料理とバイクと

松浦由香


 未来日記。そういうものがあるとしたならば、私は何を描くだろう。一流の料理人となって、小さいながらも立派なお店を持って、そして素敵な人とめぐり合う。欲張りなことだわ。

 銀のボールいっぱいに卵白を泡立てている。その硬さ、つや、感触が程よくなったころ、彼女はやっと笑った。
 彼女の名前は吉崎 美登里。小さいながらも自分の店を持ちたいと思っている料理人だ。フレンチも、イタリアンも好き。だから、それらすべてを出せる店を作りたい。行列などできなくても、また来たいと思ってくれればそれでいい。そういう夢を持っている。
 オーブンを覗けば、ほどいい色に焼けてきたチキンの照りが赤外線にあたって美味しそうに見える。
 いつもなら三十人ほどの生徒がいるこの料理教室の一室も、美登里だけだとずいぶんと広い。その広さの中でチキンのいい匂いが鼻をくすぐる。
 先ほどの卵白にさっくりA生地(小麦粉、ベーキングパウダーなどの粉類)を入れる。さっくり混ぜ合わせ、半分だけ入れると、ドライフルーツを入れ、さらに生地を流しいれる。いたって普通のフルーツケーキだが、型への入れ方、そしてスポンジの味がいつもと違う。春らしく、それでいて、甘すぎないを注意したケーキだ。味は出来上がりを待つしかない。それをオーブンに入れた後、チキンの様子を伺い、流しに入れた用済みの調理器具を洗う。
 彼女が左右に動くたび、その背中の束ねたらした髪が左右に動く。
「美登里さん?」
 そう声をかけたのは、背広姿の男性だった。長身でセールスマンだと一目でわかる人だ。
「藤井さん。お仕事は?」
 一応、二人は付き合っている。大学が同じだったこともあり、性格がお互いおとなしいせいもあり、知らずに付き合い始めた。時々、「好きですよ、私は。」と照れながら目を伏せる仕草が美登里は好きだった。
 藤井は鞄を机に置き、オーブンの中を覗く。
「チキンですか?」
「ええ、ハーブ入りリゾットのチキンで、」
「人事異動が続いて最近飲み会続きで胃の具合が悪くて、」
「そうなんですか。じゃぁ、中のリゾットだけ。」
「でもまだでしょ? まだこれから行かなきゃ行けないんですよ、僕。」
 藤井はそういって申し訳なさそうに美登里にキスをしてから出て行った。
 スマートで、顔もいいほうだ。頭もいいし、優しい。でも、美登里はどこかで寂しいと感じていた。でも、こういうものは、好きだから相手を求めすぎていて、その気持ちと、一緒にいられないという現実に差ができていると感じる、ただのわがままだと、美登里は思うようにしている。
 仕事と、あたし、どっちが大事なの?
 そんな言葉の無意味さに、美登里は窓を開け、まだ寒い春風に頭をさらす。
 誰のための料理だろう。彼に食べさすために遅くまで使わせてもらうように頼んだのに。
 それでも彼が好きだから、わがままを頭で言うのも悪くないなぁ。と、彼氏のいない人よりは。と言い聞かせる。
 でも料理が仕上がるまでの長い時間は、巡りきれない堂々道へと思考を運ばすだけだ。
 彼の態度が急にそっけない? それは別に好きな子ができたから? そんなことあるはずないでしょう。仕事熱心で、営業成績だっていいって言ってた。でも、彼の休みのとき、私はいつも料理教室だといって一緒にいない。
「やっぱりわがままだわ。休みが合わないから、自分の休みに相手を合わそうとしてるなんて。そんなこと言ったら、嫌われるわ。」
 美登里はため息をつき、オーブンの時計を見る。多少の時間差はあっても、三十分ほどの時間がある。近くの本屋にでも行って、本でも買って来よう。そう思って教室を出た。

