笑顔が戻った夏
松浦 由香


 
 暑い夏がやって来て、暇を持て余している光貴(みつき)は図書館に毎年通っている。すでに六年目だ。
 最近導入されたパソコンの前には受験生が座り込み、なかなか空けてくれない。だから空いている開館直後に必要分を印刷し、机でそれを選別する。
 昼は近くの木陰で弁当を食べ、夕方の四時まで図書館に居る。友達は塾だの彼氏だので忙しいらしく光貴には無縁の生活だった。
 いつもどおり選別をしていたときだった。
 歴史上の人物を一週間に一人ピックアップして、その人の業績や、功績をノートにまとめる。もう夏休みの自由研究も無い年だが、でも毎年の暇つぶしにやっている。
 今年は作家を取り上げ、有名なところの本の感想を添付しようと考えている。
 芥川龍之介、夏目漱石、太宰治、宮沢賢治。どれも似たような印象を受けるのは彼らを知らないからだ。
 光貴は頬杖をつきため息を落とした。
 なんと言う面倒なものを選んだのだろう。感想文はもっとも苦手なものなのに。
 ため息をついても本のページは進まない。
 昼にするには少し早いが、光貴は弁当を持って外に出る。
 いつもの木陰のベンチには人がすでに居た。
 光貴はその横を通り過ぎる。
「ねぇ、いつもここで食べてるでしょ、」
 声を掛けてきたのは見知らぬ男の子だ。光貴は首だけ振り返った。
「今日は、座らないの?」
「あんたが居るから」
「へぇ、そういう声してんだ。えっと、なんて名前? ひかる……ひかき? まさかこうき?」
 光貴は黙って歩き出した。
「ちょ、ちょっと待って、何で行くんだよ。せっかく話しかけてるのに」
「話しかけてくれって頼んだ? あたし?」
「いや、」
「じゃぁ、行こうがどうしようが勝手じゃない」
「いや、そうだけども、まだ、話の最中だし、」
 光貴は彼に向き直った。面白くも無い無表情を向ける。学校でする顔だ。この顔の所為でクラスから総スカンを食らっている。別に好まれたいとは思わないからこのままだ。だから、口角がずっと下がっている。
「あ、俺、西野 渉」
 渉は光貴をあごでしゃくったが光貴は口を開こうとしない。
「名前、なんていうの?」
「言う理由が解らない。プライバシーの侵害」
「名前ぐらいいいじゃん」
 光貴はむっとしたままで渉を見返す。別に何もない。ただ黙って見返しているだけだが、この顔のおかげで睨んでいると思われる。別に構わない。あと数ヶ月で学校も卒業だ。県外に出て誰も居ない場所で新たな自分を作り直すんだ。
「俺さぁ、あったまわりぃから、名前読めないんで教えてください」
「何で知りたがるわけ?」
「変わった名前だから」
 光貴は鼻で笑った。
 渉がにやっと笑った。
「何?」
「いや、笑うんだぁと思って」
 光貴はもとの顔に戻り、
「光貴。これでいい?」
 と歩き出した。
「おっと、光貴っていくつ?」
「呼び捨て?」
「だから年を聞いて、」
「ありえない年」
 光貴はそう言って歩く。渉もそれに併走して歩く。
「一緒に居ないで、」
「何で?」
「暑いからよ。夏で暑いのに何で他人のあんたと一緒に居なきゃいけないの?」
 光貴の言葉に渉は立ち止まったが光貴は気にすることなく弁当が食べられそうな場所を探した。
 いつもの場所よりも離れていて木陰も大したことはなかったがそこしかなかった。
 舌打ちをしてそこで弁当を広げ味気ない玉子焼きを放り込む。
―まぁ、外で食べるって言わないだけいいけど、兄さんみたいに勉強か、弟みたいに部活でもしてれば、弁当だって作ってあげるのに、まったくあんたって可愛げないよね、作ってよぐらい言えばこっちだって一人増えようと変わり無いのにさ―
 親の台詞かよ。と思いながらも毎日飽きずに玉子焼きとウインナーだけの弁当をほうばる。今は栄養を蓄えているときじゃなくて、ただただお腹を膨らませるだけに食べるだけ。だから美味くなんか無い。おいしいものなんか、ここ最近食べたこと無い―。味気ない青春だ。
 光貴は空を仰いだ。木々の隙間から覗く青い空は嫌になるほどの青色をしている。どこまで空なんだろう―どこまでも空なんだよ。
「つまんねぇ」
 光貴は食べ終わった弁当箱を片付けて図書館に戻った。
 入り口には渉が少しむっとした顔で立っていたが光貴はその前を何事も無く過ぎる。
「むなくそわりぃ、引っ張ってやろうかその髪?」
