Summer Vacation
―究極至極につまらない女と、日常がつまらなく感じてきた男の話― 
…「真夏」「海」「かき氷」「プール」「ミニスカート」「水着」「夜景」「花火」「焼き蛤」「ゆかた」使用

松浦 由香


 
         
 腹立たしいくらいの真夏のような暑さの中、友達に、
「居た。いたよ、ここに」
 と言われたキノコは頬杖をついて通りを眺めた。
 友達と久し振りにお茶をすることになって町へと繰り出してきた。いつもは車から見すぎる光景の、高校時分には随分と遊んだそこに久し振りに三人の笑顔が戻った。
 社会人となってすでに十年。あと少しで三十に足が掛かった三人はそれぞれ違う人生を送っていた。
 佐倉は結婚をして鈴木に変わった。
 姫は相変わらず一人でいろんな人と付き合っては花を咲かせているらしい。
 そして、キノコは、
「居たね」
 ふっくらとなってきたお腹の佐倉が頷いた。
「今時珍しいくらいの女」
「骨董だよね」
「ほうっとけ」
 キノコはコーラーを飲んだ。
「第一さぁ、三十目前でコーラーは、どうなんだろう」
「だから、放っといて」
「それにその黒ぶち眼鏡と、今時三つ編みお下げってのもね」
「いいじゃない、面倒じゃないんだから」
「それってほんと、ブスだよ」
「いいのよ。ブスで」
「親はなんも言わない?」
「親ぁ?」
 キノコは首を傾げた。親なんて勝手なもんだ。そう、二十代初めまでは姫の奔放さを批判し、あんな女になっちゃいけないと言っていたが、最近では、あの一人でもおこぼれがあればいいのに。と言い出した。
「なんも」
 キノコはそう言ってコーラーを飲み干し、その氷をほおばった。
「やめなって、氷食べるの」
「いいじゃん、お金払ってんだから」
 姫と佐倉は顔を見合わせてあきれ返った。
 こんな趣味も思考もまったく違う三人がずっと友達で居られて、こうして会えるのは、お互いに何か足りないものを補っているのだろう。喋り続けて夕方キノコは家路についた。
 佐倉は鈴木に変わり、姫は中心地に近いマンションに、そしてキノコは地元の親の元へ。
 休日の電車はどことなく寂しさをより感じる。白々しい蛍光灯。人が少ないのでゆっくりと腰を下ろし、無駄に買った買い物袋を見る。
 ―似合うよ―と言われて買ったが、着ていくような場所もなく、たぶんタンスに片付け、それを運良く妹が見つけて彼女の所有物となるだろう。いつもそうだ。
 家着はジャージ、仕事場はパン工場なのでいつも白衣に着替えるから普段着のまま。伸びるジーンズと、夏ならTシャツ。冬はトレーナーにジャンパーを羽織るだけ、色気なんてあったものじゃない。似合わないものを身に着けたいとは思わない。冒険とか、野心は、ずっと、ずっと昔に捨てた。
 ずっと、ずっと昔、淡くも儚い初恋のときに。
 
 高1だった。野球部で、白球を追いかける坊主頭。ふとした瞬間好きになって目で追いかけていた同級生。
 夏休み前のふとした会話。女は可愛いほうがいいよな。ブスより。眼鏡とか、無しだよな。
 キノコ16歳の夏でした。
 
 今なら眼鏡っ子とかって持て囃されている眼鏡だけど、彼女たちはみな可愛い顔につけている。キノコのように視力が乏しく、コンタクトにする勇気のない引っ込み思案で陰険な子はそんな流行などに左右されない。
 眼鏡はブス。キノコの公式は変わらなかった。
「おい、ブス」
 キノコの前に酔っ払いが立ちはだかり―こんな時間から酔ってんじゃないぞ―その息をキノコに吐きかけた。
 キノコが上目遣いで男を見上げる。
「どけ、ブス」
 キノコはくっと目に力を入れると、
「なんだと、このじじぃ、てめぇみたいなPPPPPPPPPPPPPPPにブスと呼ばれたくねぇよ。PPPでPPPでPPPがPPPのPPPの癖に。酔ってからんでくるんじゃねぇぞ、こるぁ!」
「な、な、な、な、な! お、お、お前みたいな女は、痴漢にでもPPPPPPされなきゃ一生PPPのままじゃねぇか!」
 キノコがさらに睨んだとき、駅についてドアが開いた。途端だった。男は急に襟を掴まれ引き下ろされた。
「いいおじさんが、仕事の憂さを若い女に求めない。そんな悪い子は、そこで頭冷やしな。そうじゃないと、本当に奥さんに逃げられるよ、おじさん」
