su-ki
松浦 由香
ノヴェルフェスタ69編集部記念



 ふぅ。そうため息をこぼして彼が言った。
「君を愛してはいるけれど、これ以上居る気はない」
 彼女は伏し目がちに言う。
「それは、愛していないということよ」
「違う」
 彼は強い口調で言った。
「違うよ。愛してるけど、なんだか疲れたんだ。君が思うような恋愛が出来なくなったんだ。ごめん」
 そういって彼は秋風の中消えた。あっという間だった。風がすっと過ぎるのと同じように、彼は消えた。
 別に悲しくはなかった。解かっていたから。彼が他の誰かを好きで、自分から心が離れていこうとするのを必死で思いとどまっていることも。自分もどこか彼から離れていることも。だから、別に悲しくはなかった。
 でも、涙はあふれる。
「変なの」
 彼女が呟いた言葉は誰にも聞こえて居ないはずだった。本当に小さかったのだから。
でも、
「それが普通だろ」
 男の声だった。顔を上げれば両手をポケットに入れ首をすくめて要る男が居た。花壇に軽く腰を掛けた状態で、前髪をふっと吹き上げた。
 彼女はそんな彼の前を、彼を見ないようにして歩く。
「潮時を間違えないだけましだったよ」
 彼女は一歩だけ彼から過ぎて、その言葉に立ち止まった。
「何?」
「後腐れの無い別れは無いけど、いい感じで別れたんじゃない? あのあとあんたも追いかけなかったし」
「何よ、それ」
「追いかけてたら、惨めだぞ。すごく」
 彼の言葉にむっとすると、先ほど別れた彼の声がふと耳に入ってきたような気がして振り返る。
 公園と歩道とを区切るように植えられた木々の間から、ちらちらと彼が歩いているのが見える。
「最悪な奴」
 見知らぬ彼の言葉にむっとしながらも、元彼の姿を追えば、その隣にはおなかを大きくした女性が居る。
「どういう」
「そういうこと」
「マジで?」
 彼女はそう聞いて眉をひそめた。
「あんた、誰?」
「おお、ようやく聞いてくれましたなぁ」
「大体、彼のことを知っていたのもおかしいじゃない。何者よ!」
「みたとおり、ごく普通の人間で、男」
「で、ストーカー?」
「まっさかぁ。というか、ご冗談」
 彼はすかしてそう答えて、彼女を見た。
「じゃぁ、何よ」
「別に。普通の」
 彼女は首を振って歩き出した。
「真雪さ〜ん」
「何で知ってんのよ、あたしの名前」
「そんな大声出すと、ほらぁ」
 彼が指差すほうを見れば、元彼の蒼白した顔がこちらを見ている。
 真雪がどんな顔をしているのか、鏡が無いのでなんとも言えないのだが、ものすごい形相なのは言うまでも無いだろうし、筋肉が痛い。
「すげーこえぇ」
 きっと彼のほうを睨むと、向こうの方でかすかに自分を呼ぶ声がしたが、真雪は歩き出した。ずんずんと言う歩き方で怒っていることが誰にでも解かる。 
 だが少し歩いて真雪は足の力を緩めた。
「馬鹿らしい、言えばいいじゃない。そうならそうって」
 真雪の小声に必ず返事が返って来るだろうと思っていたが、返事は無かった。真雪が振り返ると彼はそこに居て首をすくめ笑顔で立っていた。
「居るなら返事しろ!」
「お、態度デカ」
 むっとした顔で真雪が見上げると、彼はさらに首をすくめた。
「じゃぁ、さっきの返事。できちゃったんだぁ。とか言ってお前平気? お前のあとあの女抱いてたんだとか、いや、あの女のあとお前だったかも、」
 パン!
