誰が為に、その威(い)を射るか 一章 一幕 宮廷内、侍女たちの部屋 侍女たちはくすくすと笑っていた。 「そんなに素敵な方でした?」 「ええ、賦規(ふき)様に引けをとらず」 「今までお隠れになっていたのが不思議なほどでしたわ」 侍女たちが噂をしているのは、今度新しく書簡庁に入ってきた青年のことだった。 「背が高く、肩幅が広くて、勇ましいのに、書簡長だなんてもったいないわ」 「しょうがないわ。後ろ盾がいくら郭大信(かくだいしん)でも、遠縁の誰とも知れない女のお子ですもの。そりゃぁ、実力があればもっといいところに行けるでしょうけど」 「無理でしょ、曹中(そちゅう)様は郭大信を嫌っているのだもの。易々と受け入れるとは思えないわ」 侍女たちの言葉は止まることを知らないかのように次から次へとでてくる。 そこへ手を打ち鳴らして侍女頭が入ってきた。 「外まで聞こえていましたよ。口を動かさず、仕事をなさい。まったく近頃の若い娘ときたら」 明るく甲高い返事があちらこちらに散り、春の中を舞う蝶のように見える。 二幕 町の中にある、居酒屋四結(しゆう)の地下 昼間でも蝋燭の小さな明かりが灯る場所。周りには高い税金に化ける酒樽が積まれている。 きれいにそりこんだ禿頭の青年が一人、その樽に寄りかかって座っていた。 酒に飲まれた様子はなく、顔も赤くない。酔ってはいないが、立てる気力がなかった。 玖呂之(くろの)は自分の掌を見つめた。 細く長い指に、きれいな色をした手で頭を押さえる。 「また、一人死んだ」 規国の重税は、人々を死へと追いやる。去年の不作で、酒の値の割高率は低くても、それでも重税を掛けられたら高級品だ。いや、酒は飲まなくても生きていける。しかし、食べ物は別だ。 しかし、酒と同様に不作の所為で物価が上がってしまっている。 三日に一食では、次は誰が死ぬだろうか? と思ったほうが自然だった。 天井の扉が開き、地下に下りる階段に明かりが差す。降りてきたのは店の娘だ。 「玖呂之?」 「平気だ」 「食事」 「お前が食え」 「玖呂之はみんなのリーダーなんだから、食べて」 玖呂之はゆっくりと顔を上げる。葉津(はづ)は笑顔を見せたがやせた頬の影が深い。 小さな小さなパンでは満腹感も得られないし、生きた心地もない。 食べること。がこれほど苦痛だっただろうか? 昔は、もっと、もっと楽しかった気がする。 玖呂之は首を振りひざを抱えて眠った。眠れば腹はすかないからだ。 葉津は盆ごと玖呂之の足元に置いて階段を上がっていった。 こうしている今でも、どこかで誰かが死んでいる。裕福な奴らはそれを良しとして平気で生きている。恨まないわけがない。憎まないわけがない。だが、自分が先頭に立ち、この弱った民衆を従えて反旗が翻るか? それが解からない。 玖呂之が息を静かに吐くと、見る見る顔が赤くなっていった。 玖呂之は立ち上がり、階段を上がって外に出る。 「付けだ、付け」 そう言って千鳥足で外に出る。 役人の間では有名な酔っ払いだ。年がら年中酒を飲んでいる男で、頭は見事に禿げている。 玖呂之は上機嫌で鼻歌を歌いながら家路へと歩いた。 三幕 近衛兵団中央出張所前 大きな焚き火が二個作られていた。松明も盛んに火花を散らし、その前で交代の挨拶が行われていた。 「作意を持っているものがいる。怪しいものはすべて尋問せよ、それでも怪しいものは捕まえて来い」 近衛兵五番隊長の黄信(こうしん)が怒鳴り声を上げていた。 玖呂之(くろの)は不意に立ち止まり、壁にも垂れて座り込んだ。 別に役所を監視する約束はない。だが、今動いて役人に家を悟られるのは嫌だった。そうでなくても、役人は良く絡んでくる。 