Flicker〜思春期の断片に
松浦 由香
ノヴェルフェスタ56桜花賞
「入浴剤」「虚言(嘘)」「依存」使用


 時々、空が高くて、澄んでいる日に、何気なく見上げて、大きく息を吸い込み、吐き出し、そして微笑むような、そんなすがすがしさを相手に感じるときがある。
 この人は、すごくいい人だ。
 


 奈保なほは階段の中ほどで足を止めた。後数段で三階に到達する場所だ。奈保が見上げているのを、階段上から孝祐こうすけが見下ろしている。天敵でもなく、ただの同じクラスの男子だ。中学から同じなだけで、話などしたことなどない。同じクラスになったのも、今年だけだ。
 高校二年。変に異性の動向が気になる時期に、同じクラスになっただけの人。
 奈保は俯いて階段を上がる孝祐もその横を降りる。

 高校二年の春だというのに、担任は不況下の元での、就職活動の厳しさを訴え、大学に行ったからといって、職があるわけじゃないとか、今就職をすることも難しいとか、暗雲満ちた未来を掲示することで精一杯だった。
 口々に言う、昔はもっと大変だったという話のあとで、今は不況で、お前らは大変だとせせら笑う。そんな大人に飽き飽きすることも、嫉妬することも、別段なく奈保は体育館に据わっていた。
 全校集会時に体育館に集められ、そのまま居眠りをしてしまうほど、退屈な時間が過ぎる。
「奈保、今日どっか寄る?」
 奈保は首を振る。
「ごめん、バイト」
「そう、じゃぁ、また今度ね」
 付き合いが悪いわけではない。バイトをして、買いたいものがある。だから遊ぶのを控えているだけなのだ。

 奈保のバイトは近くのコンビニのレジ打ち。とりあえず二ヶ月が過ぎたので要領はよくなってきていると思う。学校が終わる四時から八時迄の時間が奈保の終業時間だ。
 いつもは同じバイト仲間で、短大生の由佳里と一緒だが、今日は違っていた。六時過ぎ

―早瀬?―

 奈保が驚いている横で、孝祐はレジに向かう。
「ああ、早瀬君はさぁ、奈保ちゃんの入れ替わりなんだけど、今日由佳里さん入学式とかでいろいろ忙しいらしくってねぇ。早めに来てもらったんだよ。早瀬君のほうが長いからわからないことあったら聞いてみて。じゃぁ、私はご近所の会合に出てくるから」
 店主の寺門さんはそう言って自動ドアをくぐって行った。
 店内に人は居ない。有線の音楽が静かに流れているくらいは、音がしない。
「掃除、してくる」
 孝祐は小さくそう言ってカウンターを出て奥の掃除道具入れに向かった。
 客が入ってくる。若いサラリーマンだ。一人暮らしを一年以上してて、コンビニ弁当の常連。そんな感じを受ける。客はまっすぐ弁当棚に向かい、ひとしきり見回したあと、日替わり弁当を取り上げてカウンターに近付いてきた。
「七百十四円です」
 奈保がそう言うと、客は1000円札を出した。
 そのあとで、数人の塾がえりの小学生と、OL、中年サラリーマンが入ってきた。孝祐は客の様子を見てカウンターに入ってきた。

 無言。

 客がカウンターに品物を置く。客がどういった基準でレジうちを選ぶのかわからないが、心理が作動するなら、男よりも女がいいのか、それとも、持ってきたのが中年のおじさんだからなのか、奈保の前に弁当が置かれる。
「温めますか?」
 おじさんは小さく肯いて、奈保は弁当をレンジに入れる。

 コンビニは、人の出入りが激しいがどこか寂しい場所だ。とつくづく思う。ほとんどの客は一人でやってきて、弁当の棚に行き、お菓子を買い、飲み物を手にしてレジにくる。並んでいるときも、選ぶときも、入ってくる際でさえも、誰も彼もが無言だ。
 一様に仕事に疲れた顔をして、もそっとレジに近付いてくる。そんな人を癒す気はないが、そんな暗い顔を移される気もない。
 極力笑顔で居ようとするが、笑顔も、時間とともにくたびれてくる。いやな職場だ。

