It's Raining Men
―いい男は空から降って来る―  ♪The Weather Girls
松浦 由香


 
 生暖かくて、重い風が過ぎる。
 台風が過ぎて湿った強い風が吹く夜七時、琉璃は歩いていた。
 散歩をする習慣はない。特に夜などで歩くことなど皆無だが、こういう台風で風の強いときは気持ちがいいくらい風を感じられて好きなのだ。
 夜で歩けるのは、大人になった証拠だと思う。子供のうちはいくら風を感じられようと親がうるさくて出歩かせてくれない。今は一人暮らし、つっかけたサンダルを磨りながら当てもなく歩く。どこを歩くわけじゃない。
 昼間ならよく分かる場所も、夜だとどこか違う。そういう温度差みたいなものが好きだった。でも、夜で歩くことはない。
 近視の彼女は想像の中で夜のドライブに出かけ、想像で夜の散歩を楽しむだけだ。仕事で帰りが遅くなっても、これほど―まだ七時半だ―遅い時間には外にはいない。
 一度だけあった。新人の時、新入社員歓迎会という奴で夜中まで引っ張りまわされた。誰も送ってくれるわけじゃなし、誰かと帰れる当てもなく、一人寂しくタクシーを拾い、家に帰った。その惨めなほどの寂しさを味わいたくなくて、飲み会にはいつも不参加だ。忘年会も一度も行ったことがない。
 愛想が悪くて、付き合いの悪い人。それが琉璃の評価だった。
「ありがとうございました」
 闇を裂くような元気ではつらつとした声に琉璃ははっとして顔を向ける。
 道路を挟んだ向かいにあるガススタの兄ちゃんが帽子を取り最敬礼で頭を下げていた。上げた顔が立ち止まっている琉璃を見つけた。
 琉璃は視線をそらす。近視の悪い癖、顔を向けた気がすると必ず目があったと思うところ。別に私はあなたを見ていないわ。そう思いながらじゃないと一歩は出なかった。
 町内、いや、隣の地区まで足を伸ばしただろうか? 汗が滴り落ちてくる。なんといってもまだ八月下旬の夜だ。このくらいの暑さなのは台風のおかげだ。
 琉璃は直ぐにシャワーに入る。
 風呂場前に置いた洗濯機に服を脱ぎ入れ、そのままシャワーをひねる。
 さっと汗が流れていくのを感じながら、あのガススタの兄ちゃんの声と遠くてぼんやりとしたシルエットを思い出していた。
 よほどあの元気に引かれたのだろう。
 自分は元気がない。それは入社してからずっと言われていた。愛想も、元気もなく、仕事はそつなくこなすが、相手受けが悪いのでいつも資料作成と言う裏方。ずっとパソコンのキーボード相手だから、目もさらに悪くなる。
 琉璃はため息をついて風呂場を出る。素っ裸で部屋をうろついても親は怒らない。だって誰も居ないから。
 ベット横の下着入れからパンツを取り出し、タオルを首にかけ、ビールを一缶空ける。くいっと喉の奥に冷たくて苦味のあるあの独特の爽快感を押しやり息をつく。
 時計は九時になっていた。
 あと、十時間後には家を出なくちゃいけない。
 琉璃はため息をつきながらノートパソコンの電源を入れた。明日使う資料をまとめるために。
 
 
 琉璃はまとめた資料の束を主任に手渡し、自席についた。
 相変わらず愛想無い。とか、そつなく仕事してる。とか、そこまでして働きたいなんて。という戯言が聞こえるが、まったく無視して琉璃はイヤフォンを耳に入れる。
 最初は酷く上司に怒られたが、このおかげで資料は早く出来上がるし、別に支障をきたしていないので特例されている。
 キーボードの側には次の資料が山積みされている。いったいいつなくなるのだろうか? そういうことは考えない。考えるとうんざりする。とりあえず打って片付けるだけだ。
 キーボードの規則正しい音がひたすら聞こえる。
「注目!」
 課長が急に声を上げた。
「今度、本社の方で新しく立ち上げる複合施設の設計に当たり、うちの課ではそこのエントランス設計を任されることになった」
 琉璃はふと手元の資料を見た。(うちの会社って、設計事務所だったんだ。しかも子会社だったとは、)
「本社の総責任者となった織部さんだ」
 織部と紹介された人は課長よりも数段若く、褐色色に日焼けし、白い歯を見せて
「織部さんとか言わないでくださいよ、安本さん」
