前世幻想〜運命の歯車〜
松浦 由香
ノヴェルフェスタ 男祭り…「プーさんのぬいぐるみ」「仔猫」
「ジャンガリアンハムスター」「ハッピーアイスクリーム」「ゴシックロリータ」



序章
 鈴木 郁美は、ある日を境に自分が変わるべきだと認識していた。でもそれをひた隠しにし、変わるどころか今までどおりの鈴木 郁美で居た。
 学校、同級生の前、家庭。塾。そのどこででも、今までどおり暗くって、面白みの欠けた鈴木 郁美を装っていた。
 急変することは周りが許さないだろうと確信している。変わって喜んでくれる相手など居ないのだ。
 ただ、週に一度会う相手にだけは、その態度を不服を持って指摘される。
「どないかならんかなぁ?」
 相手の名前は、勝瀬 麻人。
 奇妙な縁で知り合った相手。
 空を見上げて、ずっと、ずっと抜け続けても、空が青いだろうと思えるような空のした。その向こうに暗い宇宙とかがあるなんていう現実味を帯びた、かわいげも、想像力もない事を抜かさず、とにかく、ずっと、ずっと遠くまでこの青が滞りなく広がっている空の下、多分、今と同じように二人は並んで座って、目に映るものをただ眺めていたに違いなかった。
 会う場所はいつも決まっていて、人気のなさそうな河川敷だった。
 時々、夏場なんかはカップルがイチャイチャしに来るので、覗き屋辺りがうろうろしていて煩いが、さすがに、この寒さの中では誰も居ない。
 だからと言って、寒くても寄り添ったり、肩を組んだり、ましてや、抱き合ったりもせず、再会したその日から、同じ距離間を持って座っている。
 カバンが置けるだけのスペース。
 麻人はよく両手を後ろについて、足を伸ばし空を見ている。その格好が好きなんだろうなぁと思う。
「何で、俺と一緒に居るときのように笑ろうたり、喋ったりせぇへんのん?」
 今日は珍しく、塾の前で麻人が待っていた。だからと言って、そこで話しかけず、すっとこの場所に歩いていったので、郁美も黙って、道路を隔てて歩いた。
 人前で一緒に居るのは嫌。それは、麻人が誰かに見せて恥ずかしいからではなく、自分が麻人とつり合っていない事を、誰かに指摘されたくなかったからだ。
 そして、暗い奴でも、影でしっかり彼氏作って遊んでいる。と言うような風潮されるのも嫌だったのだ。
 郁美の思いの半分ほども解かっていないだろうが、麻人は郁美が嫌だと言う人前で名前を呼ばず、近づかずを約束してくれた。
 そして二人だけの空間と言えば、この寒い河川敷の、週に一度座るベンチだけだった。
「何がそんなに嫌なん?」
「別に何も嫌な事なんかないよ」
「なかったら、何で笑わへんのん?」
 郁美が黙って俯くと、麻人はそれ以上は何も言わない。
 毎週、同じことをする。
 そんな郁美に、今週何があった? と言う麻人の質問に答え、徐々に話が盛り上がって一時間して帰る。
 義務付けられた面談ではない。会いに来なくても構わない。麻人にだって彼女は居るだろうし、その彼女がどこかに行っている間の一時間なのかもしれないが、とにかく、無理して週一で合う必要はどこにもないのだ。
 いくら、約束をしたからといって、会えた事には変わりないのだし、それ以上の何も誰も望んでいないはずだ。
 一時間が過ぎ、麻人が立ち上がり、郁美も立ち上がる。
「じゃぁ、また」
 麻人の言葉に頷いて、歩き出す。
 いつもなら何も言わず、振り返りすらせずに別れるものを、今日はいつもと違っていた。
 腕を掴まれ、振り向くと麻人の切なそうな目がそこにあった。
 どきどきと心臓が掴まれ、なんとも言えない寂しい感じを受ける。
「会うんだよな?」
 首を傾げる郁美に、麻人は手を離し、
「来週、また来いよ」
 と笑った。
 変なことを言うもんだ。
 自転車で通り過ぎる麻人の背中を見送りながら、郁美も家路に向かう。
 とりあえず商店街まで戻り、駐輪場に止めている自転車を取りにいく。塾からそこまで五分ほどかかり、河川敷へは、いったん戻って向かわなければならないため、いつも一人でそこへ行く。
 すっかり夜のライティングになった町。
 ショーウインドーには、仔猫やプーさんのぬいぐるみ、ジャンガリアンハムスターとか、ハッピーアイスクリームなる怪しい飲み屋をすぎる。
 いつもと変わらない道を過ぎ、そして意識が途切れた。

一幻想
一幕
 ふわっと体が浮いて、思わず目を開けて近くにあるものを掴む。
 布で、人の袖で、それが着物で、掴まれた相手も慌てて木を掴んだ。
「何すんねや、郁佐!」
 郁佐?
