キスととなりに
松浦由香
ノベルフェスタ47「ニューイヤーカップ」
「火」「本」「日」「髪」「歌」


 不意に意識をしてしまったときから、微妙な心のずれを感じずにはいられなかった。少しだけ離れてみればよかったのかもしれない。こんな年になるまで、いい人でいようとしなければ、もっと、……もっといい方法があった気がする。
 
 憂鬱そうにため息をついた睦月 太郎の顔を覗くように、望月 三冬は首を傾げ顔を見上げていた。
「そんなに私といるの嫌?」
 太郎が眼だけ三冬へと向けると、三冬は上目遣いのままコーヒーに息を吹きかけていた。手の中にあるカップは、三冬の掌を程よく暖めているのだろう。
「嫌って事はないさ」
 太郎はタバコを取り出し、火をつける。
「タバコって、大っ嫌い」
「そ」
 愛想のない返事をし、太郎は天井へと煙を吐き出す。
 軽快な音楽が遠くで聞こえる。広々としたカフェの隅の隅っこで、二人は向かい合い、昼前の日向でひと時を過ごしていた。
「嫌なら、何であたしを呼んだのよ」
 膨れている口調だが、顔は別に怒ってもいなければ、気にさえもしてないような「普通」な顔だった。
「別に、この近くに来たから、ただ誘っただけ。男いたか?」
「いないよ。別れた」
 太郎は「やっぱりな」と返答をして再び天井に煙を吐き出した。
 知り合ったのは高校のときだ。隣りになった二人は、なぜだか同じ電車に乗り、同じクラブに入った。太郎も三冬もバスケの才能がなかった所為で、すぐに退部したが、なぜかその時期も同じで、それ以来なぜか一緒にいた。だが一度として付き合っている気などなかった。いつも彼女や彼がいて、お互い相手の悩みを打ち明けていた。
 男女の友情はない。そんな世間の思いとは裏腹に二人は男女の友情を成立させてきていた。
「じゃぁ、フリーか?」
「そ。たろは?」
「俺もいねぇ」
「へぇ」
 三冬の言葉に太郎は興味を持ったように三冬を見た。三冬も見られていることを察し、先ほどの返答の意味を付け加えた。
「いっつもどっちかに好きな人いたでしょ、お互い居ないのは初めてじゃない?」
 三冬は思い返すように指を折り始め、「やっぱりそうよ」と笑った。
 三冬のえくぼの出る笑顔は結構かわいいと思う。気が強くて、がさつだが、その瞬間だけは女だと思える。
「そうだっけ?」
 太郎は何気ない風に返事をし、タバコを吸い込む。胸の奥にたまっていく妙な気配を感じながら、ゆっくりと天井へと細く噴出すと、タバコをねじけす。
「あ、そうだ、たろにあったらお願いしようと思ってたんだよね」
「は?」
「たんす動かすの手伝って欲しいのよ」
「模様替え?」
「違う、引っ越すの」
「どこへ?」
「実家帰るの」
「帰る? 一人暮らししたいって家出同然ででたのに?」
「不便だからね。体壊しても、誰もいないし。それに、寂しくてさ」
「おまえ、どんな別れかたしたんだよ」
「別に、普通よ。じゃぁね、バイバイ」
 三冬はそう言ってコーヒーを飲み干すと、カップを机に置き、頬杖をついて窓の外を眺めた。長いまつげの奥の、きれいな丸い目。時々前髪をあげる細くて長い指。
「相手、どんなやつ?」
「終わったこと」
「不倫」
「たろ、思ったことすぐに口出しちゃいけないよ」
 三冬は年下を怒るような口調でたしなめたあと、首をすくめ
「でも鋭い」
「マジ?」
 三冬は肯きもせず窓の外を見た。
「知らなかった。といえば、私に非はない?」
「解るだろ、指輪とか」
「なかった。所帯じみた感じがまるでなかったのよ」
「でも実際は、」
「三人のパパ」
「子供いるのか? しかも三人も?」
「携帯にメール入ってきて、にこやかに見せたのよ。俺の子って。言わなかったっけ? って」
「おまえ、ばか」
「知ってる」
 三冬は頬杖をついたままため息を落とした。
「で、あんたは? あんたも失恋?」
「俺は、」
「片思い? らしくないなぁ。猪突猛進なのに」
「おまえじゃねぇんだぞ」
 三冬は首をすくめ、小さく笑い、伝票を取り上げた。
 二人は喫茶店を後にして、近くの公園ベンチに座った。町は朝の寒さが緩んできたころだった。人がまばらに増えていく中、二人はベンチに座り、寒空を見上げた。
「休日だって言うのに、寂しいねぇ」
 三冬の言葉に、太郎は返事をせず目線を降ろし、公園にやってきた家族連れを見た。