 由佳里さんが居ないこともあり、寺門さんが集会場から帰ってこないこともあって、奈保は九時半までレジに居た。
「ああ、ごめんよぅ」
 夜勤勤務の吉岡さんが入ってきてそうそう奈保に頭を下げた。吉岡さんとは勤務時間的に会うことはなかったが、人のいい浪人生だという話だった。はじめてみたが、確かに言われている通りだった。気の良さそうな感じが、黒ブチの眼鏡からわかる。
「携帯なってたけど、鞄開けちゃ悪いから、そのまんまだけど、彼氏?」
 吉岡さんはそう言って奈保を見下ろす。奈保よりもはるかに高い吉岡さんは目を細め笑っている。
「たぶん、お母さん」
「心配だよね、もうじき十時だし。もう帰っていいよ。あとは、僕がするから」
 吉岡さんはそう言ってレジに向かった。
 奈保は控え室に向かい、エプロンを外す。そばの椅子に座り、足を軽く叩いているところに、孝祐が入ってきた。
「上がり?」
 孝祐がチラッと菜穂を見る。そして肯き、エプロンを外し、自分のロッカーから上着を取り出して店内に戻った。
「無愛想」
 奈保は立ち上がると、ロッカーから上着を取り出し、肌寒い夜へと向かう。
「なんか、お菓子でも買おうかな」
 と見渡すが、毎日目にするそれらに、買う気にもなれずそのまま店を出た。
 孝祐が携帯の電源を切ったところだった。それを見て、奈保も鞄から携帯を取り出す。
 やはり家からだ。何処で遊んでるとか言う電話だろう。ため息が出る。
 十七なのに、そんな心配が上っ面だとわかってるのに、母は毎日そうやって電話をしてくる。父が浮気をしていることに薄々気付き始めた去年から。母は子供に依存しきっているのだ。父に依存できないから……。
 奈保は電話を入れる。すぐに出る母の声。
「あたし、今終わったの、(すぐに帰ってくる?)たぶん。(何よ、たぶんて)疲れたから、ぼうっとしながら帰るってこと(とにかく早く帰ってきなさい)わかった」
 携帯を無理やり切り、ため息をついて鞄に押し込んで顔をあげると孝祐が自転車にまたがって奈保を見ていた。
「お疲れ様」
 孝祐は肯く。だが、帰るような素振りはない。人待ちなのだろう。奈保は自分の自転車に鍵を入れる。重い音がしてため息をこぼす。
 顔を上げると孝祐はまだそこに居た。
「帰んないの? ああ、人待ち?」
 孝祐は黙って俯く。奈保はため息をついて自転車を家のほうへと動かし、
「じゃぁ、お休み」
 と漕ぎ始めた。

―まったく無愛想にもほどがある―

 奈保は少しむっとしながら、でもすぐに、家に帰らなくてはいけない憂鬱に孝祐のことなどすっかり忘れてしまっていた。
 玄関を開けて中に入る。母の上ずった声がする。一週間の「出張」から父が帰ってきているようだった。
「ただいま。お父さん、お帰り」
「ああ、奈保、バイトしてるんだって?」
「小遣いあげてるのに、するって聞かなくて」
「社会勉強よ。不景気だって、すぐに就職できないらしいから、レジうちでも、職歴があったほうがいいのよ」
「そうか、無理するな。夜遅くなるときは連絡するんだぞ」
「わかってる」
 奈保はそう言うと居間の戸を閉め階段を上がった。階段の上に妹の奈美が座っていた。
「お帰り」
「ただいま」
「どう? 下?」
「お母さん、すごく嬉しそうだけど、お父さんは相変わらずよ」
「あの夫婦、もうそろそろやばいかもね」
「だとしても、あたしたちが成人しなきゃ、別れないと思うよ。特に、今お金かかるし」
「でも、そんなんで「家族」してるのって、馬鹿らしいけどね」
「大人って、わかんないよ」
 奈保は奈美の隣りに腰掛ける。奈美は中学三年生で、受験を控えている。本当は、バトン部なので、私立の有名女子高に行きたいらしいが、今の状況だと無難な公立に行くことしか出来ないだろう。いや、公立にもいけないかもしれない。
 奈保が思っていることが解ったのか、奈美はため息をつき、
「家に帰ってくるの、最近重いんだよね。なんか」
 奈保は肯く。
「お父さんが居ても、居なくても、お母さんが、ノイローゼでなくても、あんまり家には居たくなかった気がするけど、今は、寝に帰ってくるのでさえ憂鬱」
 奈保は膝を抱え、額を膝につけた。
「早く、家出たいね」
 奈美は肯き、二人はそれぞれの部屋に帰った。