 若い男だった。すらっとした長身で、きれいな指を入り口に立っている棒に絡め、放り出した中年にそう言い放った。
 中年は急なことに目を丸くして座り込んでいた。戸が閉まると慌てて立ち上がったが、電車は止まる様子もなく動き出した。
 キノコはため息をつき、きれいな男を見上げた。
「勇ましい」
 彼は笑いながらキノコの前に立った。
「一応、助けてくれたということで、ありがとうございます」
「いえいえ、横、据わっていい?」
「空席なら他にもあります。さっきの騒動で酷く注目を浴びてますから、離れてどうぞ」
「いいよ。どうせ注目を浴びた同士なんで」
 彼はキノコの横に座り、長い足を組んだ。
「あまり足を組まないほうがいいわよ、電車の幅は決まってるんだから。長い足を自慢したけりゃ、ずっと立ってたほうがいいわね」
 キノコの言葉に彼はキノコをまじまじと見たあと、失笑して足を解いた。
「面白いね」
「そう? よく品のないつまらない女だと言われるわよ」
「そうかなぁ? 俺、好きだけどな」
 キノコは彼のほうを見た。彼はニコニコと笑いながらみている。
「目、視力悪い?」
「かなり」
「そうでしょうね」
 キノコはそう言うと立ち上がり、入り口のあの棒の側に立った。
「何で、どうしたの?」
「下りるから待ってるの」
「あ、そうなんだ」
「ちゃんと家に帰るように、」
 電車が止まり、戸が開くとキノコと一緒に彼も降りた。
「あんたここ?」
 彼は笑いながら首をすくめた。
「物好きだとしてもあたしに構うのはやめて、」
「何で?」
「そんな気分じゃないの。いっぱい居るでしょ、それだけ格好よければ?」
「何?」
「女の子。引っ掛けに行くなら街へ行けばいい、金持っている尻の軽い女は山ほど居るって言ったの」
 彼はあからさまに嫌な顔をした。
「じゃぁ、ありがとう。おやすみなさい」
 キノコはすたすたと歩き出した。
 三人出会うために買ったロングのデニムスカートは思いのほか蒸し暑く、白いシャツは少し小さいサイズを無理して買った所為で少し苦しい。
「しかし、熱い」
 電車の中のあの快適が嘘のように、汗が急に首筋を這う。
 キノコがかばんからハンカチを取ろうとしたとき、はらりと紙が落ちる。それを取ろうと手を伸ばしたとき、あの彼がそれを落ちる前に拾い上げた。
「レシート」
「返して」
「主婦?」
「は?」
「レシート、」
「家計簿つけてて悪い? 小遣い帳と言ったら可愛いかしら?」
 キノコは引っ手繰る様にレシートを奪うと、タオルハンカチを取り出し首筋に当てた。
「何してるの?」
 眉間にしわを寄せて彼を見上げる。
「家、ここじゃないんでしょ? ……、あぁ、彼女の家か、友達の家?」
 キノコは眼鏡を押し上げて彼を見直す。
「一緒に居ちゃなんかまずい?」
 彼の嫌そうな言葉にキノコは眉をひそめたまま何も言えなくなった。
「な、な、何を言ってるの?」
「何って、一緒にね、」
「馬鹿じゃない? あのねぇ、冗談とか、なんかの悪巧みで、寂しそうな独り者に声をかけて引っかかれば儲けものって言うのなら、あたしは向かないわよ」
「何でそう悲観的かなぁ」
「暑苦しいから」
 キノコは歩き出し駐輪場に停めていた自転車を引っ張り出した。
「ねぇ、本当に一緒に居ちゃだめ?」
 キノコは振り返り、彼を見た。
「遊びで人をおちょくる人って大嫌い。そう言えばブスなら直ぐに体を許すだろうという考えも、自分が少し良い顔だからって、女が皆あなたに興味あると思わないでよね」
 キノコは自転車に跨るとこぎ進んだ。
「マジで一緒に居たいんだけど、ちょっとー」
 遠くから追いかける声がするが、キノコは無視して家までの三十分をこぎ続けた。
 家に辿り着いたときには、滝のような汗を流し、電車の中のあの無礼な中年と、悪趣味青年のことでイライラしていた。
「ただいま、」
「お帰り、姫ちゃんと佐倉ちゃんどうだった?」
「相変わらず。佐倉んところは六ヶ月だって、だから、年末ぐらいだろうって。姫は相変わらずよ」
「姫ちゃんの男運少し分けてもらった?」
「ないない、先お風呂は居るよ、もう、汗でグズグズで」
 キノコは風呂場へと向かった。
 眼鏡をはずし、服を脱ぐ。鏡に写っている自分の顔さえもぼけて見える視力だと、可愛く見える。視力が悪ければ、誰かが可愛いというだろうか?