 教室のあるビルを出ると、仕事帰りの人が大勢繁華街を目指して歩いていた。その中に藤井もいるのだろう。
 美登里がおもむろにため息をついた視界に、一人の女性がしゃがんでいる姿が見えた。人々はそれを避けるようにして歩いている。別に不審者ではない。格好もきれいだし、しかし、様子がおかしかった。
 彼女は妊婦だった。額からは汗が出ていて、苦しいのか吐き出す息が荒く、痛みを必死で堪えている所為で顔がゆがんでいる。
 無視すればいい。そう思って過ぎ去ったが、誰も声をかけない非常な世の中の一人にはどうしてもなれなかった。お人よしであろうと構わない。とにかく、妊婦で、お産が来ているのだろうとわかった以上、美登里には彼女に声をかけないわけにはいかなかった。
「大丈夫ですか?」
「もう、だめ。」
 やっぱりお産だ。痛みや、顔のゆがみからして相当やばいだろう。もしかすればここでお産をするかもしれない。そんなことになれば更なる悲劇だ。子供は助からないだろうし、彼女さえ危うい。そんな焦燥が美登里をすいと立ち上がらせ、目の前に飛び込んできた信号待ちの白い軽トラの窓を叩かせた。
 窓は半分開いていた。油の匂いがする車に乗っていたのは大きな『熊』だった。だが、そんなことに躊躇している暇はない。美登里はできる限り切迫感を声で示そうとした。
「産まれそうなんです。助けてください。彼女、生まれそうで、」
 運転手はチラッと美登里の後方を見たあとで、車を走らせた。車は無常にも次々に走り去り、美登里はため息をついた。この辺りはタクシーが停まらない場所として有名だった。だから、タクシーは貴重で、その姿を見つけるとすぐ誰彼乗り去ってしまう。美登里は妊婦のそばに近づき、その手をしっかりと握った。
「携帯ありますか? 旦那さんとかに連絡しなきゃいけないし。」
 妊婦は必死に痛みと戦いながら、鞄と言うだけだった。妊婦が握り返す並々ならぬ力に美登里も顔をしかめたときだった。
「その人だね?」
 顔を上げたが見たことのない人だった。でも、巨漢を窮屈そうに折り曲げ、妊婦を気遣うように優しく言葉を話し始めた。
「大丈夫ですよ。かかりつけの病院、この近所ですか? ……、この先の病院? ああ、解ります。その、急ぎなんでいい車じゃないんですよ。それにシートといえば油のしみたやつで、その服が後日着れなくなりますけど、まぁ、今日の日の思い出にでもしてください。」
 彼の言葉に妊婦は少し笑った。その緊張が解けたのは美登里の握り返された手の力でもわかった。彼は妊婦を軽々と抱え上げると、美登里を見返した。
「あの、できればご一緒して欲しいんですよ。どうも、妊婦さんの扱いは下手で。」
 そういう彼の言葉に美登里もいつしか微笑んでいた。三人は少し行った先に止めた車に乗り込む。助手席のシートはどういうわけだか外されていたため、荷台に乗せられた。本当に油の匂いの染みたそのシートだったが、そのまま座っているよりははるかにクッション性はいいだろうと思われた。歩道の隅に置いたバイクを彼は名残惜しそうに見たあとで、軽トラを出した。
 数分後、病院に着くと、緊急オペが始まった。美登里はご主人に連絡を入れ、受付に来ると、彼が紙コップを両手に立っていた。
「いやぁ、よかった。帰ったかと思いました。せっかく買ったのになぁと。どうぞ。」
 そういって彼が差し出したのはコーヒーだった。彼の手元に残ったのはオレンジジュースだった。
「それ?」
「え? オレンジのほうがよかったですか?」
 なんとも名残惜しそうな言い方に、美登里は笑いながら首を振った。
「そうじゃなくて、甘いの好きなんですか?」
「熊なので。いや、よく言われるんです。はちみつ好きなぷーさんだって。」
 彼は笑いながら大きな手で頭を掻いた。そしてオレンジジュースを飲み、美登里にコーヒーを勧めた。
「ミルクも砂糖も入れましたがよかったですか? どうも、好みって言うものに疎くて。」
 彼はそういって診療がすみ、閑散となった受付の椅子に座った。
「あの、バイク、あなたの?」
「あ? ああ、そう、置いてきました。もう、ないだろうけど。」
「ない?」
「盗られてると思う。まぁ、いいことをしたので、気分的には残念度は少ないけども。」
 美登里は彼の一個横に座った。彼の大きな手の中の紙コップが小さく見える。
