Le printemps de seconde


 
 みかげはいつもどおりコンビニで仕事をしていた。
 まだ春浅い日だから、着ている物が微妙な時期、でもみかげはうれしかった。
 街は春の日を受けてキラキラしていたし、花が咲いて道を彩り、桜が蕾を重たそうに枝についてるのを見上げれば、あれが咲いたところを想像して嬉しかったのだ。
 篠崎に辞めろと宣言されてすでに半年近く過ぎた。でも、後任も来ないし、第一篠崎も二度は言わなかった。
 みかげはため息をついて立ち上がる。
「終わりっと」
 補充で出た空の折コンを畳み、持ち上げると、入ってきた高校生の姿に目が入った。
「いらっしゃいませ……?」
 どっかで見た。と言う曖昧な記憶が彼を凝視してしまう。彼の方もみかげの顔を見て驚いているようだった。
「あ、あの、店長さんは?」
 彼はレジの吉田の方へと行って聞く。
「どっかで、会ったよなぁ……気がする」
 彼は事務所のほうへ入っていった。
 
「あたしが?」
 翌週の水曜日。みかげは篠崎から新人教育を仰せつかった。眉をしかめるみかげの前に立っていたのは先週やってきた高校生だった。
「藍住 颯馬です」
 みかげは顔を顰めながら頭を下げた。
「バイトは初めて?」
「まぁ」
 みかげと颯馬は向かい合って事務所に座った。一応基本的な新人教育だ。マニュアルを読み、それからレジだの、品出しだのを教える。
 みかげは腕を組み、唸る。
「どっかであった気がするんだけど、気のせい?」
「……、コインロッカーで、」
「…………、そんな気もする」
「忘れっぽいんですか?」
「そんな感じ。まぁいいや。じゃぁ、とりあえずこの本の通りでぇ、……あたしに任せていいのかなぁ?」
 みかげは首をひねりつつ、颯馬に説明をするが、ただ本を読んだほうが解りやすいと思った。
「藍住君ていくつ?」
「16です」
「高校生?」
「今度二年ですけど」
「若いねぇ」
 みかげの言葉に颯馬は失笑する。
「レジをする前に、品出しね。先入れ先出しって解る? 古いものは前、新しいのは奥。べつに食品に限ったことじゃないのよ。日用品もおんなじ。ただね、入れ替わりの激しいもの、たとえば、生理用品とか日用品、化粧品は手前が新しかったりする。ただ、季節にパッケージ替えするから、その時は気をつけなきゃ、古いパッケージのものは前」
 みかげと颯馬は並んで化粧品売り場の前に膝をついた。
「化粧品はこまごましてて嫌い」
「化粧してませんね」
「煩いし、面倒だし、何より痒くなるからね」
 みかげは首をすくめて笑った。
 
 
 四月に入ってすぐだった。寒の戻りとは言え、非常に寒い朝、みかげは家の戸を激しく叩かれて寒さに体を抱きながら玄関に向かった。
「はい?」
「みかげ?」
 声は澪だった。みかげは慌てて戸を開ければ、澪は鞄を担いで立っていた。
「どうしたの?」
「野暮用」
 そういって澪を中に入れ、一先ずコーヒーを入れる。
「それで?」
「ごめんね、朝早くに。実は、うちの親の転勤が決まったのよ」
「ほぅ」
「で、末っ子の奏。覚えてる?」
「あぁ、今いくつだっけ?」
「高校2年。になるんだけど、せっかく入った陵智高校を転校するのは嫌だって、そりゃ親だって名門高校に入ったんだから転校させたくないんだけど、身内が居ないのようち。だからって、寮はないし、一人暮らしさせるにも親は自分たちの引越しやらで大忙しで、あたしが呼ばれたの。梓(次女―ちなみに澪は長女)も、渚(三女)も新社会人だったり、新大学生だったりで誰も奏の世話が出来ないのよ。だからあたしが探すことになったの」
「陵智って、めちゃくちゃ頭いいじゃない。すごいね」
「あの子はね。で、フランスからいろいろ調べてたんだけど―ネットとかでね―でもさっぱり。あの子の素行を心配しないけど、セキュリティーはいろいろと考えちゃうから」
「そうね、いい場所があればいいけど、そんなとこってある?」
 澪は首を振る。
 みかげの家に来る前にも不動産屋を数件回ったらしいが、どうもいい物件はないらしい。
「いつまで居られるの?」
「二、三日ってところかしらね」
「時差ぼけも直らないじゃない」
 澪は深くため息を落とし、コーヒーを口に含んだ。
「仕事までなら手伝うよ」
「なんか疲れてる?」
「今ね、新バイトの教育係なのよ」
「みかげが?」
 みかげは頷き、
「いい子なんだけど、人に教えるようななんかを持ってるわけじゃないから、しんどいよぅ」
「みかげも大変なのね」
 二人は項垂れていたがすぐに町へと繰り出した。
「不動産て意外に少ないよね」
 澪は頷く。
「あった。えっと、マンスリーマンションだ」
「そこも考えたけど、高いのよね。家具もすべて込みだけど、学生が住むような額じゃないから」
「だね……、駅近く、木造築30年。多くは望まぬが、セキュリティーだね」
「そうね」
 二人がじっと不動産屋の前に立って覗いて居ると、
「やぁ、偶然」
 と徹が声をかけた来た。
「てっちゃん。……そう、都合よく会うと仕事してるって思っちゃうけど、」
「パリには居ないから。だぁいぶ前に日本に帰ってきた。今はほとんどが日本」
「そうなの?」
「そ、だからね、澪ちゃんの服を着る機会がなくてね」
 徹はそう言って不動産屋のガラスを見て二人を見た。
「澪ちゃんも日本に?」
「の、妹の部屋」
 みかげはガラスを覗いて澪を見るが、澪は首を振った。
「そろそろ昼だけど、どう?」
「どうする?」
「昼よりも探すと言いたいけど、時差ぼけなのかな? ちょっとしんどい」
「じゃぁ、行こう」
 澪は頷き、三人は近くのオープンカフェに座った。
「なるほどね、それじゃぁ、お姉さんとしては心配だね」
「本人が気に入れば即決するためにも数件決めておかなきゃいけないんです。進入部員の歓迎式と入学式で演奏する練習が忙しいんですって」
「奏ちゃん、トランペットだっけ?」
「惜しい。アルトサックスよ。自分の家になるって言うのに、ほんと、無頓着だから」
「任せたほうが間違いないと信じてるんだよ」
 徹に言われて澪は少し顔を赤くした。
「にしても、ないよね、」
 みかげと澪が同時にため息を落とす。
 
 
 澪が帰らなくてはいけないぎりぎりまで粘ったがいい物件は存在しなかった。
 みかげの家のまだ片付けていないこたつに二人で入り込み、ため息を落とす。
「無いねぇ。勉強するのにいい環境で、安全な場所って、なかなか」
 みかげの言葉に澪が頷く。
「……、奏ちゃんがいやじゃなければ、しばらくうちに居る?」
「え?」
「そうよ、うちにいなよ。嫌なら別だけど、あたしなら面識あるし、一応は保護者にもなれるし、奏ちゃんさえよければだけど」
「でも、迷惑よ。今までのようなお気楽は、」
「家賃は半分とまでは言わないし、光熱費だって、一人で出すよりずっと安いし、そういうのなんて言ったっけ? 同居じゃなくて、居候をもっとかっこよく言うのよね、どう? 一応聞いてみてよ」
 澪はしばらく考えていたが、みかげの申し出は奏のことを考えてもいい案だと思う。このアパートは妙な連帯感があるし、いい人ばかりだ。澪は携帯を取り出し奏にかける。
 奏はすぐに了承したし、親もみかげなら、澪が帰ってくることもあって即決した。
「すんごーく楽しみ。楽しくなるよ」
 みかげの言葉に澪も微笑んだ。
 