―一緒に居たいんだけど―
 キノコは眉をしかめ風呂場へと入った。
 
 キノコはパン工場の中に居た。
「あたしが?」
「そう。工場案内係を頼むよ」
「何で部長がしないんですか?」
「重なったんだよ、三つも。工場内案内はもうベテランなんだからキノコちゃんがやってよ。他にも、スゲさんと、松山さんにも頼んでるから。工場から上がったら、俺が相手するからさぁ」
 部長は四十で中学と小学校高学年の男の子を持つサッカー好きの人だ。入社当事一目ぼれした相手にはキノコも弱い。
 ため息をつき、了承する。
「十時に来るらしいから、三十分ぐらいかけて案内して」
 頷くと、同じく案内を任された菅岡さんと松山さんと顔を見合わせる。
 菅岡さんと松山さんはここの生き字引で、部長よりも年上。パートのおばちゃんの間でも信用の熱い二人。その中にキノコは中堅代表で呼ばれたようだ。
「説明ったってねぇ」
 菅岡さんの言葉に三人は頷き、眉をひそめた。
 十時になってすぐ、菅岡さんが案内役として呼ばれて出て行き、再び入って来たときにはスーツの上から白衣を着た四、五人を連れていた。そのあと三十分後に松山さんが呼ばれた。
 十一時十五分。キノコが呼ばれた。
「ようこそ、○○パン屋へ。こんにちは」
 キノコは規定どおりの挨拶をして深々と下げた頭を上げてぎょっとした。
 物好き青年がスーツを着てたっていた。青いシャツにネクタイを締めたクールビズらしい格好で、向こうは驚いているキノコなど見もせず、まるで無かったかのようにキノコを一瞥した。
「この人が案内を?」
「えぇ、若いですけど工場内を一人で稼動させるくらいの腕はあります」
 部長の言葉に―なるほど、口で勝てそうも無い相手にあたしを押し付けたな―というのが解ったがキノコは黙って立っていた。
「では、案内をお願いします」
「では、先に手洗いをお願いします。爪の間、ひじの辺りまできれいに石鹸で洗い、石鹸カスが残らないよう擦る様に流してください。そのあとで白衣を着て、エアーシャワーに入ります。髪の毛は帽子から出さないようにお願いします。マスクは中にありますので入ったらそれをつけてください」
 キノコの指示に従い、物好き青年を初めとする四人は手を洗い白衣を着て、エアーシャワーに入った。
「マスクです」
 製パンライン内に入って直ぐにあるマスクを付ける。
「まずここは最終ラインです。袋詰めされたパンが出荷コンテナに乗せられあのシューター内に入ります。こちら側の扉を閉めあのボタンを押すと、外で出荷・運送工程の人に引き継がれます。遡っての説明は頭がこんがらがりますので、最初の工程へと少し歩きます」
 キノコはすたすたと歩き、ある程度の所で振り返る。適当な距離を置き歩くと一番奥の壁際にある大きなミキサー前に立った。
「あそこにある扉から材料となる小麦粉、卵などが入ってきます。外界食材もエアーシャワーを浴び埃、ゴミなどを落としてここに入ってきます。これは小麦粉を練るミキサーです」
「一度にどのくらいの量が練れますか?」
「最高量はそこに書いてありますが、それ一杯にしてもいい攪拌(かくはん)は出来ませんから、ほどいい塩梅にするにはその日の湿度、天気に左右されるので一概には言えません。今日は、湿度が高くて天気が悪いので、半分ぐらいがちょうどの量でしょうか」
 キノコの説明に質問するのは中平と安岡いう社員がした。物好き青年は何も言わず、もう一人は必死にメモを取っていた。
「以上です」