 四人が揃って朝食を取るなど、雨でも降りそうなほど珍しい。しかし、外はいい天気で、柔らかい陽射しが霞みの中に見える。
「今日は早く帰ってこれる?」
 母は子どもたちのほうを見ていた。
「あたしはクラブ。六月の引退試合前だから、昨日とおんなじ」
「あたしは、あたしも昨日ぐらい」
「……、そうなの、せっかくお父さん早く帰ってくるって言ってるのに」
 母の意気消沈した声に奈保は父を見た。父はトーストをかじり、咀嚼をしたあとで、
「まぁ、いいさ、二人もそれぞれの事情がある」
 とだけ言った。母はその言葉に返そうとする言葉を飲み込んだ。はっきりと解る。

―事情? 何の事情よ! 家族をほうって置ける事情が、あなたのほかに子どもにもあるって言うの?―

 奈保と奈美は一緒に出かけた。奈美と別れるところまで自転車を押してゆき、別れる路地の手間で自転車にまたがる。
「お姉ちゃん、今日、バイトないんでしょ?」
 奈保は肯くと、奈美は舌を出し、
「あたしもクラブは嘘。時間合わせて町で遊ぶ?」
 奈保は首を振り、
「コンビニの控え室で漫画を読ませてもらう」
「そ、じゃぁ、九時ぐらいに帰る?」
「そうだね、じゃぁ、九時ね」
 二人は肯きあうとそれぞれの学校へと向かった。

 駐輪場。鍵をかけ顔を上げると、孝祐が自転車を止めに来た。
「おはよう」
 孝祐は肯く。

―相変わらず無愛想―

 奈保が鞄を籠から取り上げると、孝祐が小さく呟くように言った。
「今日、由佳里さん休みだから、代わりにきて欲しいって」
「店長が?」
 孝祐が肯く。
「何で、直接かけてこないんだろう」
「電源、切ってるだろ?」
 孝祐はそう言うと、そのまま立ち去った。
 奈保は鞄から携帯を取り出した。昨日帰るときに、母からの電話を取りたくなくて電源をきっていたのを思い出した。奈保が顔を上げると、孝祐はすでに校舎に入っていくところだった。
「メールしとこっ」

―急にバイトが入った。帰るときまた連絡する。姉―

 携帯の電源を切る。以前、授業中に母のヒステリックな声がかかってきたことがあったのだ。変な郵便物が入ってると大騒ぎになった。帰ってみれば、ただの生理用品のサンプルだった。母の当時の言い分は忘れもしない。
「女が居るのよ。それで、いやみったらしく、送りつけてきたのよ! あたしに生理がこないことを知ってて!」
 母は、子宮筋腫で子宮を全摘出している。生理用品のサンプルを送った会社に確かめたところ、奈保と奈美がいい年頃なので送ったという連絡だった。
 母はすでにノイローゼだったのだ。父のすること全てに疑心を抱き、本当に出張かもしれない父を、浮気していると思ってしまったのかもしれない。
 いや、父の浮気は、本当だろう。

