好きが止まらない
     〜キスさえ出来ないほど好き〜

松浦 由香

 
 小説家になる。と言ってすでに人生の半分がたった。最近ではかわいい子を書きたいと思っていながらも、擦れた高校生を見ると、ああ、あたしたちの頃と違ってウブだとか、かわいいと言う感じを受けず、それが反映してか、高校生活バラ色状態のような、昔で言うかわいい少女漫画的なものが書けなくなった。かといって、実生活に近い年頃の人もかけない。実質ごく普通にOLをしてて、生活をしている姿に満足していないわけじゃないが、それを公表して面白いわけないし、かといって、自分以上の、見知らぬ主婦なんかの話もかけない。
「とどのつまり、ねたに詰まったわけだ」
 仕事じゃない。インターネットに公表し、自己満足を得るだけの小説家。多く居る小説書いてて楽しいけど、売れるか、賛否されるかに掛けられる様な代物ではない物を沢山書いている中の一人。だから、ネタに詰まって書けなくなったとしてもべつだん困らないのだ。でも正直なところ、仕事のこととか、私生活―実家の親がこの年にもなって干渉して来る―ウザったさから抜け出すには、小説がいい逃げ場なのだ。
 画面を眺めていても、文章能力ソフトの罫線だけしかない。
 こういうときは気晴らしに買い物とか、オープンカフェ。にでも行きたくなるが、そういう場所に行くまでの準備が今は非常に面倒くさい。
 ため息をつき、まとめていた髪を解き後ろに倒れる。開け放した窓の外では、プール帰りの小学生が大騒ぎをして通り過ぎる。暑いのにご苦労さん。とひと言言ってやりたいほど、ガキは元気だ。
 横臥し、絨毯の目を指で遊ぶ。
「あぁ、暇。ネタ無い。眠気すらない。非常に、つまらん」
 せっかくの日曜だと言うのに、誘ってくれる相手もなく、暑苦しさに目覚めたのが朝の五時。それからすでに四時間画面とにらめっこしているが、一向に書ける物等出てこない。学生の頃は嫌と言うほどネタがあふれ、それを書いていくうちに新しいものが湧き出てきていたのに。まぁ、所詮これが本業者との違いなのだろうけども。
 
「ただ、いまぁ」
 玄関先に倒れこむ。
 水曜日の夜。週の半分を過ぎた。と思うが、まだ後二日も行かなきゃいけない。ため息をついて体を起こす。体が重い。
 倦怠感は依然続いていた。このところ残業続きで帰ってくるのが十時だったりする。この分じゃぁあたしたち倒れるわね。と小早川さんさんが言ってた。
 小早川さんさんとは、同僚で、恰幅のいいお局だが、結構気前が良くさばさばしている。結婚願望が無いのは同居のネコちゃんたちのほうが良い様だ。それで、小早川さんが倒れる前に、他が倒れそうだと大笑いをしたのが先週の金曜だったはず。
 ベットに這い上がりそのまま気を失った気がする。毎日設定の携帯のバイブで飛び起きるように目覚めた。
 あまりの驚きに瞬間で寝汗をかき、咽喉が急激に渇いた。
 台所で水を飲み、重い体を引き摺って買い置きの食パンを見たが食べる気もせず服を着替えて出かける。ヒールが重い……。
 車の運転も非常にしんどい。寝過ぎってこれほど疲れただろうか? と思いながら多少記憶していなくても会社には無事に着けるものだ。エンジンを止め、鍵を取り出す。深く深くため息をついて、鞄を抱えて車から出ると、日差しは最高に照りつけている。
「はぁ、目眩を起こすぞ」
 会社の入り口に向かってまっすぐ進む。戸を一歩潜っただけでそこは別の世界だ。冷房の冷気は所狭しと存在していて、戸を開けた途端外気に触れモワっとするものの、すぐに閉めれば心地良い涼しさに見舞われる。
「でも、しんどぅ」
 更衣室に向かい、ロッカーに鞄を押し込み、制服の上着を身に着ける。ため息と一緒に扉を閉め、気合で更衣室を出て事務所に入れば、すでに数人が来ていた。
 あいさつもそこそこにして席に向かう。
 職種は事務。机に座り、電話応対と、書類にまみれる日々。中小企業なので男の人と知り合うのも限られている。会社訪問してくる取引相手も少ないし、会社がら中年が多い。
「杉下さん」
「はい?」
「今日、瀬十―瀬室十郎グループの略。県内はもとより近隣の県に店を展開しているスーパーの王手。うちの店とは什器(食品を置いている展示用のケースや、棚のこと)の関係で取引がある―が来るから、お茶菓子買ってきてくれる?」
「何時ごろです?」
「向こうさんは三時ごろだと言ってたから」
「解かりました、じゃぁ、お昼休みに行ってきます」
 社長はそう言って部長とその相談を始めた。
 こういう具合の悪い日に買い物に行かすな。とも言えず逆らわずにその時まで何とかやり過ごすことだけを考える。でも、こういう具合の悪いときは一分が長い。いや、三十秒だって長い。
 お茶でも飲もうと立ち上がる。
 普段見慣れているはずの世界が急に変わると、気分が悪い。
 顔を顰め座りなおす。
 おや? 視界が揺れてるし、皆の声がやたらと遠い。それよりも、横になりたい。
 再び立ち上がり、更衣室付近まで来たと思ったが、それ以上は、まったく記憶が無い―。
 
 杉坂 紫瑛里が更衣室前だと思っていた場所は、本当は什器庫へ通じる扉で、瀬十の関係者が時間よりも早くやって来て、什器庫やらを見学して事務所に入ってきたところだった。
 入ってくるなりいきなり紫瑛里の失神に出くわした彼らは目を点にするしかなかった。五十過ぎの重役が五人ほどの中でやたら若い青年が倒れる紫瑛里を抱きとめた。
「熱があるようですね、……、病院、この近くにありますか?」
 彼は紫瑛里を抱き上げ、小早川さんの案内で近くの病院まで紫瑛里を運んだ。
 
