彩りの四季_夏


 澪が帰って行って季節は夏を迎えようとしている。
 澪が帰る前に徹たちと一緒に食事をする約束だったのだが、結局澪が急にステファニー(デザイン事務所の社長兼そこのオーナーデザイナー)に呼び戻されて中止となったのだ。 だがそんなことをみかげが気にすることも無く、まぁ、一度だけでも有名人と食事ができてラッキーぐらいの感覚だった。
 みかげはいつもどおり、17時入りの24時上がりのコンビニのバイトを続けている。今迄で一番長く続いているかもしれない。
「達端さん」
 店長の篠崎が、事務所兼在庫倉庫裏手にあるごみ置き場にごみを持っていっていたみかげに声を掛けた。
「なんでしょ? 延長ですか?」
「いや、その、次の休みなんだけど、」
「明後日ですけど、誰か休むんですか?」
「いや、その……一緒に食事とか行かない?」
 みかげはまっすぐに篠崎の目を見入った。ごみ置き場には明かりは無い。事務所からかすかにもれ、隣の民家からの明かりでかろうじて辺りが見えるようなくらい中で、デートの誘いとはオツな事で。みかげは暢気に思いながらも、
「いいですよ、何時にします?」
 断る理由が無い女の返事は軽いものだ。相手はどんなことを期待しているかなど考えもしない。
「あ、じゃ、夜は? 七時からとか」
「いいですよ、どこで待ち合わせします?」
「えっと、」
 篠崎は一応用意しておいたらしい言葉を捜しているようだった。いい大人が一人の女をデートに誘うのに真っ赤になって、しかも承諾すると舞い上がっている。
 
 かわいい
 
 みかげはそう思うとくすりと笑った。
「あ、えっと、公園、イチョウ公園の北口、大通側の所はどう?」
「いいですよ」
 篠崎は二度繰り返し、みかげは二度相槌を打った。
 その日と次の日、篠崎の機嫌がよかった。
 みかげは至って変わらなかった。ただ、当日になってやっと、服を選んだり、七時になるのを待っていたりするとどきどきしてくる。こうなると、
「面倒だなぁ。行くの。やめようかなぁ」
 という気が起こってくる。でも、一食浮くのなら。と気重だが立ち上がり、イチョウ公演北口、大通りに面したほうへと行く。
 そういえば、公園入り口は写真展のあった会社の目の前だ。
 みかげは随分と早くに着いた。家にいても暇だし、どうせ行くのなら、さっさと行こうと思ったのだ。
 松浦旅行企画会社はまだ人を受け入れていた。後三十分もたたないうちにシャッターが閉まるのだろう。
 初夏の風はまだ湿気を含まずにさらっとみかげの髪をなでる。
「あ……」
 思わず言ってしまったような声にみかげが反応して声のほうを見れば、和矩が紙袋を抱えて立っていた。
 
 見たことのある顔だなぁ
 
 みかげが首を傾げる。
 
 何事も無かったように、気にせずに、行こう……
 
 和矩がその前を通ろうとしたとき、どういった経路が接続されたのか、みかげは不意に思い出した。
「トーイと一緒だった人じゃないですか?」
 和矩は立ち止まり、静かに頷いた。
「やっぱり? あ、もう終わったんですか?」
「いや、残業用のメシ」
「残業……、大変ですね」
「まぁ、じゃぁ」
「がんばってくださいね」
 みかげに言われ和矩は足早に会社のほうへと向かう。
 会社に入り際振り返れば、みかげに男が近づいていた。
「遅くなって、さっきの知り合い?」
「お友達です。性格には友達の友達」
「そう……、じゃぁ、まぁ行く?」
 みかげが頷くと篠崎は案内するように一歩前を歩いた。
 篠崎は照れくさそうな顔をして歩く。みかげはただこんな時間外を歩くなど無いなぁとぼんやりと思いながら、後を歩く。
 誰に聞いたのか、「とりあえず居酒屋のほうがいいでしょ」と篠崎は居酒屋につれてきた。
 みかげは黙って向かいに座り、レモン酎ハイを頼んだ。
「何食べる?」
「高くない奴」
「は? あ、遠慮しなくていいよ。てか、ほんと、大丈夫だから」
「いやいや、割り勘ですよ、店長だって給料日前だし」
「……その店長って辞めない?」
「……篠崎さんでしたっけ?」
「まぁ、そうなんだけど、」
 篠崎が何を言わんとしているか解ったがあえて何も言わず、運ばれてきた中ハイで乾杯をすると口を湿らせた。
「えっと、まぁ、何かこういう店のほうが楽かなぁと思ってね、と言うか、高い店には行けないからね」
 篠崎はみかげが飽きないようにいろいろと話しかけてきた。
 