 耳鳴りがする。目がちかちかして、慌てて目を見開いた。
 そこに居たのは麻人で、麻人は自分の手をしっかり掴んで引き上げながら怒鳴る。
 そこは、木の上で、見晴らしがよく、ちょっとした台を置いている所為で、二人が座って昼寝ができたのだが、にしても、どこか違和感がある。
 麻人って、誰だ??
 目をしばたかせて相手を見る。
「何や?」
「いや、飛麻、よだれ垂れてる」
 慌てて口を拭う飛麻に笑うと、郁佐はそこから地上へ逆さに落ちるようにして降りると、寸前で体制を変え地面を走り抜けた。
「な、嘘やな、こらぁまて、郁佐!」
 飛麻もすとんと木から降りてあとを追いかけてくる。
 木の高さは自分が三人ほどの高さはある。そこから降りて平気なのも、自分が忍びの里の子だという証拠だが、そんなもの今や無用の長物だった。
 この山里に落ち着き、ひっそりと暮らし始めて久しい。もう誰とも、どことも戦わなくていいように逃げて見つけた里。子供ですら殺戮兵器にする忍びの掟に背いたものだけで作った、小さな小さな村。
 だから忍びの技はもう覚えない。でも、生まれてからすぐに受けていた特訓の成果は日ごろから常識外の行動へと結び、身軽で、すばしっこくて、山や闇で生き抜く手段を身につけさせていたことは否めなかった。
 それでも、村の中なら普通で、村の外に出たときの構えも存じていた。だから、ここでは自由に動き回っていた。
「郁佐! 飛麻!」
 大人たちの怒声に二人はあたふたと逃げる。
 畑に実ったものをもぎ取り食べたり、稽古だと言って棒っ切れを振り回し、家の外壁に穴を開けたり、畑仕事を手伝わなかったり、とにかく二人はいつもまとめて怒鳴られていた。
 怒鳴られ、拳骨を食らわされ、そうやって大きくなっていた。
 退屈でしょうがなかったが、それでも不幸ではなかった。
「どないした?」
 ある日、飛麻が急に一人で川へ行った。追いかけてみれば、川端に佇み、じっと水面を見ていた。
 ああ、だからこいつは川が好きなんだ。
 訳の解からない思いがよぎったが、そのよぎったものを払拭するように飛麻は重く口を開いた。
「俺、村を出ようかと思う」
「何でや?」
「母さんと二人だけやんか、そりゃ、みんなええ人で、いろいろと食事とか面倒見てくれてはいるけど、でも、年貢もある、いろいろとある。母さんはあのとおり病弱や。村を出て、他所の村の手伝いしたりして金稼いで帰ってこようかと思うてんねん」
「それ、お前のおかん知っとんのんか?」
 飛麻は首を振る。
「俺は、みんな別に苦労やとか思ってへんと思う」
「だから、だからやないかい、みんなが苦労やと思わずに、背負い込んでるの見て、俺がしっかりせなあかんて」
「飛麻……、よっしゃ、そんならとりあえず、村の手伝いを二人でしっかりして、長老に出る許可とって、出ようや」
「出ようや? 何?」
「俺も一緒や、お前がおらへんとこなんかおもろくもないで。それに、親も一緒に行けって言うと思う。一人で居なくなるより、二人なら、行くんちゃうやろかって思うと思う」
「あのな、郁佐、俺は」
「じゃぁ、とりあえず鍬持ってくるわ」
 郁佐は村に駆け出した。
 あのまま一人で出て行かすわけには行かない。
 病弱なおばさんを置いて出て行って、死に目に会えなかったら困難だ。おばさんの様態はそう長くはない。医者とまでは言わないが、郁佐の父親はとりあえず救務ができるので重宝がられている。だから、畑仕事はしていない。