 小気味いい音がして彼は真雪の右手に頬を叩かれていた。
「みなまで言うな」
 真雪はそのまま項垂れた。
 確かに、他に女が居て、妊娠させたんで別れてくれと言われたら、正直そう考える。妊娠させたんなら責任取らなきゃいけないわよ。だからいいわよ。とは笑えない。笑う気もない。
 でも、彼を叩くのは理不尽だ。
「ごめん」
「いいよ。すっきりはしただろ?」
 真雪が顔を上げると彼は叩かれた頬をさすっていた。真っ赤になった頬を見て真雪はまた俯く。
「ということで五千円」
「は?」
「俺、殴られ屋。一発殴って五千円。一分で一万」
「殴られ屋?」
 彼は笑顔で頷いた。
「その殴られ屋が何でいろいろと私たちの事知ってるのよ」
「よくそこで待ち合わせして、食事して、ホテル行って帰ってるの見てたから。俺、その前でずっと居たんだけど、目に入らなかっただろうねぇ」
 彼はそういってポケットからタバコを取り出した。
「あ、真雪さんタバコだめだったね」
 そういって胸ポケットに片付ける。
「一日だと、どのくらい?」
「一日?」
「一時間六十万で、千四百四十万? (合ってる?)あれば殴らしてくれるの?」
「……、あればね」
 真雪が彼のほうに顔を向けると、彼は指を一本たて、
「でも言っておく。俺は人間で、せいぜい持って十分。第一、そんな金があればあんな男の事は忘れられるだろうし、あんたのほうが持たないでしょ。それに、非人道的な結末を迎える羽目になるかもしれないからね」
 真雪は唇を噛んだ。
「そんなに憎い?」
 真雪は黙って彼を見返す。
「さっぱりしたような顔をしてたでしょ。ああ、これで面倒から開放されたみたいな。そんなこと考えるのって変だなってんで、変だって言ってたんじゃないの?」
 黙ったままの真雪に彼は首をすくめ、
「じゃぁ、今日のところはおまけということで、これ、俺の名刺。またなんかあったらおいでよ」
 そういって彼は向こうへと走っていった。仲間が数人居るらしく、商売は再び始まったようだ。
 このやろう! とか、ふざけんな! とか、そういう罵倒が上がる。
 真雪は側のベンチに越し掛け名刺を見た。
 「殴られ屋 早音 初太郎(はやね はつたろう)」と携帯の番号が書かれてあった。
「変な名前」
 真雪はそばのゴミ箱が目に入ったが、名刺を鞄に片付けて立ち上がった。

 一ヵ月後。元彼から結婚する話を聞かされた。おなかが大きくなってきたので、披露宴は生まれてからするのだといった。
 真雪は簡素に返事をし、そして祝辞を述べた。
 昼休み、公園に出かけると辺りは涼しくなり、落ち葉も見えるようになってきていた。
「夏も終わったか」
 真雪が呟いて自分で作ってきた玉子焼きを取り上げると、それを横から見ず知らずの手が横取りしていった。だが、真雪は嫌そうな顔をして横を見た。
「やっぱり、」
 初太郎だった。
 彼はにこやかに笑い、玉子焼きをほめた。
「一人で昼?」
「そういうあんたは?」
「俺? 俺はこれ」
 そういってゼリードリンクを見せた。
「それだけで殴られ屋してるの?」
「まぁね」
「脳震盪とか、脳出血とかで死ぬわよ」
「あ、心配してくれてる? もしかして」
「脳溢血というのもあったなぁ」
「聞いてねぇな」
 真雪は鼻で笑った。
「ねぇ、初太郎って変な名前ね」
「まぁね」
「昭和初期の名前じゃない」
「昭和初期と限定しますか」
「だって、変じゃない。初太郎なんて」
「真雪もどうかねぇ」
「いい名前じゃない」
「本当に雪だぞ」
「にじゃなく、の。本物の雪。変えないでよ」
「明治かな」
「は?」
「明治の名前」
「あ、そう」
 真雪はぷいっと顔を背けた。
「仕事何時まで?」
「別に今日は殴る気無いけど」