「いいバイクなんですよ、今日なんか、懐かしい友達がやってきた所為か、すごく調子がよくて、エンジンもいい音出すし、たまに機嫌の悪いときもあるけどね。あ、いや、すみません。」
「いいえ、どうぞ、続けてください。」
「続けるも、もう、ないですよ。」
「好きなんですね? バイク。」
「馬鹿だといわれるし、そういう話を女性の前でするなといわれて、今日のことですけどね。」
「いいじゃないですか、好きなことが話せるって。」
「好きなだけ、何ですけどね。あなたの好きなものは?」
「私? 私は、料理作ること、かな。」
「いい趣味じゃないですか。料理の上手な人っていいですよ。」
 彼がそういってジュースを飲み干したころ、サラリーマンが慌てて走りこんできた。
「あ、本木さんですか?」
 美登里は立ち上がってご主人に声をかけると、ご主人は汗も拭かずに美登里に近づいて、握手を迫る勢いで話しかけてきた。
「あ、お電話の? ありがとうございます。で、妻は?」
「集中治療室です。もう、産まれてるんじゃないかしら。戸の前で立ち会っていなかったのでなんとも。」
「いいんです。本当にありがとうございました。なんと言えばいいか、」
「それよりも、」
 彼は優しくご主人に治療室に行くように勧めた。ご主人は何度も頭を下げそして走っていった。
「さぁてと。どうします? ここまでつれてきた以上、送りますけど、またあの油の中ですが、」
「送っていただけますか? そうだ、お腹すいてません?」
「まぁ、そういう時間だし。」
「よかったら、食べていただけませんか?」
 美登里は料理学校で作って、食べてのいない料理のことを話した。ただ、藤井のことは伏せていた。。彼はしばらく考え、笑顔で了承してくれた。
 軽トラを、美登里の料理教室のあるビル近くの駐車場に止め、バイクを下ろした前を通ったが、やはりバイクはなかった。
 悪びれる顔をする美登里に彼は笑って「そういう運命だったんですよ。」と軽く言った。その言葉がどの言葉より美登里の心に残った。
「美登里さん?」
「藤井さん。」
 藤井が怪訝そうな顔で彼と美登里と交互に見る。
「あ? ああ、道案内してもらったんですよ。でも、もうしまってるようで、ありがとうございますね。また、明日にでも来て見ます。すみません、無理やりここまで案内させて。」
 彼はそういってきびすを返すと、「残念だぁ。」を繰り返して立ち去っていった。
「美登里さん? 彼は?」
「……、道案内してきたんです。本屋に行って来てたから。それより、どうしたんですか?」
「食事会が早く済んだから、一緒に帰ろうかと。」
「……、そう、じゃぁ、片付けしてから。」
「片付けかぁ。」
「何なら先に帰ってください。今日の分を明日の見本用に加工して帰りますから。」
 藤井はしばらく考え、では。と帰っていく。遠のく背中。追いかけて「待って。」といえば彼は待ってくれるだろうか。食事を終えてあの料理郡の後片付けに付き合う人だろうか? 美登里はため息をこぼして料理教室に戻った。
 チキンにラップをかけ、ケーキにはデコレーションを施し、見本用に棚の中に入れると、すでに時計は一時間を過ぎていた。
 美登里はかばんを肩にかけ、薄手のコートを羽織って外に出た。あたりはすっかり暗く、二次会行きの人が行き交っている。
 横断歩道を渡りながら、あのガードレール越しに声をかけた場面、妊婦を軽々と抱えたあの大きな影、油の染み付いた指先が思い出されてならなかった。
 基本的に面食いではないが、やはりそれなりに容姿を気にしてると思う。藤井もそこそこかっこいい部類だし、金ぶりもいい。しかし彼は油の染みたバイクスーツを着ていた。格好の悪い軽トラと、決しておしゃれに気をつけていない様相。藤井と比べても格段劣って見える彼をどうしてこうも考えてしまうのだろう。
 右からの風に顔を左に背けると、彼が警察となにやら話をしていた。でも美登里に立ち止まることも、その場に走ることもできなかった。横断歩道の真ん中だ。人が幾重にもなって彼らの姿を消す。やっと視界が開けたとき、二人の姿はもうなかった。
 逢いたい。
 美登里は胸を押さえて階段を駆け下りた。
 逢いたい。それは浮気じゃないか。藤井に対する裏切りじゃないか。恋人がいるくせに、逢いたいなんて。
 人がほどほど入っている電車に乗り込み、美登里は家に向かった。