 相変わらずいい人。
 
 そう思いながらみかげは頷いたり、酎ハイを飲んだり、運ばれてきた一品物を食べた。
 居酒屋だと言っても、腹の足しにはなる。相手が気を遣って話している間、頷いて食べ続けていれば腹も満たされる。
 こ一時間が過ぎ、二人は店を出る。
「次ぎ行く?」
 篠崎の言葉に時計を見ればたいした時間ではない。
「べつに構いませんよ。どこ行きます?」
「ちょっといい店なんだけどね」
 そういって結構洒落たバーへと向かった。
 二人してカウンターに並ぶ。
「その、どうかな?」
「何がです?」
「付き合わない?」
 篠崎の言葉に、
 
 おお、とうとう言ったね、あんた
 
 と暢気な事を思いながらみかげは篠崎を凝視する。
「そうですね、……そういう目で見てないし、店、篠崎さんがどういう人か解らないので、そこから始めるのはありだと思いますよ。でも、恋人だからとか、恋人なんだからと言う事は無理だと思う。束縛が嫌いというわけじゃないです。いやほどほどですけどね、でも、私苦手なんです。のめり込むのが。……だから、いやだろうけど、時間すごくかかるし、その結果篠崎さんが望む形にならないかもしれないけど、店長とバイトという関係以上の気持ちで接することは出来ると思います。それでよければ」
 みかげはまっすぐに篠崎を見て言った。その直視に篠崎のほうが唖然とし、返事に困惑した。
「無理だとか、面倒だと思うならたぶん承諾しても長続きしませんよ。私にはこういうやり方しか徐々に人を受け入れないようになってるんで」
 みかげはカウンターのほうに視線を移しカクテルを口にする。
「じゃぁ、今までどおり? ってことだよね?」
「表面的には。店長として接するでしょ、仕事中は。でも、終わったら、篠崎さんになる。その篠崎さんが自分にとって良い人なのかどうかは今まで見て居なかったですからね、付き合います。でも、すぐに恋人で、いろいろと関係を結んでって言うのは、無理です。それを望んでいるのなら、それをすぐにしたいというなら、私では無理です」
 みかげは篠崎のほうを見た。
 篠崎は呆気にとられながらもいろいろと考えているようだった。
「き、君が良いと思うときに、いい返事が来るのを期待して待つよ」
 篠崎がやっと出した答えにみかげは微笑み頷いた。
 
 この人は本当にいい人だ。流れ的にそのまま好きになるのじゃないかな?
 
 そんな漠然とした未来予想に妙な引っ掛かりを受けながらもみかげは少し暖まった胸の心地よさと、酔いに気持ちよく微笑んだ。
 
 
 夏になっていた。気付けば夏で、暑いなぁとみかげは空を仰ぐ。
 汗が首筋を伝って流れ、日向を歩くと体力を奪われる。そろそろどこか日陰に避難したほうがよさそうだ。そう思っていたみかげの腕を誰かが引っ張った。
 みかげは引っ張った腕のほうを見た。
「ヒ、ヒーロー?」
 サングラスを掛けた白いシャツのヒーロー、宏樹が腕を握っていた。
「倒れるぞ」
 宏樹に言われみかげは自分が斜めになっているのを実感する。
「貧血ですかなぁ。暑いですからね」
 宏樹は腕を引き、さっき出てきたんじゃないかと思われる店に逆戻りした。
 冷房がすっと身体の熱を下げる。
「あ、すみません」
 こんなところに喫茶店があったっけ? とみかげは店を見回す。だがまだぼんやりとした視界で、よく周りが見えない。
「アイスコーヒー?」
「……、え? あぁ、ミックスジュース」
 宏樹は一瞬眉をしかめたがそれを注文した。
「あ、あれ? 確かモナコに居るんじゃ?」
「テツ、いや、トーイはね」
「澪も。……モナコっていいところです?」
「一応」
「澪はすごいよね、いろんなとこ行って、あたしは無理だな」
 みかげは少しさめてきた頭でもう一度周りを見た。
 どこかの商用ビルの中に設けられたエントランス的な喫茶店のようだった。受付が向こう側に見えるし、スーツ姿の人も多く居る。
「ヒロ?」
 その声にみかげと宏樹が顔を上げれば、和矩が眉をひそめて立っていた。
「か、……帰ったと思ったのに」
「目の前で貧血で倒れそうだったんで、連れて来ただけ」
「そう……、大丈夫?」
 和矩はみかげのほうをちらりと見た。みかげは頷く。
「仕事で、出るんだ」
 宏樹が頷くと、和矩はみかげに頭を下げて立ち去った。
「いい弟って感じですね。トーイも、ヒーローにとっても。いつもどっか白ーっと、いや褒めてるんですよ。としてるくせに、さっきだけはお兄さんのような顔になってる。いいね、男の友情って」
 宏樹は何も言わずに車に乗り込もうとしている和矩をガラス越しに見た。
 タクシーが走り去り暫くしてから宏樹の携帯にメールが入った。宏樹が携帯を見る。
「まだ、一緒に居る?」
 和矩の言葉に宏樹は納得したように返事を出さずに携帯をたたんだ。
 あの日―。徹が食事をしようと呼び出したとき、澪たちが居たのは、澪は偶然にそこに居たのであって、本当は、目の前のこの子と和矩を逢わせてあげたかっただけなのだという事を―。
「あ、予定があるなら帰っていいです。助けてもらったし、アイスコーヒーぐらいはおごれますから。ええ、もう少し涼んでから帰ります」
 みかげはそう言ってストローからミックスジュースを吸い上げた。
 宏樹は何も言わずに足を組んだ。
 みかげはその無言と、どこまでもスマートなこの美形に眉をしかめる。
「いやぁ、慣れないもんですなぁ」
 みかげはぼそりと言う。
「澪って美人でしょ、あの人見てたらそういう綺麗な人って見慣れるかと思ったけど、いやぁ、慣れませんなぁ」
 みかげの言葉に宏樹が眉をひそめる。
「綺麗ですよ、あれ? あぁ、かっこいい……、いや、やっぱり綺麗ですよ。あたしは苦手だけど」
 みかげの言葉に宏樹はサングラス越しにみかげを見たあと鼻で笑った。
「あ、笑った……、いい顔するのに、笑うと。あ、いや、睨んでます、今?」
 みかげのくるくると変わる表情に宏樹は口の端を緩めた。
「いいですよ、笑い顔って。怒るとか、悲しい顔よりずっと、ずっと。澪の笑った顔見たことあります?」
「いや、」
「あれはもう菩薩様ですよ」
「菩薩?」
「なんか悟ったような笑顔。つまり、私に向ける顔は無常の愛に満ち満ちてて、まるで母親だったりするんですよ。多分、あたしが頼りない所為なんだけどね。でも、もう少しかわいく笑えばいいのにって、美人過ぎて誰も寄り付かないのにって思うんですけどね」
「知らないだけで、居るんじゃないのか?」
「居たら、もっと不機嫌ですよ」
 みかげの言葉に宏樹が首を傾げる。
「好きすぎて相手につりあわないと勝手に思い出すんですよ。いくら相手が好きだとしても。多分、好きだの愛してるだのと連呼してても、安心しないんじゃないかな。じゃぁ、どうすれば安心するかといえば、……どうするんだろ? 言葉じゃだめ、……コミュニケーション? そういうタイプなのかなぁ?」
 みかげは腕を組み考え出した。
 宏樹は黙ってその姿を見る。
 