 
 澪はパリに戻った。
「日本はどうだった?」
「おかげさまで、」
 心配していたステファニー・オハラが聞いてきた。
「妹は私の親友がいい物件が見つかるまで居候させてくれることになりました」
「そう、でもそれは無駄になるかもしれないわね」
「どういう意味です?」
 ステファニーは紙を澪に差し出した。
 移動という文字の書かれた紙には、「あなたの才能を買って、日本でのステファニーブランドの専属デザイナーとなるために日本の本店勤務を任命する。そこであなたにはプランマネージャー兼、専属デザイナーの役職を与える。と書かれていた。
「あの、私には、」
「あなたの感性は日本で良い評価を得ているのを知らないわけじゃないでしょ? あなたが作ったアクセサリーから、ホームドレスに至るまで、シックで私の名前を汚す事の無いあなたのデザインはわたしの誇りよ。あなたには日本店でしっかりそのブランドを確立させ、そしてあなたの感性を伸ばして欲しいの。引き受けてくれるわよね?」
 ステファニーの力強い握手に澪はすぐに頷いた。
「でも、大きなショー―年に4回ある―には帰ってきて手伝って頂戴ね」
 澪は頷いた。
 
 みかげはコンビニの前で一人悪戦苦闘していた。不法投棄された自転車を駐輪場の端に寄せていたのだ。
「重たい、取ってきた自転車にご丁寧に鍵なんかかけないでよね、もう」
 みかげはふくれっ面で自転車を隅に追いやる。振り返ると自転車が真後ろにあった。顔を上げれば宏樹が黙って立っていた。
「あ、ありがとう。休み?」
「まぁな」
 宏樹から自転車を受け取る。その後ろには徹も立っていた。そして自転車を運ぶのを手伝ってくれた。
「もう大変さ。雑用係ですなぁ」
 みかげが笑ったところに颯馬がやってきた。
「すみません、遅くなって、店長に……、」
「お前、」
 颯馬と徹が絶句したまま顔を見合わせている。
「颯馬君がどうかした?」
「颯馬?」
 徹が甲高く聞き返して、噴出した。
「何、何?」
「いや、あとで、そう、カズの家でも」
「あ、それ無理」
「まだ澪ちゃんは帰ってないでしょ?」
 みかげは徹の言葉にくすくす笑い、
「の妹と同居してるの。だから早く帰らなきゃいけないの」
「へぇ。澪ちゃんの妹。会ってみたいな」
「すんごーくかわいい子よ。電話してみようか、良いよっつったら来る?」
 徹の頷きにみかげは奏の携帯に電話を入れる。
 みかげは電話しながらO.Kサインを徹に向ける。
「今日は何時まで?」
「五時」
「颯馬は?」
「颯馬君も一緒よ」
 徹の質問にみかげが答える。徹はみかげに微笑み、
「じゃぁ、颯馬もお邪魔していいかな?」
「いいよ」
「じゃぁ、六時に家に行くよ」
 みかげが頷くと、徹と宏樹はバイクに跨り―二人乗りをして―帰って行った。
「険しいぞ顔、」
「知り合いなんすか?」
「……友達」
「そう、すか」
 颯馬はその日気落ちしているようだった。普段の若々しさや覇気を感じなかった。
 
 みかげが家に着いたのは六時を十分前だった。
「お帰りなさい」
 奏はエプロンをつけて食事の用意をしていた。
「六時だって聞いたから、どうせ食べてないでしょう?」
「奏ちゃん、良い奥さんになるよ」
「そんなこと無いですよ」
 勉強机は置けない。ベットも置けない。だから奏は食卓に物置となっていた二人がけのテーブルで勉強し、布団を毎日上げ下げして眠った。
 六時五分。ドアが叩かれ、徹と宏樹が入ってきた。そのあとから颯馬が入ってきて、眉をしかめた。
「颯馬、君」
「おっと、有名人」
 みかげの言葉に颯馬が口を尖らせる。
「ま、狭いけどどうぞ」
 三人はみかげの部屋に上がった。部屋を見回したが物色できるようなものはなかった。つまり女の部屋と言う感じのない部屋だ。片付いているわけでもなくて、散らかっているわけでもなくて、なぜかごちゃごちゃとある部屋。
「奏ちゃんのご飯てすごくおいしいのよ。まぁどうぞ」
 まるで、新婚の家に上がりこんで手料理を食べさせられている感じだ。と宏樹は思いながら手渡された茶碗を持った。
「そこ座って、向こうのほうが広いから、どうぞどうぞ」
 徹と宏樹は箸と茶碗を持ってこたつ布団のかかっている机に行き胡坐をかいた。
 颯馬は頭を少しさげ同じようにこたつへと向かった。
 みかげが座るとこたつの四面は埋まる。
「奏ちゃんはあたしの横においで。狭いけども」
 そう言って布団をはぐったところに奏は座る。
「それじゃ、頂きます」
 みかげがすぐに箸をつけると徹も、宏樹も手を伸ばす。
「口に合えばいいけど」
 奏はみんなの反応を上目遣いで見ていた。
「あ、旨い」
 徹はにやっと笑って続けて箸を動かす。宏樹はそれに頷いて箸を動かす。
 
 本当に喋らない奴だ。
 
 みかげは思いながら、颯馬の方を見た。
「颯馬君は食べないのかい?」
 颯馬は首を振って箸を伸ばす。颯馬が口に運び、咀嚼し、それが続くまで奏は箸をつけなかった。みかげはチラッと奏を見たが何も言わずに食べた。
 みかげのくだらない話と徹の相槌だけがする中食事が終わり、奏が片付けるのを宏樹が手伝う。
「それで、知り合いなんだね」
 みかげが徹と部屋に隅に胡坐をかいている颯馬を指差す。
「弟」
「……弟?」
「そ。腹違いの。似てない?」
「……、似てるのかなぁ? ……ということは、藍住 徹?」
「そ。でも驚いたよ。ああいうこと、つまりバイトとかって透馬の方がしそうだからさ。でもあの不服そうな面は颯馬だなって」
「と、と?」
「颯馬の双子の兄貴」
「双子なんだ。って、聞いた?」
 颯馬は黙って頷く。
「記憶容量ってどっかに売ってないかな?」
 奏は黙って皿を洗う。隣にで宏樹が黙って皿を洗い流す。
「旨かった」
 小さな声に奏は顔を上げて微笑む。
「み、お」
「え?」
「いや、似てたから」
「そうですか?」
 宏樹は頷く。笑い方が同じ。まったく違うのに姉妹とはそれほど濃いものなのだろうか?
などと思いながら、宏樹はどんどん皿を洗う。
「ガッコーどこだっけ?」
 徹が唐突に颯馬に聞く。颯馬は少し顔を赤めた様に見えた。そして顔を背けて、
「陵智」
と言葉少なく答えた。
「相変わらず……。だがあそこって、バイト禁止じゃなかったか?」
「解ってる。店長には、両親に問題があって学費がやばいんで、学校名皆に伏せてくれって、」
「そういう融通はする人だよ、」
 みかげが褒めると、徹はすっと眼を動かし再び颯馬の方を見た。
「まぁ、あれだけ遠けりゃ先生も来ないだろう。だが、お前のメンは嫌でも割れてるんだぞ」
 颯馬は膝を立て、その膝頭に腕を乗せ、口に手を宛がう。赤くなったのは見えたのじゃなく本当に赤くなっていたようだ。
「俺は、」
 思い余っての声だろう。つんのめる様な大声に徹は微笑を颯馬に投げ、
「大丈夫。俺は何も言わないさ。俺に言える資格はないしね。それに、颯馬は颯馬じゃん。おまえの好きにすりゃ良い」
 徹の微笑に颯馬の顔は真っ赤になった。
「顔、赤いよ」
 みかげの指摘に颯馬は膝に頭を埋める。
「こいつ、ブラ・コンだから」
 徹が笑うと、颯馬が慌てて否定するが言葉になっていない。それにみかげも宏樹も笑う。
「こいつらがまだガキンチョの頃に俺家を出たんだ。ときどき、本当にときどき運動会とか、そういうときに会いに行ったぐらいでさ。兄貴って感じじゃないんだよ。どっかの親戚のお兄さん。それがこれだけの美貌だから照れてんだよ、な」
 みかげは呆れて首を振り、奏の方を見た。
 奏は食器を洗い終わって椅子に座ってみかげたちを見ていた。
「でも、罪だね」
 みかげはくすくす笑い、
「かっこいい男って言うのはそれだけで罪なのに、それ以上に鈍感であると言うのはさ」
 みかげは笑って奏にコーヒーを飲むまねをした。
「すでに何人かの子が目星つけて探りに来てたんだよね。で、伊達をかけてみたら? つったら、その透馬君? 彼がかけてるからすぐに解るって。面倒だよね、双子って」
 みかげと徹の前にコーヒーが置かれる。宏樹のカップを持ち上げたときコーヒーが揺れ、奏の手にかかった。
「あ、大丈夫?」
 宏樹がとっさに奏の手を引き水で冷やしに行く。
「あ、大丈夫です」
「ちゃんと冷やさないと、痕になる」
「本当に、大丈夫ですから」
 徹もみかげも別のところを見て黙っている。颯馬だけが二人の後姿を見ている。妙な胸のつっかえで顔が歪む。
「逢いたい……と触りたくなるのかな?」
 みかげの言葉に全員がみかげを見た。肩肘を突きどこか遠くを見ていたみかげが視線に気付いて首をかしげる。
「何?」
「いや……」
 颯馬が言葉を濁すと、
「逢いたい?」
 と徹が聞いた。
「誰に?」
 みかげの答えに徹は笑みを浮かべて俯いた。
「そうだな、逢いたいよな」
 みかげは眉を片方上げた。最近知らぬうちにふと言葉が漏れているようだ。切ないとか、逢いたいとか、そういう言葉ばかり。でも自分では言っているつもりも考えても居ないからまったく解らないうちの言葉で指摘されなきゃ気付かないままなのだ。
「電話しようか?」
 徹が顔を上げて微笑むとみかげは首を振る。
「いい。忙しいだろうしね。別にあったからって用は無いんだから」
 みかげはコーヒーを手に包み細く息を吐き出した。
 