 その父親がこぼしていたのだ。間違いはないだろう。
 自分が行くといえば、飛麻はどうにかして一人で行こうと思案して少しは出発の日が伸びるはずだ。
 その間なら、死に目に会える。確かに望むべき幸福ではないが、残酷な願いでもないはずだ。
 郁佐は立ち止まった。
「空が、高いなぁ」
 すっと青く続く空。
 時々思う。空は何で意味もなく青く透き抜けて、ずっとずっと上に居るのだろうと。そして、そこに行きたいと思ったら、きっと、絶望や、悲しみの末にたどり着いた小さな幸せのある場所じゃないか。と、悲観的になる。
 大きすぎて、広すぎて恐怖にしか思えなかった。

二幕

 飛麻から話を受けてすでに一月が過ぎた。飛麻がちらりちらりと自分を牽制するような仕草が見られる。
 どうあっても一人で行きたいようだった。
 しょうがない一人で行かせるか。とも思ったが、一人で行かせたら最後、もう二度と会え無い気がして嫌だった。
 そんな夏のころだった。物凄い暑さの中不意に上がった黒煙。林を隔てた村のほうから上がっている。
「火事だ!」
 男衆で駆り出てきた畑を放って走り出した。
 林を駆け抜けて見えた先にはぞろりぞろりと過ぎる侍の軍勢。そしてその足跡のように焼かれていく家。
 一人大声とともに林から抜け出したが、列の中心に来る前にあっという間に血飛沫を上げて倒れた。
 あとに続こうとするものを必至で抑える。
「何をするんだ、あにぃ」
 村の青年団の団長といえる、長老の孫の完十に郁佐が詰め寄る。
「行けば犬死だ。俺たちは忍び、相手は侍。どちらが強いと思ってる? 今は昼間だ。死にに行って、村にまだ生きているかもしれないものを見殺しにする気か? あいつらの見えなくなった隙に、助け出すんだ、たった一人でも」
「あにぃ!」
「必ず敵はとるつもりだ」
 完十の言葉に俺たちは、侍に気付かれずに業火に包まれようとする家から生存者を探した。
 だがみんな、家族の物言わぬ姿と対面するばかりで、その場に泣き崩れ、生きがいをなくして一緒に灰となったものも少なくなかった。
 結局、火が治まり、生きているものは十人足らずになってしまった。
 あとはみんな火に飲まれた。
「われら、復讐の鬼とならん」
 完十がまだ火が燻っている棒に左腕をつけた。肉の焼ける匂いと、押し殺す完十の声。
俺たちも同じ誓いを立て、同じやけどを負った。
「お前たち三人はあの侍がどこの奴かを調べろ、お前たち三人は、あの侍を狙っているであろう大名、忍びの里を探せ。あとのものは俺についてあの列のあとを追う」
 完十の指示により、俺たちは村をあとにした。
 誓ったのは、この村にあの侍の首を取って帰ってくること。墓標となった村に戻る日は、あの侍の首を取ってからだ。
 郁佐と、飛麻は完十に習いあの侍のあとを追った。
 あれが彼の有名な織田信長だと知ったのは、それから二日と経たない宿場町でだった。
 信長について事細かなことまで調べた。食べ物の好み、女の好み、果ては足のサイズに至るまで事細かに。そして身辺の重鎮の家族や、下働きたちまで調べ上げた。
 村が焼かれて五年が過ぎていた。
 偵察隊の話しで、信長と連盟を結びたがっている小さな大名が、娘を送ったという話しが出た。