 通り過ぎようとした光貴の耳にかすかに入った言葉。光貴は立ち止まり、渉の方を見た。
「勝手にしな、くそガキ」
 光貴はそう言うと何事も無く机に座る。
 本を広げ年譜の書き込みを再開する。
 結構面倒な他人の所業。業績。実績。凡人らしからぬ平坦でない年譜。こういう波乱万丈な人生を歩めば誰もが天才になれるのかもしれない。と思ってしまうほど不幸だったりする。
 光貴は頬杖をついて窓の外を見た。
 そろそろ―いつも―座っている席に西日が下りてくる。そして直ぐ職員がブラインドを下ろしに来る。冷房は効きすぎてきて長袖を一枚羽織り、昼食後もあってうとうとしたくなる。
 光貴の隣にわざわざ座ってきた人物を見る。―渉だ―
 光貴は取り合うことも無く引き続きノートに書き記す。
「それ、どうすんの?」
 渉は周りを気にして小声を出す。が光貴は何も言わない。
 大学ノートの特に分厚いノートのすでに2/3も使って書かれたもの。学校の宿題とは思えなかったのだろう。だいたい人物レポートなど中学生の自分にはまるで見当がつかないものなのだ。
 渉が返事を待っていたが光貴は何も答えなかった。
 渉が痺れを切らし口を開こうとしたとき、光貴が立ち上がり、本棚へと向かう。
 文学作品の棚は他以上にかび臭い感じがした。源氏物語全巻から近代作家といわれる三島由紀夫が居るが渉にはその価値も、その重要性もわからない。
 光貴は夏目漱石の棚の前に行き「坊ちゃん」「心」「吾輩は猫である」を取り上げたがどれも今読むにはあまりにも古いと感じられる。
「あのさぁ」
 渉が声を掛けたのを光貴がちらりと見て、
「無意味」
 光貴はそう言って二冊の本を棚に戻し、「吾輩は猫である」を持って引き戻った。
 漱石の小ばか精神は好きだった。人の観察を良くしているから見える癖をたいそうに書き記しそれが失笑を買うことをよく知っている。だから細かい笑いを誘う。そういうものがつらつら書かれている所にポツリポツリとあるから当時としては流行ったのだろう。今ではその間が長すぎて読まれないだろうが、さびの効いた毒舌というのはいかにもその当時の人が好みそうなものだ。明け透けよりちょいと隠し気味な方が人の心をくすぐると信じている。いや実際そうなのだろう。だから、主人公「苦沙弥」の名前が出るたびに何かが起こりそうな笑みが浮かんでしまうのだろう。
 人を惹きつける書き出しや、言葉尻に見られる漱石節も、今なおファンがいるというのも頷けなくは無いが、光貴はどうも苦手だった。これならば宮沢賢治の童話のほうが随分と好きだ。難しい大人の世界より、奥が深くても深読みせずに楽しめる童話の方が癒される。どうも、癒しが欲しいらしい。
 光貴は首を傾け自問して首をすくめた。
 ノートの文字はびっしりと書き込まれていく。これをどうするのか? さぁ、どうするわけじゃない。漱石研究家になるわけじゃないし、作家研究家になるわけでもない。ただただ暇をもてあましていて、その暇つぶしにテーマを決めて本を選別してノートに書いているだけだ。印刷したものを貼れば一日で作業は終わる。そうすれば明日はまた暇になる。そんな事は嫌だった。家に居なくて済むのならば、多少しんどい思いをしてもノートに筆記するほうが良かった。
 家に帰ればここ六年分の研究ノートがダンボールに入っている。最初の年は学校で習った環境問題だったおかげでノートは十数冊にも上ったはずだし、そのあとも五冊以上は何かしら書きとめている。
 受験には一切関係ないだろうと親は笑って見下すものも、光貴にとって見ればそれは夏の思い出なのだ。兄の受験に始まって夏休みにどこか出かけられなくなってからの、光貴の夏はノートに書かれていく文字だけなのだ。
 ごん。という音がして隣を見れば渉が額をさすっている。図書館の静けさと冷房のおかげで眠気が来たのだろう。
 呆れても何も言わずにノートに目が戻ろうとした光貴の目に渉の宿題ノートが目に入った。
 中学生の宿題は本当に少ない。それでも夏休みにやり遂げられる分は出ているらしく、ノートに書いた英単語に眉をひそめる。
 「frutu」に斜め線を引き「furit」とその上に書き込んだ。
「あ、……どうも。俺、英語苦手なんだよね」
 渉の言葉はいつまでも無視で光貴は自分のノートに書き始めた。
 渉は首をすくめて消しゴムで消し、書き直した。
 「遠き山に日が落ちて」が流れ始める。あと十分で閉館だ。