 翌日。
 美登里は料理教室で主婦や、OL相手に昨日作ったチキンとケーキを教えていた。にぎやかな声と、銀ボウルを掻き回すたびに出る音が楽しげに部屋を包む。
「吉崎先生。」
 授業中呼び出されて校長室に向かうと、昨日のご主人がいた。
「昨日は本当にありがとうございました。あのあと、無事に産声も聞けまして。とりあえず無事産まれた報告をしに来たんです。昨日の彼にはもうお礼を言いに行きまして、そしたら多分、ここじゃないかって。てっきりお二人は恋人同士だと思って、彼の軽トラの名前しか確認してなくて。」
「彼の名前ご存知ですか?」
「ええ、白石さんといって、この近くでバイク工をしてるんですよ。オートショップ「白石」ってお店ですよ。」
「そうですか。実は偶然通りかかった人に頼んだので、私も知らなかったんですよ。」
「らしいですね。でも、彼、すごくいい人でしたよ。バイクとかって興味ないんですけどね、一時間しゃべってて、営業の途中なもので、これで。」
 ご主人は丁寧に礼を言い、今度子供をつれてくるとまで言って帰って言った。
 夕方。授業の片づけを済ませ、美登里は弁当を作っていた。
「美登里さん?」
「藤井さん。今日は、食べていかれそう?」
 藤井はすまなそうに眉をひそめた。美登里は首を振り弁当におかずを詰める。
「それは?」
「明日の見本。」
 美登里の箸は動きを止めなかった。しかし藤井の顔は見れなかった。ずっと弁当の彩などを気にしているようなしぐさをしている。
「今日は接待で、今から飲みにね。」
「あまり飲まないほうがいいですよ、弱いのだから。」
 藤井は首をすくめて帰っていった。
 そうやって断っていく藤井に対し、自分の行為は裏切りだ。でも、通りすがりに声をかけた善意に対する礼をしなくてはいけないだろう。それは当たり前なのだし。と自分の行動を正当化する自分。
 美登里は弁当を風呂敷に包み、ビルを出てオートショップ「白石」に向かった。小さな、小さな店だった。バイクが五台ほど飾ってあって、後は工場らしいところ。明かりは漏れているが流行っているという気はしない。
「すみません?」
 美登里が中に入ると、真っ黒なタオルで指を拭きながら彼が出てきた。
「昨日の?」
 彼は驚きのあまり、タオルで拭いていたナットを落とし、あわてて拾い上げる。
「どうしたんですか?」
「これ、昨日のお礼です。」
「そんなことされるいわれは、」
 彼はそういってナットと、タオルを工具箱の上に置く。
「でも、通りすがっただけで、そのまま立ち去る人がたくさん居たんだし。」
「でも、あの夫婦に言われるのはわかるけど、あなたに言われるのは、」
「昨日、ご馳走するって言った手前でもあるんです。」
 彼はしばらく考え、頭を下げてそれを受け取った。
「雅さん?」
 店にそう声をかけて入ってきたのはスーツ姿のサラリーマンだった。
「珍しい、お客?」
「何だ?」
 彼はサラリーマンを見るなりにやっと笑い、その顔がまたすごくいい顔で、その顔を見たサラリーマンは店の中の特等席なのか、椅子に座って美登里を見た。
「女性のお客なんて、初めてじゃない?」
「うるさいぞ。彼女は客じゃない。で、お前は?」
「追い払おうとしてる?」
「あ、私はこれで。」
「いや、こいつは、」
「そう、俺のことは気にせず。客じゃないし。」
「お客じゃない?」
「そう、言うなら、なんか一日に一度ぐらい雅さんに会わなきゃ気がすまなくなってるやつというか、ああ、でもゲイじゃないから。」
 彼はそういって手を振り、美登里が持ってきた弁当を開けた。
「すんげー、これ全部あなたが?」
「お前があけるな。」
 そういいながらも、雅さんの顔はほころんでいた。美登里はサラリーマンから椅子を受け取り、雅さんが手を洗っている間、彼と二人きりになった。
「どういった経緯で知り合ったか知らないけどさ、雅さん、本当にいい人なんだ。かなり不器用で、女の人にはもてないけど、俺なんか、雅さんと会えたおかげで、とりあえずまっとうな職についてるし。そういう人徳はあるんだよね、あの人。」
 美登里は奥から出てきた雅さんを見上げる。本当に大きくて、電気のすぐ影を作る。