 と笑いながら、
「織部 総司です。安本さんとは大学の先輩後輩で、」
「こいつは、本社勤務だけどな、」
「本社は型が決まっててやってられるかってこっちに来たんじゃないですか」
 安本が目を細めて笑った。
「とまぁ、責任者と言っても別段堅苦しいことは好きじゃないんで、でも、仕事はしっかりしてもらいますよ。このプロジェクトのそもそもは本社会長の出身地に恩返しをするというのがコンセプトにあって、町民誰もが利用できる複合型施設です。スパ、トレーニング施設、会議室、大広場、などなど、町内で使えるものを作るんです。そのための顔となるエントランスをこの部署は設計してもらいます。エントランスだけ? と言われそうですが、各部屋の用途を考えると、別々に思考したほうがいいだろうということに決定したので」
 織部はそう言って一同を見た。異存や質問の出ない部署だ。安本が仕事する気力を失せているとこぼしたのが解った気がした。
「早速だが、清水、田中、牛沢、村上は織部と一緒に現地に行ってきてくれ。そして、その四人がこのプロジェクトに参加する」
 琉璃は眉をひそめた。
「私、ですか?」
 小さな声で聞き返す。名前を呼ばれた瞬間から皆が琉璃を振り返って静まっている中では十分な大きさだった。
「そうだ」
「私は今までやったことは、」
「牛沢は織部の秘書だ。きっと役に立つ」
 安本はそう言って織部の肩を叩いた。
 
 会社の玄関前。
 清水の車に田中が同乗した。横で村上が琉璃を見ている。というか結構睨むに匹敵している。
 村上とは同期だ。最近流行のくりくりヘアーで、かわいらしい顔をした村上は琉璃を一度も敵視したことはない。だが、たぶん(気に入ったんだろうなぁ、織部さんを)と予想出来るほどの睨み返しだ。
「遅くなった」
 織部があとから出てきた。
「そっか、そっちに三人乗れますか? じゃぁ、一人こっちに、」
「あたしが行きます」
 (やっぱり)琉璃は黙って清水の車の後部座席に乗り込んだ。
 きゃっきゃとはしゃぎ声がする。
 清水も田中も三十後半で、いろいろと仕事をしている。いくつか彼等の資料も作ったことがある。ただそれだけの顔見知り。
 琉璃はずっと目を伏せ大人しく乗っていた。
 車は市街地を過ぎ、こ一時間走った海沿いを走り抜け、そして海を見下ろせる山の中腹の新地に着いた。
 五人は降りると予想設計と言われる図面を広げる。
「この辺りが駐車場ですね、そしてここが玄関。エントランスの広さがこのくらいかな?」
 織部の指し示す動きは大雑把ながら、長年培ってきた感でほぼ正確に示しているはずだ。
「やはり、エントランスですからきれいに白ってどうですか?」
 村上が甲高くそう言った。
「入って直ぐに案内係がいて、床も大理石風で、そうですねルネサンス風を取り入れてみては?」
 設計士だった清水がさらさらと村上のイメージを絵にしていく。
 豪華な床ときれいな受付カウンター。まさに中世のスパに迷い込んだような絵が出来上がり、自分の案に惚れ惚れするような村上のため息が出る。
「あ、ありがとう」
 不似合いな言葉に全員が振り返れば、手押し車を押している老婆の手助けを琉璃がしていた。
「ところで、」
 細いタイヤが溝にはまって立ち往生していたのはまさにあんたたちの所為だ。といわんばかりに老婆は聞いてきた。
「ここは何にする気だい?」
「複合型施設です」
「はぁ?」
「銭湯です。いろんなお湯の楽しめる」
「銭湯? ここに?」
「他にも会議室とか、いろんなことが出来る建物です」
「ふん」
 老婆はちらりと織部たちを見たあとで、
「こんな場所にねぇ」
 と吐き捨てた。
「やはりきついですか、この坂は、」
「あぁ、きついね」
「無料の送迎バスっていうのがあれば、来てくれますか?」
「ただ? それならねぇ」
「65歳以上は半額とか」
「そうね」
 琉璃はやんわりと微笑み、
「考えてみますね、きっと意見は通るかと思いますけども」
 老婆はそんなことには興味もない様子で先を歩いていった。
「ねぇ、ねぇ」
 琉璃は服を引っ張られて振り返る。
「銭湯だけ?」
 こら、と母親に怒られた男の子に琉璃はしゃがみこみ、
「他に何があれば嬉しい?」