 三つか、四つの兄と、乳母車から手を伸ばしている妹の姿が見える。父親は兄と追いかけっこをし、母親は捕まらないようにと声をかけている。
「あたしらも、子供いてもおかしくない年になりましたなぁ」
「木村んとこは二人だっけ?」
「らしいねぇ」
 同級生の結婚話、出産話を遠くで耳にするようになった。数年前なら、結婚なんぞに縛られるより。などと独身貴族がよく言う言葉を吐いていたが、
「最近じゃぁ、なんか一人って言うのは、寂しいよねぇ」
「で、家に帰るのか?」
「まぁね」
「おまえ、そんなに弱いかよ?」
「懲りたのよ。いろんな人と付き合える環境でも、これって人に逢えなくってさ。それって、誰彼かまわずだと思うのよ。余裕がないというか。一人だから余計に」
「セックス依存症?」
 三冬は黙って太郎の頭に拳骨を落とし、「でもそうかも」とつぶやいた。
「俺の場合は、帰りたくても帰れないんだよ」
「何で?」
「兄貴が同居してんだよ。結婚して、別に暮らすことで、いろんな出費があるって」
「うわぁ。嫁姑?」
「そこはできた姉さんで、うちの母親もかなり抜けてるから、うまくやってるみたい。いや、うますぎるかな。家に帰ると二人して、まだ結婚しないの? とか、子供作ってしまえとか。おいおいだろ?」
「楽しいじゃない。家に帰って、その姉さんに手を出しかねない?」
「兄貴に殺される。どころか、母親に死体になってまでも殺される」
「面白いこというねぇ」
 三冬はころころと笑い、左掌を空にかざした。
「左手に指輪が有るか無いかで、すごい保証とか、そういうものが得られるんだね」
「たった一個の指輪なのにな」
「縛られたくないって思ってたけど、彼がさ、明日は妻の誕生日なんだ。って、プレゼント選んで、そんなの目の前でされちゃうとさぁ」
「ひでぇよな。不倫してるんだったら、おまえの前だけでも見せちゃいけないだろ、そういうの」
「彼は不倫なんかしてなかったのよ」
「遊びか?」
「とも違う。同僚。ご飯食べて、カラオケいって」
「セックスするのが同僚?」
「それは酔わせたうえで私から」
「やっぱり依存症」
 三冬はまた黙って拳骨を落とした。
 三冬の鞄から携帯の音がなる。三冬が電話をとると、メールだったらしく、器用に親指を動かし眉をひそめた。
「どうした? 仕事か?」
 三冬は黙ってその文面を太郎に見せる。「待ち合わせの時間、すぎてるけど、どうしたの?」三冬はため息をつき、携帯を包むようにひざに落とした。
「やさしいのよね、一回だったのにさ」
「で、無言で別れると?」
「それが無難、でしょ?」
「そうかな?」
「たろならどうする?」
「俺? 人妻かぁ、なんかいやらしいな」
「ばか」
 太郎は携帯を三冬の膝から持ち上げ、
「すべて変えるかな、ああ、実家に帰ったり、携帯の番号変えたり、服の趣味変えたり、髪、切ったり」
「いまどきないよ。そんなんで髪切る子」
「いいじゃん。未練を断ち切ってみたりするわけだ」
「ばっかみたい」
 三冬はそういいながらも、肩にかかる髪をちょいと抓み、「あ、枝毛」とつぶやきながらあごまで持ち上げる。
「このくらい?」
 太郎はそれを横目で見た後、「どうでも」と返事をしながら
「俺は長いほうが好きだけどさ」
 と付け加えた。
 昼になると、あちこちからいろんな匂いが混ざり始めた。弁当の匂い、ファーストフードの匂い。露天の匂い。さまざまな匂いが流れる中、二人は黙ったままどこを見るわけじゃなく座っていた。
「で?」
「は?」
「片思いの子」
「いねぇよ」
「うそだぁ」
「うそ言ってどうするよ」
「ほんとに?」
「いねぇ」
「寂しい。いつから?」
「クリスマス前、だな」
「うわ、サイアクぅ」
 太郎は俯き「まったくだ」とこぼした。それが傷に触れたと三冬はぎこちなく謝る。
 別れた彼女は、髪が長かった。明るい子で、素直だった。素直すぎて、まじめで、太郎のことをよく見ていた。だから、変化にも気づいたんだろう。太郎は、別の誰かが好きだと。
 太郎は頭を振り顔を上げると、弁当を広げていた家族の中で笑いが起こった。兄貴のほうだろうか? 顔中にケチャップをつけている。弟の手にそれがあるので吹き付けてしまったのだろう。
「じゃぁ、あたしがぬくぬくとクリスマス祝ってたとき、一人だったの?」