「これさぁ、三日、四日に分けて食うんじゃないの?」
「そんな、早くに食べてしまわないと、」
「でもしそうだよなぁ。そういうことされたことないでしょ?」
「悪かったな、ないよ、一度も。」
 そういいながら雅さんはサラリーマンがひとつつまんだ弁当箱を取り上げ、ふたをした。
「今日中に食べてくださいね、明日には明日持ってきますし。」
「とんでもない、これは受け取るけど、もう、明日のは、彼に作って上げなきゃ。」
「何だ、男いるのかぁ。せっかくお勧めしてたのに。」
「ばぁか、バイク馬鹿に女の子が寄り付くわけないだろ。」
「せっかくうまい料理に預かれると思ったのに。」
「もう、いいから帰れ。」
 雅さんはそれでも笑いながらサラリーマンを追い出し、彼も笑いながら出て行った。
「すみません、変なやつばっかここに集まるんですよ。」
 雅さんは頭を掻いて椅子に座り、弁当のふたを開けた。一口口に放るたび、後ろの通りを過ぎる誰もが声をかけていく、それはみんな男ばかりで、みんなバイク仲間のようだった。
「すごく慕われてるんですね。」
「バイク好きなやつって、結構いいやつばかりなんすよ。その中で一番の年長者ってだけで、あ、これほんとうまいっすよ。」
 雅さんは笑ってそれを口に放り込んだ。
「雅也、さん?」
 美登里は整備士責任者の札を見つけ雅さんのほうを見た。雅さんは頷き、ふたを開けたままで立ち上がると、置くから皿を持ってきて中身を移し始めた。
「三日になんか分けないで食べてくださいね。」
「もったいないけど、そうしますよ。」
 雅さんは笑って空になった弁当箱を奥へと持っていくと、水を出す音がする。
「いいです、そのままで。」
 美登里の言葉はむなしく、雅さんはきれいに洗って弁当箱を持ってきた。
「ほんと、いいことすると、いいことがあるもんですよ。」
 雅さんは笑って一台のバイクのそばに近づく。
「本当なら、駐車違反なんだけど、妊婦さんを連れて行ったって事を巡回中の警官が見てて、警察に一時預かりしてたんだ。それにこの弁当。やっぱりいいことはしなきゃね。」
 美登里はよかったとため息をついて、藤井の姿が頭を掠めた。
「帰ったほうがいいよ、彼から連絡来ると思うし。」
 頷いてみたが、今藤井に会うのはつら過ぎた。今こうして椅子に座り、バイクの油に包まれて、息苦しさを覚えているのに、なぜだかここから離れられない。
「あれから、喧嘩でも?」
「したことありません。」
「仲いいんですね。」
「そうでしょうか? 時々苦しくて。」
「苦しい?」
 美登里はうつむいたままで吐き出すように話した。留めて置かなくてはいけない胸のつっかえが、バイク店という独特な空間と、雅さんの人柄の所為で口からこぼれていく。
「藤井さんはいい人です。優しいし、私は愛されていると思います。でも、昨日も、一緒に居たかった。その前も。仕事が忙しいことがわかるから、そういえなくて、だって、私も、忙しいときがあるけれど、彼は一度も無理を言わないし。私たちはそういう関係だと思ってるから。でも、なんだか昨日は、飲み会前に顔を出した彼が少し冷たく感じられて。たった数分しかあえないのなら、一日会わなくてもいいじゃないかとか、そのくせ、逢いたいと思い続けていたくせにとか、なんだかおかしくなりそうで。」
「言ってみたら?」
 美登里は顔を上げる。雅さんは目を細めてやさしく続けた。
「わがまま、言ってみたらいい。一緒に居たいって。言って欲しいって時ありますよ。昨日久しぶりに会った友達は、一年間に、ざっと計算しても、一ヶ月も彼女と逢えないんですよ。やつが海外に居るってこともあるけど、彼女は連れて行けとわがままを言わない。やつも連れて行こうとはしない。彼女が家族に愛されてるのを知ってるから、どうせ連れて行くなら盛大に祝福されたいって、ずっと説得してるんですよ。でも、俺は、そういう想いをさせたくない。まぁ、所詮付き合った人が居ないやつの憧れででしかないですけどね。」
「言って、大丈夫でしょうか?」
「それは解りませんよ。俺は、彼じゃない。でも、言わずにしまっているのは、よくないとおもいますよ。」
「どういえばいいのか。」
「素直に言ってみては? そばに居て欲しいって。」