 と聞いた。
「遊ぶとこ」
「どんなことして遊ぶ?」
「ボール投げとか、鬼ごっこ」
「いいね、それも一応聞いてみるね」
「絶対だぞ」
 琉璃は頷き、母親たちのほうへと向かった。
 施設の前は小さな新興住宅地になっているようだった。保育園のお迎えバスが過ぎたところでたくさんの子供と保護者がいた。
「すみません。あそこに複合型施設を作ろうとしているんですが、どういったものが欲しいですか?」
「どういったものって、」
「たとえば、半額チケット10枚つづりとか、」
 琉璃の言葉に、十枚? と聞き返した。
「それ以上ですと、うちも赤字ですから。でも、町内人パスポート所持者には30オフはありですかね?」
「あ、それいい。子供は12歳以下ならただとか」
 琉璃はあとは黙ってメモを取り続けた。若い母親が困っていること、近所で遊びにいける場所がなくて困っていることや、自分のストレス発散場所がないこと、お金をかけずに楽しむ場所が欲しいこと、乳幼児も出入りが出来ること、などなどをメモした。
「ありがとうございました。これを参考に作りたいと思います」
 琉璃は深々と頭を下げ母親たちを見送ると織部たちのところに戻ってきた。
「随分と長いおしゃべり、」
 村上のいやみに琉璃は、手を差し出している織部にメモを渡しながら、
「資料はこうやって集めるんですよ」
 と静かに言った。
「町の人たちはここに何かが建つんだろうと関心はあるようです。ですが、ここに来るメリットがなければ、いくら町民のために立てても閉鎖は直ぐです。町民が興味を示しているうちにいろんな情報を収集してそれを基に最善のものを作る。それがわれわれの仕事じゃないんですか?」
 琉璃の言葉に村上は顔を赤くして、
「言われなくても当たり前でしょ」
 と言い放った。
「これを明日までに資料化してもらいたい」
 織部はそう言って琉璃にメモを返した。
 琉璃はただ「はい」といって頷いただけだった。
 
 六時が過ぎたころ、
「すみません、バスが無くなりますのでこれで失意礼します」
 と琉璃は言った。
 織部と清水が同時に時計を見た。
「バス?」
 織部が聞く。
「えぇ、できる限り公共機関を使うことにしてますので、今帰社しないと家までのバスの時間に間に合いませんので」
「送るよ、」
「いえ、結構です」
「……そのメモの打ち合わせを兼ねているといったら、乗るかな? 秘書の、…そう、牛沢さん?」
「……、解りました」
 事務的な返事をし、織部と清水、田中が軽く打ち合わせをしている間、琉璃を村上が睨む。
「じゃ、どうぞ」
 織部が助手席の戸を開ける。が、その戸を掴み、
「どうぞ、乗ってください」
 と琉璃はそっけなくそのエスコートを断った。
 織部は首をすくめ運転席に乗り込む。
「変わった名字だね」
 エンジンをかけながら織部はそういった。
 清水の車のほうが先に出て行った。クラクションが二度なり、こちらもお返しに一度鳴らした。
「少し付き合ってもらえないかな?」
「それは、このプロジェクトで必要なことでしょうか?」
「いや、そういうわけじゃ」
「では、村上さんをお誘いください。私はそういう場所は行く気がないので」
「そう……、さっきのメモいや、取材だけど、巧いね」
「ありがとうございます」
「掲示されたもの全てが通るかどうかは判らないが、でも、ああやって聞いたことで町民があの施設に関する関心は高くなる。そして、町で作り上げたという結束が施設を存続させるだろう」
「そうですね」
「安本さんが推薦したとおりだったね」
 織部はそう言って車を動かした。
 琉璃は黙って目を伏せた。
「車酔いでもする?」
「いいえ、あまり人の運転する車には乗りませんから」
「怖い?」
「多少」
「そう、か」
 やんわりした返事を織部はしたあと、無音が続く。
「音楽、聴いていい? さっきの、村上さん? 彼女は一人で喋っていてね、こういう場所には相応しくないよ、まったく」
 そう言って織部はオーディオを操作し、窓を開けた。
「暑くない?」
「風のほうが好きです」
 織部は何も言わずに窓に片腕を乗せた。