「ははは、いやいや、殴ってもらうんじゃなくて、ちょいと所用に付き合って欲しくって」
「いくらで?」
「金とんのかよ」
「便利な付添い人なら他を当たりな」
「じゃぁ、一万で」
「一万?」
「じゃぁ、一発殴る券をどうぞ」
「いいよ。で、どこに行くの?」
 初太郎は何も言わず、六時に同じ場所を指定して消えた。
 仕事が片付き、公園に向かうと初太郎はすでに何人かに殴られたあとらしく、頬が赤く、口元に血がにじんでいた。
「いやぁねぇ、何その顔」
「仕事人間なんで」
「それで? その顔でどこ行くって?」
「まぁ、まず、腹ごしらえしますか?」
「その口にう〜んと滲みるものにでもする?」
「すんげー嫌な女」
 真雪はくすくす笑って歩き出す。初太郎はそのあとをポケットに手を入れてついてくる。
 二人は切れた口に滲みるラーメン屋に入っていた。
 痛そうな顔をしながら食べる初太郎を笑いながら真雪はラーメンを食べる。
 ラーメンを食べ終わり、外に出るころには月が出ていた。
「それで、どこに行くの?」
「あ、ああ……」
 初太郎と真雪は公園に来ていた。時計は八時を回ったが、初太郎は一向にどこに行くとは言わないし、動こうともしない。
「ただのデートというわけじゃないでしょ、何よ、何でそう意気地なく居るの? さっさと済ませたほうが楽よ」
 真雪の言葉に初太郎は大きくため息をつき立ち上がった。
「ここ?」
 初太郎は頷いた。
 そこは病院だった。
「誰の面会?」
「お袋」
「何で一人で行かないの?」
「いろいろあってね」
「あ、ああ。ほら、面会時間終了だって。何してんのよ」
「行きにくいんだよ」
「病院嫌いなわけ?」
 帰る初太郎を追いかける真雪。横に並び初太郎を見ればへらへらしている顔ではない、どこか難しそうな顔があった。
「何よ」
「知ったの、一週間前なんだ」
「そんなに急に悪くなったの?」
「いや、入院はすでに五年だそうな」
「だそうなって、どういうこと? あ、家出てたの?」
「ああ」
「悪い奴」
「お袋がな」
 真雪は立ち止まる。それに合わせるように二歩先で初太郎も止まった。
「お袋は家を追い出され、親父は俺を捨て、俺は施設で育った。一週間前、お袋は生きてて、長くないと聞かされた。言いに来たのは俺の弟に当たる男だった。確かに俺にも少しにてるんだよなぁ。なんか。でも、なかなか踏ん切りつかなくて」
「捨てられたと思ってるから?」
「まぁ、そういうとこ」
 初太郎は空を見上げた。
「明日も付き合うわ。行けるまで、一人より、一緒のほうが行きやすくない?」
「そう思って、付き添いをお願いしたの」
 初太郎は首をすくめ空を仰いだ。
「月見にはいいねぇ。さすが中秋の名月」
「過ぎたわよ」
「いいの、いいの。団子食いたくない?」
「コンビニ、すぐそこにあったわね?」
「買う?」
「おごりね?」
「まじっすか?」
 真雪はくすくす笑いながら歩き出す。
 その日から真雪と初太郎は同じ公園で待ち合わせをし、食事をして病院まで行く。
 真雪は入ることをせかす日は一度もなかった。初太郎が入ろうとするまで黙ってそばに立っているだけだった。
「また、行けそうもないかな」
 初太郎がそう行ったのは、その日課が一週間目を迎えた日の八時だった。
「今日はあきらめ早いわね」
「寒いから」
「そう?」
 真雪が返事をしたとき、病院から一人の男性が出てきた。めがねを掛けた男は、辺りを見渡し、初太郎と真雪を見付けると走って近づいてきた。
 初太郎は相手が誰だか解かるとくるっと背中を向ける。
「待って、待ってください。あの、遼二兄さん」
「りょうじ?」
 真雪が初太郎を見上げる。彼は真雪のことなど気にせずに話しかける。