 美登里は真っ暗な夜の街頭の下を歩いていた。雅さんのことが頭をめぐる。柔らかくて、本当はもう少し居たかったのに、雅さんは帰るように勧めた。きっと、藤井が家で待っているといって。
 確かに藤井は美登里のマンション前に立っていた。オートロックということもあったので、そこに立っているのだろうが、顔を見合すのが息苦しかった。
「教室には居なかったから、どこに居たの?」
「もし、」
「ん?」
「もし、私がわがまま言ったら、藤井さん、どうする?」
「わがまま? 美登里さんが?」
「仕事だって言わないで。そばに居て欲しいの。」
「美登里さん?」
 美登里の言葉をさえぎるような藤井の動揺。彼は美登里のわがままを受け入れたくないようだった。
「おかしいわね、ちょっとしたいたずら。もう、逢えないから。」
「どうして? わがままなら聞くよ。一緒に居たいって言うなら。」
 美登里は首を大きく振った。もう、藤井では心の隙間を埋められない気がする。そんなこと、ずいぶん前から知っていた。よそよそしく呼び合い、でもそれが洗練された付き合いだと思っていただけ。本当は、そんな関係など欲してなかった。喧嘩したり、お互いの好きなものを干渉したりしたかった。
「ごめんなさい。もう逢えないわ。」
 藤井は黙って立ち去った。足音が遠のく。もし、嘘だといったら彼は止まるだろうか? 冗談だと笑えば、彼も笑うだろうか? 今なら、藤井は戻ってくるかもしれない。でも、今会いたいのは、藤井ではなかった。
 三ヶ月が過ぎていた。街はすっかり初夏で、薄手になった女性たちが色とりどりの格好をして歩いている。
「美登里、さん?」
 入り口を見ると藤井が立っていた。
「藤井さん。」
「少し、話できますか?」
 美登里が頷くと、彼は入り口近くの椅子に座った。
「あれから、ずっと考えてたんです。美登里さんと、僕と、何がいけなかったのかって。付き合いというものをしてきたはずなのに、休日を過ごすこともなかった。もちろんそれでも恋人という人たちはたくさん居る。でも、そうする重荷や、そうしなくてはいけない義務のようなものがない代わりに、僕は、あなたにわがままを言わせていなかったと気づいた。あれからしばらくして僕は、君が道案内をした人に会ったんだ偶然ね。彼は親切に僕の話を聴いてくれた。そして、僕に言った。彼女が言ったわがままを、なぜ受け止められなかったのかって。そのとき僕の頭に浮かんだのは正直君じゃない。二股だというならそうかもしれないが、そのとき僕は少し気になる子が居たんだ。同じ会社の、同じ部署の子で、少しどじでね、見ててはらはらするんだ。彼女のわがままなら、抵抗なく受け入れられるって、思った瞬間、僕は気づいた。僕たちのは、付き合っていたというのだろうか? なあなあにそばにいただけ、そう思えてきて。君が決別してくれなければ、あのままずっと、あのままだったに違いないよ。結婚しろといわれるまであのままで、ようやくどうしようかと考える。でもそのころにはお互いいい年になって、そしてまた仕方なく結婚する。そんなものは幸せじゃない。初めてだけど、最後になってしまった。僕は受けるよ、君のわがまま。」
「藤井さん。」
「そうだ、彼が、雅さんがね、弁当うまかったってやたらとほめてたよ。あんな料理のうまい人が恋人だなってうらやましいって。でも、もうそれも違うからね。僕も、君の手料理をうんとほめて居たかったよ。じゃぁ、元気でね、」
 藤井は立ち去った。美登里の目から涙があふれてくる。好きだったのは嘘じゃない。一緒に居て欲しいと何度も言いかけ、飲み込んだのだし、逢えなくなってずっとずっと寂しかったのだから、涙の理由にはなる。でも、そのかすんだ目の向こうに見えるのは、雅さんのおいしそうに食べてくれる笑顔なのだ。