「いいご身分だな、酔っ払い」 特に、今日の怒鳴り声に鬱積しているのか、それとも自分たちの企みが暴けないのを苛立っているのか、憲兵たちの顔さえも厳つい。 壁にもたれて寝込んでいれば、誰も何もしない。市民がどこで寝ようが、死のうが今は構わないのだ。興味があるのは、群集で集まっている市民たちだけだ。 案の定、憲兵たちは黄信に尻を打たれたように走り出した。 「では、後は頼む」 すっきりしたような声で黄信で馬車に乗り込みどこかへ消えた。 「憂さを怒鳴ることで晴らして帰ったな」 玖呂之は上目遣いで役所を見た。 髪を束ねた女が軍服に身を包んでいる。ぼそりと言った言葉は側に居るどの憲兵たちにも届いていない。 玖呂之の聴覚が優れているからではなく、玖呂之は特異体質なだけだ。遠くのものを意識的に聞き分ける。 それができるからこそ、彼女の声が聞こえたのだ。 彼女は有名だった。近衛兵史上初の女性隊員で、しかも副隊長をしている。人望も腕でもある彼女だが、上層部からの扱いは冷たく、良くて副隊長どまりだろう。 玖呂之は目を上げたことを後悔した。彼女がずっと見ているのだ。怪しい酔っ払いという目ではない。見透かしたような目だ。 「そこの酔っ払い」 彼女の声は良く通る。まだ肌寒い夜風の中凛と響いてきた。 「そこは寒いだろう? こちらで暖まって帰ったらどうだ?」 玖呂之はもそっと動いて立ち上がると、火の側に近づいた。 その頃には憲兵の姿もなく、通りを明るくするだけの焚き火だけがごうごうと燃えていた。 「あんなところで寝ると死ぬぞ。まだ寒い」 玖呂之は首をすくめ手を火にかざして揉んだ。 二人は黙って盛んな火を見つめていた。 「時々、用もないのに火に飛び込みたくなる」 玖呂之は彼女のほうを見た。 彼女はやはり女だった。きれいな長いまつげが動かずただその奥の眼がじっと火を見つめ照らされている。 名前は確か、瑛(えい)と言ったはずだ。規国東側連(れん)州の出で、父親の代から央都に移り住み、彼女は自力で近衛兵となったはずだ。 瑛が近衛兵となったぐらいまでは、規王はまだ正気だった。それは五年も前の話だ。 五年の間に人がこれほど荒むとは。玖呂之がふと苦笑いを浮かべると、瑛も同じく苦笑いを浮かべた。 「虫はよく火に飛び込む。私は虫だな」 玖呂之は静かに火へと眼を落とし、 「強いもの、激しいもの、まぶしいもの。そういうものに人は憧れを抱く。決しておかしなことではない。ただ、危ないことかもしれないが」 瑛は玖呂之の顔を見た。横顔になっていた玖呂之の顔は、近づいてきた酔っ払いの顔ではなかった。鋭い顔つきの、裏のある顔だ。 「何を企んでいる? 弱いものを巻き込み、傷付け、これ以上意地を通せば被害を増やすだけだぞ」 瑛の言葉に玖呂之は近づいてきたときと同じ酔っ払いの顔に瞬時に直し、瑛を見上げて笑った。 「企む? 何をです? 俺はあんた様に呼ばれて火に当たってるだけでしょ」 玖呂之の禿げ上がった頭が火に照らされる。 見詰め合っている目は【この男の本当の目ではない】。瑛はとっさに背筋に力を入れた。 「かなわないなぁ。火に当たれというから来たのに。へいへい、もう帰りますよ。ではさようなら」 玖呂之は小走りに遠ざかった。 もし瑛が刀を抜き追いかけてきたら応戦する。だが、瑛はじっと背中を見送るだけで動かなかった。 瑛にしてみれば、怪しい奴をみすみす逃した罪に問われるだろうが、そんなことは気にならなかった。あの男を今捕まえてはいけない。どこかで誰かが叫んだ気がした。それは赤の他人のような、自分自身のような感じだ。 どちらにしても、見逃したことには変わりない。それがどのような形であれ、いずれ自分に振ってくる災いか、幸いか、とにかく【明日(漠然とした未来のこと)】が楽しみだった。 