 モナコには行っていたのだ。だが別の仕事で先に日本入りしたのだ。カウントダウンパーティーですれ違い、日本で思いもよらず会えた。そしてイタリアでのショーから三ヶ月ほどずっと一緒に移動していたのに、交わした会話は皆無に近い。
 時々携帯を見つめる澪を見て、相手はこの目の前に座っているみかげだと思うと少々焼き餅を焼いたりした。だが、なんとなくこの二人の間に友情とか、親友とか以上のものがあるのを感じていた。
 二人に恋人ができたら、この二人はどうなるんだろうか? そんなことを心配してしまうくらいの何か。巧く言えないがそう言う物があるように思える。
 
 みかげはぽんと手を打ち、
「だからって、好き者とかじゃなくて、厭らしい訳じゃなく、たとえば、しっかり手を握っていても、本当はこの人あたしと手を繋ぎたくないんじゃないかとか思うんですよ、澪って、その結果、一人でずんずん歩いていって周りに誰も居ない。皆彼女は一人で大丈夫だって思うんだけど、澪の方が本当は一人じゃ耐えられないんだよね。いや、それ以上にあたしのほうが居られないんだけども、あたしのことはどうでもいいんだけども、」
 みかげがジュースを口に含む。
「しっかり抱きしめて、しっかり手を握っていても、寂しすぎるから、相手に委ね様と出来ないんだよね、」
 みかげは静かにそう言って窓の外のどっか遠くを眺めた。
「何で、俺に言う?」
 みかげはきょとんとした目を宏樹に向けた。
「どうして? さぁ。居たから」
 みかげの返答に裏は無さそうだった。
「そう……」
 宏樹のグラスの中はすでに無かった。
「あ、本当に、もう大丈夫ですよ。後はのたりくたりと帰りますから」
 みかげの言葉など聞いているのか、聞いていないのか、宏樹から返事はまったく無かった。ただ腕と足を組んでいるだけだった。
 みかげは間を持て余したかのように周り見る。
「また、倒れたら困るだろ、送っていく」
「え? いや、いいんですってば、忙しいでしょうから」
 みかげが手を振るのを無視するような感じで宏樹は無言でそこに座る。
 
 耐えられん
 
 なんだってこの男はこれほどまでに無口なんだろうか、あたしとは、つりあわないどころか、この沈黙は重い。辛いなぁ。
 みかげが俯くと、
「カズに頼まれてるだけだ」
「カズ? 頼まれてる? どういうこと?」
「暇してるなら、貧血で倒れそうだったんなら送っていってあげたら?」
 宏樹は携帯を指差す。
「俺の思考じゃない。あいつの優しさだから、例ならあいつにいいな」
「と、言われても。カズって誰だか……」
「いずれ、解る」
 みかげは頷いた。
 