「さて、」
 すでに時計は十時になっていた。徹が仕切りのように声を掛けた。
「さて、帰るけど、そういった事情なので、颯馬のことだけど」
「べつにあたしは喋る必要ないし、喋る場所も無いよ」
 みかげの言葉に宏樹も頷く。
「奏ちゃんは?」
 徹に言われて奏はすっと身体を硬くした。
「大丈夫です」
 小さな声に徹は笑い、奏を片手で抱きしめた。
 宏樹が机を叩いたのにみかげの意識が向いたが、その後ろで颯馬の身体に力の入ったのを徹は見逃さなかった。
「ハグだよ、ハグ」
 宏樹は鋭い眼で徹を睨むと、徹は笑って家を出た。
「ご馳走様」
 宏樹が次に出て行く。
 みかげと奏の前を過ぎ颯馬が出ようとする。
「ご馳走様でした」
「明日、ちゃんとおいでよ。棚替え一人でするの大変なんだからさ」
 みかげの微笑に颯馬は小さく頷き、奏の方を見て頭を下げて出て行った。
 戸が閉まる。かちりと音を立てるとみかげが鍵をかけた。
「好き?」
 みかげの言葉に奏は顔を赤くして、
「無理」
 と答えた。
「無理? 何で?」
「藍住君はまじめで生徒会長してて人気があるんだけど、あたしはなんだか苦手で、だからって、颯馬君はいつも一人で怒ってるようで、話しづらいから、あたしの事なんか多分知らないと思う。試験のとき会った人なの。がんばれって言ってくれて、だからあたしがんばってよかったって。だから転校したくなくって、みかげさんに迷惑かけてるけど、」
「ぜんぜん。あたし奏ちゃん大好きだもの」
 みかげは奏に抱きつく。
「てっちゃんとあたしのハグどっちが良い?」
「え? だって、あれはトーイのいたずらで、だって、だって」
 みかげはくすくす笑い机の上のカップを台所に運ぶ。奏は何も言えなくなり頬を膨らませた。
 
「お前って奴は」
 宏樹が苦々しくこぼすと、徹が肩で笑い宏樹を見る。
「お前の方こそ、やばいぞその禁断症状。自覚してるんだろ?」
「うるせぇ」
 宏樹が顔を背けると、自転車を押して近づいてきた颯馬が目に入った。
「気をつけて帰れよ」
「あぁ、あ、……兄さんたちも」
 徹はにやりと笑い、颯馬の頭をくしゃくしゃと撫でた。颯馬は迷惑そうに頭を避けたがまんざら嫌じゃない様な顔をした。
「そうだ。お前が気に入ったなら透馬も放ってないぞ。気をつけろよ」
 徹の言葉に颯馬の顔から表情が消える。
「そこまで影で居る必要はなさ。あの人が透馬を跡継ぎにしようとしてて、お前をその影武者にするなんて馬鹿げたことをするほどの価値はあの家には無いから。お前はお前らしく生きろ」
 颯馬は黙って自転車に跨って走り去った。
「さっき(抱きしめたのは)、」
「あぁ、あいつ知らぬ間に奏ちゃんを好きになってる。ただ、俺んち普通じゃないから、さ」
 徹は鼻で笑うと、止めていた車(和矩の)に乗り込んだ。
「帰りは、運転するんじゃなかったのか?」
「面倒になった」
 座席を少し倒した徹に呆れながら、宏樹は中に入り、エンジンをかけた。
「いい子だ」
 宏樹が徹の方を見たが徹は目をつぶっていた。
 車はゆっくりと発進し、和矩の家へと向かった。
 
 
 21時。土曜日早入りしたみかげの終了時間になったが、同じ時間に入った吉田はさっさとカードを通し、帰り支度をしている。颯馬がまだ補充をしているみかげの側に来た。
「まだするんですか?」
「この箱で終わりだからね」
「けど、」
「何で? 残るったって、たったこの箱一個だよ、三十分も、一時間も居るわけじゃないんだよ。たいした残業だとも思わないし、苦痛だというほどの量でもないじゃない。そうでしょ? じゃぁ、さっさと出しちゃったほうが、後の人のためにもなるじゃない」
 みかげが並べていると、その隣に颯馬も膝をついて品補充をする。
「一人より早くすむしね」
 颯馬の言葉にみかげは微笑む。
 
「送っていきましょうか?」
「断ると、困るかな?」
「え?」
「運がよければ、」
「……帰ります」
「うそうそ、送ってもらおう」
 みかげが笑うと、颯馬は口を歪めて同じ方向へと自転車を漕ぎ出した。
「こういうの良いよね」
「こういうの?」
「自転車デート。高校時代に好きだった人居たけど、家が逆でね、出来なかったの。それ以来好きな人も出来なくて、もういい大人でしょ、するとね、車だったりするのよ。自転車で並んでなんて、高校生だけの醍醐味じゃない」
「そうですか?」
「あたしが横にいるからそう思うのよ。もし横が、別な子なら違うんじゃない?」
 颯馬は何も言わなかった。
 みかげのアパートに着くと、颯馬が自転車の方向を変えた。
「上がって行く?」
 颯馬が首を振る。
「そ、じゃぁお休み」
 颯馬は頭を下げて帰っていった。
 みかげは背後に人の気配を感じて振り返る。
「カズ……」
「あれ、テツの弟?」
「よくご存知で」
「この前テツに聞いたから、あの、……森沢の妹がいるんだっけ?」
「そう、上がる?」
「いや、その、」
 みかげが首を傾げる。少しよれたようなスーツに、ずらされたネクタイ。疲れたような和矩の顔。
「上がりなよ、遠慮せず」
 みかげに手を引かれ和矩はみかげの家に上がる。
 どすんとベットに腰掛けた和矩に、台所で夕飯の支度をしていた奏と、みかげは並んでその盛り付けを手伝う。
「あの、私、いないほうが良いんじゃない?」
「何で?」
「だって、彼氏でしょ?」
「友達よ。カズ、ご飯、……寝てる」
 ベットに腰掛けたまま和矩は全屈して寝ていた。
 顔を覗き込み、その疲れたような寝顔に眉をひそめる。
「あたし、」
「いいの。いいの」
 みかげは笑い、奏に頷く。
「カズ、横になりなよ。しんどいんでしょ?」
 和矩は頷いてごろんと寝転んだ。
「スーツぐらい脱ぐ?」
 和矩は頷きだらだらと起き上がって上着を脱いで、ネクタイを外す。
 みかげは奏のほうを見て台所を指差す。奏も頷き台所のほうへ向かった。
「悪いな」
「気にするな、しんどいときはお互い様さ。買い置きしてたんだけども、」
 そう言って押入れからスェードの上下を引っ張り出す。
「男物?」
「そう」
「何で?」
 和矩のあからさまに不機嫌な声に奏が首をすくめる。
「なんだっけ、そうそう、痴漢防止とか言って澪が買ってきたの。外に男物の下着とか、服を干してたら一人暮らしだって思われて変な人が来ないだろうって、でもこのアパートって人がいいから皆、だからそういう心配なくって片付けてたの。それが何?」
 和矩は何も言わずにそれを着た。なるほど澪の好みで買ってきただけあってモスグリーンのスェードだ。これは宏樹の趣味だ。
 奏は少し気恥ずかしそうにノートを広げ本を読む振りをしていた。
 
 みかげさん、彼のやきもちを適当にあしらってる。というか、嫉妬してるって解ってるのかな?
 