「ああ」
「呼べばよかったね」
「いいよ、そいつと一緒だったんだろ?」
 三冬はまたも黙って拳骨を落とす。
「あんた、頭足りなさすぎ」
「なんだよ」
「家族いるのよ。いなかったよ」
「一人?」
「そ」
「一人でふけってたか」
 再びこぶしを落とし「殴るよ」と三冬は笑っていった。
「殴ったあとじゃんかよ」
 太郎が頭をさすると、三冬は立ち上がり、携帯をカチカチと打って、「送信!」と手を上げた。
「知りたい?」
 三冬は携帯を振り、太郎の前に差し出す。
「知りたくない」
「そういわずに、読んで」
 太郎はいやそうな顔で携帯を見た。「好きな人といるから、もう連絡しないで」太郎が三冬を見上げると、
「たろには悪いけどさ、言うように、別れは有るべきだと思う。自然消滅なんて、いやだからね」
 太郎は肯き同じく立ち上がった。
 町に夕闇が近づいてきたころ、二人はとあるレストランの中にいた。注文したワインを打ち鳴らし、一口口を湿らせる。
「よく知ってたね、ここ」
「通りがかり」
「雑誌に載ってたのよ」
「何で、俺がおまえごときと会うのに、雑誌なんか見て下調べしなきゃいかんのだ?」
「そりゃそうだ」
 三冬はワインを口に運ぶ。
「明日は?」
「日曜」
「仕事は?」
「日曜」
「じゃぁ、遅くまで大丈夫?」
「とりあえず」
 太郎は上目遣いで三冬を見ると、三冬は頬杖をつき店内の照明に顔を照らしていた。
「いい感じ」
「店?」
「もちろん。ほかに何があるのよ」
 太郎は首を傾げワインに唇を湿らせる。
「今日のたろさ、なんかすごくいいやつね?」
「丸くなったと言え。年だよ」
「いくつだよ、あんた」
「おまえより一月若いけど」
「たった一月じゃない!」
「そのくせ年上ぶるくせに」
「一月はお姉さんだから」
「へんなの」
 「へんで結構よ」三冬は頬を膨らませ、顔をそむけた。
「なぁ」
 三冬が太郎を見る。太郎は店内のカップルの様子を頬杖を付いて眺めている。ずいぶんと奮発したのだろう。出てくる料理に戸惑いながら彼女が喜ぶと誇らしそうな彼氏の様子が、妙に痛々しいくせに、ほほえましかったりする。
「何よ、すぐ言いなさいよ」
 目だけを三冬に向け、また別の席へと目を移せば、上品な老夫婦がワインを飲んでいる。「何?」
 三冬はワインを手酌し、くいっと飲み干す。
「すごい知り合いを、別の見方したことないか?」
「別の見方? たとえば?」
「今まで知らなかった見方」
「そいつは実は男だったとか?」
「なら、もっと楽だよ」
 三冬が黙ってしばらくして太郎が見冬に目を向けた。もしかして、気持ちを察して帰ったのだろうかと。だが、三冬はそこに居て笑っている。
「やっぱり片思いじゃない」
「片思い、ねぇ」
 太郎はタバコに火をつける。拍手があがり、そのほうを見れば、ピアノの生演奏と、生歌のステージが始まるようだった。女性シンガーは静かに歌いだした。言葉を置くようなその歌に店内の照明も少し落とされ、テーブルには料理が運ばれていく。
「違うの?」
「は?」
「片思いよ」
「気づいてなきゃ、そうだろ」
「やっぱり片思いじゃない」
 太郎は何も言わず黙ってシンガーを見た。
「どんな人?」
「誰が?」
「その相手よ。ばか」
「相手? 相手は」
 太郎はしばらく黙る。机にサラダ、スープが置かれたころ、
「気持ちいいやつだよ」
 三冬は眉をひそめた。
「何よ、それ」
「そいつ。一言で言えば」
「何? セックスしてて恋人じゃないの?」
「してねぇよ」
「じゃぁ、妄想?」
 太郎があきれて見返すと、三冬は「マジで言ってるの」と微笑んだ。
「気持ちがいいって言うのは、そういうんじゃねぇよ。気が張らなくていいとか、そういうこと」
「じゃぁ、そういいなさいと。ばかのくせに言い回しくどいんだから」
「なんだよ」
 太郎はむすっとしてワインを飲み干す三冬を睨む。
「で、何で言わないの?」
「言いたくないから」
「何で?」
「そういうこと、いっちゃいけねぇんだよ、そいつには」
「やだ、あんたいつの青春ドラマ? 俺たちの関係を壊したくないんだ? あたしだったら言って欲しいわね。待ってるものよってね」
 太郎はタバコをねじ消し、ワインを喉の奥に一気に押し込んで、フォークを握り、ナイフを握り机に立て、俯いた。