「もう、長くないんです。意識も失いかけているし、朦朧としてて、今晩辺りが山だろうって、来てるのは病院の窓から見て解かってたんです。お願いです。逢ってやってください」
 彼は頭を下げた。
「ちょっと、」
 真雪が初太郎の腕を掴んで揺する。
 初太郎が真雪のほうを見る。
「後悔するわよ。行かずに後悔するなら、行って後悔したほうがいいわよ」
 真雪に手を引っ張られる形で初太郎は病院に入った。病院内は静かで、陰湿なほど冷たかった。
 三人の歩く靴音だけが廊下に存在し、不気味に響いた。
 病室の戸を開けると、点滴が一個ぶら下がり、後は何もない部屋が姿を見せた。見舞いの花も、果物とかもない。テレビもなければ、色も飾りもない。ただ一個目に付いたのは小さな子供の写った写真が、枕元にある台の上に置かれているだけだった。
「かぁさん、遼二兄さん」
 彼の言葉にさえすでにその人は反応をしなかった。
 真雪は初太郎の腕を小突いた。初太郎は身動きもせず、ただベットの上に横たわっている人を見下ろしていた。
「何か言ってあげたら?」
「何を?」
 初太郎は咳払いをする。
「何でもいいのよ、母さん、僕だよとか」
「覚えてないだろ、声なんか、見えてもいないだろうし」
「何よそれ。何しに来たわけ?」
「来たくて来たわけじゃない」
「嘘おっしゃい。お母さんに不満があるなら、全部言っちゃいなさいよ。何で置いていったんだとか、どうして捨てたんだとか、そのあとどれほど辛かったとか、言い切っちゃったら? 病人の前で言うべきことじゃないとは思うけど、でも、何も言わないよりは、声が聞こえるわ」
「何も言うことない」
「けちね、声を出したって減るもんでもないでしょうに」
「は?」
 真雪はふんと顔を背ける。写真を手にして彼に差し出すと、彼は首を振り初太郎を指差した。
「大事なものらしいわよ」
「そうかね?」
「同じの持ってるくせに」
 真雪はそっと写真を置いた。
「そうだ、彼の名前」
「僕?」
 彼が指をさすのを真雪が首を振り、初太郎を指差す。
「初太郎じゃないの?」
「初太郎? いいえ、和久井 遼二ですよ。ねぇ?」
 初太郎は何も言わなかった。
「まぁいいや。名前なんて、呼んで返事すれば言いだけだから。あなたはは?」
「中野 良輔です」
「りょうって名前が好きなんですかね?」
「どうでしょう。でも、そうかもしれません。そういうなら、初太郎の初は、初音の初じゃないですか?」
「お母さんの名前?」
 良輔は頷いた。真雪は初太郎をちらりと見て首を振り、
「そんな優しい気持ちでつけたんじゃないでしょう。ただ単に初めての男って意味じゃないですか? 安直だから、こいつ」
 真雪にそう言われ初太郎はあからさまにむっとする。
「りょう、りょうじ、」
 母親のうわ言に三人は声を殺す。
「来てるよ、兄さん」
「ごめん、な。ほんと、ごめん」
 繰り返されるうわ言に真雪は初太郎を枕元に引っ張り、その手を母親の頬に触れさせる。
 どこかひんやりとした頬に驚いて手を引っ込めるのを、真雪が握る。
「早く、なんか言いなって」
「何も、ない」
「久しぶり、とか、俺遼二。とかあるでしょ」
「ねぇよ」
「まったくつまんない人」
 真雪は手を握ったまま初太郎の手を頬に当てていた。
 すすっと涙がこぼれ、初太郎の手に滲みる。
「母さん」
 初太郎がそう呟いたとき、医師と看護婦が走ってきた。今の医療は、看護士センターで一括管理をしていて、異常があればすぐに来ると言うシステムになっているようで、
入ってくるなりばたばたと処理を始めた。
「血圧安定、脈も安定してきています」
 様子を伺うだけしかわからず、何が行われているのか解からないが、どうやら思いのほかいい状況になってきているようだった。