 結局、みかげは宏樹に送ってもらうことにした。宏樹にいくら先に帰れと言っても帰りそうも無く、黙っていることに耐えられなくなったからだ。
 宏樹はこの近所にある和矩の家にある車で送るからと、そこまで歩いた。みかげはこの町に住んで何年にもなるがこんな場所があることを知らない。
 大通りから二つ入った路地にある一階が商用店舗が入る形の三階建てのアパートだ。そこの駐車場に止めてある青い車に乗り込む。
 運転席のシートを若干後ろに下げて宏樹が乗り込むのを見て、
「これ、ヒーローのじゃないの?」
 とみかげは聞く。
「ああ、カズの。どうぞ」
 みかげは助手席のほうを開け「お邪魔します」と言ったが、
「やっぱり、彼女とかに悪いかな?」
 と聞いた。
「カズには、」
そう口にした宏樹にみかげが指をさす。
「ヒーローの」
「……居ない」
 みかげは首をすくめた後で乗り込んだ。
 みかげの案内? で、みかげの職場であるコンビニに着いた。
「家まで送るぞ?」
「いいんです。もう、仕事の時間だから」
 そういってみかげが車から出る。
「ありがとうございましたぁ。あ、気をつけて帰ってくださいね」
 みかげの言葉に宏樹は片手を上げて走り去った。
「達端?」
 みかげが振り返ると、入り口のゴミ箱のふたを持った篠崎が走り去った車を怪しげに見ている。
「男?」
「友達です」
 みかげはそう言って事務所の入り口へと向かう。
 
 
 篠崎はみかげの行動に変化が無いことを確認しつつも、あの車の男―宏樹―の事が気になっていた。サングラスを掛けたかなりイイ男だと男の篠崎も解る男だ。乗っていた青い車に違和感を感じたが、彼はそれをすっと運転して出て行った。みかげは彼を友達だと言っただけだった。
 
 どこの、誰で、どういう友達なのか。
 
 そんなことを聞くこと。それが出来ずに篠崎は一人悶々と過ごすしかなかった。
 
 日付が変わりそうだ。いい加減帰ろう。と和矩が立ち上がったとき、宏樹からメールが入っていることに気付いた。
 
「×××にあるコンビニで待ってる」
 
「はぁ? 何でそんな場所に?」
 和矩は怪訝そうに眉をしかめたが、自宅に戻り車に乗り込む。
 和矩がいやな瞬間のひとつだ。宏樹や徹が自分の車に乗り込むと、必ず座席が下がっている。足の長さの違いを実感する瞬間だ。
 和矩は少し不機嫌になりコンビニへと車を走らせる。
 いったい近所にどれほどのコンビニがあると思っているのか、わざわざコンビにまで車を走らせるなど、コンビニの意味が無いじゃないか。そう思いながら、信号で止まる。すぐそこに見えたコンビニ。だが、宏樹の所有してそうなものは外には無かった。
 和矩は駐車場に車を止め、コンビニの中に入る。
「いらっしゃいませ、こんばんわ」
 眠そうないかにも夜間バイトだろう大学生の声。
「いらっしゃいませ、」
 甲高い声に和矩は雑誌売り場を見る。
 みかげが明日発行の雑誌を並べていた。
「あ、こんばんわ」
 みかげの記憶の中に、何度か会った人と言う認識はあったようだ。和矩は頷き、みかげに近づく。
「あ、……ヒロ、ヒーロー見なかった?」
「ヒーロー? いいえ、来てませんよ。あ、あの後、……、あなたの車で送ってもらったんですよ。すみません気遣ってもらって」
 和矩は、みかげが外の車を指差すのを振り返って見る。
「あ、……そう」
 和矩が返事をしたとき、篠崎が店内に入ってきた。
「あ、達端さん、上がっていいよ」
「あ、じゃぁ、これお願いしますね」
「終わり?」
 和矩の言葉にみかげが頷く。和矩はその後ろに立っている篠崎の視線に頭を下げ弁当売り場に向かった。
「何、なんか言われた?」
 篠崎の言葉にみかげは首を振り、
「友達です。今日送ってくれた人、あの人を探してるみたい。でも行き違いになったみたいですけどね」
 みかげは首をすくめ、事務所があるレジ側へと行く。
「また、弁当ですか? ちゃんと食べなきゃといってもあたしもですけどね」
 みかげは笑って事務所に消えた。
 和矩はレジに持って行き、弁当の温めを頼み、背後で自分を注意している篠崎の視線を背中に感じていた。
「お待たせしました〜」
 力ない、うざったそうな声に
「どうも」
 と袋を預かり外に出ると、空を仰いでいるみかげが立っていた。
「ありがとうございますぅ」
 みかげの言葉に和矩は頭を下げる。
 みかげは頷くと、家に向かって歩き出した。
 篠崎はその様子を店内から見ていた。
「あ、ねぇ」
 和矩は篠崎の視線に気付いたが、声は理性を抑えて口走っていた。
「歩き?」
「今日は、」
「送ろうか?」
「いいですよ、」
「変なことはしないから」
「そんなこと心配してませんよ」
 みかげが笑う。
「早く帰らなきゃ、」
 和矩の目が篠崎のほうを見る。「彼が心配するし、送ってもらったりしてもね」その言葉を聞きたくなくて和矩が車に片足を上げる。
「彼女、電話待ってると思いますよ」
 みかげは笑って頭を下げ歩き出す。
「居ない。……、彼女は居ない。だから、乗らないか?」
 みかげはゆっくりと振り返り、和矩を見入った。
「いや、嫌ならいいんだ。帰る方向も違うようだし、」
 和矩はそう言って車に乗り込む。
 