 光貴は荷物をかばんに押し込み、立ち上がる。
 渉は背伸びをして大欠伸をして同じく立ち上がった。
「これからどうします? 光貴さん」
 一瞬渉のほうを向いて「光貴さん?」と聞き返そうかと思ったが、どうでもいいことだと思い光貴は黙って歩く。
「そのさぁ、なんも喋らないでよくいられるよね。俺は喋ってないと苦痛で苦痛で」
 渉がそう言って追いかけてくるがまるで光貴は相手をしない。
「ねぇ聞いてますぅ?」
 自転車を引っ張り出した光貴の前方に立ちふさがった渉を光貴は黙って見返す。
「やぁね、ああやって男の気を惹いてるのよ」
 退屈な言いがかり。光貴はため息を落とし視線を落とした。
 渉が道を開けた。
「すんません」
 そう言って渉に光貴は顔を上げた。
「じゃぁね」
 光貴は一言言って自転車に跨り漕ぎ出した。
 じゃぁね。はまた明日も逢おうと言う意味が含まれている。明日も会いたいわけではない。でもあれに代われる言葉を知らないのだ。さようなら。は本当に引き別れてしまう気がする。バイバイと言うには自分は幼さを捨ててしまっている。
 風を受けて髪が後ろに撫で付けられる。
 まぁ、別に大したことではない。じゃぁね。も、さようなら。も別れの際の言葉に変わりない。相手がどう取ろうと自分は関係ない。別にどう思われようとどうでもいい。
 ―みっちゃん―
 耳に残るあの声。六年前に突然消えた声。あの声が聞きたくて、彼に逢いたくて、彼がいとおしいと思ったときから光貴には彼以外のことはどうでも良くなったのだ。親も、兄弟も知らない光貴のもう一つの夏の思い出。
 家に着き、自転車を止め家に入る。
「ただいま」
 声を掛けても誰も居ない。まだ親は仕事なのだろう。弟は部活のあと友達とどっかに行き、兄は多分彼女の家にでも居るのだろう。
 光貴は部屋に上がる。冷房をつけ、ベットに腰掛ける。
 机とベットがあるだけであとは全て壁収納されたすっきりとして殺風景な部屋。
 フローリングの床。薄い緑のカーテン。
 下が賑やかになったころにはすっかり真っ暗だ。時計は七時半。知らぬ間に座って眠っていたようだ。
 下に降りて夕飯を食べる。まるで会話の中に居ない光貴。でもそんなことを気にする親じゃない。喋っているのは母親だけ。このままじゃ家庭崩壊よと絶叫し、食事中は会話をしなくちゃと喋りだして、職場での愚痴を喋りだして止まらなくなりこのざまだ。家族のうんざりしている顔なども知らず、誰も耳を貸そうともしていないのも知らず、自分だけがストレスを発散している。
 食事が終わると部屋に散らばる。寝る時間は真夜中だ。
 夜中になると月が窓の上を掠めて明るい。
 うとうとと眠りに入ろうとしたとき―光貴さん―の声。
 光貴は眉をしかめて目を開ける。
 なぜ渉の声が聞こえた? なぜ?
 光貴は何度か睡眠の入り口に入る手前でその声に呼ばれ目を覚ます。いい加減二時にも、三時にもなったときには睡魔のほうが勝って声は気にしなかったが、それでも頭の隅でなぜ? が渦を巻き熟睡とは行かなかった。
 光貴は弁当を持たずに出かけた。昨夜の睡眠妨害に寝坊した所為だ。別に学校ではないのでいくら遅れても構わないのだが、でも、母親が誰も居なくなった家を掃除して出て行く日課に巻き込まれるとまた愚痴が始まる。その愚痴から逃げるように出た。
 朝食も食べずに図書館まで二十分は流石にしんどい。
 図書館入り口のベンチに座り込む。少ししんどさが緩和されたら近くのコンビニで朝食を買おう。昼もどこかで、今日はちょっと贅沢にしよう。
 光貴はそう考え目を閉じて空を仰いだ。風が吹いてまだ少しばかりは涼しい。
 ふわっと風を遮られ目を開けたとき、渉の顔が近づいていた。いや、すでに近づき唇に生暖かいものを感じた。
 ばつが悪そうに渉が離れた。少し顔が赤くなっている。
 光貴は顔が徐々に眉間にしわを寄せただけだった。
「あの、なんて、言うか。てか、怒鳴ったり、驚いたり、」
 渉が慌てているのを無視するように光貴は立ち上がるとコンビニに向かって歩き出した。
「ちょっと、光貴さん。俺のしたこと解る? ねぇ?」
 渉が追いかけてきて腕を掴んだ。光貴は立ち止まらされて渉の顔を見る。昨日と変わらない無表情。
 キスしたんだぞ、了解も得ないで、何で普通の顔してんだ? てか、この人、怒ったり、笑ったりしないのか?