 聞き覚えのある洋楽。静かに夏を惜しむような時期によく聞こえてくる。秋の物悲しさと、華やかな夏の過ぎていくのを悲しむようなメロディが続く。
 イントロがふと消えボーカルの女性の静かでそれでも力強いハイトーンな声が静かに言葉を置く。
 車が信号で止まる。
 エンジンの音の向こうから波の音がする。
 琉璃は織部の方を見た。
「やっぱり気になるでしょ、こういう場所にはこういう曲と波の音だよね」
 織部も同じように右手に広がる海のほうを見た。
「夜の海って、怖いですね」
「そう? 静かでいいよ、」
「引き込まれそうで、どこかへ連れて行かれそう」
 琉璃は顔を背けた。
 車はゆっくりと走り出す。
 曲調が変わり、ポップな曲が続く。
「家、どこら辺?」
 琉璃は腕時計をすっと見る。
「大丈夫です。駅で降ろしてもらえれば」
「……そう、」
 織部はそれ以上言わなかった。
 家のそばの交差点で信号で車が止まる。あと数秒は動かない。
「ありがとうございました」
 琉璃はそう言ってドアを開けて外に出て頭を下げ戸を閉めた。
「おい、ちょっと、」
 歩道に上がり、動かざるを得なくなった織部の車に深々と頭を下げた。
 車が信号を曲がると琉璃は歩き出した。
 (肩凝った)
 人の運転する車は嫌い。シートベルトを締めて露見する胸の形も嫌い。他人の臭いを嗅ぎ続けるのも嫌。強制される曲も……、彼の選曲は好き。でも、やはり一人が楽。
 琉璃は夜の空を見上げた。
 こんなに遅くなってから空なんか見たことがない。
 (早く帰ろう。家に近いとは言え、変質者が居ないとは限らない)
 襲われる可能性のほうが低いかもしれないが、物好きは世の中に多い。被害にあったあとが面倒だ。と考えてしまうと、遭わない様に外には出ない。
 ふとこの前のガススタの兄ちゃんを思い出す。
 この道をまっすぐ行けば彼の居るガススタだ。
 (行ってみようか?)
 行ってどうなるわけではないのだが、琉璃は歩き出していた。
 ガススタの向かいの歩道をずっと歩く。
 明かりは煌々とついているのに、今日は妙に静かで物寂しい。
 琉璃がじっと見ていると一台の車が入っていった。従業員は何も言わない。その車から織部が降りた。
 (目、悪いはずなのに、あたし)
 なぜ見えるのか不思議でならないが、降りて近づいてきた従業員と笑い話を始めたのは織部だ。
 琉璃が首を傾げた時、不意に向いた織部の顔がぱっと晴れた。
「あ、牛沢さん!」
 琉璃は呼ばれて慌てて引き返した。
 ずんずんと歩く。パンプスが足に食い込む。
 あの声だ―。「ありがとうございました」と歯切れのいいはつらつとした元気な声。
 なぜ今まで一緒に居て気付かなかった? 声が違う。楽しいのと、無理している声。
 琉璃は立ち止まって振り返った。追って来ることはない。誰も居ない。でも立ち止まり振り返って暫くその道を見続けた。
 (お腹、すいたなぁ)
 考えられない状況の時には別のことを考えて落ち着こう。まったく脈略のないことを考えて、今を忘れよう。
 琉璃はコンビニに入ると弁当を買い外に出た。
「あ、居た」
 ぎょっとなる琉璃を他所に織部は息を弾ませて前屈をした。
「早足? それとも全速? めちゃくちゃ早いねぇ」
 無理して作った声。
 琉璃は黙って息の整うのを待った。
 息を静かにさせるために織部が二度深呼吸をする。
「何で逃げるかな、」
 織部の言葉に琉璃は首を傾げた。おかしなことを言う。という風に、
「逃げてなんかないですよ、歩いていただけですから」
「パンプスで?」
「いけませんか?」
「そうじゃないけど、俺が呼んだの聞こえたでしょ?」
「呼びました? さぁ、聞こえませんでしたが」
 体中が熱くなる。嘘をつくといつもこうなる。だから嫌。もぞもぞとする熱が体中を走り回り、気持ちが悪い。だから嘘をつかないでいいように喋らない。
「この近く?」
 琉璃は黙って目を伏せる。
「別に入り込んでどうこうしようとは思わないさ、」
「家を知られるのが嫌なんです」
「皆に? それとも男に? それとも、俺に?」
 琉璃は上目遣いで織部を見上げた。
「……顔見知りにです」
 織部はため息をついた。
「その、」
「愛想が悪いのは生まれつきです。これが嫌ならば安本課長に言って私を変更してください」