「今すぐ回復とまではいかないにしろ、危ない状況は抜けれそうな感じです。このままであれば。ただ、また急に落ち込むということはありますが、ええ、そうです。今日の調子で脈も血圧も安定していけばいいわけです」
 医師はそういって部屋を出て行った。点滴と、看護士が耳元で、
「がんばりましょうね。息子さんの彼女、とっても綺麗な人ですよ」
 と言うことを言っている。真雪は笑顔で看護士に会釈をしたあとで、初太郎を小突く。
「何で、あたしがあんたの彼女なわけ?」
「え? 違うんですか?」
「違いますよ」
「でも、ずっと病院にまで付き添ってくれてたし」
「それは、乗りかかった船といいますかね、とにかく違いますよ」
 良輔は初太郎を見た。初太郎は殺風景な部屋を一巡し、ふと写真に目が届くとぷいっと視線をそらした。
「てっきり結婚も決めてるんだとばかり思ってた」
「は?」
 真雪の言葉に良輔は頭を掻き、
「いや、初めて兄さんに会ったとき、まぁ、正直今まで一人っ子で育ってきたんで、兄さんとかって呼ぶことも結構照れたんですけど、なんかあって、ああ、兄さんて感じだなぁって思って。その人が連れてきたあなたを見て、この人が姉さんなら、なんかいいなぁって。俺の彼女になるには気が強そうなんで、俺は苦手なんだけど、端で見てる分には小気味いいというか、ねぇ」
「ねぇ、じゃないわよ」
 真雪はむっとしながらくすりと笑う。 
「あいにくと、私今フリーだから、もしかすると良輔さんのほうを狙うかも」
「いや、いいです」
「どういう意味よ」
「年上は苦手で」
「失礼な人ね。あたしをいくつだと思ってんだか」
「27、8」
 初太郎。
「25、6」
 良輔。
 真雪は二人を交互に見て思いっきり舌を出す。
「はずれ! 23になったばっかりよ」
 二人のめがぱちぱちっとした後、じっと真雪を凝視した。
「何よ」
「俺よりも年下?」
 良輔の言葉に真雪はさらにむっとして顔をそむける。
「……輔」
「何、母さん?」
 良輔は母親のそばに顔を寄せる。
「に、ぎやか、ね」
「ああ、兄さんが来てる」
 良輔は枕もとのナースコールボタンを押す。
「遼二?」
 真雪が初太郎を押し、初太郎は嫌そうに近づく。
「遼さん?」
「いや、兄さんだよ」
「そう、そっくり」
 医師がやってきて、簡単な接触をして出て行った。
「兄さんのおかげだ」
 良輔が言うと、母親は頷いた。
 病院を出ると、すっかり辺りは寒々しかった。
「今日は本当にありがとう」
「いいの、いいの。あ、どうせこいつが言わないから代わりに言ってるだけ」
 真雪が言うと、良輔は首をすくめ、
「ほんとごめん、年上とか、彼女とかって勝手なこと言って」
「いいの、知らないんだし、あまり気にしてないから」
「でもほんと、あんとき言ったこと、この人なら姉さんって感じがするって言ったのは確かだから」
「年下でもね」
 良輔が困った顔で頭を掻いた。
「また、会いに来てよね、母さんすごく喜ぶから」
 良輔の言葉に初太郎は何も言わなかったが、真雪に小突かれ頷くだけ頷いた。
 二人はゆっくりと人気のない歩道を歩いていた。いつも病院から公園まで帰り、そこで別れるのがいつもなので、何も不思議だとは思わずに歩いていた。
「明日も行くんだよ」
 真雪の言葉に初太郎は何も言わない。
「やっぱり、初太郎は、初音さんの男の子って意味?」
 それでも初太郎は何も言わない。
 歩く速度は変らず、ときどき初太郎は空を見上げた。
「ねぇ、殴られ屋って、いつからしてるの?」
「何で?」
「おお、やっと答えた」
 憮然とした唇を突き出す初太郎に、笑いながら答える。
「何でかなぁって、ボクシングとか、そういう格闘技してるような気はしないから」
「一週間……かな」
「やっぱり」
「なにが?」