 渉が声を失うほど光貴は何事もない顔をしていた。
 渉は手を離すと家に帰った。
 鬱々と胸に怒りのような、なんとも言いえないものが残る。手近にあるものを投げてもそれは晴れない。
 それは光貴も同じだった。鬱々としてもやもやとしたままコンビニに入ったがこのまま残る気も失せてファーストフードに入った。近くで漫画を買いそれを読む。でもまったく面白くもないし、いつもとは違っていてどこかけだるさだけが残る。
 早めに家に帰ってもすることも無く、夕食後直ぐに眠った。昨日の睡眠不足の所為か眠りに直ぐにつけそうだ。でもふと思い出す唇の感触に何度も寝返りを打って、結局今日も二時ごろまで意識があった。
 渉は登校日の学校に来ていた。
 登校日などなんであるのか解らない。暑くて勉強できないだろうから夏休みがあるのに、なぜ暑い盛りに学校に出てこなくてはいけないのだろう。
 平和学習と称されて蒸し風呂の体育館で映画を見る。酷くつまらないと思いながらも膝を抱えた目にはうっすらと涙を浮かべる。
 教室に戻ると、いつもならあの輪の中に入る連中のたわ言が今日はなぜが耳に酷く煩い。
「よぅ、渉。例の彼女に声を掛けたか?」
「あ? あぁ」
 夏休みに入る前、ちょっと気になる人を見つけたということを話してたっけ、大興奮だった。髪が長くて頭がよさそうなお姉さんタイプ。やせてる様でわりに胸が大きい。それが思春期には大ヒットだ。
「で、で、話したか?」
「あぁ」
「付き合うことになったか?」
「いや、」
「なんだよそれ、強行突破だぞ、引っ張りまわして、キスして、そんで、そんで」
 ひどい妄想だ。酷く幼稚であほらしい。でも、渉だって想像する。彼らが騒いでいるような格好を取っている光貴を。あいつらの頭の中の光貴も同じような格好を取っているはずだ。
「くだらねぇ。」
「はぁ?」
「くだらねぇつったんだよ。そんな妄想すんなよ」
 渉は無碍に言い放ち自席についた。
 「ムカツク」何にむかつくって、あいつらの頭の中で光貴は素っ裸にされ、あらぬ格好をしていることがだ。くそみそに面白くないのは、キスをしたのに何の反応もしなかった光貴に対してだ。風か、空気が触れたぐらいにしか思っていないのか? あんだけ声を掛けて、名前だって言ったのに、まるで反応がないなんて……。
 渉のむしゃくしゃを同じクラスの加奈子は黙って見ていた。
「加奈子ぅ、西野ってば好きな人が居るらしいじゃない」
「知ってる」
「なのに好きなの?」
 加奈子は頷く。
 親友の千恵が首をすくめ、
「相手、どんな人か見に行かない? 何でもよく図書館に来るらしい人だって」
 千恵がどういう手段で聞き出したのか解らないが、加奈子も渉の好きな人には興味があった。夏休み前まではもう少しやんちゃだった木がする。わいわいと騒いで、好きな人の話も大声で、でもあれは女の人に興味を持ち出した男子が騒ぐのと変わりなかった。でも今はなんか違う。少し、今までと違う。登校日までの三週間ほどの間に何があったのか、すごく知りたい。
 加奈子と千恵は渉が図書館に入るのを尾行した。
 駐輪場に自転車を止めた渉が直ぐに走り出した。
「光貴さん」
 見ればセント・クレハ女子高の制服を着た光貴が立っていた。
「相手って、高校生?」
 千恵の絶句以上に加奈子は絶句して声が出なかった。
 セント・クレハは県下の女子高の中でもトップクラスの私立校だ。お金も頭も無ければ入学できない学校だ。
「昨日は、ごめん」
 渉はそう言って頭を下げた。
 光貴はその横を通り過ぎる。
「いいよ、何も言わないなら。でも俺は光貴さんが好きだったから、」
 光貴が二歩通り過ぎて立ち止まった。
「あの子、」
 光貴は加奈子の方を指差している。
「あ?」
 渉は決定的瞬間を見られたバツの悪さと、それが加奈子たちだという苛立ちで顔を赤くして睨んだ。
「あの子の方がつりあうわよ」
 光貴はそう言って図書館の中に入った。