 五人は工場内を一巡し、エアーシャワーを通って外に出た。
「使ったマスクはこちらに入れてください。白衣はこちらで預かります」
 マスクを外すと四人は大きく息を吐き出した。
「息苦しいですね」
 中平がキノコに話しかけた。
「慣れたら普通です。では、部長が外で待っていますので」
 と頭を下げ、彼らが脱いだ白衣を洗濯物入れに放り込んだ。
 物好き青年が出るときちらりとキノコを振り返った気がしたがキノコは何事も無く工場ライン内へと戻っていった。
 昼休み、持参した弁当箱をあけて食べていると、部長がやってきた。
「お疲れ様、菅さんも松山さんも、キノコちゃんも」
「なんか言ってました?」
 小心者の松山さんが聞き返すと部長は笑顔で指でO.Kサインを作った。
「いい感じでしたよ。三社とも」
「あの、あたしが案内したのはどこの会社です?」
「キノコちゃんが案内した会社は、ホリデーグループの若き社長とその一行」
「社、社長?」
 キノコと菅岡さんと松山さんが同時に叫んだ。
「社長って?」
「居たでしょ何も言わず、何もせずの人が一人。彼がそう。お父さんが倒れたおかげで急に社長の座に着いたとは言え、もともとあの一族は商売才能に長けてるんだね、あっという間に商業を飲み込み今や若手社長ナンバーワンの呼び声が高いんだよ。確かまだ31か2だったはず」
「青いシャツに、ネクタイ締めて、何の質問もせず、メモも取らなかった人?」
「そう」
 キノコは黙って頬杖をついた。
 物好き青年は社長で、しかも年商億のショッピングモールのグループ社長。それがキノコとより二つか三つ上というだけでも驚きなのに、それと再会するなど、ありえない。
 ―一緒に居たいんだよ―
 そういった奴が社長? ありえない。展開がありえない。まぁ、自分が動かなければ、何事も無いのだ。
 キノコは弁当を食べる。
 一ヵ月後、本当にごく普通の日だった。だから、物好き青年のことも、それが社長だったことも忘れていた。
 いつものようにキノコは出荷作業に追われていた―担当出荷仕分け―。山のように来るパンをコンテナごとに詰め替える。
「キノコちゃん、電話」
 首をかしげて側の電話を取る。
「外線が入ってる」
「外線、ですか? 誰だろ?」
「ホリデーグループの、この前案内した人」
 物好き青年の顔を思い出した。
「つないで下さい」
「もしもし?」
「手短に話す。この前の案内はありがとう。今日会えるかな?」
「はぁ?」
「五時半にそっちに迎えに行く」
「それは困ります」
「じゃぁ、どこかで待ち合わせにする?」
「いや……、」
「じゃぁ、五時半で」
 電話が切れた。
 何の用だ物好き野郎。キノコは受話器を睨み、それをかけ置くと仕事に戻った。
「部長、すみません。あと三十分ですがちょっとお腹の具合が悪いんで帰りたいんですけど」
「おっと、鉄の女がどうした?」
 誰が鉄の女じゃ。
「拾い食いしたかも。とにかく帰っていいですか?」
「まぁ、めったに無いことだから、でも帰れる?」
「これ以上居たら、帰れなくなりそうなんで、」
「そう、じゃぁ、お大事に」
 そう言われてキノコはすばやく着替え、外に出た。
 見知らぬ車は無い。急いで自転車に跨り、車との接点の無い自転車道を行き家に帰った。
 約束はしてない。勝手に言ってきたのは向こうだ。あたしは知らない。
 キノコは家に帰り、風呂に入り、父親とビールを開けたときだった。
「電話。渡瀬さんて人から」
 母親がおずおずと子機をキノコに差し出す。