 そこへ使用人として入り、信長低に連れて行ってもらい、中から手引きして仕留める。その作戦のため、郁佐はその大名の娘が居るといわれている寺へと向かった。
 侘しい限りのする寺は、信長の嫁になろうとする娘の居るところにしては手薄な警護だった。
 職を求めて、というと、物好きな奴だ。と言われながらも中に入れてもらった。
 寺は半ば朽ちてでも居るかのような様子で、だまされた。と思っていながらも、奥へと進めば、幼い子供の声がする。
 垣根を覗き込めば、まだ、五つか、六つの女の子が鞠をついていた。
 その娘こそ信長の嫁となろうとしていた菊姫だった。このとき姫は五つ。信長46歳だった。
 郁佐は勤めて姫と仲良くなり、姫もまた、身より少なく、家臣の数も限られてきているからなのか、郁佐を兄のように慕った。
 ある日、信長の使いだと言ってやってきた男が居た。綺麗な男で、男の郁佐が見ても惚れ惚れするような男だった。
 姫はその侍を「森の蘭丸様」と呼んでいた。
 綺麗な男だったが、やけに目の冷たい男で、郁佐は好きになれなかった。蘭丸を見た日は決まって飛麻に会いに戻った。一応報告と言う義務があるので、表立って飛麻に会いに来たとは言えなかったが、でも、郁佐は飛麻に会いにきたのだ。
 あんな冷徹な奴を見てしまった所為で凍えた心を解凍する為に。
 姫のところに仕えだして二年が過ぎた五月に入ったころだった。
 青葉が目に付くようになって、日も確かに暑く、でも湿気の無い所為で心地いい日が続いていたある日、姫が一人泣いていた。
 話を聞けば信長の所への輿入れが決まったと言う。
 泣いている菊姫を見下ろしていた郁佐の中で何かが割れたような気がした。
 純粋で、無垢な姫をあの汚らしい男が触れていいわけが無い。あの男のその手にするのは、死あるのみだ。
 姫の話では六月ごろ信長は京に入ると言う。
 郁佐は梅雨の中仲間の居る長屋に走りこんだ。
 肩で息する郁佐に飛麻が手ぬぐいを差し出した。
「信長がやってくる。本能寺に泊まると言いながら、夜抜け出して、南蛮寺に泊まるそうだ」
 郁佐の言葉に全員が頷く。
「お前は姫が心配して使いのものがうろうろされては困る。寺に戻れ」
「しかし、」
「これも策略のうちだ。南蛮寺へは少数で乗り込む。誓いは忘れない」
 完十の言葉に郁佐は寺に戻ろうとするが、長屋を出る際、郁佐は飛麻のほうを見た。
南蛮寺行きを命じられている飛麻に、振り返っている郁佐など見えるはずがなかった。
 その夜は特別暑く、特別に長かった。
 南蛮寺に入ったであろう時刻に、姫が急に泣き出した。
「どうしたんですか? 何か怖い夢でも?」
「信長様は本能寺に居ます。嘘を言ったのは、あなたが押し入って死んじゃうんじゃ無いかしらと思ったから。あなたでなくても、あなたのお友達でも。でも、でもね、あとで私が言った言葉を聞いていた乱丸様がね、南蛮寺に罠を張っているって、」
 森蘭丸の容姿が目に浮かんだ。綺麗でそれで居て恐ろしい男。だが、姫は首を振り、
「もう一人の乱丸よ。凄く、怖い人」
 郁佐が首を傾げたその時。急に鐘が鳴り響き、西の空が赤くなった。
「本能寺が」
 誰だろう、そう誰かが言ったときには、郁佐は走り出していた。ただ一瞬立ち止まったのは、菊姫の呼ぶ声にこたえたときだった。
「行っちゃだめ」
