Lady Ann〜火曜日のあしながおじさん〜
1 「初めまして、私がレディー・アンです!」


 N.Y。
 大都市であり、今や世界の中心と言っても過言では無い街。いろんな人がいろんな生活を送り、いろんなことが織り混ざった、でも不思議と居心地がよく、不思議とこの雑踏と喧騒が心地いい街だ。
 一言で、N.Yと言っても広い。フォート・トライオン公園からバッテリー・パークまで、一体どのくらいあるのかとか、チェルシー公園から現ニューヨーク大学病院までがどのくらいかなど、そんな細かいことをいちいち書き記さずとも、きっと、あなたもご存じであろう、N.Yは一言で言い表せる街だ。そう、「凄い街」だとね。
 その街の、ハーレムにほど近い洗濯屋。そこがこの物語の始まりだ。
 時代は1830年代。世界が不穏な動きへと歩もうとしている中で、必死で生きていこうとしている少女の物語である。
 彼女の名前は、アン・トレイシーバー。レディー・アンである。
 移民の街であるとおり、彼女もまた移民の血を引いている。母親はタリア系移民2世。父親は生粋のタリア人だ。
 父親はトランペット吹きで、レディー・アンがちょうど生まれて間もなくヨーロッパへと行って行方が解らなくなっている。
 母親はレディー・アンを育てながら、ハーレムに近いこの街で、洗濯屋の住み込み婦として暮らしていた。
 レディー・アンが十三の誕生日の日の朝、母親は安らかな顔をしたまま逝ってしまった。
 そして季節は巡り、レディー・アン十四度目の春のことだ。

 レディー・アンは母親の墓に手向ける花を道端から摘み取りながら、集合墓地へと向かっていた。レディー・アンのお供はいつも鼻歌だった。
 ハーレムにはいろんな音が溢れていた。それが後にジャズとなり、大ヒットをする歌になろうとは、歌っているレディー・アンには想像ついていない。
 集合墓地は、ひっそりとしていて、厳粛で、でも日の光が当たっていて、怖くはなかった。
「ママ? 元気? あたしもうすぐで十四になるの。素敵でしょ。」
 レディー・アンはくすくす笑いながら、花を置いて手を組んだ。
「パパは、そちらに行った? まだだといいわね。逢いたいもの。一度。そう、女将さん(洗濯屋の女主人)がね臨時収入だって、銅貨を一枚くれたの。でも、これで花束は買えるけど、お腹は一杯にはならないから、お花、貧相だけど許してね。」
 レディー・アンはその後黙って目を閉じて、母親と何かを交信するように黙想してから、すうっと立ち上がって背伸びをして、墓地をあとにした。
 レディー・アンの誕生日は、四月七日。あと一週間ほどで誕生日を迎える。一応、母親と住んでいた洗濯屋には今も住み続けているが、洗濯屋だって、この大恐慌と、子供がレディー・アンを除けて五人もいる家庭に、他人であるレディー・アンを特別に勉強させる余裕はどこにもなく、レディー・アンは、学校に行っている近所の子が帰ってきて、勉強を教えてくれるまでの間、洗濯屋を手伝い、まだ学校に上がっていない洗濯屋の子供達の面倒を見たりしていた。それが、住み込ませてもらい、食事を与えてもらっている条件のように。
 レディー・アンは、女将に言われて買い物へと向かう。背中には母親が死ぬほんの少し前に生まれた二歳になったばかりのスコットをおぶっている。
 スコットはレディー・アンの背中ですやすや眠っている。
 レディー・アンは大通りの脇を小さい足出店へに向かって歩いていた。
 一度、細く暗い路地に入れば、そこは大不況ですべてを失った人が折り重なるようにして、職や、食べ物、生きる気力を捜し疲れて座り込んでいた。
 レディー・アンはそれを横目で身ながら、「お金があればどうにかなるんだけど。」と小さく呟くしかなかった。