 奈保はコンビニの控え室の椅子に座っていた。
「今日はごめんねぇ」
 奈保は首を振る。
「由佳里さん、昨日の飲み会ではめ外しすぎて、階段から落ちて捻挫したって。本当なら、今月末で辞めるはずだったんだけど、早めに辞めたいって、で、今までよりも出勤日が多くなるけど、平気かな?」
「あ、ぜんぜん。……、あのぅ、早瀬は?」
「早瀬君? 彼もくるよ。六時からね」
 奈保はうなずき、店内に入る。客は学生が多い。学校帰りの立ち読みと、お菓子を買いあさるもの、化粧品売り場で試供をする女子高生。
 レジに入る。レジカウンターから見える店内は、客側から見る店内とは少し目線が違う。カウンター前で振り返っても見えないことが見える。
 スーツ姿の二十歳前後の男は、まだ就職活動中なのだろう、くたびれた顔をして、雑誌を小脇にはさみ弁当売り場の前で暫く棒立ちで居る。
 中年男は、出張中なのだろう、弁当を無造作に取り上げ、ワンカップのお酒を手にレジにくる。
 化粧ののりの悪くなったOLは、夜の町に繰り出すぐみと、家に帰る組とでその血色が違う。
 カウンターにコンドームの特価品、二個組みが無造作に置かれる。
「いらっしゃいませ……、二千円です」
 顔を上げて眉をひそめた。

―早瀬―

 孝祐は二千円を料金皿において、自ら店名の入ったテープをそれにつける。そしてそれをポケットに入れ奥の控え室に消えた。
 そのあと何人かの客が来たが、六時になってエプロンをつけた孝祐が来たとたん、人間観察が終わってしまった。

―この無愛想なやつの彼女が見てみたい。世の中物好きも居るもんだ―

 奈保は客が途絶えるたびに、孝祐のほうを見る。何処を見ているのか解らないくらい、ぼうっと店内を見ている孝祐の横顔。時々、見知った客の応対で微かに笑う以外、顔は動かない。
「奈保ちゃん、お疲れ。明日なんだけどね」
 寺門がそう言って勤務表を見せる。由佳里さんの勤務時間は全てに線が引かれていた。
「明日何時には入れる?」
「明日も人、居ませんか?」
 寺門は肯き、首をすくめる。
「至急募集をいれてんだけどね」
「店長がいい時間に」
「じゃぁ、五時に来てくれる?」
「五時でいいんですか?」
 寺門は笑って肯き、奈保は帰り支度をはじめる。携帯の電源を入れると、奈美からのメールが届いていた。

―急用、今病院。すぐに電話して―

 一昔前の電報のような内容に、奈保は眉を潜めながら電話を入れる。
 三度の呼び出しのあと、静か過ぎる向こう側で、苦しそうな奈美の声が聞こえる。
「奈美?」
「お姉ちゃん?」
「どうしたの?」
「お母さんが、お母さんが」
「お母さんが何?」
「自殺未遂したの。今、病院。手術中……」
 奈美の声が遠くに聞こえる。いずれ、あの母なら自殺をしてもおかしくないとは思っていたが、本当にするとは思わなかった。
 自殺をするということは、どこか、自分たち(子ども)を捨てたような気がした。
 空しさが手から滑り落ちていく。携帯電話がコンクリートの床に落ちたとき、休憩に入ってきた孝祐が現れた。

ガチャン

 孝祐は固まったままの奈保を見つめる。奈保は暫くして自分のロッカーへと行こうとして携帯を蹴る。携帯がくるくると円を書いて孝祐の足に当たる。
「携帯……」
 奈保は俯き、携帯を眺める。
「どうかしたのか?」
 孝祐の言葉に顔を上げると、はらりと涙が落ちた。孝祐は眉をひそめる。
「お母さんが、自殺したって、病院だって、電話があって」
 孝祐が驚いて携帯を救い上げ、奈保のロッカーから上着と鞄を持ってきた。
「早く帰れよ、そんで、どうなったか連絡しろよ。お前がそんなんじゃぁ、妹とか、余計に何も出来ないぞ」
 孝祐はそう言って鞄に携帯を押し込み、近くの紙切れに自分の携帯番号を書いた。
「俺の番号。絶対、かけてこいよ」
 奈保は少量の涙を引き止め肯いた。