 渉は光貴の後姿を見たあとで加奈子たちを見たが直ぐに図書館に入っていった。
「どうする? 帰る?」
 加奈子は千恵の方を見る。
「入るなら、一緒に入るけど、入っても」
 加奈子は頷く。千恵は入ったところでどうしようもないと言いたげな顔をしたが、加奈子と図書館に入った。
 冷房の聞いた館内。静かでかび臭い匂いが鼻をつく。
 光貴と渉は隣同士に座っていた。ただ、光貴の前には本とノートがあるのに、渉の前は何もなかった。
「どうするの、これから」
 加奈子が思案している横をセント・クレハの生徒が三人入って来て光貴を見つけると近づいてきた。
「光貴クン」
 一人の女が言った。髪の毛は黄色がかった茶色。くるくるのパーマを当てた髪、うっすらとつけた化粧。
「歩くの早すぎってぇか、真面目だよね図書館だって」
 この人は気にならないのだろうか? 渉がそんな目で見上げていることなど気にする風も無く、
「てかぁ、光貴クン、合コン行こうよ」
「そうよ、こんなとこ居ないでさぁ」
 と次から次へと声を立てては、
「まったく光貴クンたら愛想悪いんだから、ねぇ」
 と笑い声を上げる。
「場違い」
「え?」
「酷くやかましい」
 光貴はそう言いながらも手は休もうとはしなかった。
「何よ、それ」
「品位にかける。ここがどこだかわからず大声を上げて恥ずかしくない? だからあたしあんたたちと一緒に居ないのよ。そんな簡単なことが解んないの?」
 光貴の言葉に逆上したように三人の顔が赤くなっていく。
「ちょっと、……へぇ」
 一人が横に座っていた渉を見つけた。
「中学生? 彼氏? 超ダサい。てか、犯罪じゃないの? ロリコンじゃなくって、ショタコン?」
 げらげらと笑う声に光貴は何も言わずに手を動かす。
「超ムカツク」
 一人が光貴のノートをすばやく取り上げるとつかつかと持って歩き廊下に出るとトイレに向かった。
 物凄い音がしてトイレのゴミ箱にでも捨てたのだろう解った。
 光貴は黙ってため息をこぼし立ち上がるとノートを取りに行く。
 廊下に出るとノートを捨てた女が前に立ちはだかり光貴を外に連れ出していく。
 他の二人が笑いながら外へ出て行った。
 加奈子と千恵も、そしてそこに居た人も外のほうを窓から覗く。
「行くの、行かないの?」
 光貴は何も答えない。
「超ムカツク」
「こいつ、本当にむかつく」
「お前ら、」
 渉が声を出した上からかぶさる様な声がする。
「妹がなんかやったか?」
 光貴の目が一瞬だけ変わった。
「何してんの? あんた」
「兄貴に向かってあんたかよ。ただの近道。そういやぁお前がよく行く図書館だなぁとか思ってたら出てきたからよ、で、何やってんだ?」
「見ての通りよ。あほ相手にしてるだけ」
「そりゃご苦労さん。あんたらも大変だ。こいつから何かを得ようとか、反応を見るにはそれはそれは死ぬほどの苦痛が必要なのに」
 光貴の兄は伊達眼鏡をはずし三人に微笑んだ。
 眼鏡をかけていたときには温厚そうな大学生だったが、眼鏡をはずすとぞっとするほど凄みのある目をしている。
「まだ居るだろ、恭子、茂野恭子、あれ、俺の女。いわんとしてること解るよね、お嬢さん」
 三人は光貴を睨みながらも茂野恭子なる言葉に恐れて走り去った。
「さすが恭子」
 光貴は図書館に戻る。
「おい、ありがとうぐらい言え」
「恭子さんに言っといて」
「ったく可愛げのない妹め……、行くのか?」
「そのつもり」
「早く帰って来いよ」
「あんたもね」
 光貴は図書館に入りトイレのゴミ箱を見た。運がいいのか、ゴミは無く、ノートだけがあった。
 汚くて気分は悪いがどこも汚れていないのを捨てるのも惜しい。
「ったく、容赦ねぇ奴らめ」
 光貴はそう言ってかばんを手にして図書館を出た。
 あれだけの迷惑をかけて残るのは流石に気が引けた。別に自分は悪くないと解っているが、残る気は失せていた。
 光貴は空を仰ぎ家の方向とはまったく違う場所へと自転車を向けた。