 郁佐は菊姫の言葉を置き去りにして南蛮寺に向かった。
 走って、走ってようやく着いたときには、そこは無数の残骸の山だった。
「寺に入ってきた賊同士が相手も解からずに殺しあったそうだ」
 後ろのほうで誰かがそう言っている。
「風上なんで、こっちにはこんやろうが、物騒な世の中や」
 見知らぬ人の言葉に郁佐は本能寺へと走った。
 自分が菊姫の言葉を信じ伝えたから、飛麻たちは南蛮寺で犬死をした。もう生き残っているのは自分だけで、残った自分が信長を倒さねばならない。
 そんな責任感でいっぱいで、誰が本能寺に火をつけ、南蛮寺に置き去りになっている仲間の死体を誰が片付けるなど気が回らずに居た。
 本能寺では、織田勢が相まって居た。傍から見れば、どちらも同じ織田家の家臣だが、一方が反旗を翻したらしかった。
 そんなことも郁佐にはどうでもよかった。ただ願うのは信長の首だけだった。
 燃え盛る寺に入ろうと辺りを見渡しているとき、警備も、人も手薄な裏口から女の着物を着た二人連れが走り出た。
 直感的にそれが信長であると察した郁佐は後を追いかけた。
 追いかけて、追いかけて加茂川まで来た。
「信長ぁ!」
 郁佐は女二人連れに斬りかかる。
 一人が着物をひらりと翻し応戦してきた。
 短い懐刀と、武士の剣が夜空のもと交わる。
 やはり二人は信長と、森蘭丸だった。
 寺であったあの綺麗でどこか寒々しい男。
「仲間の敵だ」
「そんなもののために、覇者を狙うか、笑止!」
 蘭丸の涼しげで冷たすぎる声が胸に突き刺さる。
「お館様」
「遊んでいる場合ではない、光秀が来ぬ前に逃げて体制を整えるぞ」
 郁佐が蘭丸と向き合っている背後から信長の長剣が郁佐の胸を貫いた。
 氷のようなものが胸に刺さったのは、ほんとうだったようだ。
 信長の剣が抜かれ、暫くは後を追うように足も動いたが、それもうまく運ばず、追いかけるよりも、地面に倒れ伏したほうが早かった。
「でも、あいつも死ぬな」
 郁佐のせめてものの苦言だ。
 郁佐はとっさに走っていく信長に短刀を投げつけた。それがどこかに当たったことだけは解かった。あの傷で逃げても、部下の侍のほとんどを置き去りにして、生きながらえても再起は無理だ。
 せせら笑う口に土が入り込んでくる。
 雨が降り出し、跳ね返りの泥が目に入る。遠くで燃えている本能寺。
「飛麻……、飛、麻」
 最後にあいつに会って死にたかった。あいつの友達でよかったと。言ってから、別れたかった。死んだ場所が違うと、上で会えないかもしれない。上に逝けるかどうかすらも怪しいけど。
 会いたい――

二幻想
 あまりの暑さ目に目を開ければそこは何もない空の下だった。
 自分は襲撃を受けてそのショックで気絶していたようだ。助かっているのは、雲の上をゆっくりと飛んでいるからで、多分、その下へ行けばまだ激戦中だと思われる。
 自分は、特攻隊に所属し、今朝日本を離れて海上に飛んだ。敵は沖縄を目指しているアメリカ軍隻だ。
 帰りの燃料もなく、誰のためでもない、国のために出た自分が、なぜここに一人ぽつねんと居るのだろう?
 燃料系は零を示し、落ちて海の藻屑となってもおかしくなかった。
 空は晴天。雲穏やか。のんびりとした時間が流れる。
 だが、自分は、命に代えて敵を一機でも沈めなくてはいけないのだ。
 ほんとうに、それが、国のためなのだろうか?