―起きなきゃ― 
 
 そう思って目覚めた場所は白い天井の部屋だった。会社の更衣室でさえこれほどの白い天井は見たことが無い。
 体を起こすと、見たことのない部屋で、畳の間に、布団が敷かれていた。家具の類もなく、何も無い。
「どこ?」
 扉へと這って移動し開ければ、そこは
「びょ、病院?」
 ナースステーションだった。
「あ、気がついた?」
 そう言ったのは若い看護士(女性)だった。
「風邪だけど、疲労とかもあったんでしょうね、注射したから熱はだいぶ下がると思う。お連れさんがそろそろね、七時には迎えに来れそうだって言ってたから」
「連れ? ですか?」
「会社の方のようですよ。女性と、スーツの男性。女性のほうが後から迎えに来るって言ってましたけど」
 そう言って看護士は連絡先と書いたメモを渡してくれた。小早川さんの几帳面な字で小早川さんの名前と、携帯の番号が書いてあった。
 それから数分としない間に小早川さんがやって来た。
「まだ、熱があるって? 注射効かないんじゃない?」
 けらけら笑いながらも、ロッカーを物色し荷物を持ってきてくれたし、車は元気になるまで会社に停めて置けばいいと社長が言っていたとか、出社できそうになったら迎えに行くとかと言うことを喋って、家まで送り届けてくれた。
「あ、そうだ。もう一人誰と行ってくれたんです?」
「覚えてないの?」
 小早川さんの車の中は猫グッズがたくさんあった。猫のティッシュボックスとか、キーホルダーにシートカバー。いい年をしてと思いながらも、小早川さんなら妙に許せてしまう。
「室生さん。瀬十の役員さんよ」
「え? だってまだ十時ごろでしたよね?」
「早めに来たのよ。そりゃあんたは倒れこむは、瀬十は来るはで大騒ぎだったけど、室生さんがあんたを抱き止めて担いで、すぐに病院へって的確に指示したおかげですぐに治療できたわけよ」
「そう、だったんですか。すみません」
「まぁね、この所の暑さと忙しさで誰か倒れると思ってた矢先だし、営業よりも先に女の子が倒れただけましよ。男のほうが先に倒れてごらんよ、無事に立ってるあたしたちはなんだ? とか言い出すから」
 首をすくめ、確かに。と返事をした。
 確かに、男性の方が倒れたのに、女の自分が丈夫だ何て、何食ってんだとか、更に残業増やすぞ。とか言いかねない。
「一応、盆までの辛抱だから、あたしはがんばるけどさ、無理しないようにね。一人暮らしだったっけ? そこに、病院の薬と、夕飯、レトルトのお粥だけど、それと、熱冷却シートと、体温計入れてるから」
「体温計?」
「持ってる?」
「ません」
「でしょ、あたしってば気が効くぅ。それから、これ、室生さんの携帯電話の番号。お礼さすからって無理やり聞き出しといたから、礼ぐらいは電話しときなさいよ。大事なお得意様なんだから」
 頷いて、小早川さんが用意してくれた袋と、携帯の書かれたメモを持って降りる。
「大丈夫? 何なら今日ぐらいご飯作ってあげようか?」
「大丈夫です。早く帰らないと、ジュン―ネコの名前―が寂しがってますよ」
「そう? じゃぁ、お大事にね」
 小早川さんはそう言って夜の町へと車を取って返した。
 階段を上がる足が重い。そうか、熱の所為でヒールすら重かったんだ。疲れているから眠りこけてて、ネタも浮かばなかったんだ。
 家に入ると、パソコンの電力は省電力モードになっていた。消し忘れって奴らしい。パソコンを消し、小早川さんが用意してくれたレトルトお粥を温めている間、薬のチェックと―こういうことをするのは几帳面なんだよな。と自分で思う―携帯のメモを見る。
 ため息をつき、携帯から「室生」の携帯にかける。
 耳に押し当てると、吐く息が熱を帯びているのが解かる。こんなに苦しいのに電話しなきゃいけないのか? とも思うが、こういう面倒はさっさと済ましたい。
「もしもし?」
 少々迷惑そうな声だ。そりゃそうだろう、八時ぐらいにしつこく鳴らして居るのが見知らぬ番号ならなおさらだ。
「あの、室生さんの携帯ですか?」
「誰?」
「あ、今日倒れた、あの、城山商会の事務室で助けて頂いた者です」
「…あ、あぁ。大丈夫?」
「ええ、あ、ただお礼の電話ですので、お忙しい中、すみません。今日は本当にありがとうございました」
「どういたしまして、それより、大丈夫?」
「まぁ」
「そ、良かった」
「いろいろとご心配お掛けしました」
「いいよ。じゃ」
「失礼します」
 電話を切ると、携帯を鞄に押し込み、ちょうど出来上がったレトルトお粥を食べる。
 薬のおかげか、それとも家と言う安堵からかすっかり眠りこけてしまった。見れば時計はすでに朝の九時を指そうとしている。でもまだのどの痛みとか、倦怠感がある。
 鞄から携帯を取り出せば、小早川さんからの留守電で、今日も休め。と言う連絡が入っていた。
 小早川さんを奉る気は無いが、携帯を掌で包み、拝んでみた。
 ベットに横になれば微かな湿り気に、熱が下がっているのだと実感する。確かに小早川さんが買ってくれた体温計でも熱は下がっていたし、汗をかいたお陰でわりとすっきりはしていた。これなら明日には行けそうだ。と言っても今日は金曜だけど。
 さぁ、休みだー。と思う日に限って風邪を引き、体もだるくてベットから天井を見ると虚しさがこみ上げて来る。あぁ、なんて不幸な人。と思いながらふと目に入ったパソコンから目をそむけるように背中を向ける。
 書けないのを無理して書いたってしょうがない。私なんかの書いたものを楽しみにしてくれている人など無いのだ。
 書けないときは最近良くそう思う。自棄。と言う奴だな。
 頭は起き上がって何かをしたいと思っている所為か、体のだるさを無視するようにすっきりしている。そういう時寝たのか、寝ていないのか、はっきりしない睡眠で更にだるさを増す。
 挙句が、
「くそぅ」
 起き上がって時計を見れば夜の七時。
 熱は無し、気分も良くて、汗をかいてすっかり「爽快」にすらなっている。
「お腹空いたぁ」
 食欲が出ることはいい事だ。しかも、咽喉も渇くし、しょうがない。
 コンビニに出かけ雑誌の立ち読みをする。別に変わったことを書いている雑誌など無い。地方情報誌の見出しに、瀬十の若きリーダーと言う見出しがあったが、病み上がりで仕事に関わる情報は入れたくない。
「あら、会社サボってコンビニ?」
 振り返れば小早川さんが立っていた。
「あ、いや、その」
「元気になったのね」
「まぁ」
 小早川さんはくすくす笑い、アニマル雑誌を手にした。
「あなた、室生さんに即電話したでしょ?」
「ええ、小早川さんさんが言ったから。あの、何か言って来たんですか? 会議中だったとか、その、彼女と居たとか」
「別に、今日も仕事の話をしに来てて、そのついでにあたしに言って来たのよ。具合悪いのに電話かけてきた律義者だって」
「別に、面倒なことを延ばすのいやだから」
「そういう性格よね、あなたって。だから、お礼は早いほうがいいと思ったんでしょう。あの子そういうことに気がつくのでって言っといたわよ」
 小早川さんを怪しく斜に見てしまった。悪い人ではないが、決して人を褒める人ではない。よほどのことをしても、必ずかわいく悪態をつく。まぁそれが嫌味とか、毒ではないのでかわいらしい悪態で済む程度なのだが、そういう人が、自分をそういう風に見ていて、尚且つ他人にそう言ってくれるなど、何かが無いとと勘ぐってしまう。
「あんたのためじゃないわよ。いい男なのよ。室生さんて、背がすらっと高くて、細面で、そうね、誰に似てるって、福山、」
「福山?」
「昌宏に似てるわね」
「誰です、それ」
「高校のときの同級生。あたしの初恋の相手」
「知らないから、そんな人」
「まぁ、とにかくいい男なのよ。あの眼鏡もステキだしね」
「眼鏡?」
「何よ、嫌そうな顔」
「あたし、眼鏡苦手なんです」
「そうなの? いい男だったけどなぁ」
「じゃぁ、アタックするんですか?」
「彼、ネコアレルギーなんだって、」
「はぁ」
「あぁ、ジュンと彼と、どちらもあたしには大事なのよ〜」
 私は他人の振りをした。まぁ、そういうコントじみた事の好きな人だから、大いに突っ込んで大笑いをし、気前良く晩ご飯の弁当をおごってくれた。
 いい人なのよ。本当に。さばさばしてるし、かわいいし。でも、四十も超え一人身はこれから後も一人身だろうと思われる。そんなこと気にしないほど元気なんだけどね、あの人は。
 