 奏はノートの方を見た。一文字も書かれていないノート。シャーペンを取り出し、二度押す。
「ご飯どうする?」
「今は、いい……寝る」
「どうぞ」
 衣擦れの音。みかげがハンガーにかける音。そしてみかげは台所にやってきた。首をすくめ呆れ帰っている風な仕草をするけど、心配しているのだろう目は和矩のほうを見ている。
「ごめんね、でも、あいつなら気にしなくていいから。奏ちゃんは奏ちゃんのペースで勉強して、寝ていいからね。とりあえずがんばってあたしが起きてるから」
 奏は頷いた。
 先に夕飯も風呂も済ませていた奏はみかげの分を用意し、十二時に布団に入った。
 ベットには和矩が、その間にみかげが布団を敷いて寝ているが気になるし緊張するしで妙に頭が冴えていた。そのくせ眠気はすぐにやってきた。
 
「眠れない?」
 音がして奏はうっすらと目を開けた。目の前は押入れで、二人には背中を向けている。
「あぁ。悪かったな」
「大丈夫。奏ちゃんはいい子だから」
 奏は目をつぶり寝るように意識を集中させるが、そういうときほど寝れないものだ。
 みかげの声の高さからみかげは座っているようだった。
 みかげは布団を押さえるようにして出ている和矩の左手を握った。
「疲れた?」
「あぁ。毎日、……大事な取引相手だから無碍にも出来ず、毎日食事だの何だのとやって来る。向こうはすごく乗り気だから余計に疲れて、断ることは容易いけど、」
「接待じゃそうはいかないよ。そりゃ、寂しかったけどさ、でも仕事は大事だよ。理解あるようなこと言ってるけどね、多分、本当はすごく嫌なんだと思う」
 他人事のように自分の心情を言ったみかげに、和矩は右手を出してその頬に触れる。
「こうしたかった。ずっと。これからもずっとこうして居たい」
 奏の体が熱くなる。何をしたいというのか解らないが、とりあえずまだ恋愛の「れ」ぐらいしか経験のない奏には大人の会話に聞こえてしまうのだ。
 それにあれは遠まわしなプロポーズだと取れるじゃないか。奏の興味がみかげのほうに向いた。
「いくらでも。いつでも来ればいいじゃない。疲れてなければ」
 みかげの言葉がその大人なムードを取り壊している。と子供の奏でさえ解ったが、和矩は優しく、本当にいとおしそうに相槌を打った。
 二人の小声は奏への配慮だが、その声はどこまでも澄んで良く聞こえる。
「ゆっくり寝なよ。あたしならここに居るから」
「ありがとう」
「人間弱ってるとどこまでも気弱になるもんだね」
 二人が小さく笑う。衣擦れがしてみかげが寝たのだろう。パイプベットのあの安っぽい音はしなかったから用意した布団に寝たのだろう。でもあれは、こたつ布団に夏用のタオルケットを掛けただけで、風邪を引くかもしれないのに、一緒に寝てもかまいやしないのに。
 
 私に遠慮してるから?
 
 奏は少し布団にもぐった。
 細く息を吐き出すと、そのまま寝たらしかった。
 再び意識が浅くなったときにはうっすらと外は明るかった。
「奏ちゃんにごめんって、気にして寝れなかったみたいだから」
「解ってる。でもこんな早く起きなくても、」
「着替えて、風呂にも入りたいから。ありがとう。随分と楽になった」
「どういたまして」
 和矩が鼻で笑い、ドアノブに手を掛ける。
「あ、ちょっと待って、」
 振り返った和矩に、みかげは近づき、その唇に唇を触れさせた。柔らかく暖かい温もりがふわっと全身を駆け抜ける。離れるみかげをとっさに和矩は抱き寄せ、暖かさを深く知るように強く、強く唇を触れさせた。
 みかげが和矩の肩を押す。
「行ってらっしゃい」
 離れた和矩にみかげは微笑むと、和矩は昨夜来たときの辛そうな顔などどこかへ行った様なすっきりとした笑顔で出て行った。
 みかげは首をすくめベットにもぐる。
「あと、一時間は寝れるよ。あたしの朝ごはんは用意しなくていいからね、そのまま学校へ行っていいからね」
「うん、」
 いつから(起きていたの)知ってたの? と聞き返すまもなくみかげの静かな寝息が聞こえてきた。
 
 
 一週間が過ぎた。和矩は朝から藤井産業の社長の訪問を受けてうんざりしていた。彼が来ているという事は、その娘の京香も来ているということだろう。本当に毎日よく来るものだ。
 和矩が呆れているとき、京香が秘書と仲良く話しながら入ってきた。
「副社長、京香様です」
 まるで和矩の何かのような案内にいささか眉も上がるが、美人秘書はそういって京香を通した。
「おはようございます、和矩さん」
「おはようございます」
 内線が入り秘書が取る。
「副社長、面会の方がいらっしゃっているようですが、」
「面会?」
「はい、お名前は森沢様とおっしゃって、……ただ、高校生のようで」
「高校生? 森沢……、すぐに降りていくと伝えて、すみません、用があるんで」
 和矩は挨拶もそこそこに部屋を出た。エレベーターは階下へと降りていく。舌打ちをして階段へと走る。その様子に京香は秘書と顔を合わせ後を追うようにエレベーターのボタンを押した。
 和矩は息せき切って受付まで来ると、受付嬢はロビーの柱の側に立っている奏を指差した。
「奏ちゃん」
 和矩が近づくと奏はゆっくり頭を下げた。
「すみません」
「いや、いいけど、学校は?」
「行く前です。あの、こんなお願いするの間違ってるんですけど、その、あの……お金を、お金を貸してもらえませんか?」
「……奏ちゃん?」
「解ってます。あの、その、一度会ったぐらいでおかしいとは思うんですけど、でも、その、あのどうしても早急にいるんです。一万、いや、五千、いえ、千円でもいいんです。無理なお願いですけど」
 秘書と京香が降りてきた。たぶん受付辺りでも耳を済まして会話を聞いているだろう。
「確かに無理なお願いだね。僕は君の保護者じゃない。そうさ、みかげがいるだろ? あいつに相談した?」
「その、みかげさんには内緒で……、」
 俯いていく奏に行動に和矩は眉をひそめる。
「みかげに言えない、か。いいよ。貸そう」
「いいんですか?」
「あぁ。君が無駄に無心しに来たわけじゃないだろうからね。よっぽどのことがあったんだろうし。そうじゃなきゃ、わざわざ僕のところになんか来ないだろうしね。ただ、理由を聞きたいな、何に使うのかぐらいね」
「それは……、その……、例えばですよ、例えば。心配掛けさせたくない相手がいますよね。その人には言えないんです。心配するだろうから。でも、その人の大事な人が具合悪くて、その薬を買うためだと言ったら、その人は心配して仕事なんか手に付かなくなるんじゃないかしらって、多分、仕事が忙しかった所為でちょっと微熱が出てるだけなんだろうけど、それでも、自分の所為かもって思ったら、仕事なんか出来ませんよね。だから、その、内緒で。私のお小遣いはすべて預けてるんです。薬買ってくるからって言ったら、大した事無いからってお金渡さないんです。あたしのために熱伝の座布団とかひざ掛けとか買ってくれたりしてるのに、居候してるのに、だから」
「そう」
 和矩は財布を腰ポケットから出したがすぐに片付けた。
「後で持っていくよ」
「やっぱり、」
「仕事はするよ。大人だからね。でも聞いたし、いい口実だよ。そういうことがあれば早く仕事を済まそうとするし。薬は僕が買っていくから、奏ちゃんは学校へ行きな」
「でも、」
「大丈夫。巧くやるから」
 不安そうな奏の目に和矩は微笑み、秘書のほうを見る。
「野崎さん、彼女を陵智高校まで積んで行ってもらえませんか? 今から行くとなると少し遅刻するから」
「陵智、ですね解りました。どうぞ」
「ありがとうございます。あ、これ……、取り上げてきたんです。あの分じゃぁ仕事にも行きそうだったんで」
 奏は深く頭を下げ秘書と一緒に裏の駐車場へと向かうのを見届けて、和矩はエレベーターに向かって歩いた。
「和矩さん、あの子は?」
 和矩は少し笑みを浮かべ、エレベーターのボタンを押す。
「私の大事な人が預かっている子です」
「大事な人?」
 和矩は何も言わずエレベーターに乗り込む。
「これから重役会議があるんで、失礼します」
 和矩は扉を閉めた。
 京香は乗り遅れ歯軋りをして上がっていくランプを見上げた。
 