「どこ行くんですか、光貴さん」
 渉がハンドルを握った。
「墓参り」
 渉はハンドルを離した。きっとあれは正しい、光貴は普段喋らない分、嘘は言わないはずだ。墓参りまで付きまとう気はない。
 光貴は自転車を漕ぎ出した。
 後ろから加奈子と千恵がついて来ている。
 ふと止まり、光貴は公衆トイレの中に自転車ごと入った。
「あんたたちも雨宿り探したほうがいいわよ、夕立来るから」
 加奈子と千恵が空を見れば黒い雲が空を追い、途端雷が鳴り出した。
 二人は顔を見合わせ公衆トイレの軒下に入る。
「結構、暇なのね、あんたたちも」
 光貴はそう言ってぼたっと降り始めた激しい夕立を眺めた。
 雨はここ最近の乾きを潤すように叩きつけてきていた。
「あのぅ」
 加奈子の言葉に光貴が加奈子を見る。
「光貴さんと、西野君て、付き合ってるんですか?」
 千恵が驚いている反応を見れば、普段この子はそんなことを言う子ではないのだろう。光貴は首を振り、
「向こうだってそんな気はないでしょうよ。見てたでしょ、私の行動。無口で無表情で、そんな相手と付き合っているような喜びがある? 付き合うって、相手のいろんなところを発見したり、それでも好きな気持ちで一緒に居られるものでしょ? 見た目や、何で引っかかってうろついているのか知らないけど、そんなんでうろつかれても困るのよね。私はそう言うの、まだ必要ないから」
「受験だから?」
「それが一番無縁なものよ」
 光貴はそう言って空を見上げた。
「そろそろ上がるわ。ついて来たって面白くないわよ」
 光貴は自転車に跨ると漕ぎ出した。
「千恵は帰っていいよ。あたし、追いかける」
「加奈子?」
 加奈子は光貴を追いかけた。渉が好きな相手だから、手を出すなと警告するためじゃなく、光貴がなぜあんなふうなのか知りたくて、何があるのか興味が出たのだ。
 光貴は市外の墓地に来た。
 ひっそりとしていて同じ分だけ日を浴びているのに、どこかひんやりとした感じを受ける。
 光貴は墓地の入り口で花を買い、とある墓に向かった。流石に加奈子はあのあとを追う気はなかった。
「あら、みっちゃん」
 光貴に近づいた人はどこか光貴に似ていた。
 長い髪をたらした白い服の美人だ。
「そうやって呼んでくれるの洋子さんだけですよ」
「ありがとうね、毎年、毎年」
 光貴は頷いて手を合わせる洋子を見下ろした。
「それより、いい女になったわね、一年で」
「そうですか?」
「彼氏でも出来た?」
「居ませんよ。作る気ないし」
「え、レズ?」
「どっからそういう低俗語が出るかなぁ」
「違うんだ。じゃぁ、彬の所為?」
「まさか。彬さんのこと好きだったけど、それでじゃ無いですよ、ただ、なぁんと無く。興味がわかなくて」
「彼氏が出来たらもっといい女になるのに」
「辞めてください」
 光貴と洋子はいつもなのだろう、墓地近くにある公園のベンチに黙って移動してそこに腰を下ろした。
「もう六年よ、そろそろ前を向きなさい」
 光貴は頷いた。
「いい風が吹いてるわよ。きっと、いい人と巡り会うわ。あたしもね、そうやって決めたのよ」
 そう言って洋子は左手の指輪を見せた。
「きれい」
「彬もそう言うと思う。だから、みっちゃんもね」
 光貴は頷いた。
 洋子は立ち上がるとそのまま歩き去った。
 光貴は立ち上がると加奈子の姿に驚いた。
「居たの?」
「えぇ、ごめんなさい」
 光貴は空を仰ぎ、
「暇ね、まったく」
 と呟いた。
「ちょっと行った先にケーキのおいしい店があるんだけど、行く?」
 加奈子は頷いた。
 二人して店に入り、アールグレイとシフォンケーキを頼んだ。
「さっきの人、光貴さんの親戚の人ですか?」
「遠縁の叔母さん」
「似てたから」
「そうね、似てると思う」
 光貴は小さく口に運ぶ。その気だるさが妙に大人びて見える。自分は中学の制服を来て大人になった気で居たが、光貴のほうが随分と大人だし、洋子のほうが光貴よりもやはり大人だ。