 だいぶ前に、徹に聞いた事がある。徹くらいの収入、地位や名声があれば彼女を側においていても何も不都合が無いだろう? という事を聞いたことがある。年に数日。日本に帰ってきて、会っているのかと思えば、話を聞けばすれ違っているだけだと言った。
 彼女はごく普通のOLで、昼休みに決まった場所で食事をする。その店に行き、たったひと目合わすのがデートなんだと言った。電話もせず、声も掛けず、一緒に居る事をしない。それがデートで、それを知っている限り十年近くもやっていて不安じゃないのか? 彼女にそのうち好きな人が出来るぞ、と言ったことがある。そのとき徹は腹が立つほど清々しく答えた。
「怖いんだよ。そうしてないと。声を聞いたら、手を握りたくなって、手を握ったら、抱きしめて、離したくなくなる。でも、彼女はいろんな人に愛されてる。俺一人の彼女じゃないんだ。俺一人の人になるにはまだまだ現状の俺じゃぁだめなんだ。彼女に好きな奴が出来たら、影で応援するさ。邪魔や足手まといは嫌だからな。彼女に無理強いはさせてない。彼女は自分の意思でこの俺に付き合ってくれている。ありがたい人だよ。だからこそ、自分がどうにかなりそうなときでも、昔言ってくれた言葉で生きていけるんだ。欲なんて果てしなく深い。浅いところで我慢してなきゃ、卑怯だけどな」
 と言ったのを思い出した。
 
 会えたらいいな。とまるで青春漫画の主人公か? と馬鹿に出来るような思いを抱いてから偶然会えて、今は声さえ聞ける場所にいる。このまま車に乗せたら、どこまで暴走するだろうか? 徹が言っていた恐怖とはこれかもしれない。」
 和矩はため息をついてエンジンを掛けた。
 帰ろう。帰って、宏樹が仕組んでくれた再会が果たせたこと、だが勇気がなくてそのまま帰ってきたと告げよう。
 ギアを入れようとシフトノブに手を伸ばしたとき、助手席の窓が叩かれる。
「いいんですか? 本当に?」
 みかげの声がガラス窓の向こうから聞こえる。
 和矩は頷き、弁当を掴むと、みかげがドアを開け、後ろに投げようとする弁当を掴んだ。
「持ってますよ、」
 みかげの匂いがドアによって閉じ込められる。
「か、彼氏に悪くない?」
「彼氏? あぁ、……うーん」
 みかげは腕を組み考える。
 和矩は黙ってシフトをはずしその答えが出るまで待った。
「歩けないわけじゃないんですよ、でも暑いですしね、なんせ夏です。楽かな? と思ったが、うーん」
「彼氏が怒るだろうな、と思うなら、出たほうがいい」
「彼氏とかって、どうやって決めるんですかね?」
「はぁ?」
「好きだといわれて、付き合おうと言われて、」
「了承したらだろ」
「だと思うんだけど、私、相手の事知らないし、いや、店長なんでね名前とか知ってますよ。でも、性格とか、付き合える対象かなんて解らないから、徐々に知っていくこと、それで結果付き合えないとしても知らないとは言ってあるんですけどね。でも、やっぱり、目の前で乗り込むと、いやでしょうね」
 みかげの言葉に和矩はバックミラー越しに篠崎を見る。
 
 仕事も手につかない。か
 
 篠崎は先ほどから微動だもせずに雑誌売り場に立って車のほうを見ている。もし同じ立場なら、やはり和矩も仕事が手につかないだろう。
 
 手を引く理由はないのだが、今は恋愛に勤しむ余裕はない。仕事が優先事項だ。
 
「そう言う事なら、彼、いや店長さんに悪いよ。俺が女で、顔見知りなら安心するだろうがね」
 和矩は笑顔をみかげに向けてすぐ正面を向いた。
「そうですね、それがいいような気がします」
 みかげがドアを開ける。和矩はとっさにみかげの残っている右手を握った。
 
 何やってんだ、俺?
 