 月曜日にはちゃんと出社した。金曜の分の雑用が少しあったが、小早川さんが大方片付けてくれていたので、楽だった。
「お昼どうする?」
「いつものとこ行きますけど、どっか行くんですか? おごり?」
「何度もおごるか。ちょいと遠いけど、大通りに出来たオープンカフェに行ってみない?」
「あ、いいですね」
 事務職は小さいながらも四人でまわしている。小早川と、社長婦人と―彼女は常に会社に店屋物を取り寄せる―、後輩に当たるけれど、古田さん。そして私の四人だ。
 古田さんは【まだ】26才なのにすでに二人の子持ちのパートさんで、家計の為弁当持ちである。したがって、外に外食出来るのは行き遅れの私と小早川さんだけなのだ。
 会社の外に出て、暑苦しい陽射しの中、大通りへと歩いて五分ほどいくと、回転したばかりで流行っているオープンカフェに着いた。
 緑の傘の下に入り、汗を拭っていると店員がやって来た。
 店の色であるモスグリーンの前掛けをした男性だった。
「室生さん、」
「やぁ、いらっしゃい」
「室、あ、先日はお電話で失礼しました」
「あ? ああ、もう良くなったんだね」
「はい」
 確かに彼は眼鏡をかけていた。涼しそうな顔に眼鏡。まるで「サザエさん」に出てくるマスオさんの様に、いつまで経っても好青年と言った風貌だった。
「あの、室生さんはここで何を?」
 小早川の声のトーンが高い。
「ここも、うちがやってるんですよ。開店したのでね、忙しいだろうから、ギャルソンの手伝い」
「ギャルソン、ですか?」
 私と小早川さんは同時に喋って、あまりのトーンや、口調の同調に小さく噴出してしまった。
「男性店員をフランス語でギャルソンと言うんだよ。それで何にしましょう?」
 室生さんの態度はごく自然でスマートだった。呼び止められても嫌な顔をせず注文を取るし、いわゆる年寄りの相手などは、そばにしゃがみこみ、メニューの一つ一つ丁寧に説明している。そして絶やすことの無い笑み。
「いい男だわ」
 小早川さんの言葉には納得するが、目の色を変えて惚れ込む様な事は無い。頬杖をつき、彼の一挙手一投足を目で追おう小早川さんはまるで少女のようなウブさだった。がふと我に返ったようにため息をついた。
「ネコアレルギーでしたね」
 彼女の言いたいことを先に言うと、肩を落とすため息をついた。
「いいと思わない? あんな良い男が家に居るのよ」
「家に居るんですか、付き合うとかを通り越して」
 私の嫌味なんか聞こえないようだった。まぁ、四十の小早川の久し振りの春だ。あまりとげを刺さないでおこう。
 食事はまずまずだった。昼を簡単に済ましたり、お茶の時間に立ち寄るにはちょうど良い具合の量と味で、値段も手ごろだった。
 室生さんの姿は食事を始めた位から見えなくなったので、会社にでも帰ったのだろうと小早川さんは肩を落とした。
「トイレ行ってきます、」
 小早川さんは顔を顰めてメールを見ていたが、
「先に帰っとくわ。呼び出し、」
「解かりました」
 トイレ前で別れ、私はトイレで化粧を直して店を出る。
 店の横を裏通りへと抜ける。不意にタバコの匂いが鼻をかすめる。眼鏡と同じくらいタバコが嫌いな私には、極端すぎると嫌味を言われるほどタバコの匂いがわかる。どの種類の何と言う銘柄かまでは判らないが、とにかく残り香すらいやなのだ。
 顔を顰めて歩いていくと、室生さんが車にもたれ空を見ながらタバコを喫っていた。
「あ、美味しかったですよ、」
 室生さんは声に驚き、私のほうを見た。一瞬鋭く相手を探るような痛い視線を見た。相手が私だと解かると、やおら微笑を浮かべ「いつもの」室生さんに戻った。
「やぁ。同僚は?」
「先に、あ、美味しかったです。では、」
「ああ」
 タバコを地面に捨て足でねじ消した。
 だめだ―。
 私はあれがもっとも嫌いなのだ。ずんずんと室生さんに近づくと、すっとしゃがみ、先ほどねじけされたタバコを嫌そうにつまみ上げると、駐車場の隅に置かれているゴミ箱に捨てた。
「環境保護団体? それとも、健康オタク?」
「ただの嫌味です。臭いのがキライなだけです」
 私は素直に、そう、素直すぎるくらい言い切ってはっと口をつぐんだ。
 いくら自分の倫理的思考に合わない行動とは言え、相手は他人だ。しかもその上、会社にとっては大事なお得意様であり、その条約に思考して気をするなど持っての他だ。
「あ、いや。その、あまり良い事ではないので。すみません」
 慌てて謝ったところで、喫煙者がひどく私を煙たがるのは―そのおかげで前の彼とも、その前の彼も、しかも会社の連中も―その毛嫌いの所為なのだ。喫煙者にとって、無喫煙者の行動はどうしても鼻につくし、あからさまに侮辱でも受けているかのように不機嫌になる。それはどんな人の場合でも一緒だった。
 室生さんの顔も不機嫌で、あの紳士的な笑みなどまったく無くなっていた。
「キライなんだね」
「え? まぁ」
「でも、それは君の思考であって、」
「解かってます! 言いすぎでした。ただ、私の知り合いがそういう―例えばタバコを道端に捨てて平気な顔で通り過ぎれるとか、回りに配慮しないとか―見るのが嫌なんです。たとえ、どんな人でも、いい人に見られたいじゃないですか。私の知っている人が、見知らぬ人に褒められているのって、すごく気分いいんです。私は、ですよ。他の人は知りません。だから、でしゃばったと解かってます。すみませんでした」
 私は頭を下げた。静かに顔を上げ、会社のほうへと帰ろうとして顔を向けたとき、
「いい思考だ」
 室生さんはそう言って微笑んだ。
「え?」
 室生さんは片手を挙げて店に戻っていく。
 どれがいい思考? 考えてみるが、禁煙がいいことなのか? でしゃばって反省したことがいいことなのかさっぱり解からなかった。
 会社に帰ると、社長が電話相手に頭を下げていた。そして電話を切ると私をデスクに呼びつけ、お茶で咽喉の渇きを潤した後、気合を入れて言葉を発した。
「今度ホテルにオープンする瀬十のブランド商品のショーケース。特注発注の依頼が来た。室生さんさんから、君に感謝するようにって、何をしたんだい?」
「別に、何も……」
 怒らせることはしたのだけど。
「それで、レセプションが来週の金曜の夜にあるんだが、君に参加して欲しいそうだが、」
「私、ですか?」
「たっての希望だと、言うことなんだけど」
 顔を顰め、小早川さんを見たのは言うまでも無い。小早川さんは面白くも無い顔をしたが、
「接待だし、そりゃ、あたしよりは若いものね」
 と口を尖らせて文句は言っていた。でも、この人の場合、腹の底から相手を憎むことも無いので、気にはしないが、そう、気になるのは、
「何で、あたしよ?」
 自問しても何故なのか解からない。相手の思考が手に取るように解かれば苦労はしないが気味も悪い。
「いや、そういうことじゃなく」
 とにかく、接待でそのレセプションとやらに参加しなきゃいけないのは、辞令に匹敵するのだ。