 母親が入院している病院は、ノイローゼになってからちょくちょく厄介になっている病院だった。受付を終了した薄暗いロビーを通り、手近の看護婦に聞いて手術室へと向かった。
 手術室は電気が消えていた。側を通った看護婦の案内で、ICUに向かう。
 ガラス越しに父と奈美が病室を見ている。蒼白した二人の顔。
「お父さん、奈美……」
「お姉ちゃん」
 奈美は奈保にすがりつくようにして手を伸ばした。父は暗く、重い表情で姉妹を見下ろしている。
「何で?」
「あたしが家に帰ったらさ、発狂しだしたのよ、誰も帰ってこないって、まだ、三時だよ、部活の道具取りにきたって、言ったのに、あたし、帰ってたのに」
 奈美は俯いて涙を落とす。奈保は父へと顔を上げる。
「奈美がすぐに救急車を呼んでくれて、すぐに会社から飛んで帰ったが、傷が深くて、手術が長引いて、」
 奈保は父のシャツにも、スーツにも、そして奈美の服にもついている母の血臭が目に付いた。
「でも、とりあえずは、大丈夫なんでしょ?」
 父は弱く項垂れるだけで、はっきりと肯かなかった。

 主治医の話でも、母の手術は成功だし、麻酔さえ切れれば平常に戻るが、心が病んでいる母に、目覚めたとき平常でいるかという保証はない。とのことだった。
 そして、目が醒めたなら、母はそのまま精神科入院という形が望ましいとさえ言われ、家族の証明が必要だと紙を見せられた。
 薄っぺらな一枚の紙。そんな紙に、母の今後をゆだね、母が直ると約束させられたくなかった。

絶対に直るという保証はないが、最善はつくす。

 そんな一辺倒な台詞を主治医は吐き出した。
 付き添いが不要なこの病院を、三人は一緒に出た。
「どっかで、夕飯食べるか?」
 父の言葉に奈保も奈美も顔を見合わせ、首を振った。
「そう、か……、お父さん、やっぱり心配だから、ついてるよ、二人で帰れるかい?」
 奈保と奈美は同時に父の顔を見た。長年の夫婦の情とかでないことは、子供じゃぁ解らない。でも、父の顔は憔悴しきって眠っている母の顔よりもひどかった。
「あたしも、」
 と言い出した奈美の腕を奈保は掴んだ。
「荷物しなきゃいけないし、あたしたちは帰る。お母さんをよろしくね」 
 父は静かに肯き、病院に消えた。
「お姉ちゃん?」
「荷物取りに行こう。明日の朝、学校前に早く来て、ね?」
「一緒に……」
 奈保は首を振った。静かに、静かに振って、俯いた。奈美は不服そうだったが、いまさら病院に入っていく気もなくて、二人は家へと帰ってきた。

 家は静かだった。冷たい空気が身体にまとわりつき、自然と伏し目になる。電気がいくらついていても、温かさもない。
「こんな家に居たら、お母さんじゃなくても発狂するよね」
 奈美の言葉に、血が拭いきれていない居間が目に入る。
「掃除やっとくから、荷物作ってくれる?」
 奈美は肯くと母の部屋に行った。
 奈保は雑巾と、部屋用のスプレー洗剤を持ってきた。床に座り、シュッとスプレーを吹き付けたとたん、洗剤の匂いと、血が交じり合う。
 奈保は静かに雑巾でそれをぬぐい隠す。涙が知らずにこぼれる。

―置いてけぼり―

 その言葉が胸に浮かんできた。浮かぶと、その言葉の無情さが胸に染み、涙がとまらなかった。
 母を追い込んだのは父だけなのだろうか? 置いていかれなきゃいけない理由がわからなかった。こんな寂しい思いを母もしていたというなら、自殺はしようがないことなのだろうか?
 矛盾がいろんな言葉となって浮かんでは消滅していき、結局のところ支離滅裂になっていく。
 床の血は、時間がたちすぎてなかなか落ちてはくれない。
「お姉ちゃん、鞄……」
 奈保は涙で紅くなった顔を上げた。そしてふと自分の鞄を目にして思い出した。