 頭が暴走を始めている。と解っているのに、手は離そうとしない。
「お弁当なら返しますよ」
 みかげが笑う声が耳につく。
 このまま引っ張って連れて行こうか? ここでキスでもするか、ここで……。
「みかげ?」
 篠崎が痺れを切らし出てきたようだった。和矩の手がすっと離れ、助手席に弁当が乗せられる。
「何してんの?」
「昼間の彼のことを話してたの。何で? そんなに変な時間がたった?」
 みかげはころころと笑った。
 
 嘘をついた。
 
 みかげの言葉に和矩は頭を下げた。
「昼間の彼がねちょっと塞ぎ込んでるの、何でだか知ってるかって、だから、多分、……側にいないからじゃないの? って答えてたの」
 みかげはそう言って和矩に頭を下げて戸を閉めた。
「あ、気をつけて帰ってくださいね。多分、先に帰ってると思いますよ」
 と手を振る。
 帰るタイミングをくれたのだ。和矩は頭を下げ車を滑り出した。
 このまま帰って、みかげはどうするんだろうか? あの男―篠崎―にいろいろと問い詰められたりするんだろうか?
 道路に出る前で和矩はブレーキを踏む。夜中に通る車は少ない。そこで止まる必要が解らない。
「あたし帰りますね。お疲れ様」
 みかげがそういって一歩踏み出したのを篠崎が腕を掴んで引き寄せた。
 和矩の車が出て行く。
 篠崎はうすうす気付いていたのだ。あの車の男―和矩―はみかげが好きなんだと。だから見せしめに抱きしめた。
 篠崎がみかげを見下ろすと、みかげは眉をしかめて立っていた。
「ごめん、その」
 みかげは何も言わずに頭を下げて歩き出した。
「ちがうんだ。あいつが、」
 篠崎が必死でそう言ったがみかげはずんずん歩いた。篠崎は店と―レジ係がじっと様子を伺っている―みかげの背中を見比べたが追いかけられなかった。
 
 
 和矩は家に帰ってきて、500ml入りのビールを一気に三缶流し込んだ。台所に無造作にそれらを放り込み、くさくさする頭を掻き毟って台所にもたれ沈む。
 ビール缶がステンレスに当たる音に宏樹が部屋から出てきた。
「どうした?」
「ありがとう。だけど、……男が居てさ。テツや、ヒロがいろいろとやってくれたことなんか、ただのお節介なんだよ」
 和矩は立ち上がり自室へと雪崩れ込んだ。そこで物凄い音がするのは、多分何かを倒したり、蹴ったりしているのだろう。
 宏樹はため息をこぼした。
 男が居るようには思えなかった。実際、ああいう場合はすぐに男を呼ぶだろう。だが宏樹には思い当たる男が居る。
 店の前のごみ箱の側に立っていた男。
 宏樹は天井を見上げた。
 
 翌朝、和矩が出社する前宏樹の部屋に声を掛けた。
「昨日は、悪かった。行って来る」
 和矩はそう行って出て行った。
 宏樹はベットの中でその声を聞き、出て行った音を聞いて起き上がる。
 じゃりんと首に掛けているネックレスが音を立てた。
 澪がショーのために作った小物を気に入ったからと半ば強引に奪ったものだ。バイクに乗った姿が型抜かれた板のトップ。バイクが好きだからという理由でもらったが、本当はその下にある「Mio's」のロゴが欲しかっただけだ。
 
 和矩は会社の自室に入るとすぐにパソコンの電源を入れた。たった八時間の休息じゃ、これも壊れるだろうな。と思いながら処理を待った。
 家に帰ってからみかげの笑い声が耳から離れない。高校時分と比べてあんな声だっただろうか? ああいう笑い方をしていただろうか? 何一つ思い出せなくなっていた。
 パソコンが立ち上がると、和矩は机の上に置かれた報告書のひとつを取り、それに目を通す。毎日同じことをする。
 チェックと揚げ足。そしてだめだし。嫌われる要素は山のようにある。部下のこと、和矩よりも年上の部下への気遣い。取引先との事。経営状態。今自分の肩に圧し掛かっているいくつものごたごたを投げ捨てることはできない。と思えば思うほどみかげの姿と声がちらつく。
 
 テツの言っていた気が狂いそうになるは、この事か―。
 
 和矩はため息を落としながらも仕事を辞めなかった。
 みかげには彼氏になるべく人が居るんだ。また側で誰かの女で居るみかげを見たいのか? 和矩は必死に仕事モードを保った。
 だが、夜にはみかげの居るコンビニに足が向いてしまう。みかげは17時から24までの勤務で、八時過ぎの休憩で夕飯を食べる。とか、家は近所のアパートだとか、他愛もない会話を一日一言重ねるだけだった。
 だが常にあの店長―篠崎―が監視する。
 店員も気付いているようで、こそこそと話している。あまり来るとみかげが首になるかもしれない。ていよくそれを気に付き合いが本格化して、程よい頃に結婚でもするかもしれない。
 和矩が通いだして二週間が過ぎた。さすがに土曜日と日曜日は休みで、平日の疲れからか出向くことが出来なかったのだが、平日は常に毎日出向いていた。
「いらっしゃい。そろそろだと思ったよ」
 みかげはそう言うと事務所に入っていった。
 和矩はいつもの弁当を手に取ると、その弁当の上にみかげがビニール袋を乗せた。
「何?」
「いいもの」
 みかげは笑い、品だし作業に戻った。
 レジに行くと、いつもの無愛想な大学生が立っていた。
「あ、それ、達端さんの祝いのケーキですよ」
「祝いのケーキ?」
「今日誕生日なんですって、そんで、常連のおばちゃんとかにも配ってましたよ。俺ももらったし」
 大学生はそう言って、もう「温めますか?」と聞かなくても温め始めた。
「今日、店長は?」
「本社会議とかで出張で明後日まで居ません。誘うなら今日ですよ」
 