「破れば、首か」
 乾いた笑いしか出ない。
 鬱積したままの私を除け者にするように、会社内ではショーケースの間に合わせに大童で、あの小早川さんでさえ、「何故私が招待されたのか」について言及しなかった。
 そして、金曜日になった。
 よくよく思えばかなり劇的な展開じゃないか。何の変哲も無い、ただ小説を書くことだけが趣味の冴えないOLが、ある運命的な出会い―風邪引いてぶっ倒れることを劇的な運命の出会いと言うのか定かではないけれど―それによって一人の男性と知り合う。
 彼はスマートで、見るからに人受けしそうな営業マンだ。その彼の手引きで見知らぬ世界に飛び込む。まるで出来上がったかの様な話しじゃないか。ありふれたレディースコミックか、アクションと、秘密と、セックスに彩られたハーレークインのような……。
 ちょっと待て。もしかしてそのレセプションとやらははなっから無くて、騙されてどうなるか……。
 だが、会場となるホテルに行けば、「瀬十グループ cadeau(カドー) 開店披露会場」なる看板があり、人が大勢来ている。しかもみな豪華なドレスが多い。
「ははは、場違い」
 少し派手すぎだ。と思った桃色のスーツ―でも襟が少し凝っていて胸元が開いている。スカートも淡い色の空ける素材の重ねられたフレアミニだ―がかなり場違いに大人しく見えるし、確かにこういう時にはイブニングドレスが通常だろう。いくら取引先とは言え、ミニスカートは失敗だった。と思ったが、今から帰って着替えてこれるような服は無い。
 しょうがない、隅に居るか。
 それが無難だ。会場入りを果たし、会場の奥の、明かりの当たらない場所にこそこそと逃げる。
 華やかな壇上側には有名女優が居てかなりまぶしく明るい。見知った顔は各界の著名人たちで、名前を言える人だけで両手両足が足りないほどだ。
 式典が開催され、室生さんが司会の側に立ち、声がマイクを伝わる。スピーカーに近い所為で真後ろから声が聞こえる。
 ぞくっと走る妙な感触に顔を顰めている中、式典は順調に進んでいく。その間室生さんは一度もその場所を離れなかった。
 時計を見ればそろそろ終了の時間の頃だろう。二次会の話題も出始めている。
「失礼ですが、」
 ボーイの一人が近づいて来た。
「杉坂様でしょうか?」
「はい……?」
「これを、」
 ボーイは周りに気付かれない様にこっそりと水割りを渡しながら紙コースターを差し出した。
「どうも、」
「失礼いたします」
 ボーイは規律正しく向こうへ行った。
 紙コースターには、「10階のバーで待っていて欲しい」と言うメモが気があった。
 さっきのボーイを探さなきゃ、誰からの物なのかさっぱり解からない。室生であるなら解かるが―いや、彼が何故そんなことをするのか解からないが、この中では顔見知りだ。その意味では名前を書かなかった理由にはなる―見知らぬ相手が待っているところには行きたくない。だが、取引相手だったら。
 行くべきか、行かざるべきか。それが問題だ。
 いつからハムレットになった? 第一、ハムレットは陰険且つ陰湿なる復讐者じゃないか。恋人をいくら復讐のためとは言え、尼になれと捨て台詞を言う男は、いくら彼女のために言った言葉としても―悪い男だから忘れやすいだろうとか言う男の身勝手な解釈―私はこういう言葉を口にする男は嫌いだ。
 とは言え、誰が待っているかを見るだけ見たら帰ろう。と思ったが、誰も居なかった。
 どうする? 待つ? 待って見知らぬスケベ爺だったら、三十路一人身の女の末路は愛人と相場が決まっている。とか言う線路に乗っかってしまう。
「入らないのか?」
 慌てて愛想笑いで振り返ると、室生さんが立っていた。
「あ、どうぞ」
「遅くなった」
「え? じゃぁ、あのコースター」
「以外誰からだと思った?」
「名前無かったから、」
 室生さんは首をすくめ、バーの中に入って手招きをした。
「さほど酔ってないようだから、苦手?」
「あまり好きじゃないんです」
「マジメだねぇ」
 室生さんは明らかに酔っている様だった。少々色っぽい目で隣に座った私を見て、バーテンダーにカクテル二つを注文した。
「あぁ、そうだ。什器間に合わせてくれて助かったよ」
「みんなが必死にやった結果です」
「そのとおりだ」
「……それで、何故私を招待したんです?」
「色気」
「は?」
「誰だっけ、そうそう小林さん?」
「小早川さん」
「その人よりは見た目がいい。いや、彼女もかわいい顔をしていると思うけど、こういう場所じゃぁ映えない。男を招待する男と言うのは恰好が悪いからね」
「でも仕事ですし、接待ですから、言えば」
「そうなんだけど、君に干渉したかったんだ」
「はぁ?」
 眉をひそめる私の前にカクテルが置かれた。
「はい、乾杯」
 室生さんは自分のペースでグラスを打ち、唇を湿らせた。
「手っ取り早く言えば、周りには居ない志向を持った女性。と言うのが最初の印象」
「それが?」
「そういう変わった性質の子と接したかっただけ」
「……、なんだか、随分といつもとは違うんですね」
「違う?」
「酔ってらっしゃる所為だとは思うんですが、こう、何と言うか、」
「紳士的じゃない?」
「ご自分で紳士的だと思ってるんですか?」
「いいや、じゃぁ、何?」
「マスオさんじゃないなぁと」
「マスオさん?」
「サザエさんの、」
「知ってるよ。俺はそんな風に見えてる?」
「の様に装っている気がしたんですけど。マジメでスマートで優しくて、それこそ紳士的で、でも、……駐車場で私が声をかけたとき、一瞬、ああ、この人別の顔を、まぁ人間誰しも多面性と言うものがあるし、持っていれば役立つことだってありますから、別にそれをどうこう言うわけじゃではないんですよ。でも、なんでしょ、白鳥みたいな人だって、」
「優雅な下では精一杯もがいてる?」
「ま、みんな大なり小なりそうなんですけどね。なぁに言ってんでしょ、あたし」
 くいっとカクテルを空ける。よく言われるのだ。あまり酔っていないとか、しらふだとか。でも、本当はすっかり上機嫌に酔っているのだ。酔うと要らぬ事を口走る悪い癖だ。
 だが室生さんはそれに機嫌悪くするどころかかえって微笑んだ。何考えてるんだろう。
「あら、ヒロ」
 声に振り返れば女優の来生 姫子が立っていた。その隣には、今ワイドショーを賑わせている二十も年下の若手俳優であり、彼女の新しい恋人が居た。
「やぁ、元気そうで」
「そっちも景気良くやってるようじゃない。ずいぶんと可愛らしい人ね」
「あ、……どうも」
「タバコ、ある?」
 来生姫子は指を二本立て、タバコをくれと言う合図を送ったが、室生さんは首を振り、
「彼女の前では吸わない努力をしてるので、持ち合わせないです。彼にでも聞いたら?」
 室生さんは後ろで不機嫌そうに立っている久瀬 仁の方を指差した。
「まぁ、そう……。でも、あなた慣れして無いわね」
 来生姫子はくすくす笑って私を見る。