 近くのコンビニに入り、棒アイスを買って公園のベンチに腰掛ける。
「一週間て、お母さんの存在知って、病気だって知ったときでしょ、もしかしてと思って」
「そういう詮索するなよな」
「まぁ、まぁ。どう接していいか解からないとはいえ、なんかしてあげたいと思ったんだろうなって。それで、急を要してお金は必要だから、手っ取り早く稼げる仕事なんだろうなって。この公園の付近で殴られ屋なんて気づかなかったからね、それまではそこで土管工事があったぐらいで、だから、そのときから私を知っていたんでしょ?」
「よく短時間で頭が回るな」
「想像。推理小説案外すきなのよ」
 真雪の言葉に初太郎は鼻で笑い、食べ終わった棒で地面をほじる。
「結局何にもしてないのってお互い様じゃないか。いくら捨てていったと思ってもさ、あの親父、ああ、すんげーろくでなしだったらしいけど、それから逃げたいと思う気持ちも解かるし、親父の家にしちゃぁ、唯一の跡取りだってだけで引き取ったけど、親父は死ぬ、親父の家に弟が生まれりゃそっちがかわいいで、お袋の所為でもないしさ。まぁ、それ知って迎えに来て欲しかったけど、だからって、俺だって、探そうともしなかったし、病気だって解かっても、見舞いにも行かなかったし。金で何とかなるわけじゃないと思ったけど、まぁ、このくらいなら俺にも出来るかなと思ってさ」
「で、殴られ屋?」
「力仕事しか能のない馬鹿だからさ。日雇いしか出来ないのな。殴られ屋だと、まぁ痛いけど、何とか耐えれるって言うか」
「そんなの、仕事じゃないよ」
 真雪の言葉に初太郎は顔を上げる。
「あたしは嫌。殴られるのがって言うのじゃなくて、あんたが叩かれるの見るのが嫌。だからね、あんまりこの公園で待ち合わせしたくないんだよね、本当は」
「でも、ここが唯一わかる場所だし」
「その場所で、殴られて、へろへろになってるあんたを見る私のこと考えたことある? お母さんの意識が朦朧としててよかったと思った。毎日毎日青あざ絶えなくて、熱いものとか、冷たいものとか食べにくそうで、それでも私見つけたらにやって笑うあんたを見つけたときの私を考えたことある?」
「真雪さん?」
「もう辞めて」
「と言われても」
「他の仕事探しなよ。手伝うから。お母さんの意識が戻ればなおのこと、辞めるべきよ」
「今すぐに金が要るんだし」
「だからって、そんな無様な顔で会いに行って、せっかく直っているお母さんに心労負わすだけじゃない」
「といっても、」
「あたしが嫌なの! 解かんない人ね。お母さんがどうとかじゃなく、あたし以外の人が殴るのが嫌なの」
「おい?」
「初太郎の顔が崩れるのが嫌なの。いい? 私以外が殴るのが嫌なのよ」
「何だよ、それ」
「とにかく辞めてよ。バス来たから帰る」
 真雪は食べかけのアイスをゴミ箱に投げ捨て走ってバスに乗り込んだ。
「何なんだろう、あたしって」
 良輔に恋人だと言われて嬉しかった。でも実際はそういう関係じゃなく、だからといって、なぜ病院にまで付き合わなきゃいけないのかも解からない。ただ、好きという言葉で片付けてくれるなら、早く言ってくれたほうが楽だ。でも、一週間前に別れたばかりの、しかも、相手の男は他に女を作って、妊娠までさせていた相手と付き合っていた欠陥商品の自分を、易々と受け入れてはくれないだろう。とも思う。
 じゃぁ、なぜ自分を意識混濁中の母親に会わせるのだろう? それもそれで納得がいかない。
 だからといって、自分が好きでいるのかさえ解からない。元彼は好きだった。それに比べると、すごく穏やかな気持ちで、どきどきとか、ハラハラとかじゃない。殴られた顔で笑われると痛々しいので、苦痛ではあるが、それは好きというものではないだろう。
「好きって、何?」