「さっきのお墓、あたしの初恋の人が居るのよ」
「そ、そうなんですか」
「奇妙なものよね、日本人気質って言うのかしらね」
 光貴はくすりと笑いお茶を口に含んだ。
「六年前、洋子さんと婚約中だったの。うちの家族に会う前に一緒に遊んだりして、すごくいいお兄ちゃんだった。背が高くて、物知りで、いろんな事知ってた。勉強は嫌いだけど、いろんなことを知るのは好きだって言ってた」
「事故?」
「多分、そう」
「解らないんですか?」
「知りたくないから。ある日突然居なくなって、ぼろぼろになった洋子さんから、居なくなったとだけ聞いた。死んだと理解したのはそれから三年後。大好きな洋子さんから笑顔が無くなって、お墓の存在を知って、なんだか楽しくなくなったの。交通事故の巻き添えに遭った。というようなことは聞いたから、たぶん事故。誰かを恨んだり、誰かの所為に出来ない宙ぶらりんの思いを消すには、他の感情が邪魔なの。泣いたり、笑ったりすることが。思い出したら、止まらなくなるから。寂しくて、寂しくて。一年に一度、お墓に来て自分を取り戻す意外は、面をつけて生きてるの。あたし。だからね、あなたの好きな子に言っといて、あたし、そういう気分じゃないからって」
 光貴の言葉に加奈子は顔を赤くしたが、頬杖をついた光貴の目から涙が落ちるのを見てハンカチを探した。
「はい、返さなくていいですから」
「ありがとう」
 光貴は本当に一年分の感情を堪えていた様で、ずっと泣き崩れた。声を上げず机に額をつけてただただ肩を震わせて泣いていた。
「ありがとう。付き合ってくれて」
「いいえ、おごってもらったのこっちですから」
 光貴は少しだけ笑って自転車に跨った。
「また、また仮面をつけるんですか?」
「そのつもりよ。洋子さんは吹っ切れたけど、三年遅れで始めた事だから、三年先にならなきゃ踏ん切りがね」
「でも、もう六年ですよ。踏ん切りつけなきゃ」
「ありがとう。一応、前向きになるつもり」
 そういいながら光貴は仮面をつけて自転車を進ませていった。
 加奈子はその背中を見て酷く悲しくなった。
 何で光貴が苦しまなくてはいけないのか? そばで励ましてあげることが出来ないのだろうか? 浮かんだ顔は―渉―だった。
 加奈子は渉の家へと自転車を踏んだ。
 ドアベルを押し、出てきた渉に胸がドキッとしながらも、息を整えて
「光貴さんを助けてあげて」
 と声を出した。
 多分、「私はあなたが好きです」と何度も言いたかったのに、今は違う言葉が出ている。光貴を思う気持ちの方が渉を好きだという感情よりも大きい。
「はぁ?」
「光貴さん、逃げてるの。楽しいこととか、嬉しいこととか、そういうことから逃げてるの」
「な、何言ってんだ、お前?」
「助けられるの、西野君だけだから」
「だから、」
「光貴さんを亡霊から助けて」
「おい?」
 俺は霊媒師じゃねぇ。渉は眉をひそめて加奈子を見たが、加奈子はそれ以上何も言えないと帰っていった。
 翌日。光貴は相変わらず図書館に居た。
 渉がその横に座り光貴を見た。相変わらずな顔だ。
「お昼、一緒に食べましょ?」
 弁当を見せると、光貴は首を振るだけだった。
 昼に追いかけると、光貴はファーストフードに入った。
「弁当は?」
「食べますよ、成長期なんで」
「何よ、それ?」
 盆に乗ったハンバーガーと弁当を並べて渉は光貴の前に座った。
「あの子、あなたのところへ行かなかった?」
「あの子? 清水?」
「加奈子ちゃん」
「きましたよ」
「言ってなかった? こんなことするなって」
「いや、なぁんも」
 除霊を頼まれた。とは言えまい。ハンバーグを口に頬張り光貴を見る。
 相変わらず顔を崩さない。何の感触も無く食べるという動作だけをしている。
「美味い?」
「おいしいわよ」
 簡素な意見だ。
「感情、こもってない」
「そう? おいしいわよ」
 光貴はソーダーで喉の奥に押しやった。
「亡霊?」