「ええ、まだ手懐けてないですからね。手懐けた後で躾けなきゃ」
「そう、あなたもせいぜいこんな子に慣れない事ね。じゃぁねヒロ」
「はい、姫子さん」
 二人の仲を疑っているのは久瀬 仁も同じようだった。昨日今日知り合った同士の会話じゃない。しかも、女性を手懐けるとか、躾けるなどと言うのは、よほど深い仲でなければ言い合えないだろう。
「あの二人が気になる?」
「え?」
「彼が姫子さんの名前を借りて出世しようとしているのは誰の目にも明らかだ。でも彼も彼で今は必死で姫子さんを愛している。で、いずれ姫子さんが飽きてしまうと、彼は姫子さんの名前を借りて出世する。持ちつ持たれつ土産付きな仲さ」
「詳しいんですね」
「彼女、結婚何度したか知ってる?」
「二度ぐらいじゃなかったですか?」
「そう、最初は俳優の須藤 小鉄。もう亡くなったけどね。確か薬中で。最期の半年は彼女も必死になって看病したけど、それは彼女の華やかな表には不釣合いだから、誰も何も言わないけどね。その次に結婚したのがオレの父親」
「……え?」
「オレの生みの母親」
「あの?」
「似てないかい? 楽しんでいるようにはしゃいでいるわりに目は笑わず、いつも冷静に周りを見ている。そして少しでも何かを見つけたらすぐにそれも躊躇無く攻撃する。いやな性格はそのまんまだけどね」
「……、そんなこと私に話されても」
「お、酔いが冷めたかい? と言うことは冗談だと思って聞いてはいないわけだね」
「嘘を言うには限度が過ぎますから」
「生みの母親ではあるけれど、彼女とは生後半年で生き別れている。オレは今の母親が母親だ。ああいう人でも母性はあるらしく、いや、ああいう人だからあるのかもしれない。ちょくちょくは会いに来てくれた。自由奔放すぎて、オレがいい年になった頃には、その息子を誘惑しようとさえした。まぁ、自分そっくりな冷静さを持っている息子の本心を見抜いてすぐに辞めたけど」
「それじゃ、今のあの姿は、」
 来生姫子と久瀬仁がボックス席でいちゃついている。まるで若いカップルだ。でも、来生姫子はすでに五十過ぎている。そんなオバサンのいちゃつく姿などあまりいいものではない。
「別に、確かに母親だけど、あれを取っ払うと、非常に寂しい女さ。常に孤独で、いつも一人で居る。膝を抱え爪を噛み……、彼女から明るい世界を取ったら何も無くなってしまうのさ。そういう人なのさ。彼女は」
 室生さんはそう言ってカクテルを飲み干すと、私を見て微笑んだ。
「これから時間ある?」
「はい?」
「四時間、いや、三時間」
 私が顔をしかめるのを室生さんは楽しそうに微笑む。
 だが、さっき躾けるだの言っていたあとで、時間があるか? 何て聞かれたら誰だって引くだろう。眉をひそめて見返すと、室生さんは立ち上がる。
「行くよ、」
「どこへ?」
「送っていくんだよ。どこ行くと思った?」
 室生さんは笑いながら耳元まで顔を下げてそう言った。さっと避ける私を見る姿は更に可笑しいらしく、笑いをこらえながら私の手を引き店を出る。
 エレベーターに乗り込むが、私は距離をとって端に乗った。
「何でタバコが嫌い?」
「え?」
「火傷の跡がある?」
「なんです、それ?」
「トラウマってあるじゃない、火傷したから嫌いになったと言う奴」
「別に、」
「じゃぁ、何で?」
「苦いから」
「タバコ?」
 私は極力顔を背けた。ドアが地下で開く寸前に、
「を吸った唇が、」
 と言って滑り出た。
「あ、私やっぱりタクシーで帰り、ます」
 私の言葉に室生さんは険しい顔を見せる。
「脅さないでくれます?」
「脅しに負けるほどヤワには見えないけど」
「じゃぁ、脅さないでください。そんな無駄なこと」
「じゃぁ、羽交い絞めでもすれば、いいかな?」
 室生さんに手首を捕まれ、すっと引き寄せられると背後から抱きしめられた。握られた手は後ろ手に捻られてじんわりと痛い。
「なに、するんですか」
「やってみたかっただけ、」
 ぱっと手を離し、背中に手を回して歩き出す。
 顔がひどく熱を持っている。捻られた左手首を擦りながら、室生さんに背中を押されて歩く。
 こんなの嫌だ。
 何が嫌なのか自分でも解からない。でも、嫌なのだ。背中に伝わる指先の熱も、同調して進むことも、室生さんと居ることに耐えられない。
「あ、あの」
 室生さんの手から逃れるように体を捻って向かい合う。
 地下駐車場に自分の声が恥ずかしいほど響く。
「あの、私、やっぱり、」
 ボーっとするのはお酒の所為だ。疲れてものも言いたくない。ため息を吐きつつ、とにかく、一人で帰ることを言わなきゃ、一緒に帰りたくないと。
「さ、乗って」
 室生さんが助手席のドアを開けた。
 乗りたくないし、一緒にだって居たくないのだけど、座りたいし、横になりたくて、そこに座ってしまった。
「帰るのは勝手だが、その様子じゃぁ、タクシーを待つのも辛いんじゃない?」
 室生さんは運転席に座ってそう言ってエンジンをかけた。
 そのとおりです。
 私は室生さんから顔を背けるように窓に額をつけるようにしていた。
「適当な場所を言って。俺に家の場所、知られたくないんでしょ?」
 私は隠すことなく頷いた。そして、本当にどうでも良さそうな場所。家の側を走る―家からだと三分程度で着く―大通りで下ろしてもらった。
「ありがとうございました」
「ますます気に入った。また、誘ったら逢えるかな?」
 私は無言のまま車から離れ、頭を下げて―これはいわゆる礼だ。決して了解の会釈ではない―小走りに家のほうへと向かった。
 室生さんは何も言わず車を出して大通りを走り去った。
 ん? 足が痛い。どっかで捻ったみたいだ。少しだけ右足をびっこを引きながら歩く。
 彼の意図が解からない。好まれているのか、ただからかわれているのか。腕を捻り上げたり、耳に近づいてくる動作など好意を持っている以外考えられないが、でも、ただ身体目的な奴ほどそういう手を使ってくるのも事実だ。
 どんな男と付き合ってきたのか、ふと、自分自身でも疑問になる。
 そうこれが偏見だ。人の噂や、ある特定の物の見方でしか人を判別できない、偏見。
 ため息をつき、部屋の二番目にいい場所に置いているパソコンを見た。
 ベットと向き合うようにして置かれたパソコン机。それように用意された周辺機器に、癒しグッズなんか山のようにある。
 ベットに腰掛け、深くため息を落とす。書けない時はいつも思う。向いていないんだとか、才能が無いのだし、ネタが無い今なら辞められると。でもそう思ってすでに人生の半分やり過ごしてきている。
 なんだかむしゃくしゃする時に、執拗にネタ作りをしている所為だろうか、室生さんの顔がちらつく。
 目を閉じればますます目に浮かんでくるし、その行動もはっきり思い出される。
 なんだか解からないが、無性に腹が立ち―酔っている所為だとは言え、何故こうも腹が立つのか自分でも解からない―パソコンを立ち上げている。
 