 子供のような問答に引っかかった。真雪はガラスに映る自分に苦笑いをした。
 翌日。いつもの公園の六時に初太郎は居なかった。先に病院へ行っているかもしれないと病院へ行ったが、病院にも居なかった。
「すみません」
 良輔は手土産として持っていったコンビニのおにぎりをあけて食べ始めた。
「初、いや、遼二? さんは?」
「一緒に来るんじゃないんですか?」
「待ち合わせ場所に居なかったから」
「はぁ」
 たらこを頬張り良輔は真雪を見る。
「真雪さんが知らなきゃ、俺はもっと知らないから」
「私だって、あんまり知らないんだけど」
 真雪は病室を見渡した。
「いつ来ても殺風景ね」
「何揃えていいか解からなくて、五年前に倒れてからずっと、入院してたけど、男の俺にあれこれ持ってきてくれって言わなくて、下着とか、着替えとか、身の回りの最小限のものは何とか持ってきたけど、何を他に必要か解からなくて」
「花とかあってもいいかもね。あ、花粉症じゃなければ。テレビとかは?」
「俺も六時以降にしか居ないからって、置かなくていいって」
「ラジカセとか、音楽は聴かないの?」
「さぁ、何してんだか」
 良輔は眠っている母親を見下ろした。
「勝手に世話焼くの変だけど、やっぱり、この殺風景さでは目が覚めても楽しくないと思う。だからって、風船とか、そういうものを飾れって言ってる訳じゃないから」
「解かってる」
 良輔が顔をくしゃっと笑う。確かにどこか初太郎に似ている。
「あの、兄さんは、いったいどんな仕事してるの?」
「どんな、と言うと……」
「今朝、病院の受付には来てたらしいんだけど、入院費って言って、百万ちょっと持ってきたんだよね」
「百万……」
 真雪の顔が嫌そうに歪む。
「何してるんだろ」
「……、知らないほうがいい。というか、あたし探してくる」
 真雪は病院を出た。
 百万もの金を殴られ屋で稼ぐとしたら、どのくらい殴られたというのだろう。馬鹿じゃないの? 会ってすぐにそういって、辞めさせよう。真雪は走って公園に向かったが、殴られ屋らしき人だかりはなかった。
 それより、殴られ屋が居たことすら知らない。あったことを知っていても、今日無くなっていようと関係のない人が通り過ぎて消えていく。
「初太郎……、」
 真雪は行くあてを失った子供のように空を仰いだ。月が虹をかぶって浮かんでいた。
 翌日は雨だった。それでも真雪は病院へ行った。
「来た?」
「ええ、真雪さんが帰ったあとで」
 母親はうっすらと目をあけて真雪を認めると、真雪は恐縮しながらいすに座った。
「何してるか言ってた?」
「ぜんぜん。まぁ、ぼちぼちとか言って」
 真雪はため息をこぼす。
 病院からの帰り公園に来たが、やはり殴られ屋は存在していなかった。
 真雪の姿をどこからか見つけて、その瞬間だけ辞めているのかもしれない。そう思って物影に隠れてみていたが、やはり現れなかった。
 母親の病状は初太郎が見舞いに来ている所為か、とにかく回復していった。日曜日などは起き上がって座っていたほどだったのだ。
「ありがとう」
 真雪は花を花瓶に生けてくると、母親にそういわれて振り返る。良輔は食堂に食事に行ったところだ。
「関係のない人なのに、毎日来てくれて」
「いいえ、暇だから」
 それに、ここにくれば初太郎に合えると思うから。
 真雪は花瓶に目を移す。
「あなたが来てくれて、ここは本当に変ったわ。やっぱり、女の子はいいわね」
 真雪は首をすくめた。
 初太郎と会わなくなってすでに一週間。公園までの道も、会えるかもしれないから向かうだけで、家とは逆方向で、行くのが面倒だなぁとか思い出していた頃だった。
 ふと目に入る赤い暖簾。居酒屋は赤のれんだなぁ。などと変な感慨にふけっている真雪の目に、ビールケースを出す初太郎の姿が見えた。