「それほどお腹すいてんの?」
「俺、おまえのこと好きなんだ」
 三冬が笑いならがフォークとナイフを倒そうと伸ばした手が止まり、女性シンガーの歌は拍手を受け終わり、少しの談笑の後また歌が始まった。
「って、冗談。ほら見てみろ、おまえだって驚いてるじゃねぇ……か」
 太郎が顔を上げると、三冬の困惑した顔が太郎を見返した。
「うそだって言ってるだろ、ほら肉きたぞ」
「ウソでいえるんだ?」
「おまえだって、言ってるだろ?」
「言わないよ」
 三冬は動揺が治まったらしく、いつもの口調に戻りつつあったが、それでもどこかよそよそしく感じるのは、うそをついた所為だろう。
「あたしは、絶対自分の感情は言わないようにしてんの」
「何で?」
「だって、好きなわけじゃないもの」
「好きじゃなくて、セックスするのか?」
「居ないんだよ。好きな人が。だから、寂しくてさ」
 三冬は背もたれにもたれ、ワインを飲み干す。
「誰でもいいって人に、いちいち感情なんかないよ。でも、彼は本気だったな。たろがいうように、気持ちよかったのよ。楽だったし。でも、やっぱり違ったのね。家族がいたってこともあるけど、それ以上に、腑に落ちないこといっぱい有ってさ」
 太郎は黙ってステーキを口に運んだ。「うまいぞ」を合図に三冬の肉をほおばる。
 女性シンガーは十曲熱唱し、ステージは終わった。
 食後のデザートを食べる三冬の前で、太郎はコーヒーを飲む。
「たろはいいやつだよね」
「そうか?」
「何で、一人で居るかな?」
「しらねぇ」
 店を出ると、寒風が二人を包み、三冬は太郎の腕に絡まる。
「さむぅ」
「歩きにくいって」
「そういうな。よしみだ」
「なんだよ、それ」
 二人はくっついて駐車場に向かう。
「いやなんだよね」
「何が?」
「あのホテルよ。よく行くの。何で段取りがあるのかなって」
「なんの?」
「絶対キスしなきゃいけないのよ。キスして、ホテル行って、お風呂入って、電気消して、みんな一緒」
 太郎は腕にすがっている三冬を見下ろす。
「たろも?」
「と聞くな」
「何で?」
「テクだよ、テク」
「へぼテク」
「ほっとけ」
 二人は立ち止まりホテルを見つめる。怪しげな紫色の看板に、黄色に浮かぶ文字。白い建物はライトアップされ、見ようによってはきれいかもしれないが、やはり、けばけばしい。
「夜景見てるとさ、悲しくなるよね。あんな光の粒の中のひとつじゃんって、ホテルもさ、あの中に居ちゃ、ただのスケベだよね」
「はたで見ればな。でも、あの中に居る人すべてがそうとはいえないだろ? 本当に好きだったり、」
「ほかがあるでしょ」
「いろいろとあるんだよ、ほかだと。常連のくせに口出すな」
 三冬が口を突き出し膨れたのを見下ろし、太郎は首を垂れる。
「何する気?」
「段取りというものがあらぁな」
「何よ、それ」
 太郎は失笑し、歩き出す。
「マジ顔すんな、ばか」
「ば、ばか?」
 太郎は歩きながらホテルへと目を向けた。俺はあそこにさえ踏み込めない相手なんだ。そう思う太郎の腕を三冬は掴み、
「あんたってばほんと、やなやつ。こーこーんときあたしが貸した本無くしたし、あたしがお気に入りにしてた白い服にコーヒーぶちまけるし」
「よくそんな古いこと覚えてんな」
「あったり前でしょ、かなり根に持つのよ、あたし」
 三冬の言葉に太郎が鼻で笑う。
「あ、あの人、かっこいい!」
 三冬の目がずっと先の交差点を歩く男に向けられ、二歩ほど前を歩いた。三冬の小さな後姿。肩にかかる髪。
 
 不意に意識をしてしまったときから、微妙な心のずれを感じずにはいられなかった。少しだけ離れてみればよかったのかもしれない。こんな年になるまで、いい人でいようとしなければ、もっと、……もっといい方法があった気がする。
 
 手を伸ばせばつかめない距離じゃない。でも、手を出すことを拒む関係は、それだけで酷い。何で、意識したんだろうか。あいつが誰と寝てようと、どんなやつを見てようと、今まで気にしなかったのに。
「もう、そういうの、そろそろやめねぇか?」
「何を?」
「誰彼かまわずって言うの」
「何で?」
「俺が、いやなんだよ。すんげー」
 
fin


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