四幕 玖呂之の家 瓶から水をくみ上げ一息に飲み干す。 やはり瑛(えい)に関わってはいけなかった。あの女は自分が何であるのか的確に把握はしていないにしろ、これからの未来に関わってくることは予想された。それがどのような関わり方なのかさっぱり予測できない。 ただ解かるのは、これから後、必ずあの女はどんな形にしろ自分に降りかかってくる。たとえ、今日、会わなかったとしても会うはずの女だ。 「玖呂之(くろの)?」 玖呂之は慌てて振り返る。 そこに居たのはこの家を借りている宿主の娘の瀬津(せつ)だった。 「凄い汗よ。もう、危ないことはおよしなさいな。何もあなたが先頭に立つことはないじゃないの」 瀬津は玖呂之より少し年上だ。だから少し姉のような口調をする。だが、幼い顔立ちに、少し弱々しい姿は瑛とはまるで逆だった。 「大丈夫、あんたに迷惑はかけないさ」 「そんなこと心配しているのではないのよ。あなたの命を」 嘆願するような瀬津の言葉を玖呂之は吸い上げて塞いだ。 無心で欲するように瀬津の体を求め、瀬津もそれを受け入れた。 でも玖呂之の耳の奥には、瑛の小声と、あの睫毛が焼きついていて離れなかった。瀬津を撫でるたびに、耳の奥で音が塞がれ、重苦しい息遣いだけがこぼれる。 こんな気持ちで瀬津を抱いては、瀬津に悪い。と離れる玖呂之を瀬津はしっかりと抱き返した。 「大丈夫よ。あなたの心がここになくても、あたしは幸せだから」 胸を掴まれる言葉も、今では【すまない】という言葉で片がついてしまう。 頭のどこかで、ここで足掻いてる女が瑛であればと思っていることも、この営みが不純であることも、もうどうでもよくなった。 自己の満足に達したからである。 五幕 近衛兵出張所内 「時雨れてきました」 そう言って駆け込んでくる憲兵の声を聞きながら、瑛(えい)は書物に目を通していた。 不審者尋問書―――――延々と続いているような文字の線を眺めていただけの瑛は、肩を叩かれてゆっくりと顔を向けた。 そこに居たのは同じく団員で、幼馴染でもある秋成(しゅうせい)だった。 文武そろって並の彼は、瑛に遅れを取ってまだ憲兵長だが、別に瑛に対して卑下などしていない。瑛に好意を寄せていることもあるし、瑛の類まれな才能をよく理解しているからでもあった。 そして時には相談相手となり、いつもいい奴で居た。 「どうした。ぼんやりにもほどがあるほど呆けていたが?」 瑛は書物を閉じ、秋成に向き直った。 秋成の後ろには、秋成の隊員たちが暖をとっていた。 「どうした?」 「具合が悪い。早退させてくれ」 「大丈夫か?」 瑛は頷いてマントを羽織って外へ出た。 外は確かに時雨れていて、雨だか雪だか解からないものが頬を打つ。 瑛は辺りを見渡し、家とは逆なほうへと歩き出した。 真っ暗い道を進むうちに、玖呂之(くろの)の通った道に足跡がぼうっと明るく見える気がした。間違っているかもしれない。でも、感じる。 【あの男は、ここを通った】 静かな静かな道を歩き、一軒の家の前で立ち止まる。 足跡が途切れた。この家があの男の家だろうか? 瑛は家を見上げた。景気のいい住まいではなかった。ひっそりとしていて、動いているものは瑛だけだった。だが、瑛の足音はそこにいる者の眠りを妨げたらしい。 瑛は俯いて踵を返すと、今度は家へと帰った。 感じる。ここにあの男がいて、町に住む人間という人間が、しかも下級階層のものがすべて反旗を挙げようとしている。あの男は、それのリーダーだ。 瑛は直感的に悟った。だが、それを誰に言うでもなく、寒さをしのぐために襟を高く上げるのと同じく、口をふさいだ。 |
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