「そんな事言ってない、ただ、」
 琉璃は頭を下げて歩き出した。
 織部はあとを追えなかった。あんな切り捨て方をされてついていけるほど彼女をどうにか思っているわけじゃないのだ。
 織部はガススタへと戻る。
 だが、戻り道々ムカムカと来る妙な苛立ちに顔がしかまっていく。
「お? 愁一人か? 彼女は?」
「彼女?」
「血相かいて追いかけたんだ、気になる子なんだろう?」
 愁はそういったガススタの親父を睨んだ。
 高校生のときのバイト先だった場所。それ行こう何かあればよく来る場所。多分、実の父親よりも織部が何を考えているのかが解る相手だろう。
「そんな色っぽい相手じゃないんですよ。仕事で組むことになった子会社の人で、一応俺の秘書で、この辺りまで送ってきたんですけど、信号待ちの車から降りて帰ったと思ったんですよ、」
「そういう相手がふらりと歩いているのをみて追いかけるか?」
「だから、結構向こうで、」
「まぁ、いいさ」
 おやじは鼻で笑いながら織部の車の窓に洗剤を吹き付けてそれを拭く。
 織部は首をすくめ(この人にはどうも敵わないよなぁ)と苦笑いを浮かべる。
 
 織部はそれでも早くに会社に出てきたと思って居た。八時ちょうどに会社のタイムカードを押すなど、九時始業では早すぎるくらいだ。だがそれよりも早くに琉璃は着ていた。
 長い髪をくるりと後頭部で纏め上げキーボードをせっせと打っている。
「早いんだね」
 その声に驚くこともなく琉璃は織部の方を見た。
「おはようございます。織部さんも早いんですね」
 琉璃はそう言うとキーボードを打ちに戻った。
「それは昨日の?」
 と聞くが早いか琉璃は机の上に出来ていた紙束を織部に差し出した。
 織部は渡されるままそれに目を通す。
 あの場所の客観的な見解を踏まえたうえでの立地環境や、客の足の予測動向などもきちんと書かれている。年寄りには集会バスが必要だろうとか、乳幼児を持つ親には保育園経由が有効だとか、あの短時間で見て調べたにしては細かい部分まで見ている。
 織部が琉璃のほうを見れば琉璃は黙ってただ打っている。画面の中の文字は織部には関係のないものだった。
「それは?」
「会議の企画資料です」
「それは君の仕事?」
「そうです。何か?」
「いや……」
 琉璃は少しだけ織部を見上げ画面に向き直った。
 人がボツボツ着始めたころ琉璃がふと姿を消した。織部が目で探すと、ハンカチで手を拭きながら戻ってきた。暗黙の了解でどこに行っていたか解る。織部が目線を下ろしたところへ安本が近づいてきた。
「彼女、今タイムカードを押しに行ったんだよ、」
 織部が眉をひそめる。
「今? でも、その前から来てましたよ」
「早朝残業手当を嫌うからね」
 織部はキーボードを打ち続ける琉璃を見た。
 
 琉璃は一人で弁当を抱えて屋上の本当に少しの日陰で食べていた。
「こういう暑い場所が好きなわけ?」
 織部がハンバーガーショップの紙袋を提げ、暑そうに顔を歪めながら琉璃のそばに来た。
「そういう人が来ないためです」
「関わりとかって言うのを持ちたくないわけ?」
「そうです」
「よほどの人間嫌い?」
「お愛想が出来ないだけです」
 織部は首をすくめ食べることを続けようか辞めようか考えている琉璃を見下ろした。
「昨日はいい顔でリサーチしてたじゃないか」
「では、人によりけりなんでしょう」
「俺は嫌いだと?」
「……そういうことでしょう」
 琉璃は弁当のふたを閉じハンカチでそれを包んだ。
 琉璃は織部をちらちらを盗み見た。ここまですれば向こうへ行くだろう? だが織部はそこに居てずっと琉璃を見下ろしている。
 琉璃はため息をついて立ち上がり屋内に帰ろうとする。
「そこまで嫌う理由があるのかな?」
 琉璃は立ち止まり、
「同僚として付き合う以上のことを強制されるいわれもありません」
 と静かに言って屋内に戻った。
 (なんだろう……まったく)
 人間にはリズムがそれぞれある。琉璃の場合それがかなり静かでずっと冷静なだけでちゃんとそれは存在している。なのに、織部と居るだけでそれがめちゃめちゃに乱れ、息をするのも苦痛になる。
 