 操縦桿に体をゆだねるように前に倒れる。
 郁(カオル)が目を開けたとき、そこは紛れもなく違う場所だった。
 体臭が鬱積した臭い場所に、郁佐は寝かされていた。体が動かないのは、左腕がなく、右足が無い所為だと気付くまでそこで二週間かかった。
 そこは日本兵の捕虜施設だと、側に居た絶望しきった男は呟いた。
 郁の手と足は、飛行機に挟まれねじ切れていたと言う。助けたのはアメリカ兵だといった。
 郁たちの部屋には二十人の日本兵がほとんどすし詰め状態で置かされていた。病人やけが人がその部屋の要因で、郁ぐらいの怪我人だけにベットが与えられていたが、後は地べたで寝るようになっていた。
 それもすぐに、ベットが普及され、気持ち優遇の良くなっていったのが、日本が負け、GHQによる指導だと言うことは、涙ながらのラジオを聴いて知った。
 その部屋を担当したのが、アーサーと言う軍医だった。浅黒く、大柄で、陽気な彼は少しでも日本兵に打ち解けようと努力しているようだったが、何せ敵、鬼畜米兵だ。何を思っているのかまったく知れずに、郁たちは無視し続けた。
 ある日、アーサーが夜回りをしにきた。
「寝れませんか? カオル?」
 モルヒネを出そうとするアーサーに俺は首を振り、
「殺してくれ、屈辱はいやだ」
 と頼んだ。
 足が無く、腕が無く、動けないで居る郁の下の世話は、このアーサーがしてくれていた。まだ、二十歳になっていない郁には到底我慢できるものではなかった。
 だがアーサーは首を静かに振って、
「あなたが、今死んだら、誰かが悲しみます。パパ、ママ、シスター? アンド、ブラザー、あなたが生きること、それが一番いいこと。今の苦しさ、いずれ幸せになれるための、神様からの贈り物」
 アーサーはそう言って郁を殺さなかった。
 心の冷え切っていた郁たち日本兵に、アーサーは常に寄り添い、支えてくれた。
 それから初めての冬が来た。
 物資不足の中でも、何とか生きながらえた郁の退院の日が来た。
 母親がその姿に涙しているのを、郁は黙ってみているしかなかった。
「カオル、用意できたか?」
 アーサーが顔を覗かせた。
 このころになれば、郁の心もわだかまりが無くなり、命の恩人であるアーサーに対して敬意を表していたし、話してみれば随分と物分りのいい二人になっていた。
 それは人種の違う親友と言う表現に近かった。
「母さん、彼がアーサーだよ。僕を助けてくれた」
 そう言って顔を上げた母の顔には、恐ろしい憎しみの顔があった。
「助けた? アメリカさんにこんな風にされたんですよ」
 母親の嗚咽に、面会に来ていた家族の顔がこわばる。
 ここでそんなことを言えば、殺される。そういう殺気だ。
 アーサーは静かに、そして悲しそうに呟いた。
「カオルの手も、足も戻りません。でも、私は、カオルと知り合えてよかった。素敵なフレンドです。彼が素敵なのは、あなたのおかげです」
 アーサーは解かっていたと思う。ここを出ても誰ももう二度と来ないことを。ここを出た人がどうなったのかも。
 結局戦争が終わっても、ここで生きながらえた命は、アメリカに魂を売ったと蔑まれ、いいとこ、納屋に閉じ困られて死を待つだけだろう。
 アーサーは笑顔を見せ、郁にハーモニカを差し出した。
「また、会いましょう」
「ああ、会おう」
 外に出て、雪を見る。
 空は曇っていて、手をあげてその灰色を拭えそうなほど低かった。
「アーサー」
 礼を言おうと振り返った郁の目にアーサーの口からとめどない血飛沫が上がった。
「アーサー!」
 アーサーが地面に倒れるその後ろには、郁の母親が立っていた。
「母さん?」
「アメリカなんか、お父さんも、勝も、みんな殺した。お前なんか、お前なんか」