 
 秘書の野崎は感じのいい美人だった。奏を丁寧に校門前まで送り届けると、
「勉強がんばってらっしゃいね」
 と声をかけ走り去った。
 奏が頭を下げて振り返ると、鞄を肩に担いだ颯馬が立っていた。
「あ、おはよう」
「あぁ。車?」
「あ、えっと、そう、カズさん? のところに用があって、あ、今日みかげさん休むって言っといてください」
「どうかしたのか?」
 颯馬と奏は並んで校門をくぐった。
「ちょっと熱が続いてるんで、出かけられないようにしてるんです。じゃないとうろうろする人だから」
「出かけられないように?」
「靴を隠して、鍵を隠して、」
 奏が頷くと颯馬は鼻で笑い、
「そこまでするのか?」
「じゃないと、本当に出て行くんですよ。あたしがいるから……」
 颯馬は頷き、
「言っとく」
 と簡素に答えて校舎に上がっていった。
 奏が首を傾げてると、背中を叩かれて振り返る。
「あ、路葉、おはよう」
「何よ、何話してたのよ?」
「え? あ、ちょっと」
「やめなよ。藍住だからって弟のほうはさ」
 奏は首を竦め黙って靴を履き替えた。
 
 皆誤解してるんだよね、本当は颯馬君て優しいんだよ。
 
 奏は胸の内に思いを秘めて教室に上がった。
「あ、森沢ぁ」
 同じクラスの武田が奏を見つけて近づいてきた。
「お前だったっけ? 文化部?」
「そう」
「これ、佐竹(先生=文化部顧問)から預かってきた」
「あ、文化祭の?」
「じゃ、頼むな」
「こらぁ、ヤス、奏に押し付けておのれは帰るきかぁ!」
 路葉は幼馴染の―本人たちは腐れ縁だと嫌そうだが―佐竹を追い掛け回した。奏は微笑み席に着くと、隣のクラスがすでにたいそう服に着替えて運動場に出ていた。颯馬のクラスだ。
 一人はずれにぽつんと立ち、屈伸をしている。男子にも嫌われている姿に少し切なさが生まれる。
 
 放課後、奏は文化部の―佐竹は本当に帰ったので一人での出席になった―会が開かれる生徒会室、放送室の隣にある部屋で、少し物々しい表札がかかっている。
 戸を開けると藍住 透馬がすでにいた。
「えっと、何年何組の文化部?」
 透馬が戸の音にそう言って顔を上げて奏を認める。
「あ、2年5組の森沢です。出席者は一人でいいと聞いたんで一人です」
「あぁ、いいよ。森沢さんだね、じゃぁ、そこに」
 奏は頷き指された椅子に座った。そのあとから続々と文化部が入ってきた。
「あとは、2年4組だけか。……来たな。じゃぁ、始めよう」
 透馬が言ったとき扉が開き颯馬が鞄を担いで入ってきた。
「あれ、弟のほうだろ?」
 ひそひそという声を無視して、颯馬は透馬が一個空いている奏の隣を指差した。三組の文化部員は少し椅子を離した。
「さて、うちの高校は夏休み前に文化祭をするとーっても変わった学校なんだけども、それが今年も来るわけで、文化部員の皆さんには各クラスをまとめるとともに、文化祭が成功するように助力を頂きたい。今日は一応前年度の文化分の役割と反省を元に各人が担当する役職を決めたいと思っているので、とりあえず自己紹介をしようか。先輩たちからどうぞ」
 透馬はそう言って腕を組んでいる颯馬を睨んでいる三年のほうを見た。
「三年生は最後の年だし、絶対に成功させなきゃいけない身でしょ? 僕らを引っ張っていってくださいよ」
 透馬に微笑まれ三年たちは素直に自己紹介をしていった。
「さて、二年」
 一組、二組と自己紹介が終わり、颯馬の番。のっそりと立ち上がり、
「藍住 颯馬」
 と簡素に答えた。
 透馬は呆れたようにため息をつき、
「かわいげがない。藍住 颯馬ですぅ。趣味はぁ、カワイイものなら何でもでぇす。よろしくお願いしますぅ。ぐらい言えよ」
 透馬の言葉に颯馬が透馬を睨む。
「こわかねぇよ、お前なんか」
 透馬が舌を出すのを皆が笑う。だが奏は颯馬の方を見ていた。
「じゃぁ、次ぎどうぞ」
「あ、2年5組の森沢 奏です」
 紹介は続き、三十分は使っただろうか、本題に入ると透馬は優秀な仕切り屋振りを発揮した。
「じゃぁと、雑用係、これは誰がする? 主に買い物とか、各クラスのビラ印刷、その他何でも屋。二クラスぐらいで大丈夫だとは思うんだけどね、……居ない? 居ないよねぇ、こぅんな面倒な作業する人なんか居ないよねぇ」
 透馬はそう言って颯馬の座っている机に腰掛けた。そして颯馬の組んだ腕を上げて、
「お、颯馬するのか、いやぁ助かった」
 颯馬は無言で透馬を睨む。
「あ、あの、私も、」
 全員が奏の方を見る。
「え?」
 透馬の聞き返しに、
「あ、雑用の方が性分なんです。アナウンスは下手だし、案内とかも苦手で、買い物とか、そう言う方が、ダメですか?」
「いや、ダメじゃないけど」
 奏は赤い顔をして頷いた。
 透馬は首を竦め颯馬を見て黒板に名前を書くように書記に合図を送る。
 
 颯馬と奏は会議室の隅で黙っていた。
 各担当ごとの話し合いは他は進んでいるようだった。とは言え、各メンバーには核となるような人が一人は居る。二人だけの奏と颯馬に会話は無い。
 颯馬の前に紙が出される。透馬が紙を出していたが、全員に背中を向けているからなのか顔は颯馬以上に無表情だった。
「去年の買い物リスト。まぁ今年もそんなところだろうよ」
「ありがとうございます」
 奏の言葉に透馬は奏の方を見る。
「物好き?」
 奏は微笑むとリストへと眼を落とした。
 透馬は二人から離れた。
「一緒に居ると、」
「平気よ。ぜんぜん」
 奏はリストから目を離さずにそういって顔を上げた。
「予算てどのくらいなんですかね? 去年は3万はあったようだけど、それでも赤字で4万近くかかってるんですよね。でもこれって店をもっと考慮すれば安く行くかも。ね?」
 颯馬は黙って腕を組んで窓の外を見た。
 奏は一人で喋りその会議は終了した。
「今日ちょっと寄りませんか?」
 玄関で颯馬の腕を掴んで奏が声をかけた。
「はぁ?」
「今日から安い店を探さなきゃ」
「あのなぁ。まだ日にちが、」
「だって、すぐですよ、すぐ。絶対にすぐ要るようになりますって。あって困ることはないじゃないですか、無くて困ることはあっても」
 奏の強引な指導で颯馬は自転車を押しながら奏と並んで歩いた。
 生徒会議室の窓から帰っていく奏と颯馬を透馬が見下ろす。
 