 会議は二時から始まった。琉璃のまとめた資料を読んで設計士の清水と田中が略図考案をホワイトボードに書き入れる。
「出来る限りバリアフリーであること、そのために受付のカウンターを少し低めなものをここに配置して、ここには館内の案内板を置く様にすれば解りやすいでしょう」
 織部は頷きながら略図を見上げる。
 琉璃は黙って鉛筆を走らせている。その音だけが会議室に響く。
「あの、床はどうするんですか? Pタイル? それともFCですか?」
 村上が不満そうな声を出した。
 琉璃が村上のほうへ顔を上げる。
「これだけどこにでもある施設風だとそれが妥当でしょ? 大理石なんてもったいないわ」
 村上の言葉に琉璃はホワイトボードへと目を向ける。
 (あたしはこの人とは合わないわ)
 確かに村上が最初言っていた様なルネサンス風な感じではない。どちらかといえばちょっと豪華な田舎温泉ホテルといった感じだ。床ごときに金をかける必要は無いだろう。という施工主の声が聞こえてきそうな建物だ。
「牛沢さんはどれがいい? 床」
 織部の言葉に琉璃が織部を見る。
 織部の目に期待の色はない。会議が始まって一時間黙っているから声を掛けられた。という感じだ。別に、解らない。でも通りそうな感じだ。
「大理石って冷たい印象を与えますし、高級志向だとあの田舎の人は来なくなります。ほどいい質素さに上品さがあればそれがたとえやすいものであっても人は落ち着くはずです。私はいままで資料作りし貸したことがないので材料の名前はよく知りませんが、ここの床のような歩くたびに音が鳴るビニールや、古いスーパーなどで見られるあのカートのすべりの悪かったり、タイルがめくれてしまう様なものは避けたほうがいいでしょうね。車椅子の方や、杖を付く方も居ます。子供も居ますしね。だから、できる限り行動を塞ぐような柱はなくし、見晴らしがよく、誰もが直ぐにどこへいけるなどが解るほうがいいでしょうね。案内板もそこだけではなく、あちこちにあって、見やすくて、解りやすいほうがいいですね。事務的な案内板のように全てをひっくるめて書かれるよりは、抽象的でもそれがイメージしやすいものの方が解り易い筈です」
 清水が唸りホワイトボードに書き出した。
「あ、それいいねぇ」
 田中がそう言って略図はさらに書き加えられる。
「床はFCが妥当でしょう。車椅子でも行けるし、クッション剤があるからビニールほど足に負担が来ない。案内板を最低でも四箇所にすれば解りよい」
「あと、地場産品の即売所を設けてください」
「地場産品所?」
「そうです。お年寄りが自産しているお野菜で作った漬物や、そういうものを持ち寄って販売できる場所です。お年寄りの活性化です。あそこに住んでいる方のほとんどが自給自足に近い生活をすごしています。細々とした年金生活の中で。ですから生きがいを生み出すために役立たせてあげたいんです」
 琉璃の意見に清水たちの反応はいいものだった。
 
 琉璃は荷物をまとめていた。明日までに居る資料のメモ、来週最初に居る会議の資料。かばんに順に片付ける。チャックを閉めたとき村上が立っていることに気付いた。
「お疲れ様です」
「やたらと年寄りに優しいけど、リベートとかもらったのかしら?」
 村上の小声に琉璃は暫くしてにやりと口の端を緩めた。村上はその笑みにぞっとする悪寒を受け眉をしかめる。
「おばあちゃん子だったから年寄りの事が解るんですよ。年寄りに目が行くんですよ。姉が出産しておばになったんで子連れに目が行くんです。何の心境変化がなければそれが不思議なんですね」
 琉璃はかばんを肩に担ぐと村上を見た。
「派手だけでは生きていけない時だってあるんですよ。泥を食むことだってたまには必要なんですよ」
 琉璃はそう言って横を過ぎた。
 村上はその背中を強烈な怒りを含んで見送った。
 (勤労8年。首を言い渡される局クラスかな。まぁ、やりがいがあったわけじゃないし、切られたとしてもたいしたことないか)
 琉璃は小さくため息をついて歩き出した。
 村上がこの会社社長の姪である事は有名な話だ。しかも社長は姪に酷く弱く、今の部署も一番華やかで楽な仕事だからという理由で配属してきたのだ。だが、楽な仕事はそもそもない。とりあえず仕事はするが彼女のフォローにはかなりの労力が居るらしい。彼女はそんなこと知らないようだが。