 いつもそうだった。「お金」さえ自由にあれば、この暮らしも少しはましになるだろうし、洗濯屋だって、今よりもっといい生活が送れるだろう。でも、実際問題、こう不景気じゃぁ、沸いてくるようにはいかないのだ。
 レディー・アンは背中で微かにぐずったスコットのために歌を口ずさんだ。
      小さなあなた
      夢をごらんなさいな
      星が瞬いているような
      素敵な夢を
      愛しているママの腕の中で
      おやすみなさい
      安心して
 スコットは再び眠りについた。
 レディー・アンはいつもの店先に立っていた。雑貨屋は大きく店を開いていたが、中はほとんど空っぽだった。店主の男はここぞとばかりに声を張り上げていた。
「もう、これっぽっちの肉と、野菜しかない。」
 どの店もそれくらいしか本当に無さそうだった。
 レディー・アンは、いつもなら、馬鹿らしくて買いたくもない、肉の塊を、いつもの四倍もの値段で買うと、それを抱き締めて帰ろうとした。
 レディー・アンが対面の路地に渡りきったとき、一台の車が物凄いスピードで走り込み、そして停まった。停まった。と言うより、止まるしかなかったようだ。ボンネットの隙間から黒煙が吹き出てきて、中からゴーグルをした二人の青年がむせ返りながら這い出てきたあと、車は凄い音を立ててタイヤが外れ、車体は地面に落ちてしまった。
 あまりにも凄い出来事の結末だけに、その車体の落ちた音に、一斉に笑い声が上がった。スコットはその声に驚いて起きてしまった。

 あの、這い出てきた青年二人、一人は随分と背が高くて、黒色の髪をしている。もう一人はまだまだ少年で、少し濃い茶色毛をしている。
「アトス様! 風間様!」
 黒塗りの馬車が走りより、御者が大声で二人の青年に声を掛けた。
「大丈夫だ。」
 青年がそう言うと、御者はホット胸をなで下ろした。
「ああ、もうだめだね、風間。」
 少年はそう言って黒髪の青年を見上げた。見上げられた青年・風間は首をすくめ、「そのようですね。」とため息を付いた。
 そんな二人の耳に、スコットの、レディー・アンの背中でぐずり始めたスコットの泣き声が聞こえてきた。
 レディー・アンは身体を揺すりながら歌を歌っている。その声に少年はレディー・アンに近付き、レディー・アンの顔を覗いた。
 レディー・アンは自分よりも背の低い彼から見上げられ、どきどきしながら、とりあえずスコットをあやして歌い続けた。
 少年は背中で泣いているスコットを見てにこっと笑うと、レディー・アンと一緒に歌い始めた。どこでもよく聴く子守歌だから、少年と息さえあえばいいのだ。
 少年のハモリはレディー・アンの歌声を引き立たせるように聞こえる。いい方を変えれば、少年の歌声は、一人で聞けば素晴らしいだろう、でもレディー・アンと一緒に聞いても、ちっとも良くない、ただのリズムビートや、コーラスにしかなかった。
 もし、レディー・アンがコーラス部分を歌っていたとしても、彼が主旋律を歌っていたとしても、同様の感想を得たはずだ。
「風間。」
 馬車の中から、風間は呼ばれ、風間は馬車に近付いた。
「あの子の身辺を捜査してくれたまえ。」
「解りました。旦那様。」
 歌が終わり、惜しみない拍手が上がると、再び寝ていたスコットが起きて泣き出してしまった。レディー・アンと少年は顔を見合わせて笑い合った。
「ボク、アトス。アトス・ビクトリエンス。」
「ビクトリエンス?」
「あ、知ってる?」
「そりゃぁ、もう。あの丘の上に大きな屋敷でしょ? 素晴らしい音楽家達を世に出している名門家じゃない。そこの子供?」
「いいや、ボクは養子。」
「あ、そうなんだ。」
「君の名前は?」
「私? 私はアン。レディー・アンと読んで。」