 日曜日。
 好天に恵まれた中で、雅さんは山中にあるレース場のパドックに入っていた。バイクの騒音が耳につく。何台ものが走る。でも、雅さんは走ろうとしなかった。
「雅、さん。」
 近くに居た仲間がおどおどと雅さんに声をかけている。その人に首をかしげながら振り返った雅さんに、美登里が会釈をする。
「ど、どうしたの?」
「仲間、何人居るか解らなかったから、少し多くなったかな?」
 そういって美登里は自分の愛車に積んだ弁当を指差した。
「何してるの?」
「あなたの好きなものを見に来たの。」
「彼は?」
「居なかったの。ずっと。ずっとよ。これからは、」
 美登里はトランクを空け、雅さんの仲間に弁当を渡し、それが行き渡るのを見て、雅さんを見上げる。
「わがままをたくさん言っても聞いてくれる人を好きになろうと思ったの。私の料理を、うまいってほめてくれて、私を、しっかり聞いてくれる人を。だめ?」
 雅さんは徐々に背中が伸びていく。そして真っ赤な顔をした。
「でも、君には、もっと、」
「その時が来たら考えるわ。」
 美登里は笑って、助手席に積んでいた特性の弁当箱を持って、雅さんに差し出す。
 仲間のうまいの声と、冷やかしが入り混じる。