 随分と変わった子だ。颯馬の悪評を聞いても動じない。ばかりか、颯馬のあの無表情が崩れるなんて。
 
 透馬はカーテンを強く締め、会議室を締め切った。
 
 
 和矩はスーパーの荷物を持ってみかげのアパート前に立った。鍵を取り出したところに階下の、清水さんが階段を上がってきた。
「あ、奏ちゃんじゃないのね。あ、貴方みかげちゃんの彼氏?」
「え、まぁ。あ、肉じゃが旨かったです」
「あぁ、もうだいぶ前ね。そう、じゃぁいいわ。さっきも変なセールスマンがしつこく叩いてたのよ、あんまり煩いから、奏ちゃんからね熱があって寝てるって聞いてたから、そこの人今日は朝早くに出かけていないわよって言ってやったところなのよ」
「すみません」
「いいのよ。彼が来たんなら安心するわ」
 清水さんはそういうと階段を下りていった。
 和矩は手すりから見える近所を見下ろした。住宅地に建つ木造のアパート。子供の姿が無いのは下校時間じゃないからなのか、ともかく寂しい場所だ。平日の住宅地というのは。
 和矩は鍵を開け中に入ると、みかげが険しい顔で起きていた。
「なぁんだ、カズか」
 どすんと寝転んだみかげに呆れながら和矩は家に上がってくる。
「いや、何で?」
「奏ちゃんが心配してた。ほら、薬」
「要らぬことを」
「うれしいくせに、飲まなきゃ直んないぞ」
「解ってる。でも、学校のこともあるのに、あたしの薬を買ってなんて負荷だもん」
「言わずに心配する奏ちゃんを考えてやれよ」
 みかげは頷き、和矩が持ってきた薬を飲む。
「仕事は? まだ五時前だよ」
「早めに切り上げてきた。一日ぐらい早く帰ったって文句言われないだろうし、」
 ベットの側に腰をかけ寝ているみかげを見る。
「あの晩か?」
「どの晩?」
「俺が泊まった日」
「が?」
「風邪引いたの、」
 みかげは噴出し、机の上―こたつ布団は片付けたようだった―を指差した。
 五、六枚の小冊があった。
「なんだ、これ? ……パートナー試験問題集」
「パートナー?」
「店長が推薦してパートになればって、試験問題を貸してくれたんだけどね、なかなかこれが難しくってね、知恵熱さ。記憶力乏しい私に新しいことの記憶は熱を出しやすくするのよ。初めてバイトした日もやっぱり熱出たしね。風邪とは違うの、知恵熱なのよ」
 みかげの言葉に和矩は安堵したように鼻で笑いみかげの額に手を宛がった。
「知恵熱って言うのは、子供がなるもんだろ」
「そうなの?」
「あぁ。従兄弟が喚いてたから」
「従兄弟?」
「子供が出来たときにそりゃこの世の終わりだぐらい大騒ぎして、亀婆に怒鳴られて大人しくなったけどね」
「おばあちゃんたち元気?」
「あぁ、あのパーティーはすまなかった。藤沢にあとから聞いて、」
「送ってくれたから大丈夫よ」
「あのお婆さまたちが組むと怖いもんないから」
 みかげはくすくす笑い、身体を少しだけ起こす。
「トイレか?」
「……そうね、催してきたかな。ってオイ」
 みかげはそう言いながらもトイレに向かった。
 和矩は時計のほうを見た。七時。
 下に車を止めたから奏が遠慮して帰ってこないのだろうか? 和矩は立ち上がり玄関に向かう。
「もう帰るの?」
「いや、奏ちゃんが遅いから、下に止めた車見て遠慮してるのかと思ってさ」
「あぁ、もう七時か。そうね、遅いね」
 和矩が戸を開けたのと、みかげがその隙間から外を見たのと、玄関前に澪が立っていたのとはほぼ同時だった。
「澪?」
 みかげの声。だが目の前の和矩の姿に澪の眉が歪む。
「近く見てくる」
 みかげが頷くと、和矩は澪の前を通って階段を下りる。
「松浦君?」
「おん。で、どうしたの?」
「え? あぁ、あのね」
「ただいま」
「帰ってきたところだった」
 奏と和矩、それに颯馬が入ってきた。
「あ、これ。俺はバイトなんで」
 颯馬はスーパーの袋を和矩に渡して出て行った。
「どこ行ってたの?」
 みかげの声に奏は首をすくめ、
「ごめんなさい。でもみかげさん携帯の電源切ってるんだもん。今日、文化部の会があって、文化祭の雑用でちょっといろいろと店を回って帰ってきたの」
「そう、じゃぁあたしの所為だね」
 みかげは笑ってベットに腰掛けた。
「熱は?」
「薬が効いたみたいよ。ありがとね」
「熱?」
 澪がみかげの額に手を当てる。
「大丈夫だよ、それよりさぁ、どうしたの?」
「そうだよ、お姉ちゃん帰って来る時期じゃないじゃない」
「実はね、ステファニーブランドのビルが建ったでしょ? あそこの専属デザイナーに任命されたの」
「というと?」
「日本で仕事が出来るの」
「澪!」
 みかげが澪に抱きつく。
「はいはい、」
 澪も嬉しそうに笑顔でみかげの背中を叩く。
 和矩は床に眼を落とし、
「これ、ここにおいて置く。じゃ」
「オウ」
 和矩は出て行った。
 みかげは澪が帰ってきたことの嬉しさをじっとかみ締めているような顔をした。
 澪は和矩を追って玄関を出た。
 青いシトロエンC2を開けようとしている和矩の側に行く。
「明日、少しお話したいことがあるんです」
「……、みかげの、彼女のことで?」
 澪が頷くと、和矩は携帯を取り出し、
「明日なら、11時には空くんでその時間なら」
「解りました」
 澪は階段を上がる。
 和矩は車に乗り込み走り去った。
 テールランプが遠ざかるのを見送り澪が家に入ると、奏がレンジで何かを温めていた。
「冷凍?」
「朝作って行ってたの。お昼に食べてねとか、おなか空いたら食べてねって」
 澪が冷蔵庫を開けると、世話好きな奏らしくタッパーにいくつもの料理が用意されていた。マメな奥さんになるだろう。と思いながら澪が戸を閉めると、みかげがお茶をすすりながらテレビをつけた。
「今日の旬なものは海外で活躍する日本人をピックアップします。多種多様な世界で活躍する日本人。有名なのは野球選手やサッカー選手ですが、今、ファッションの世界で最も注目を集めているのがこの二人、トーイとヒーローです」
 頬杖を付いてみかげが見ている。その机に澪が皿を持っていく。
「彼らは卒業旅行で行ったパリでスカウトされ、トーイはパリを、ヒーローはN.Yを拠点に活躍されてます。去年某国主催のショーで国王から名誉ある勲章を頂いたほど今は乗りに乗っている二人ですが、その私生活はほとんどが謎です。そこでこの番組では彼らに密着したのでそのVTRをご覧ください」
 画面はパリ郊外の緑輝く草原を映していた。
「ここはパリ郊外の乗馬クラブです。ここでトーイと待ち合わせしてるんですけど、あ、来ましたね」
「馬だよ、しかも白馬。よくやるねぇてっちゃん」
 みかげは机に並んでいくおかずを指で抓みながら呟く。
「あ、そうだ。家はどうするの?」
「ビルの側に社宅ってわけじゃないけどワンルーム・マンションを借りたから、」
「奏ちゃんもそこへ?」
「と言いたいけど、多分無理だと思うわ。家と言ってもデザイナー室になると思うから。奏の私物を置くスペースは確保できないと思うのよね」
「あたしはいいよ。奏ちゃんいいお嫁さんだし」
「そりゃそうでしょ、自堕落に過ごして、その熱って、松浦君が関係してるんじゃない?」
「してないよ。何で?」
「何でって、……あたしはあんまり、彼と、付き合うのは、どうか、なぁと」
「友達だよ。それもダメ?」
 澪はご飯を受け取りやたらと食欲のいい病み上がりを見た。
 和矩はみかげを好きでいる。なのにみかげは和矩を友達としてみている。それ以上に思っていることを自覚していない? そういう点では和矩を哀れむが、なんと言っても和矩はみかげに酷いことをした津田 晃平の親友だった男だ。付き合っていれば晃平の面影も出てくるだろう。そうなったとき、みかげが思い出して壊れないともいえない。澪は黙った。
 奏は何かを飲み込む姉の姿を察したがみかげはそんなこと関せずと言っていいほどテレビのほうを見ている。
「あ、ヒーロー」
 澪が顔を上げる。
 画面に映った宏樹はすらっとした足を組んでサングラスをかけてインタビューを受けていた。
「いつも硬派な印象があるんですが、普段着は随分とラフなんですね」
「まぁ」
「そうですね。ヒーローって名前の由来を教えていただけますか?」
「トーイがつけたんで。外人が呼びやすいように引っ張ったほうがいいって」
「その作戦はよかったですよね、ヒーローって外国じゃ呼びやすいし、誰もがすんなりと覚えますもんね。……では、今ハマっていることとか、好きなことってありますか?」
「……別に」
「趣味とかって、」
「ない」
「あ、ない……休みの日には何をしてますか?」
「昼まで寝てメシを食って、寝て、メシ食って朝を迎える」
「外とかには出ないんですか? 最近流行っている釣りとか、」
「いや」
 画面のレポーターはさすがにプロだ。顔色が変わらないが、みかげは顔が険しくなっていた。
「どうしていつもそう一言なんだろ。ヒーローが「会話」することってあるのかな?」
「あるわよ」
 澪の言葉にみかげが澪を見る。
「……仕事であっていればね」
 みかげは納得したように頷き、テレビを見た。
 面白くないやり取りが続き、スタジオに画面が変わった。
「二人にインタビューをして思ったのは、トーイはとても社交的で、ヒーローは内向的。でも二人が居るとそれが中和されてる。お互いがお互いの存在無しにはいられない。そんな印象を受けました」
「巧くまとめたね」
 みかげの感想はその一言だった。
 