―早瀬―

 奈保は時計を見上げた。気付けば三時だ。非常識な時間だ。普段ならそんなこと構わずに電話する。だが、今は膝に置いて奈美を見上げた。
 見て返事が欲しいわけではない。ただ、ぼんやりを顔を上げたに程近い。
 奈保は番号を押して、「やはり」と思いとどまって切る。もしかすると、ワン切りしたかもしれない。しかし寝ていれば気付くまい。
 携帯を鞄に戻そうとしたとたん、「Ya Ya」が鳴った。
 以前これを聞いた友達が「古い」と笑った。でも奈保はこの曲が好きなのだ。特に、

―ああ、もう あの頃の事は 夢の中へ
知らぬ間に 遠く -------

--------
美し過ぎる程

--------
忘れられぬ日々よ―


 奈保は携帯を取り出した、見知らぬ番号。恐る恐る電源を入れ、耳に当てる。
「もし、もし?」
「藤木?」
 孝祐の声だ。
 見えていないのに、奈保は肯いた。
「どう、だった?」
「うん……」
「大丈夫、だったか?」
「うん……」
 涙声になる。静かな夜に孝祐の声が電話からこぼれる。
「そうか、よかったな。これからは、お前が守んなきゃな。守って、守って、そんで、助けなきゃな」
「早瀬?」
 孝祐の声も涙ににじんでいるようだった。
「本当に、よかったよ」
 そう言って電話が切れた。
 奈保が携帯を鞄に入れると、奈美が首をかしげている。
「彼氏?」
「バイト仲間。で、クラスメート」
「こんな時間に?」
「心配してた、から」
「みたいだね。よかったって、言ってた」
 奈保は肯き、涙をこぼした。
 たとえ、置いてけぼりしようとも、母は母だ。側に居て欲しいし、死んでなんか欲しくない。ひどい親だと思っても、死ぬことで解決にはならない。
 孝祐の言った「守って、守って、そんで助けなきゃ」は自分にも当てはまるような気がした。心のどこかが空き、不思議と楽な涙が流れた。
 朝になったら、ありがとうを言おう。無愛想なやつだと言ったことを、謝らなきゃいけない。
 不思議と掃除が楽に進んだ。今から寝ても起きられないだろうし、寝ることも苦痛なほど疲れていた。
 
 七時。病院へと向かった。
 母が数分前に目を覚ましたと父が微かに笑った。母の目には疑わしい色がにじんでいる。

―何故、助けたの?―

「お母さん、よかったね。あたし、すごく寂しいよ」
 奈美は驚いていた。父は静かに肯いた。奈保はそう言って母の点滴が打たれている手を軽く握った。
「あったかいでしょ?」
 その言葉に母の目から涙がこぼれた。
 母は病気だったのだ。寂しすぎて、疑っていなきゃ自分が自分で居られない、そんな寂しい病気だったのだ。奈保や、奈美が向き合ってくれていたら、こんなことにはまだならなかったかもしれない。
 でもなってしまったのなら、もう立て直すしかない。
 奈保はめいっぱいの笑顔で「よかった」と呟いた。

 駐輪場。生徒が少なくて、がらんとした中に自転車を止める。そこへ孝祐が入ってきた。
「あ、おはよう」
 孝祐は肯き、鍵をかける。
「あの、ありがと、ね」
 奈保がそう言うと、孝祐は何かを投げた。奈保は咄嗟にそれを受け取り掌を開く。