 観客席の斜面に座り、雅さんは背中を丸めて弁当を見入った。ずいぶんと豪華で、たくさんあるそれに、ただでさえ驚くべきことばかりの今日に、もう、何もいえなくなっていた。
「食べて。」
「あ、いただき……、」
「どうしたの?」
「いや、俺の手、洗っても汚くて。」
「いいじゃない。油の染みよ。それに、洗ってたの見たわ。私好きよ。あなたの手。」
「いや、そういうのは、」
 美登里は照れる雅さんに笑いが止まらない。耳まで真っ赤で、冷やかされ、大声で怒鳴って見せるが、普段の威厳とかまるでないし、さらに彼を親しみやすくしてくれる。本当にいい人。

 美登里が車に荷物を積んでいると、雅さんの仲間が近づいてきた。
「あの、美登里さん?」
「何か?」
 さすがにライダースーツの数人というのは妙な威圧を感じる。
「雅さんと本気で付き合うんですか?」
「なぜですか?」
「雅さん、女に疎いし、しゃれたことできないし、不器用で、」
「バイクオタクで、」
「正直、かっこよくないし。」
「でも、」
 美登里は笑いながらそれらに続ける。
「でも、いい人だわ。それに、きっと、これからずっと、彼の口から私を好きだとは言ってもらえないと思う。でも顔を見ていればわかるの。バイクを好きだって言う顔覚えておくし。」
「じゃぁ、雅さんをお願いします。絶対に泣かせないから。あの人なら。」
「でも、無頓着で泣くかも。」
 仲間がうなる中、美登里は笑う。
 パドックそばでまだ冷やかされている雅さんの姿が見える。真っ赤な顔。真っ赤な耳。大きな体。
「大丈夫。無頓着でいいの。今だけかもしれないけど。」
 仲間は頭を下げてそれぞれ帰っていった。
「あ、の。」
 雅さんが近づいてきた。
「今日はありがとうございます。それに、やつらの分の弁当まで。もう、いいですから。」
「迷惑ですか?」
「いや、うれしいですよ。でも、そのために、何時に起きましたか? そういう大変なことは、何らかの見返りが期待できるときにしたほうがいいですよ。」
「見返り?」
「仕事とか。」
「じゃぁ、返してください。」
「あ、今持ち合わせが。」
 美登里は雅さんに近づき、手を握り、肩を抑えて顔を引き寄せて唇をあわせた。
「いや、ちょ、と。」
「私が飽きるまで、彼氏になってください。じゃないと、藤井さんと別れた意味ないし、雅君の所為ですからね。」
「雅君、て、その、」
「美登里。美登里ですから。」
「美登里さん?」
「美登里。もう一度キスしますよ。」
「すみません。」
 雅さんの大きな体躯が小さくうずくまる。
「付き合ってください。」
「俺ですよ?」
「そうですよ。」
「バイクしか頭にないし、」
「無頓着で、おしゃれじゃない。いいじゃない。雅君らしいわ。」
「美登里さん。」
「美登里。」
 雅さんは頭を少しだけ下げる。
「今度は一緒の車できましょ。ここまで遠かったぁ。」
「ここに来ても楽しいですか?」
「雅君が楽しい姿を見るのがいいの。だめ?」
「いや、いいですけど、俺だけ楽しんでるから。」
「じゃぁ、たまには映画とかいく?」
「すぐに寝ると、思うんですよね。」
 美登里は噴出し、雅さんも頭を掻く。
 飽きるかしら? 美登里の脳裏にはこのままで居そうな予感がよぎる。どの恋愛においても、付き合い始めた時点で別れるだろうを予感などあるわけないが、別れの言葉を彼は絶対に言わないだろう。いや、美登里のことを考え、いつも優先して身を引くだろう。そんなことを言わせたいなど思わない。料理のために別れてまで留学しろというだろうが、別れる気はないと言い切るだろう。彼は待っていてくれる。確かに、浮気を心配することがないといえば、彼の容姿に悪いのだが。
「無茶に走らないでくださいね?」
「気をつけます。」
 美登里と雅さんの軽トラはことことと山を下っていった。
 そして、一ヶ月に一度、美登里はこのレース場に来るようになった。もちろん大量の弁当持参で。そして、月に一度、雅さんがレース場に顔を見せなくなった。そういう日は、町で美登里と買い物をしたりしている。

 小雨の降るある日、前から藤井が新しい彼女と歩いてきた。お互い目があったが、笑顔ですれ違った。
 別れてよかった恋って言うのもあるんだ。美登里は雅さんの腕にしっかりとくっついた。

 それから半年後、美登里は料理の勉強のためイタリアに留学しに行った。
 二年して戻ってきたが、雅さんは相変わらずだった。
 知り合って六年目、美登里は小さな店を持った。一階は二台ほど車が置ける二階建ての店。「エーデルワイス」。雅さんが美登里のイメージだといった花の名前。

 未来日記。そういうものがあるとしたならば、私は何を描くだろう。
 今はただ、彼のそばに居ることでいっぱいだ。

fin


 


Copyright (C) Cafe CHERIE All Rights Reserved.



--------------------------↓広告↓ --------------------------
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送