 食事が終わり、奏が風呂に入った。
「ヒーローと付き合ってるの?」
 澪が台所を片付けて振り返る。
「みかげは?」
「質問を質問で返さない。ってよく言ってたくせに。……、店長よりは好き。一緒に居たくて、二、三日前カズ疲れきってやって来たのよ。ベットに腰掛けたとたん寝ちゃうほど。でね、一晩泊まって、」
「奏が居るのに?」
「べつに、寝ただけよ。熟睡。変なことはしてないわよ。そんなことあたしが出来ると思う?」
 澪は首を振った。
「朝早くに帰っていって、ベットに入ってすごく寂しくなった。残り香って言うの? あれが染み付いちゃっててね、居ないのに、ぬくもりが残ってるのに、匂いだってあるのに、居ないんだよ。寂しすぎてね、苦しくなってさ、あぁ、あたし好きなんだって思った」
「でも、」
「澪が心配してくれてることは解ってる。コーヘーのようなことが起こるかもしれないっていうんでしょ? あたしもそう思うから先に進めないのさ。本当に好きで、あの頃のあたしなら多分押しかけて行ってると思う。間違いなく。でも出来ないのはそういうガードがあるんだよ。握っている手の暖かさより、離した手の寂しさを味わいたくないんだよ。だから、距離を置いてる。自分なりにね。自分から会いに行かないようにしてる」
「みかげ、」
 みかげは首をすくめて微笑むと、澪を見上げた。
「澪は? 澪はどう?」
 澪は目を伏せ奏が居る風呂場を見た。
「怖い」
「怖い?」
「そう、怖い。抱かれる度に強く思われてるのが解るから、この密会がばれたら彼はどうなるんだろうって、……違うわね、私はどうなるんだろう。だわね。ばれたら、彼はちゃんと形にする気だと思うわ」
「形って? 結婚するって事?」
 澪は頷く。
「そんな、仲なの?」
「だけど、そうなれば私はもうデザインが出来ない気がするのよ」
「辞めるって事? 辞めろって言われたの?」
「けじめよ。私なりの。彼が私を背負い込むのに、私が何もしないのはフェアーじゃないもの」
「だって、それは、」
 澪が首を振ると、奏が出てきた音がした。すぐ側の脱衣所で着替えているのだろう。
「それで、奏と同じ制服の子は?」
「あぁ、颯馬君? 奏ちゃんと同じ学校で、同じ学年。うちのコンビニでバイトしてるの。いい子よ。てっちゃんの弟なの」
「……世間て狭いわね」
「ほんと、ほんと」
 みかげと澪が微笑んでいるなか奏が出てきた。
 高揚した顔に聞こえていたのだと解ると、みかげと澪が同じような顔―茶化すような顔―で見ている。
 みかげと澪は顔を見合わせて笑いあった。
 
10
 澪が荷物を新居に移し、新生活が始まったのはそろそろ夏らしくなってきた感のある五月の中旬だった。
 みかげはいつものように17時入りをした。
 颯馬もそのくらいにやってきて21時に上がる。
 みかげのパート採用は試験不合格で見送られた。でもみかげには楽なバイトが気に入っているので落ちてもどうってことはなかった。
 みかげは駐車場の掃除をしていた。六時半だがまだ明るい外ではごみが目立って仕様がない。ほうきとちりとりを持ってごみを取る。
 みかげが道路際の場所を掃いていると側で自転車が止まった。横断歩道は少し先だし、ここで止まるのは店に入るくらいだ。みかげは顔を上げると颯馬にそっくりな、だけど眼鏡をかけた男子が自転車に跨っていた。
「今日は颯馬君休みよ。透馬君」
 みかげはそう言ってごみを拾いに行く。
「颯馬を知ってるんですか?」
「君の兄貴の友達だから」
「……、なるほど。颯馬が最近えらく表情豊かなのはあなたの所為ですか? それとも、」
 みかげは透馬の側に近づき、その鼻先をちょんと指差した。
「男前はその存在だけで罪になる」
「はぁ?」
「颯馬君が表情を隠しているのは誰を守るため? 表情豊かになったのはあたしでも、あなたが思っている子の所為じゃないわよ。颯馬君が変わろうとしているだけよ。その変化、気に入らない?」
 みかげが首を傾げると透馬は少しむっとしたような顔をした。
「君の方が、厳しい性格してるんだね。人の物ばかり欲しがってちゃダメよ」
 みかげはそう言って店へと行く。
 透馬の眉間のしわは深く付けられた。
 
 すごく腹立たしい女だ。見透かしたような物言いで、そのくせまったく的を得ていない。のだろうか?
 
