通常行動したくないのか?
 澪は鍵を開けた。
 美樹たちはやはりジョシュアのアパートのほうへ行ったようだった。
「どうぞ」
 清潔な家だ。と宏樹は思った。綺麗過ぎるわけではないが、心地は良くは無かった。
「コーヒーとかの方がいいです? それともお酒?」
 澪が先に立ってリビングへと行く。その腕を掴むと澪を引き寄せた。
 澪の体に緊張が走り硬直する。俯いている澪の顔を上げて宏樹は唇を押し当てる。澪の体が解かれる。
 宏樹の唇が耳へと移動する。
 澪は唇を強く結び、できる限り体に力が入らないようにしている。
「ベットに行こう」
 耳の側でささやく声。宏樹が少し離れたが澪は暫く返事をせずに居たが、上目遣いで宏樹を見て、黙って部屋へと歩き出し、扉を開けた。
 沈黙が流れる。
 宏樹が近づくと、澪は黙って部屋に入り電気をつける。
 ベットと机がある以外は後の家具はすべて作り付けだった。机の上にはきちんと整理された紙の束が乗っている。几帳面なのは彼女であのリビングは彼女が片付けているのだとわかる。
「そんなに、広くないですけど、」
 宏樹は澪を見た。黙ってベットの側に立ち何をすべきか最善策でも練っているかのように俯いているが目は頻りに動いて宏樹の出方を見ている。
 宏樹は澪の側に行き抱きしめる。ゆっくりと唇を合わせ首筋にそれを添わせても澪は唇をぎゅっと結んで声を出さない。嫌ならば嫌と言えばいい。大勢の女は妙な喘ぎ声をすぐに出すものだが、澪は違った。
 シャツのボタンをひとつはずすと、澪は自らその下をはずそうと手をかけたとき、美樹たちが帰ってきた音がした。
「澪、居る?」
 部屋に鍵はかかっていない。ドアノブに手がかかったのを見た澪はとっさにボタンをとめ机の上の紙を掴んで宏樹に突き出した。
「み、ヒーロー……、あ」
「デザイン、見てもらってたのよ。ステフに見せるって話になってそれじゃ見てやろうかって言ってくれて。ジョシュも居る? コーヒー入れるね」
 澪はするっと台所へと向かった。
 宏樹は黙ってそれを見ている。ふと美樹と目が合う。
「絵、逆さです」
 美樹はそう言って台所へと向かった。
 宏樹は渡されたデザイン画を見た。どこかで見た絵だった。印象深いのはこのモスグリーンの色。宏樹はこの色が好きなのだ。
 リビングで入り立てのコーヒーの匂いが充満していた。
「何で家に?」
 ジョシュアが意地悪そうな目で見た。
「二人で消えるってことは、家に行けば二人は居るだろうってことになったの。食事も済んだし、そしたら絵の話が出たの。仕事何やってるって聞くから」
 澪は丁寧な作り話をした。さっきまでのことを知らなければ嘘かどうかなど解らないほどの話だ。
 ただ美樹は何かしらのことがあったのだと察しているのかあまり話そうとしないで宏樹を見ている。
 澪の携帯がなった。
「ちょっと、ごめん」
「またぁ?」
 美樹に言われ澪は首をすくめて電話に出る。
「もしもし?」
「またって?」
 ジョシュアが聞き返すと、美樹は呆れた顔をして、
「澪のいい人よ。多ければ一日に数十回。今起きたから始まって、何食べたとか、」
「束縛が厳しいんだね」
「束縛じゃなくて、報告。あの二人の間に束縛という言葉は無いのよ。本当に」
 澪が笑いながら話す姿を見て宏樹は思った。
 あのまま服を脱がせても澪は抵抗をしないだろう。それどころか口を開かず、ただ宏樹の欲求の果てるまで人形に徹してくれる。彼氏が居るということも言わず、哀れな男だと同情したんだろう。
「解ってるよ。もうそろそろ寝るからね、みかげもちゃんと食べて、今日からでしょバイト、今度は長く続くといいね。解った。メールに入れておいてね。ハイ、じゃぁね」
 澪は携帯を切ると三人の元へと来た。
「みかげ? という人?」
「え? ええ」
「Est-ce que vous êtes votre chéri?(恋人?)」
 澪は暫くジョシュアを見つめ、失笑し、
「ごめんなさい。みかげは女よ。私の大事な友達」
 澪の言葉に宏樹は澪を見た。澪もそれを感じたがくすくす笑いコーヒーを口に含んだ。
 
 談笑したのか良くわからないまま一時間後、宏樹は明日の仕事を考えて帰ると言い出した。ジョシュアと美樹は玄関で手を振る。
 澪は台所で片づけをしているようだった。
「じゃぁ、お休み」
 扉が閉まる。
 美樹とジョシュアが美樹の部屋へと消える。
 澪は玄関に置いていた宏樹の傘を持って宏樹を追いかける。
「あ、あの」
 エントランスで宏樹を呼び止める。
「これ、昼間借りた傘。まだ雨が降っているので」
 澪はそういって傘を差し出す。宏樹は受け取り、確かに柄のところに名前―有名ブランドの傘でネームを入れてもらった奴だ―が在った。だが貸した記憶など無い。
「気をつけて、……それから、また、何かあって私なんかで良かったら……お休みなさい」
 澪は踵を返すと部屋へと駆け上がっていった。
 宏樹は黙って見ていた。あの人(澪)は何を思って抱かれようとしたのだろうか? デザイナーだと言った。売名行為? スキャンダル欲しさ? 脅迫? 強請り? そのどれもを「違う」と頭の隅で強く否定するものがある。
 根拠は、何一つ無いのだが、彼女はそういう人ではないのだと、頭の片隅は叫んでいる。

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