 少年、アトスはレディー・アンの自己紹介にくすっと笑ったあと、手を差し出して握手を求めた。
「車、もうだめなの?」
「そうみたい。ボクが風間の運転の邪魔したからね。」
「そうじゃないですよ。無茶をしましたから。アトス様の居るビクトリエンス家の弁護士をしています風間と言います。アトス様、旦那様がお屋敷に帰るそうです。ここは私がおりますので、馬車でどうぞ。」
「解った。そうだ、レディー・アン、また逢えるといいね。なんkだが近いうちに逢えそうな予感するけど。」
 そう言ってアトスは手を振って馬車に乗り込み、それを合図に馬車は走り出していった。
「ここで、一人で待つんですか?」
「ええ、そうです。何か、不都合でも?」
「一人で淋しくないですか?」
「いいえ。あなたは、お買い物のついででしょ?」
「あ! そうだった。」
 レディー・アンは、お肉を見てから、慌ててその場を走り去った。
 一時間ほどが立った頃だった。風間は車も移動し終えた、先程の街角に立っていた。そして、顔をしかめると、その後ろから、レディー・アンの声がして、驚いて振り返った。
「どうしたんです?」
 風間は随分としたにあるレディー・アンの顔を見下ろした。
 風間は、彼女の身辺調査を、仲間の探偵に依頼していた。その報告を待つのに立っていたのだが、一時間ほどでなにが解るのだろう。探偵は風間の目の前を通り過ぎたのだ。それにむっとしていると、レディー・アンが声を掛けてきたのだ。それは驚くだろう。と言うほど驚いた顔をレディー・アンの前に、探偵に見せる。
「一人じゃ淋しいだろうと思って、迷惑だったかしら? でも、もうすっかり車無くなってるのね。私は、必要なかったみたい。」
「いいえ、またお逢いできましたから。お送りしましょう。遅いですし、なにより、私を気遣ってくださったのだから。」
「ありがとう。嬉しいけど断るわ。私の家に来たら、今度はあなたの方が危ないわよ。ハーレムに近いし、治安は悪いもの。それに、」
「治安が悪い以上に、怖い人でも?」
「いいえ、居ないわ。ただね、私は居候しているから。そう、私の家ではないの。恥ずかしいと言えば、解ってくださる?」
「……、ええ、解ります。では、その近くまでならいいでしょう? 私も、アトス様同様、あなたのその声を好きになりました。もう少し聞いていたいので、構いませんか?」
「あら!」
 レディー・アンは顔を赤らめて、頬に手をあてがった。
 風間は背が高く、すらっとした背を灰色の背広に押し込めている端正で、落ち着いた容姿にレディー・アンは少しときめいていた。
(これはもう、初恋というのでしょう!)
 レディー・アンは風間と一緒に洗濯屋の近くの路地まで歩いた。
 茜色の空に薄白い月が出ている中、レディー・アンは風間と並んで、いろんな話しをした。
 母親が一年前に死んだこと。父親はヨーロッパに行って行方不明だが、母親がそんな父親を誇りにし、愛していたから、自分も逢いたいと言うこと。
 そして歌を歌うことが大好きだと言うことを。
 別れ際。
「ここで。」
 レディー・アンを現実に引き戻す辻が近付き、レディー・アンは俯き気味にそう言った。
「レディー・アン、またお逢いしましょう。絶対に逢えます。あなたのお父さんにだって。」
「そうね。信じていれば、道は開けるものよ。ね!」
 レディー・アンは、風間と別れる寂しさを笑って誤魔化し、家へと走り込んだ。
 別れた瞬間のあまりにも切ないこと。息苦しくて、淋しすぎる。
「こんなこと、初めてだわ。」
 レディー・アンは、月明かりの中、その光にぼんやり風間を浮かべていた。


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