 いい男の条件。スマートで、優しくて、見た目も良くて、金持ちで、わけありで、危険な香りのする男。
 と言うのがこの世の中にどれほど存在するのだろうか?
 きれいな男はたくさん居るし、その誰もが危険な香りは持っている。奇麗には大勢のスキャンダルがあるものだ。
 それに、金が絡み、家柄が良く、スマートで、優しいなど、かなり世の中の男をなめているとしか言えない。
 でもそういう男に、出会ったら、その対処方法は一体どうすればいい?
 彼はスマート。優しいし、家柄もいい。そういえば、あの人の息子だとするならば、彼は―。
 
「瀬十の御曹司?」
 思わず口走って口を塞いだ。
 だが、瀬十の会長、社長は瀬戸と言う名前だった。室生ではない。離婚を機に彼の本籍は来生姫子の物であるならば、室生と言う本名であると考えなくもない。
 とにかく、彼は多分、次期社長だ。
 
 家柄、将来有望なる男が一人居る。何故だか世間には一般会社員を名乗っている。こういうのがいわいる危険な香りに相当する「何かある男の影」なのだが、それを持っている彼は、それを振り翳そうとはしない。
 もしや、会社内での不正を暴くための隠密行為なのか、はたまた、御曹司の、世間見習いなのか、そんなことはどうでもいいのだが、そういう「影」があるほどその人の株が上がるのは、女が本来そういう危険な物に惹かれる習性だからなのだろうか?
 でも、高校の同級生がこの前結婚したが、その危険や金にはまったく無縁と言っていいような男と結婚した。
 結婚相手の条件と、好きな条件は違うと言うが、それほどまでに温度差があるものなのだろうか?
 確かに、いつも違う女を連れていたような男を手懐けるのは大変だろう。
 
 嫌なことを思い出した。
 躾けるって、調教とか、そういうこと? ……、悪趣味。
 
 理想の男が悪癖を隠し持っていたら、それをどこまで許すのだろうか?
 
 とここまで書いて私は自分の文面を読み返し噴出した。どっかで見た事のある形式だ。アメリカのドラマ。あれも三十を過ぎた独身女のたわ言だった。
 でも彼女は最後には自分の幸せを勝ち得た。それが不幸からなるものであっても、それがいずれは良い事だったのだと言えるのを知っていて選んだもの。あれは六年ほど放送期間があった。つまり、私の、この文章の答えは六年後にならないと出ないわけだ。
 室生さんを毛嫌う理由は? 彼の真意のほどは? 私にいい人は現れるのか? いや、それが室生さんであればと思うときもある。それは嘘ではない。彼のような奇麗な人の隣に居るのはいいことだ。でもその対極にある、嫌悪が同時刻、同じ場所に存在する。それが厄介なのだ。
 
 好き。と言う感情を忘れてしまった―。
 
 のかもしれない。
 ベットに倒れこみ、背中を丸めてそのまま寝る。
 朝起きて、スーツにしわがついていようと、化粧を除けずに眠って、顔がぼろぼろになって泣き言を言おうと、
「やだ」
 起き上がると、服を着替え、シャワーを浴び、メイクをすっきり落とし、髪も十分に乾かし、
「いざ、寝る」
 再びベットに丸まって眠った。
 眠る前、ふと室生さんの声がした気がした。
 いかん、完全少女漫画モードだー。なんにでも感化されやすい性格って、苦労する。
 
 週が明けやる気の無いところに―先週の瀬十の納品完了を気に、一気に脱力感に見舞われている会社内―そこに瀬十の専務と言う肩書きを引っさげて室生さんがやって来た。しかも、先週見た穏やかな顔ではなくて、
「あれは二週間で納品していただけたはずです。できないはず無いでしょ?」
「はぁ、まぁあれはね。でもこんどのは特注ですし」
「この前のも特注でした」
 室生さんが持ってきた話と言うのは、瀬十グループが経営しているアミューズメントタワー内にギャラリーをオープンさせると言う企画で、そこに用意されるべき展示什器の発注に来たのだ。
 だが、うちの会社の取り扱っている什器は、ごくごく普通のスーパーマーケットなんかで見られる、あのクリーム色した鉄板だ。それを、
「ですからね、その技術を応用し、ガラスや、透ける素材でお願いしたんですよ」
「そういうのは、ガラス職人とか、いや、うちでも扱えないわけ無いけど、でもうちでガラスを扱うと高くつきますし、なんせ普段は鉄相手の職人ばかり、そりゃ時間もかかります。室生さんが言うような一週間では、たとえ出来たとしてもその形の保障は……」
「職人でしょ?」
 室生さんの刺す様な視線が社長を射抜く。
「なぁに、あれ?」
 給湯室から社長と室生さんのやり取りを見ていた小早川さんが小声で言う。私が首を傾げると、小早川さんが私の顔をじっと見入って、
「あんた、週末何をしたわけ?」
 眉をひそめて首を振る。
 家の場所を教えなかったから? 四時間ほど付き合えといったのを断ったから? それの仕返しに無茶なことを言いに来るものか?
「どうぞ、お茶です」
 私が机に置くと、室生さんがくっと顔を上げ、
「この暑い日に随分な暑さのお茶だね」
「あ」
「もういいよ、帰るから。では、一週間後の月曜日にお願いしますね。もしだめなら、これで手を切りますから」
 そう言って室生さんは会社を出て行った。
 後には湯気の立っている「粗茶」と、呆然としている社長だけだった。社長が突然あわあわと胸を抑えると、社長婦人が慌てて近づいて来た。
 何なのー?
 私は小早川さんと近くの行きつけの喫茶店に昼に入った。
 会社はとりあえずガラスで作る棚板製作に取り掛かることにしたが、うまく行く気がまったく無かった。
 ため息を同時にこぼすと、小早川さんは私を見た。
「金曜日、何があったの?」
「無いですよ。パーティーがあって、その後バーで軽く飲んで送ってもらった。それだけです」
「それだけで、あの豹変した姿でやって来て、無茶な事言っていく? なにやらかしたのよ。金曜までは機嫌よかったのよ?」
「だから、無いですってば」
 思い当たることがあっても、それが理由なの? と聞き返してしまう。自分が一番思い当たることが理由など馬鹿げていると思っている以上、小早川さんだってそう思うはずだ。
「でも、何かあって不機嫌極まりないからこそのあの無茶振りなのよね」
「ですね」
「取り入っておいで」
「は?」
「だから、結構気に入ってたでしょ、パーティーに招待されたし―社長だって、婦人だって呼ばれてないのに―後でバーで飲むなんて、気に入られている以外無いわよ―だから、取り入って、」
「何するんですか、」
「子供じゃないんだから、軽く、ね?」
「何が、ね? ですか。子供だろうと大人だろうと、そんな軽い女のを好むほうが嫌なやつですよ」
「何?」
「だから、」
「あんた、何考えてんの? 会社へ直談判しに行くのよ。もう少し猶予が欲しいとか、……、体の付き合いでも考えた?」
 黙っていると小早川さんは食後のコーヒーを口に含み、
「そこまでしろとは言わないわよ。そこまでして会社のためにしたって、誰が喜ぶもんですか。でも、一週間はきつ過ぎるわ。室生さんと知り合いだと言っても、バーで飲んだりしたのはあんただけなんだから、何とかならないかぐらい聞いてみてよ」
 