―森林浴の香―

「何、これ?」
「入浴剤」
「ハイ?」
「それ、風呂に入れて、今日はゆっくり寝ろよ。バイトは俺が代わるから」
「え?」
 孝祐はそのまま校舎へと向かう。
 一日中孝祐を気にしていたが、目立ちもせず、一人で浮くこともなかった。ただ、時々空を見上げていることがあった。ただ、少し伏し目になるときがあった。それだけだった。
 奈保は下校後、孝祐のあとを追うようにバイト先のコンビニに向かう。先に出たはずの孝祐はまだついていなかった。
「あれ? 奈保ちゃん?」
 寺門はビールケースを持ち上げ、そこに入ってきた奈保に驚き、目を見開いた。
「どうも」
「お母さんどう? 具合悪いって?」
「え? ええ」
「お父さん出張で、妹さんも部活だから、看病するんでしょ? 早瀬君から聞いてるから、帰ってあげていいよ」
「え? あ、ああ、はい……、あの、早瀬、君は?」
「早瀬君?」
 寺門は時計を見上げた。そして柔らかく笑うと、
「たぶん、墓地だろね」
 と言った。
「墓地?」
「早瀬君のお母さん、一ヶ月前事故でなくなったんだよ。すぐ上の大瀬峠のあのカーブを曲がりきれなかったトラックに巻き込まれてね」
 奈保はうっすらと記憶にある。そのための弔問費を五百円払った。何で見知らぬおばさんに。と思ったが、今はふと後悔する。
「毎日下校直後墓参りして、バイトにきてるんだ。偉いよ、彼は」
 寺門はそう言って「いや、奈保ちゃんも、責任感あるよ。休むって電話でよかったのに、わざわざ言いに来たんだろ? 近頃の子もいい子はいるんだねぇ。関心、関心」とビールケースを持っていった。
「何してんだ?」
 奈保が振り返ると、孝祐が入ってきた。
「あんたを、追って、……、お母さんのこと、」
「早く行けよ、待ってるぞ、きっと」
「……、―肯く―バイト何時まで?」
「何で?」
「お母さんの病院、瀬能なの、とりあえず家に帰って、家のことして、それから病院行って、面会時間ぎりぎりまで居ようと思って、それから、逢えない?」
「俺と? 何で?」
「……、なんとなく」
 孝祐の母親のことを聞いたからの同情かもしれない。今朝のお礼をはっきり言いたいのかもしれない。でもできれば少しだけ話がしたかったのかもしれない。孝祐の声を聞き安心して、本当に救われた思いがしたことを、本当に感謝していることを、伝えたいのかもしれない。
 それは今では駄目なのだ。学校でも、朝会った駐輪場でも。闇にまぎれて、少し恥ずかしい気持ちが隠れる闇の中でなら素直に言えそうだから。
「じゃぁ、九時に、大瀬峠の展望台で」
「大瀬峠?」
「あそこからの夜景、見たことあるか? ないだろ? 結構穴場だぞ」
 孝祐はそう言ってエプロンをして店内に消えた。

―大瀬峠って、事故があった場所じゃない―

 奈保はそう思いながらも家に帰り、洗濯を取り込み、晩御飯を二時間もかかって作り、その少しを病院に持っていく。
 病室では奈美が紅潮した顔で座っていた。
「どうしたの? 顔真っ赤よ」
「走ってきたの。何?」
「弁当。お父さんと、お母さんの夜食。って、食べていいか解らないけど。ああ、味は保証しないから」
 奈美が弁当箱を開ける。ぐちゃぐちゃの卵焼き―スクランブルエッグだって、
ブロッコリー……生?―栄養万点でしょ?
ご飯は、つめただけ?―海苔乗せてるって、
 奈美が呆れたため息をこぼす。
「これ美味しそうになぁい」
「しっつれいな」
 母は笑おうとはしなかった。でもそれでもよかった。母の前で奈美と馬鹿のように笑えることが。奈美が時々母を気にして口を尖らせたが、奈保はその時にかぎって話を変えた。
 父と交代で奈美が帰っていく。
「奈保は帰らないのか?」
「友達と会う約束したの。九時にバイトが終わるって」
 父が眉間にしわを寄せる。
「大丈夫よ。どうしても言わなきゃいけないことがあるのよ。今日じゃなきゃ駄目なの。バイト代わってもらったし、うん。だからね」
「あまり、遅くなるのは」
「解ってる。家についたら電話する」
 父は肯いた。