 このガキ
 
 和矩は大学生を睨んだが、彼は黙って弁当を袋に入れ、
「達端さん、もう上がりじゃないですかぁ?」
 と声を掛けた。
「おお、本当だ。じゃぁ上がるかな」
 みかげがエプロンをはずし事務所へと向かう。それを見ていた和矩に大学生が合図を送るが、和矩は黙って店を出た。
「誘えば面白い展開になると思ったんだけどな」
 ボソッと大学生が呟く。
 和矩の車は駐車場から迷わず出て行った。
 みかげは自転車にまたがり、蒸せる夜道を家路へと向かってこいだ。
 風は重たく苦しいほどに纏わりつく。少し行った所、店と自宅の中間で和矩の車が止まっていた。
「どうかしたんですか?」
 窓を開けて肘を出しているのを見て、みかげは運転席側に寄って中を覗く。
 和矩は意を決してみかげのほうを見た。
「今から、時間ある?」
「はい?」
「出かけないか?」
「はぁ……、あたしと?」
「ああ」
 みかげは考えようと上を向いた。熱波ガスの所為で星が見えないような暑苦しい夜空を見上げる。
「あいつとは付き合っていないと俺は思う。それで、俺も、同じように、お前と付き合いたい」
「え?」
 みかげは思わずな告白に驚き和矩を見た。
「俺の事を知ってもらうには今から一緒に出かけないか?」
「と、と、と……。急に言われても、あたしなんか、」
「嫌か、行くか。迷うなら嫌だと言ってくれ、帰るから。もう、店にも姿を見せない」
 和矩はそう言って俯いた。
 
 何言ってんだ、俺……。明日は大事な会議―冬休みのツアー会議と来年度の夏休み旅行の企画会議で、それでツアーの目玉やら、特典を決め取引相手(旅館やホテルや即売所)に掛け合うための要綱を決める会議―があって、資料を作り込まなきゃいけないというのに。今から出かけて、出れるわけないじゃないか。
 
「あたしの家、すぐそこなんです。今からどっか行こうと言われても、あたし眠いし、だから、あたしの家でよかったらそこで話しませんか?」
 みかげはそう言って微笑んでいた。和矩は頷くと、みかげの自転車の後についてみかげのアパートへと向かった。
 二階建ての木造アパートの二階の真ん中。階段側なのは、すぐに階段に出れるから。という理由らしい。
「両隣は夜の仕事らしくって、三時まで帰ってこないんですよ。真下は空き部屋、その隣は、どうだったかな、でも結構このアパートって夜型ばっかりなんですよ」
 そう言って小声で階段を上がり、鍵を開けると、下から誰かが出てきた気配がして階段を上がってくる。そして二つの影を見つけたその人は、
「あら、いやだ。みかげちゃん一人じゃないの?」
 と声を掛けた。
「なんですか? おすそ分け?」
「そうなんだけど、」
 みかげは和矩の前を通り、階段を少し下りると、階下の一人暮らしの初老婦が皿を手渡した。
「この前言ってたでしょ、肉じゃが食べたいって、作ったから。でも彼氏が居るんじゃ、」
「大丈夫、今から食事なんです。太るでしょ、こんな時間に食べるなんて」
 みかげは笑ってそれを受け取り階段を上がってきた。
 初老婦は和矩を見上げ、和矩は彼女に頭を下げる。彼女は微笑んで階段を下りていった。
「一緒に居るところ見られてよかったのか?」
「あ? ぜんぜん。暗いし」
 みかげは気にしないで部屋に入って明かりを灯した。部屋に入るとどこの家もそうだが、その家庭独特の匂いが篭っている。みかげのどこか甘酸っぱいようなか合成臭は玄関に置かれた匂い付きキャンドルからするらしかった。
 和矩がキャンドルをひとつ取り上げると、
「それ澪が買ってくれたんだけどね、お風呂に浮かべる奴とか、なんかね火を付けるとろうそくの本体の色が変わる奴とかあるんだけど、停電じゃなきゃ遣わないじゃない、ろうそくって」
「そうでもないだろ、アロマキャンドルって流行ってるらしいし」
「そうなの? 詳しいね」
 みかげは先ほどもらったものを自皿に移し、皿は洗って伏せた。
「清水さんの肉じゃがおいしいのよ。一緒に食べよ。あ、弁当もう一回温める?」
「いや、いい。まだ暖かいから」
「……、入ったら? ごみごみしてて上がりにくいだろうけど」
 和矩は鼻で笑い靴を脱いだ。
 ごみごみしている。というより、いろんなものがあった。ごみ屋敷でも、収納下手でもなく、ただ、あちこちに箱に入ったものがあった。
「引っ越すのか?」
「いいや、引っ越してきてからのまま」
「片付けろよ」
「そうでしょ、あたしもそう思う」
 和矩は呆れながら首を傾げる。
 みかげはコップを二つ持ってきて、麦茶のボトルを机に置いた。
「お箸あった?」
「いや、いつも無いぞ」
「吉田め。言っとく」
「いや、いつも断るから入れないんだろ。温めも最近聞かないから」
「そう? ならいいけど、待ってて、確かお客様用の箸が合ったはずだが……、どこだっけかなぁ」
 みかげは台所の引き出しをいくつも開けるが入っていないらしい。
 