 (お嬢様はとにかく楽なものだ)
 琉璃はそう言って信号待ちで立ち止まる。
「家出?」
 横を見上げれば織部が立っていた。
「ぐらいの荷物。それ持って歩き?」
「バスです。何か?」
「送ろうか?」
「結構です」
 琉璃の言葉に織部は首をすくめた。
「あの、私本当にいやなんです。仕事でもない限り誰かと歩いたりするの」
 織部は立ち止まって言った琉璃の横をすっと過ぎて行った。
 (自意識過剰ね)苦笑いを浮かべて振り返ると、織部が押し車が動かなくなっていた老婆を手伝っていた。
「ありがとうございましたね」
「どういたしまして」
 老婆が立ち去る。琉璃もその姿を見送る。
「で、なんだって?」
「何がですか?」
「なんか言ったよね、私が何とか、」
 琉璃は返事もせずにバス停に向かって歩いた。
 バス停に並んだ琉璃はため息をついて振り駆る。
「何で並んでるんですか?」
 織部は首をすくめるだけだった。
 バスが来た。扉が開き人が乗り込む。
 バスが出た。バス停付近に人気が消えた。
「離して下さい、乗り損ねました」
 怒気を含んでいったが、織部は悪びれることも無く掴んだままの琉璃の手を引き歩き出した。
 体制を崩し、体重をかけて止まっていようとしても織部はその手を話そうとはしなかった。
 織部は助手席の戸を開けた。
「どうぞ」
「言いましたよね、私、」
「いいから、あそこの調査しに行くんだから、仕事だ」
 琉璃は時計を見た。六時前、まだ日は高く明るい。
「今から、ですか?」
「ちょうど間に合う」
 何に間に合うのか解らないが、仕事だよ、行かないの? と言われて琉璃は車に乗り込んだ。
 織部は車を走らせあの村まで来たが、施設に行くあの坂道へは上らず暫くまっすぐ走り、浜へ下りれる坂を中腹まで降って車を停止させた。
「車から降りて、」
 琉璃が降りると織部は車をバックさせた。
「直ぐ戻る。待ってて」
 そう言って走り去る車。辺りにひと気は無い。
「置いてけぼり? あまりに無視するから、その嫌がらせ?」
 唖然としながら琉璃は波の音に振り返る。
 遊泳禁止地区らしく直ぐに海の色は濃くなっている。だから波打ち際はビールの泡のように細かく白く泡立っている。
 深く吸い込めば潮の香りがするし、波の音も心地いい。
 琉璃は坂を下り砂から頭を出している置き去りにされたようなテトラポットに腰掛けた。
 置いてけぼりにされたのなら携帯でタクシーでも呼べる。だが始めてみる沈む夕日を見たあとでも構わないじゃないか。
 車が通るが別に気にもしない。目の前の波と潮風と沈んでいく太陽だけを見て居たかった。
 辺りが薄暗くなり、夕日もあと少しで沈みきるまで見届けた。織部は帰って着そうも無い。本気で置いて行かれたのだ。
 琉璃はため息をつくと心もとなく寂しさが襲ってきた。
 車に乗り込まなければよかった。嫌だと断固すればよかった。後悔があふれにじみ出そうになったときだった。
 太陽はすっかり沈み、空がぼんやりと明るいだけで夜の闇のほうが数段濃くなった。
 車が止まり、ドアが開いた音がした。
 (あぁ、よからぬ人に見つかって、よからぬことをされるんだわ)
 琉璃は唇を噛み締めにじみ出てくる寂しさをぎゅっと堪えたとき、
「あ、ごめん遅くなって」
 坂の中腹から織部が飛び降りた。
 手にはコンビニの袋を提げていて、思いのほか高かったらしく足が痛いだの、靴に砂が入っただのと言いながら琉璃の側に近づいてきた。
「どうかした?」
 琉璃は顔を覆った。
 面を食らったのは織部で、いきなり泣かれてもと思いながら辺りのすっかり変わった様子に琉璃を抱きしめるしかなかった。
 琉璃と織部は並んで、織部が買ってきた弁当を開けた。
「腹減ったから買いに行ったんだけど近くに無くって、ごめん」
 琉璃は頷いて弁当のから揚げを口に入れる。
「そろそろ七時だ」
 織部が携帯の時計を見たあとで、どこかから放送の声が聞こえてきた。
「隣町の花火大会なんだ。ここは穴場。地元の人たちもそろそろ出てくる。今はうちがロープを張って入れなくしてるけど、あの場所が一番良く見えるんだ」