 馬乗りになってアーサーをさす母を郁は体当たりして退け、自由のきく片腕でアーサーの顔を撫でた。
「アーサー?」
「また、会おう」
「アーサー!」
 寒空に郁の声が響く。
 騒ぎを聞きつけた米兵の威嚇射撃と、馬乗りになってさしている相手を郁と間違えて聞いた兵士が郁を撃ったのとは同時だった。
「郁!」
 母親の絶叫が甲高く辺りを占拠した。
 だが、郁の耳にあるのは、アーサーの声だけだった。
「また、会おう」
 どこかで聞いた、約束の言葉。今度も、果たせなかった……。

三幻想
 意識が戻ってきた。
 聞きなれないが、聞いたことのある音がする。それが心音の音だとか、酸素の音だとかは遠くの意識が認識し、頭の中はずっと、病院にいるんだ。と解かった。
 目をゆっくりと開ける。重くて、苦しいのを押し開けると、母親が顔を覗き込んでいた。
「お、母さん?」
「郁美!」
 母の声に父親の顔も見えた。
「あたし?」
「あの人がね、」
 そう言って足元を指差す。見れば麻人が立っていた。
 肩幅が広く、心配したような土気色になった顔。
 母親の説明など耳鳴りにしかならなかった。
 ただ、駐輪場への道を歩いていた郁美に、走り抜けようとした酔っ払いの運転する車に引かれたといった。
 二、三日が過ぎ、麻人は毎日見舞いに来てくれた。
「発見者だってね」
「なんか凄くいやな感じがしたんだ、あの別れ際。で、また来るやろ? って約束させたんやけど、やっぱり、なんかすんげー不安になって、追いかけてみたら、轢かれてて、俺ほんまどうなるかと思うた。やっと、会えたのにって」
 麻人は俯いてすぐ、手にしたケーキを見せる。
「食えるか?」
「まだ、」
「そうやろうと思うて、俺一人で食べるわ」
「ひどい奴」
「元気なったら、また買うて来てやるって」
「ありがとね、ずっと名前呼んでてくれてたでしょ? だから戻ろうと思った。夢見たんだ。郁佐だけじゃない。いろんなときに、いろいろな関係で存在してた。親子だったり、兄弟だったり、でもいつも……」
「約束してんねんぞ、勝手に行くな、あほ」
 麻人の大きな手が頭を撫でる。
「思ってたのね、前世のためにこんな想いしてるなら、何も今じゃなくていいと思うって。友達になることも、それがうまくいくことも、すべて前世とかに縛られるなんて、いやだった。今の思いもすべて、前世の想いなら、今のあたしって何なんだろうって」
「やっぱ、来たらあかんかったな」
「無理だよ、探してたか、会えてたと思う。あたしが窮屈だなって思ってるのは、今、麻人のことが好きな思いが、嘘のように自分に感じたから」
 郁美は少してれたように頬を動かす。
「郁佐だった頃もね、いろんなときもずっと思ってた。こんなに好きなのに、何で離れ離れになるんだろうって。友情とか、親子、兄弟じゃなくて、対等に、人として好きで、麻人が誰かと結婚するたびに、悲しい思いをするのがいやだった。だから、今度こそはって、女に生まれてたんじゃないかな? あたし」
「きしょくわるぅ」
 郁美は精一杯の告白を茶化されて麻人のほうを見た。
 麻人はやっぱり友達としか思っていないんだと思うと、顔なんて満足には見られないのだが。
「郁美ちゃんがそう思ってくれてるのはありがたいし、俺も好きや。でも、あの郁佐がそう思ってたと思うと、ぞぞが走る」
「ぞぞって、」
「俺も郁美ちゃんが好きや。それは郁佐やからじゃない。郁美ちゃんやからや。あの時引き返せたのも、たぶん郁佐、ああ、男なら、別に気にせぇへんかったんや無いかな。郁美ちゃんやから、守ったらないかんて、もう、手放したくないって。思ったと思うわ」
「麻人?」
 弱弱しくて、手折り無い声の郁美に、麻人は優しくてを撫でる。
「何や?」
「ひげ、生えてる」
 麻人の目が徐々に水平になる。