 九時。逢瀬峠の坂を自転車で登り、展望台に出る。展望台とは言っても、名ばかりの休憩所。別に夜景を楽しむカップルもいなければ、暴走族もいない。ただ、長距離トラックが頻繁に行き来するだけだ。
 展望台ではすでに孝祐が待っていた。
「早かったね」
 孝祐は肯き、近付いて来た奈保を見た。
「えっと、……、今朝は本当にありがとう、あたし、」
「坂、登ってきたろ?」
「え?」
 奈保が振り返る。トラックが車体を斜めにして通り過ぎる。
「以前、あそこに街燈は無かったんだ。事故があって、親父が自腹でつけた。それでも事故は無くならない。すんげーいやな場所」
「早瀬?」
「よかったよ、ほんと、助かって。大事にしろよ」
「早瀬?」
 孝祐は空を見上げる。星が微かにゆれるように光っている。
「……、あたしね、本当に感謝してるんだ」
 奈保は肯いて続ける。
「あの時、行けって言ってくれたからさ、なんか行けたし、お前がしっかりしなきゃいけないぞ。って言ってくれたから、嫌になるくらい冷静だった。お父さんが本当は浮気なんかしてなくて、病気のお母さん見るの嫌だっただけなんじゃないかとか、奈美も、私も、もっとお母さんと話してたらよかったのかもとか、冷静に考えれた。でも冷静すぎて、自殺なんかしようとしたお母さんは、私達を置いてけぼりにしたって思ってた。捨てたって。でも、今朝電話してくれて、よかったなって、守ってあげろよって、すごく、なんていうのかな? 嬉しいに似た感情。心がほって温かくなって、すごく楽になったのね。奈美は私の苦しみは解らないと思う。あたしもいえないと思うし。でも、早瀬ならわかってくれてる気がしてさ。ああ、身勝手なんだけど。でも、そんな感じ。だから、うまく言えないけどさ、とにかくありがとね」
 奈保は頭を下げる。髪が大きく振られて顔が上がってくると、孝祐は肯いた。
「……、それで、何で、ここ?」
「何が?」
「今日、会いたいって言ったとき、」
「ほとんど毎晩ここにくるから」
「お母さんに会える?」
 奈保は空を見上げた。孝祐はチラッと奈保を見たが、空を見上げて「無い」と短く答えた。
「星に願いを、だっけ? 歌あったよね。願えばかなう、かな?」
「さぁな」
「なんか急だけど、いっぱい願いが出てきた」
「は?」
「お母さんが元気になるようにでしょ、奈美が最後の試合で優勝するように。お父さんの仕事がうまくいくように。そんで、あたしにいい彼氏ができるように!」
 孝祐は呆気に取られていたが急に噴出し、
「まぁ、かなえばいいな」
 と笑った。

 母の様態は微かだがよくなっている気がした。父は母の好きなものをよく覚えていた。奈保たちでさえ知らないものも、父ははにかんで好きなんだよと言って持ってくるようになった。
 奈保は空を見上げる。霞む空は手を伸ばせば捕まえられそうな低さに見えて、実はかなり高い。あの晩願ったことがかなうかどうかは不明だが、かなわなくても、心が空いている今、それだけで幸福だったりする。

「おはようございます!」
 奈保は大声で控え室に入ってきた。土曜日は朝から孝祐はバイトに入っている。休憩らしくホットドックを加えたままあまりの大声に奈保を見つめる。
「おはよー、早瀬」
 孝祐は肯いたが、もう無愛想だとも思わない。だが

―いつか返事を言わせてやる―

 奈保はちらりと孝祐を見る。その目に孝祐は眉をひそめ、背中を向けてホットドックを詰め込む。
 時々、空が高くて、澄んでいる日に、何気なく見上げて、大きく息を吸い込み、吐き出し、そして微笑むような、そんなすがすがしさを相手に感じるときがある。
 この人は、すごくいい人だ。

 あれから変化があったことといえば、バイトをする意味が生まれたことぐらいだ。買いたい物と言う漠然としたものが、今ははっきりと目標になった。
 母に、母の日に当分渡せてなかったカーネーションを、抱えきれないほど渡そう……



<Fin>



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