 織部はそう言ってからの弁当箱を袋に押し込んだ。
 確かに人がぞろぞろと出てきた。琉璃たちを見つけるなり、「工事の人」と呼んで酒のつまみを差し出してくれた。
 花火は大輪の花をいっせいに咲かせた。
 風下に居て煙がこちらに流れてきて村人たちの不満そうな声が上がったが、琉璃はそれでも綺麗だと見つめていた。
「花見好き?」
 織部の言葉に琉璃は首を傾げる。
「外で見たの初めてですから、でも、好きだと思います。綺麗ですね」
「祭りとかに出かけないの?」
「行ったこと無いです」
 織部が不思議そうに琉璃を見た。
「誰からも誘われなかっただけです。門限が厳しかったものですから」
「お嬢様?」
「いいえ、父親の理想です。ただの、理想」
 琉璃は花火を見た。
「最初の相手が俺でがっかりだったね」
 琉璃は織部を見た。織部の横顔が花火に照らされる。すっと通った鼻、頑固そうなあご、生気あふれる瞳。
「見惚れた?」
 琉璃は失笑して首を振った。
 
 花火は九時を最後に終わった。人々は消えていく中で琉璃と織部も車に乗り込んだ。
「来年にはあそこで皆が見られるようにしたいですね」
「ビヤガーデンでも開いて」
 琉璃は頷いた。
 織部と目が合う。
「イグニッション」
「はい?」
 織部は笑いながら座りなおした。
 車が発進する。窓を全開に開け耳慣れた洋楽が流れる。
「台風の後、あのガススタで手伝いしてたんだ。あそこ高校の時のバイト先でね、久し振りで妙にテンションが上がって声張り上げてたとき、見てたでしょ。妙なハイテンションなやつとか思いながら」
「見えたんですか、あの距離で?」
「見えない?」
「近視なので、」
「あ、そう。見えたんだよね、夜で歩くかっこうじゃない、普段着を着て、風に髪が揺れてたんで一瞬幽霊化なんかかと思った」
「あ、はは、幽霊ですか」
「それがイグニッション」
「だからなんです、それ」
「イグニッションはこのスターターのこと。それを動かさないと車は動かない。点火装置のこと」
「それが、なんです?」
「風に髪をなびかせて歩き去ったときも、てきぱきと仕事をこなす姿も、酷く俺を嫌煙する姿も、引っかかりはあったけど、さっきの涙には正直困った。そして、その目。……解んないかなぁ?」
 織部の顔色を読み取ろうとするが、浅黒いのが災いしてまったく解らない。
「あの?」
 車が信号で止まった。瞬間織部が琉璃のほうを見た。
「好きだ」
 きょとんとした琉璃を置いていくように織部は車を走らせた。
 言葉が出ない。
 人から好意を寄せられたことが無い。敵意なら今までいくらでもあるので痛みを感じないが、行為は初めてだ。温かくってくすぐったくって、同意しそうなほど顔がほてっている。
 '83にヒットした「 It's Raining Men」が流れてきた。
 
―いい男は空から降ってくるものよ―
 
 琉璃は織部を見た。
「どうすればいいんでしょう」
「さぁ、気持ちは誰も解らないからね」
 琉璃は俯いた。
 織部は首をすくめた。−車酔いでもする?−節目がちな横顔−いいえ、あまり人の運転する車には乗りませんから−−怖い?−−多少−あのときの会話がよぎる。
「夜の、夜のドライブにも行ったことが無いんです。私。というか、普通にデートとかも、だから、どうすることがその返事になるかとか、その、あの」
 織部は横を見た。
 普段の張り詰めているような琉璃は居なかった。
 十代も、それも、一昔前の純朴な少女のような恐々と座っている。
「まるで無いので、」
「そうか……、じゃぁ、とりあえず今日は家の前まで送る。週末に、少し遠出しよう。それから夜のドライブにでも出かけないか?」
 琉璃は織部を見上げた。
 やんわりとした笑み。
 ―イグニッション―
 体に駆け巡るもの。あのガススタで彼を見たときに感じたすがすがしくて胸が熱くなるものは「イグニッション」。つまり、恋なんだ―。
 琉璃は頷いた。
 車は夜の街を滑り、琉璃のアパートへと向かった。
 



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