 光貴が渉の顔を見る。
「その無感情は、その所為?」
「加奈子ちゃんに聞いたの?」
「いや、物凄く漠然と」
「じゃぁ、言うわ。あんたに関係ない。本当に迷惑なの、だから、もう止めて。無駄でしょ、私はこうなんだから」
 光貴は食べかけを盆に乗せるとそれをそのままゴミ箱に放り込んで店を出た。
「ちょっと、まだ食ってるのに」
「人の話し聞いてた? 辞めてって言ってるでしょ?」
「そっちこそ聞いてたか? 俺は、光貴さんが好きなんだって」
 人が二人を見る。微笑ましい若いカップルの喧嘩。そういう目で見られるだろう。
 光貴は踵を返して歩き出す。
 渉はそのあとをついていく。
「いい加減にして!」
 ひと気は無かった。いつも図書館へ行く本の数メートルの寂しい場所。そこで光貴はいつも以上の声を出した。
「なんなのよ、辞めてって言ってるでしょ。嫌いだって言ってるじゃない。何よ、」
 光貴の言葉に渉は掬いたくなる様な想いに駆られた。水のように逆らわず落ちるものを手に受け大事にしてあげたいと。だから思わず手を伸ばした。
「しょうがないじゃん、俺、光貴さんが好きだから」
 光貴が渉の手を打ち叩いた。
「辞めて、あたしは……嫌なの」
「何で? 俺が年下だから? 俺が亡霊じゃないから?」
 光貴は言葉を詰まらせた。
 理由なんか無い。人と関わりたくないだけだ。洋子と逢うのを一年に一度にしたのも、彬を思い出すから。親兄弟と会話をしないのも、世界最小限の行為も、ぽつんと独りにされた洋子を見たときから、しなくなった。
 怖いのだ。洋子のような姿になるのが。一人で惨めに泣き続けるのが。それがどうして解らないのだろう? 何で、人は関わってくるのだろう?
「俺、光貴さんが好きなんだよ。光貴さんが笑った顔が、笑った顔をずっと見て居たいんだよ」
 光貴は唇を噛み締めた。
 ざざざっと風が抜けた。
―みっちゃん。みっちゃんは笑うと可愛いんだから、ずっと笑っていなきゃ―
「彬、さん」
 光貴は座り込んだ。
 顔を覆い、声を上げて泣いた。
 ベンチに座り光貴は渉を支えにして座っていた。寄り添い、肩を抱き合っている風にも見えるが、光貴にはそんな気はない。
「彬さんが好きだった人?」
「好きだったのは、洋子さん。その人の彼氏だった人。大事な洋子さんを悲しませて、一人ぼっちにさせて消えた人。洋子さんの心の中に彬さん意外居なくなったときから、彬さんが好きだったのか洋子さんが好きだったのか解らないほど寂しくなって、誰かと関わるといつか寂しくなる。それはいやだ。だから、関わるのを辞めたの。笑うと誰かと幸せを分かち合う。悲しむと誰かが同情する。だから、一人で居るために感情を排除したの」
「辛くない?」
「忘れてた」
「そっか。でも思い出してよかった。俺、がんばるよ」
「何を?」
「光貴さんを笑わせるように、悲しんでたら慰めて、怒ってたら……それは逃げようかな」
「都合がいいのね」
「一応年下なんで」
 光貴は体を起こし空を見た。
「思い出したけど、直ぐには戻れそうも無い。楽しいことも、悲しいこともそう思わないで居よう。と六年も努力したから」
「徐々に慣らせばいいじゃん。とりあえず、感触ぐらいは思い出してもいいかと思うけど」
 光貴は渉の方を向いて首を傾げると、渉の柔らかく温かい唇が触れた。
「人の体温」
 渉はそう言ってすばやくベンチから立ち上がり、手を前にして身構えた。その構え方がこっけいで、まるでヒーローショーの悪役が取るようなポーズだ。
「変な子」
 光貴の顔がゆっくりと笑う。
「俺、本当に光貴さんの笑顔好きなんだよ」
 渉はそう言って背伸びをした。
 光貴は俯いていたが顔はさらに笑顔になっていた。
 少し前に向く。あんな寂しくて暗い自分から少しだけ、前に向く。これも弔いになるでしょうか?
 



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