 小早川さんに言われ、その後帰社してから社長に言われ、工場の人に言われ、結局私は室生さんを呼び出す羽目となった。
 会う気無いのに。
 瀬十グループの社屋の中にある喫茶店には、クラッシックが流れていた。
 四時と言う時間は、終業間際でとても忙しいらしく、頻繁に人が出入りしている。瀬十のこの社屋の引継ぎもこの時間らしく、受付やら、守衛やらが忙しそうに行きかっている。そんな中、この喫茶店だけはべつ空間にようだった。
 観葉植物が冷房に葉を揺らし、客と言えば、向こうに一人ずつ座っているだけで、自分をいれても三人しか居ない。店員もカウンターの隅に腰を下ろし雑誌を読んでいる。
「お待たせしました」
 室生さんが声をかけてきたので、私は立ち上がり、頭を下げた。
「お呼び立てしてすみません」
「どうぞ……、アイスコーヒー」
 同時に座ると、室生さんは首を傾げた。
「あのですね、一週間はやはりきついと、」
 アイスコーヒーが運ばれて来た。室生さんはガムシロップとクリームのポーションをコーヒーに入れる。
「なるほど、君に個人的に逢いたくなれば、そうやって意地悪をすれば良い訳だ」
「はぁ?」
「冗談。俺だって考えないわけじゃないさ。一週間で、普段作らないに等しいガラス工芸をしろなんて、普通なら言わない。でも、……オレの発注ミスで納期が間に合わなくなったんだ。頼もうとしたところは一週間では無理と拒否され、挙句に、いろいろとゴタゴタがね」
「他にあったんじゃないんですか?」
「あったよ。でも、……、息のかかってない場所は、君の会社だけだったんだよ」
 息のかかっていない? つまり室生さんは四面楚歌状態で、今回の件も内部反対派なるものが存在して、室生さん潰しにかかっていると言うことなのだろうか?
「あの、室生さんて、なんかの役職にあるんですか? 」
「一応、製作企画室主任。肩書きだけは立派なのさ。若いからね」
「人の恨みは買いやすいですからね」
 アイスコーヒーを口に含み、言葉無く黙る。
「嬉しかったんだけどね、君に呼び出されたときは、逢いに来たんだとね。でも、やっぱりようは俺ではなかった訳だ」
 眉をひそめるのを室生さんは小さく笑う。
 室生さんの携帯が鳴った。
「あ、ごめん、」
「どうぞ、」
 室生さんは携帯を取り出し、耳に当てた。
「もしもし? あぁ、それならば企画書はメールで送りましたし、書面にもしてデスクの上に置いてます。そうです。え? そうです、それです。いえ、大した用でなくて良かったです。では」
 電話を切った顔に嫌悪がにじんでいる。
「相手は、その、室生さんの素性を知らない?」
「誰も知らないよ。知ってたら、誰にも見られずに君とお茶なんか出来る訳が無い。それこそ、いい見世物の様に誰かれ通り過ぎるさ。上司も、知っているのは親父と祖父だけ」
「内部調査とか?」
「何を見てそう言ってるの?」
「いや、そういうのだとどきどきするでしょ? なんかすごい秘密を持ってて」
 私が無駄にはしゃいでいるのを見取ったのか、室生さんはじっと見返していたが、すぐに噴出し、
「そんな風には思わなかった。そうか、そう思えば少しはこの状況も楽しめるかな? ほんと言うと、かなり不服で、窮屈だったんだ。なるほど、遠山の金さん的でいいね」
「年寄りですね、そこで時代劇出してくるのって」
「じゃぁ、君ならどういう?」
「そうですね、ドニー・ブラスコ。かしら」
「ごめん、どういう人か知らない」
「いいんです」
 お互い首をすくめた。
 割愛すべき点であるが、一応略説するとするならば、FBIの囮捜査間がドニー・ブラスコと言う宝石鑑定士を名乗って捜査し、とあるマフィアの壊滅に導いた実在の捜査官の映画である。
 私が興味があったのは、主人公をジョニー・デップが演じている点で、別に、正義だとか、友情の浦に潜む裏切りなんかのスリルとサスペンスは興味なかった。
「出来れば、仕上げて欲しい」
「うちにメリットはあるんでしょうか?」
 急に話を引き戻され、思わず素直に言ってしまった。
 室生さんはくすくす笑いながら、
「勿論。君のところは小さすぎて、ほとんどが相手をしない。でも今度の事が成功すれば、次の大口を推薦できる」
「利益は同じなわけですね」
 室生さんはにやりと笑った。
 