 透馬はみかげに揺す振られるのが酷く不愉快だった。
 翌日。奏を呼び出した。ひと気の無い生徒会議室だ。
「あの、なんでしょうか?」
「君が一緒に住んでいる人だけど、」
「みかげさんですか?」
「その人ってなんなんだ?」
「何って、どういうことですか?」
「どうもこうも無い。あの人は、」
「私の大事なお姉さんです。姉の親友で、私の事を助けてくれている人です。みかげさんは知らないうちに暴走してしまうけど、藍住さんを苛立たせるかもしれないけど、藍住さんに罵声浴びせられるような人じゃないです」
 奏はそう言って透馬を見入った。ここで俯いたらきっと負けてしまう。この人はその存在だけで人を伏せる力を持っている。生まれながらにして社長気品の備わった奴。といったのは徹だった。
「そいつの言うとおりだぞ、何があったかしらねぇけど、」
「聞いただろ、俺がお前のバイト先に行った事を」
「ぜんぜん、」
 透馬が疑いのまなざしで颯馬を見る。
 颯馬は戸を後ろ手に閉め奏の隣に立った。
「あの人(みかげさん)はそう言う事言わないから。変わった人なんでね。うちに居るような人じゃないんだよ、透馬。お前が何が気に入らないのか最近やたらと突っかかってくるのは、大なり小なり(俺に)みかげさんの影響があるかもしれない。でも、あの人と居ると楽になったんだよ。あの家に居ても、窮屈で死にそうだと思わなくなった。居辛いが、死ぬことは無いと思えるようになったのはみかげさんのお陰だ。いくら透馬でも、変な言いがかりをするとゆるさねぇぞ」
 颯馬はそう言うと奏の手を引っ張って出て行った。
 透馬は椅子に座った。
 これまで一度として颯馬が透馬に歯向かってきた事は無い。いつも黙って後ろに居て、「悪者」で居てくれた。それなのにこの妙な焦燥感はなんだ?
 透馬は顔を顰めた。もう一度みかげに会いに行こう。そこに答えがある気がしたからだ。
 
 透馬はコンビニに向かった。
「おっと、また来たんだね」
 みかげはくすくす笑い透馬に近づく。
「今日は颯馬君来てるよ」
「あいつには用は無い」
「そ。じゃぁ、お客?」
「あんたに用があるんだ」
「何?」
 みかげの何とも言えない暢気な雰囲気に透馬はしばらく声を無くす。
「あ、あの、」
「あと、五分待ってて、外に車止めがあるからさ、そこに座ってれば五分なんてあーっと言う間さ。そうそう、仕事してるとね、五分てすんごーく長いんだよね、えぇ、そうなのさ、あと五分って言う時間差が給料に関わってくるのよね。五分がさ」
 みかげはそういって肩を落として床を眺め鼻で笑ったあと、顔を上げて透馬を見上げた。
「ま、そういうことだから待ってね」
 笑顔のみかげに何も言えず外に出ようとすると、入ってきた颯馬と目が合う。
「あれ、お前の、」
 吉田に言われ颯馬は首をすくめるだけだった。
 透馬は黙って外に出て行く。
「みかげさん」
 その声に振り返ると、自動ドアが閉まった奥で、みかげが棚に手を付いて俯いて立っていた。
「大丈夫、大丈夫。鉄分不足っちゅう奴だな。心配ないよ。と言うか、透馬君来てたぞ。颯馬君には用がないらしいけど」
「追い払おうか?」
「いいよ、何の話しか、若い子と話せば若返るっちゅうもんさ」
 みかげは高らかに笑う。
 
 おばはん化80%だな。
 
 透馬は律儀に車止めに腰掛けていた。
 七時でもうっすらと明るいお陰で学生がやたらと多い。同じ学校の生徒に声をかけられて笑顔で手を振る。
「ほい」
 透馬はその目の前に棒付きアイスに顔を上げる。
「十分だからね、休憩。それで、何の用でしょ」
 みかげはスポーツドリンクのふたを開ける。
 透馬はアイスを受け取ったが開けることなく喉を潤しているみかげを見ていた。
「開けないの?」
「あんたの、」
「のどが渇いているときにアイスを食べると余計にのどが渇くもんなのよ。特に仕事なんかしてるとね、糖分補給する以外は食べないの。それで、何の用かな?」
 みかげの言葉に透馬はどう言っていいのか解らない顔を俯け、アイスを開ける。
 みかげは黙って道路のほうを見ている。
「いやぁ、夏が近いんだねぇ。暑くなるねぇ。あつ苦しんだよね。寝れないんだよね、息苦しくなるんだよね、しんどいなぁ」
「まだ、来てもないじゃないですか」
「想像してごらんよ、首筋に髪の毛がまとわり付いて、べとーっとなってドローっとなって、もうヤダぁーって大声出すほどの体力も無くって、」
「暑けりゃ、その髪切れば、」
「お、そうかぁ。頭いいねぇ。うんうん、切りに行こう……でも休みの日に出かけるの面倒なんだよなぁ。自転車で昼間行くのって暑いしぃ、てか、仕事でもなきゃ出かけるの面倒なんだよなぁ。死なない程度に食料があったら、あたしは外に出ないね。うん、出ない」
 透馬は眉をひそめる。論点が定まらないし、この人の処理の仕方が解らないのだ。わざとや、計算でものを言っているわけじゃない。いわいる天然なのだろうが、にしても、その回路についていけない。
「それで、何のよう?」
「いや、それは、」
「颯馬君のこと? 最近いい男になってきたよね、思わない? 双子じゃ思わないか。いい男の子になってきてるよ。まぁ、学校では以前のふてぶて颯馬らしいけど、いい男の子だ。笑うといい顔をするんだよ。君の笑顔とはだいぶ違うのよ」
 みかげはそう言って微笑んで透馬を見る。
「そういう颯馬君が気に入らなくて、影響してそうなあたしに逢いに来たんでしょ? あたしと一緒に居てどういう影響があるのかって。無いよ。そんなの。彼が変わろうとしなきゃ、あたしの側に居ても変わらない人もいるもの。あなたは頭がいいから私の言っていることがもっと整頓されて解ると思うけど、颯馬君は私を気に入って側に居て影響されたとするなら、あたしが嫌いな人はあたしの影響は受けない。でしょ? 友達に影響されることは別段不可思議な現象ではないと思うのよね。ただ、貴方たち兄弟にとっては今まで無かったからちょっと戸惑っているだけで、こういうことはさ、学校という特別な世界に行ったりしたら誰もが感じることだけど、双子ってそういうわけには行かないのかな? 双子って難儀ね。ほんと、大変ねぇ」
 みかげの言葉はさらっとしていてどこか雲を噛むような印象があった。実際みかげは空をぼんやりと眺め強調などのアクセントなどつけずに喋っている。相手が聴いていようがいまいが関係ない。独り言にしてははっきりと透馬を意識させる言葉がいくつも出てくるが、本当にどうでもいいような声色でもあったりする。奇妙な会話方法だ。
 みかげが透馬の方を見た。
「君の味方は、ちゃんと側にいるよ。心配しなくても」
 みかげは立ち上がり、                    
「ごみ、ちゃんと片付けてね。じゃぁね。あぁ、そうだ。また来たくなったらおいで。じゃ」
 と店に入っていった。
 残された透馬は解けて手に滴ってきていたアイスがぼたっと落ちるまでそこに居た。
 
 なんだよ、君の味方は、ちゃんと側にいるよ。心配しなくても。って。
 
 透馬はごみを片付け自転車に跨って手のベタつきを気付いたがどうでもよくなって漕ぎ出した。
 みかげは店内に入ると颯馬が心配した顔で見ていた。
「どうした、しけた面」
「いや、透馬は、」
「いい子よ。いい子」
 みかげは笑いペットボトルをロッカーに片付けに行って仕事に戻った。それ以上のことは何も言わなかった。ただ、いい子という言葉を繰り返すだけで。
 
 
11
「颯馬」
 バイトから帰ってきて部屋にすぐに入った颯馬の部屋に透馬が入ってきた。
 颯馬は電気の下不機嫌そうな自分と同じ顔を見て少しだけほくそえんだ。
「何がおかしい?」
「みかげさんのペースに惑わされるなよ。あれにはまると面倒だから」
 颯馬は服を脱ぎ、風呂に入る支度をする。
「何でバイトなんか?」
「親父がするような質問するなよ。ここに居続けるのも幸せだと思う。だけど、世間を見て厳しさを知れば、いいように言えば、いい大人になれると思った。ただそれだけさ」
 颯馬はそういって部屋を出て行った。
 透馬は憂さの晴れない顔で颯馬のベットに腰掛けた。
 みかげの「君の笑顔とはだいぶ違うのよ」に妙なショックを受けた。透馬の笑顔は天下一品だと自負していた。人を馬鹿にして、人をこけ降ろしていながらその笑顔で誰もが心を許す。まさに悪魔のような笑みだと。それを見透かされた気がした。
 
 来たくなったらおいでだぁ? 上等だ。俺を本気にさせやがって。
 
 透馬は解っている。何に向きになり、何に怒っているのか。それが非常に虚しい虚無感に対してだということを。

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