「何や、めっちゃカッコええこというてんのに、人の話しきいとらんと、ひげ、生えてる。何やそりゃ! 訳解からんわ」
 麻人のむすっとした顔を見ながら郁美は幸せに包まれていた。
 走馬灯のように過ぎる思い出。思えば、紀元前辺りから一緒に居たのかもしれない。もしかしたら一緒に狩をしてたかも。ずっと、ずっと友達だったんだと思う。
 母親が来たのを知ると、くるっと郁美に背中を向けて椅子を明け渡す。
 大きな背中、随分と高く見える背。よくよく見ればいい男だ。
「郁美、彼、また来てくれてるの?」
「そう、紹介してなかったね、あたしの彼氏の、勝瀬 麻人君」
 郁美の言葉に母親は麻人を驚きの顔で見上げていたが、麻人の満面の笑みと、それを見上げる郁美の幸せそうで、誇らしげな顔に言葉が出なかった。

 退院して、またあの川原で会っていた。
 この場所は麻人が好きで選んだ場所だった。そのころは暑かった所為もあって、涼むだけだろうと思っていたが、どうやらこれも昔からの趣向のようだ。
 前も、川を眺めるのが好きで、後ろに手をついてぼんやりしていることが多かった。
 ほんの数週間前にあったかばん一個の隙間はもう無い。今は手が触れられるほど近くに居る。
 好きだと思う気持ちが嘘なんじゃないかと思えたことでは、前世の記憶なんて邪魔臭いものだと思う。でも、約束していた記憶は大事で、それとは別に、好きである今の気持ちのほうがもっと大事だと、やっと思えるようになった。
 急に人が変わったとき、変わらない人はよく言う。
 「彼氏、できた?」
 彼氏なんてものじゃない。魂の片割れさ。
 なんか、こういうのって、ゴシックロリータの表紙に書いてあった気がする。
 黒い服を着た人たちが手をつないだり、ポーズ決めて、友達のことを「魂の片割れ」と言っていた気がする。
 いや、不良雑誌?
 あれ? まぁ、どうでもいいのだけど。
 とにかく、居るってことが大事な相手だということには変わりない。
 大きな体を折り曲げて座ってみたり、時々無精ひげがちらほら見えたり、気を抜くと、「男臭いぞ」って感じも、麻人なんだ。
 郁美が笑うのを麻人は怪しげに見る。
「気にしないで、思い出し笑い」
「すけべぇ」
「かもね。あ、そうだ、ケーキおごってくれるんでしょ?」
 聞こえない振りをする。
 川の上を風が走りすぎる。近くの名前も知らない枝に小さなふくらみがあるのを見つける。
 四月には、高校生だ。
 同じ学校には行けないけど、でもいいんだ。会えるから。ずっと。
 明日があるという幸せ。
 大きな手とつながって歩き出す。



 南蛮寺に押し入ってすぐ、罠だと判った。でも正直その方がいいと思った。信長を討ったところで、もう村は返ってこないし、郁佐も、菊姫の使用人で居るほうが幸せだと思う。
 なのに、走りこんできた郁佐は、自分を見つけずに走り出していった。
 行くんじゃない。行ったって、もう、どうしようもないんだぞ。
 お前だけでも生き抜け。
 俺のためにあいつが死ぬのを、もう見たくは無いんだ。
 傷つくのは、俺だけでいい。あいつは、幸せになるべきなんだ。
 めぐる記憶の中でいつも思っていた。
 あいつの幸せって、何だ?

 今なら、少しだけ言えるかもしれない。
 傲慢かもしれないが、
 俺と、居ること。
 なのかも知れない。





Copyright (C) Cafe CHERIE All Rights Reserved.



--------------------------↓広告↓ --------------------------
www.juv-st.comへ
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送