 お前の箸でいいぞ。だが、いくら洗っているとはいえ、使った箸を使うのは……、何考えてんだ、俺……。
 
 和矩は頭をくしゃりとつかむ。
「どうかした? 冷房、なかなか効かなくてごめん。いつもは窓開けて扇風機だけだから、」
 和矩が首を振ると、目の前に梱包された割り箸があった。
「ごめん、客用のお箸が見つからなくて、店のお箸を大量に持ってきてた奴しかなくて」
「いや、いい」
 和矩は箸を出し、弁当を食べ始めた。
 
 食事を終え、肉じゃがの皿も綺麗になくなり、みかげはそれを片付けに台所に立っていた。その後姿を見ながら和矩は少し眠気を感じていた。ずっと、ずっと、いらいらとモヤモヤでろくに寝た感触を得なかった。今は誰か居るという気配に安心しているのか瞼が重い。
「ベットで寝たら、夏だし、あたし畳の上のほうが好きだから」
 みかげの優しい声と、側で感じる匂いに和矩はとっさにみかげを抱きしめた。
「嫌なの解ってる。少しでいい。このまま……」
 長い沈黙と、切ない抱擁。和矩だけがそう感じているのだと解っている。和矩は大きく息を吸うと、みかげを突き放すようにして手を下ろした。
「ごめん」
 みかげはその場に腰を下ろした。
 言い得無い無言が続く。
 隣人が帰宅してきたのか、音がする。
「もう、帰る」
 和矩は呟いたが立ち上がる気は無かった。
「やっぱり、」
 長い沈黙の後、みかげが口を開いた。
「やっぱり、付き合うと、そういうことしたくなるよね?」
「解ってる、嫌なんだろ、お前のこと考えなかった。悪かった」
「違う。違うんだって。……この前、店長にも同じように抱きしめられたとき、あたし嫌だって本気で思った。嫌なこと思い出したから。でも、そう言う事をするのが普通なんだよね。これから誰かと付き合うのに、そういう事出来ないなんて、あたし、誰かを、やっぱり、」
 みかげが両手で顔を覆う。
 頭の中は、高校のとき好きだった人の裏切ったあのシーン。まるでスライドショーのように断片的に浮かんでくるあの日のこと。
 津田 晃平を好きだった。それは嘘じゃない。晃平もみかげが好きだった。なのにどこから変わったのだろう? 晃平はあの後みかげの想いが自分には重いと言った。重すぎる想いを相手にぶつけて傷ついた。だからもう人を好きになれないと思った。
 好きになると、また重いと言われてしまう。澪の事を逃げ腰だといっていたが、本当は自分のほうが逃げ腰なんじゃないか。
 傷つくのはもう嫌だ。だから、篠崎が告白してきたときものめり込むのが嫌で、逃げの口実が浮かばずに出た言葉を並べただけだ。
 だが、抱擁のひとつも出来ずに相手を傷つけるのは、晃平のしたこととなんら変わりないではないのか? 
 みかげは目頭が熱くなってきた。
 
 こういう時に澪が居てくれたら慰めてくれるのに。
 
 俯いて呼吸の乱れていくみかげを和矩が再び抱きしめた。
「じっとしてろ、呼吸を静めて、嫌か?」
 和矩の手がみかげの髪をゆっくりと撫でる。
 冷房が効きすぎているわけではないが、和矩は暖かかった。
 みかげは首を振った。
「我慢出来ずに暴走した俺が悪かったんだ。お前は悪くない。でも、話すことが出来て、手が触れられる場所に居ると思ったら、止められなかった。お前が、嫌ならもう俺はこんなことしないし、嫌なら会わない。俺はお前が傷つくのをもう見たくないんだ」
「え?」
 みかげの聞き返しに和矩は首を振った。和矩は立ち上がり玄関に向かった。
 振り返ると、和矩は笑っていた。
「あ、もう会わないほうがいいかもしれない。暴走して、嫌な想いさせたくないし。お前を悲しませないとも限らないから。あ、肉じゃが旨かったって、ご馳走って言っといて。じゃぁ」
 和矩はそういって出て行った。
 みかげはただ戸が閉まって行くのを見続けた。
 階段を下りる音、車のエンジン。走り去る音がして、みかげはようやく自身の身体を抱きしめた。
 
 淋しい―。
 
 篠崎に抱きしめられた後は嫌な感触がまとわり付いていたのに、和矩と解れた今は淋しさが勝っている。篠崎でも二度抱きしめられたら同じように思うのだろうか? みかげには解らなかった。
 
 翌日、和矩は今まで以上に仕事にのめり込んで行く。何かに没頭しておかないと、みかげをいつも思い出しそうだったのだ。
 

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