 帰社して私は延期の無理を告げ、更に、利潤の大きい事を告げた。
「確かに期日が切迫していますけど、室生さんの言うことが正しいのであれば、他の企業を指し抜く事は可能かと、いえ、かなり難しい問題だとは解かってますけど、やらずにせっかくの大口を逃すのは、惜しい気がするんです」
 言い包められてきている。と言う顔をする従業員を前に、出来る限り熱弁を振るったが、所詮、お気楽な事務処理するだけで一日を過ごす私としては、この熱弁も意味をなさないような気がする。
「信じよう。室生さんと、杉坂さんを」
 言ったのは社長だった。
「室生さんが心良い男だと私は見てる。それがそう言ったんなら私は信ずる。それに、来た仕事を選り好みしていられるほどうちは景気がいいわけじゃない。何とか間に合わそう。出来るだろ? 工場長」
 工場長はもうすでにこの道三十年と言う大ベテランだ。手には油がしみ、普段はなかなか事務所内でその姿を見られないが、今日に限っては冷房の前に陣取っていた。
「解かった。やれるだけやろう」
 工場長の一言で、一週間の貫徹作業が決まったような物だ。
 言いだしっぺは自分だ。お茶汲みに、弁当の差し入れをしてでもがんばってもらわなければならない。
 工場は普段よりも妙な熱を帯びていて、差し入れの冷たい物はあっという間になくなっていく。
 
 期日ぎりぎり、あと一時間という切迫の中で納品設置は完了した。
 アミューズメントの開園まで三十分。ギャラリー新設イベントということもありすでに入り口には人が大勢居た。
 その中を、(有)廣瀬什器工業の従業員が設置を終えて出て行く。
「ありがとう」
 従業員が出て行く。彼ら一人一人に室生さんは握手をしていく。
 社長とは目頭が熱くなるような熱い握手をしている。
 アミューズメントが開園され、ギャラリーにも人が殺到してきた。
 ガラスの陳列棚にある展示物を眺める顔。顔。顔―。
「いい仕事が出来た」
 横を見れば社長が感慨深げな顔をしていた。
「言いくるめられて、ただの暢気な事務社員なのに。すみません」
「いや、杉坂さんが言った言葉が気に入ったんだよ。やらないで後悔するよりやって後悔しましょう。いい言葉だ」
 社長は頷き、招待者のリボンを見せびらかしながらギャラリーのほうへと向かった。
 
 私の胸は一杯だった。寝ずにがんばった社員の努力といい、完成させた充実感。これで不況の中で少しは給料が増えるかもしれない。でもそれ以上に、室生さんの役に立ったことが嬉しかった。
 アミューズメントの中にあるオープンカフェから展望する。緑と、白と、後は涙で色が混ざる。
「いい場所でしょ」
 目を開けるとハンカチを差し出した室生さんが立っていた。
「室生、さん」
「ここにはもともと何にもなかったんだ。だけど、ここからの展望は最高だからね、無理を言ってカフェを作った。何時間居ても構わない、食事をするというより佇む空間を作りたいとね。そして作った。人は気付く。居心地のいい場所のあるところを。だからここは結構繁盛してる。コーヒーぐらいしかないのに」
 室生さんは前の席に座り、ハンカチを振る。
「いいです。あります」
 カバンからハンカチを取り出す。
「助かったよ」
「よかったです」
「今夜、正式に発表することになった」
「そうですか」
「そちらの社長も出席する。これからも取引できるだけの実力は今回のことで証明された。安泰だ」
「大変になりますね。室生さんのほうは」
「あぁ。まぁね」
 室生さんは頬杖をつき街の方を見た。
「いいんだよ」
「はい?」
 室生さんが私の顔をしっかりと見る。
「君と居ると肩を張らずにすむ」
「……そうですか……、あ、私会社に戻らないと、それじゃぁ」
 伝票を持って立ち上がる私の手を室生さんが掴んだ。
「室生、さん?」
「好きなんだ。一緒に居て欲しい」
「……冗談は止めてください。だいたいそんなこと、無理じゃないですか」
 私は手を振り解いて歩き出した。
 室生さんが追いかけてくる。
「何が無理なんだ? 何を気にしてる?」
「何を? 別に。ただ室生さんは私を好きだと思うのは周りに居ない変わった人だからという一時的な感情で、それが継続するとは限らないといってるんです」
 胸が潰れそう……。酷い言い訳。何にこれほど恐れて拒否しているのか解らない。いいえ、そもそも私自身は室生さんをどう思っているのだろう?
 私が車に乗り込むと、室生さんが助手席に乗り込んできた。
「ちょっと!」
「ちゃんとした理由を言えよ、あいまいなもので無く。俺は君が好きだ。ずっとそうしていられる。一時的な感情? そんなものでそう言う事が言える訳がない」
 反論できずに居る私に、室生さんは大きく深呼吸をした。
「解った。君が好意を持っていると思っていたが、勘違いだったようだ」
 ドアが開く。室生さんが出て行く。ドアが閉まる。室生さんが立ち去る。
 私はハンドルに頭を押し当てた。
 酷い疲労困憊。渇きを覚える喉。言い知れぬ不安と後悔。
 
 あぁ……あたし室生さんが好き……
 
 仕事を仕上げたときにあふれて来た涙は、室生さんと会うことがもう出来なくなるかもしれないという予感だったのかもしれない。
 自分が次期社長だと発表すると、もう営業としてうちの会社に出入りもしなくなるだろう。それを漠然と感じていたのだ。
 
―やらずに後悔するよりやって後悔した方がいい―
 
 社長の笑顔で言った台詞。
 室生さんの顔がちらつく。
 でも、もう、逢えない―。
 
 何を迷う? と聞かれたら、この年になれば好きと言うだけで踏み込めない領域というものがあるのだ。
 室生さんが好き。だけどその後ろにあるものが大きすぎて、それに振り回されるのは嫌だった。
 昔なら―。
「若けりゃ、言えたかもしれないけどね」
 苦笑いしか出ない。
 結婚した友達たちに聞く、夫婦生活やら、嫁姑(舅)などなどたくさんの面倒を抱えるほど、私は室生さんが好きなのかどうか解らない。
 
 ……。付き合うことすらしていないで、結婚したときのことを考えている……。
 付き合って、肌が合わなければ別れたらいいという選択肢は、もう、この年になると無いようだ。
「それって、重いぞ」
 一人でつぶやき、車のエンジンをかける。
 室生さんだってそれなりに人を見つけるだろう。私だってそうだ。
 一生に一度の人と言うのが、失恋後何人も出てくる。そんなものだ。まだ何もしてない。手を握ったぐらいで一生を取られやしない。キスもしていない。もちろんその先だって。だから、何も、
「何も失恋と言うわけじゃない。失恋じゃないけど、こんなに、泣けるもの?」
 ハンドルに額を押し付けて涙が出る。止まりそうも無いから、しばらく流しておこう。逆らうと更に涙と言うのは出てくる。
 頭の中の冷静さが妙に腹立たしい。
 ドアが開いた。
 ごそっと涙を拭いて顔を上げると室生さんが困ったような、なんとも言いがたい顔をしていた。
「好きだ。それだけじゃ、だめか?」
 私は首を傾げた。
「解らないわ」
「じゃぁ、解るまでとりあえず付き合わないか?」
「いろいろ考えてしまうのよ」
「だと思う。だけど、俺は、」
「私、室生さんが好きよ。本当に」
 室生さんは頷いた。
「なるほど、いろいろと考えるものだな」
「そうでしょ。いろいろね」
「当面、話し合わないかな? そのいろいろを、二人で解決していきたい。一緒にいて欲しい」
 私は頷くだけだった。
 
 
 
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