「初太郎」
 真雪が呟くと初太郎にも声が聞こえたらしく顔を上げた。
「あ……、あ、ハイ。今行きます」
 オーダーなのだろう。初太郎は店に入った。
 病院と目と鼻の先の居酒屋。初太郎はここで働いていたのだ。殴られ屋はどうしたとか、なぜ急にここで働いているのかとか、いろいろ聞きたくなって、真雪は公園のベンチで店が終わるのを待った。
 さすがに十時過ぎた頃、酔っ払いが絡んできて公園に一人で居るのは居辛くなっていたが、真雪は唇をぎゅっと結んで待った。
 時計の針が日付を変えた頃、初太郎が出てきた。
「初太郎」
 人も居なくなり、公園は、いや、夜の街はなんだか声を響かせる。初太郎も真雪の声に驚き首をすくめて振り返った。
「やぁ」
「働いてたんだ」
「まぁ、ね」
「勝手なこと言ったじゃない。勝手に辞めろとか。だからすごく謝ると言うかね」
「いいんだ。確かに殴られ屋がずっと続けられる仕事じゃないことぐらい解かってるし。結構ストレスになるんだよな、あれって。で、真雪さんに言われて吹っ切れたというかね」
「ちゃんとお見舞いには行ってたよね?」
「ああ、ありがとう。母さん喜んでた。毎日来てくれて花とか、世話してくれるって。俺とか、あいつ、良輔だとどうしても出来ないこともしてくれるから、嬉しいって」
「働き出したんなら、言ってくれてもよかったのに。急に居なくなったんじゃとか、いろいろ探ってた」
「それは……、真雪さんが仕事済んだ時間から仕事始めるし。俺の休みの時には真雪さん仕事だったからね」
「もう一緒には行けないね。あはは、何言ってんだろう。行く理由ないのにね」
「真雪さん?」
「なんとなく、日常化してたから、もう行く理由なくなったなぁって」
「何で?」
「お見舞いは二の次で、起こらせたと思ったから、初太郎がどこに居るのか知りたかったから行ってたの。もう居る場所解かったし。だから」
「あ、ああ、そうだね」
「うん、だからね、もう、行けなくなったって、行ってくれる?」
「言いにくいけども」
「そうだけど、うん。お願いね」
 真雪はくるっと振り返りバス停へと向かう。というか、この時間バスはないなぁ。と思いながらも歩き出していた。
 初太郎の居場所は解かったし、自分の勝手な意見はいい方向に彼を導いて、結果的に定職に就かせたわけだから、お節介も実を結んだと勝手に解釈した。
 でも、初太郎から離れていくのが寂しくなってきた。どこに居ることが解かっても、もう会える理由がなくなったわけだから、会えないと寂しいと思う。やっぱり、好きなのだろうか?
「あ、ねぇ……、後ろに居ないでよ。びっくりする」
 初太郎はにやっと笑い、
「病院だけじゃなくさぁ、会いたいんだけど。何とか時間、作って」
「私と?」
「他には、植え込みの木? に言ってもしょうがないし」
「ああ、まぁねぇ」
「この一週間ぐらいさぁ、なんか体調変で」
「風邪?」
「いや、真雪さんに会えなかったからさ、元気なかったんだよ」
「人事みたいに言うのね」
「なんか、仕事して疲れてるのにわりと元気なんだよね、昨日とおんなじ時間働いて、今日の方がきつかったはずなのにさ」
 真雪は肩をすくめ、
「初太郎はいい人ね。私大好きよ」
「いい人、ねぇ」
「本当に、好き」
 真雪は初太郎に抱きついた。居酒屋らしい匂いがする。酒と、タバコと、焼き鳥か何かの匂い。
「俺も、好き」
 お互い首をすくめ、そのあと初太郎のアパートに行ったとか、ホテルに行ったとかは、見上げて見えるあのまぁるい月しか知らないということで。

<おわり>







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