「男の人。なんか、怒ってるけど」
「……渡瀬? ……!」
 キノコは子機とビールを手に階段を駆け上がった。
「も、もしもし?」
「何で帰った?」
「何でと言われましても、具合が悪くなったんで」
「どうだか、」
「……、そんなことよりうちの電話番号、」 
「親切なパートさんに聞いた」
 キノコは考えたが皆教えそうだった。
 キノコちゃんもそろそろいい人見つけなきゃ。とか言ってそう……。
「そうですか、それで、用は?」
「会いたい。だから迎えに来た」
「あのねぇ……。私そう言われる筋合い無いと思います。渡瀬社長はどなたかと誤解されていませんか?」
「そう? 電車の中で絡んできた親父にPPPPPP連呼していた人に掛けている筈だけど」
 キノコはグビっとビールを飲んだ。
「なんか飲んだ?」
「ビールです」
「具合が悪いんじゃなかった?」
「悪いですよ、飲まなきゃやってられないぐらいね。何の用か知りませんが、本当に迷惑です。あなたぐらいなら、」
「聞いた。そんなんじゃないって言ってるだろ」
「そんなんじゃなくても、そうでも、会う気なんかないわよ」
 キノコは思わず電話を切った。昔の黒電話なら電話機に叩き付け向こうでは耳を押さえていただろうに、今はただおしとやかな不通話音がするだけだ。
「誰?」
 母親が興味津々な目で見る。その言葉を妹が代弁している。
「ホリデーグループの社長さん」
「ホ、何で?」
「知らない」
「なんかやらかしたの?」
「そのほうが楽」
「どういうことよ」
「なんでもない。ねぇ、早くご飯」
 夕飯を食べ終わり、キノコは部屋に戻るとベットに寝そべった。
「おねぇ」
「何?」
「さっきの人、」
「あんたもかよ」
「だって、おねぇに男の人なんて、」
「変な物好きよ。あたしに声をかけてきたのよ。目が悪いって言ったしね」
 妹の志保は苦笑いを浮かべベットに腰掛けた。
「……、渡瀬、渡瀬 愁、じゃない?」
「……あんたの知り合い? じゃぁ、あたしに会いたいと言ったのはあんた目当てか、ごめん気付かなかったよ」
 ちくっと胸の辺りに小さな痛みが走った気がした。年を取るとそういう痛みに鈍くなるようだ。そんな気がすると無視すれば痛くもない。
「違うと思う。でも、もし渡瀬 愁なら、あたしは嫌」
「志保?」
「渡瀬 愁とおねぇが付き合うのは嫌。他なら応援するけど」
「あんたの彼氏? それとも好きな人? どちらにしても、それならそれで手を打ちなよ」
 志保は黙って立ち上がり、もう一度、
「付き合うのは嫌」
 と言って出て行った。
「だから、手を打てと言ってるでしょう? 何よ」
 キノコはむっとして仰向けになった。
 今度接触があれば妹のことを話そう。まぁ、あれだけ言ったんだ、普通なら懲りるだろう。
 と思ってでた翌日。
 工場の入り口に見知らぬ赤い車が止まっていた。
 パートさんたちが車を気にしながら工場に入る。
 キノコもそ知らぬ顔で入ろうとすると、渡瀬 愁が車から降りてきた。
「おはよう」
「……おはようございます」
「今日こそは、」
「あの、妹なら家に居るから、直接行ってくれます?」
 キノコはそう言って工場の中に入った。
 パートさんたちの質問攻めも、「妹のファンらしい」の言葉で話題は消え去った。
 お昼、キノコが一人で弁当を広げていると部長が前に座ってきた。
「渡瀬さん、なんだって?」
「だから、妹に用があるんですよ」
「キノコちゃんじゃなく?」
「ないですよ」
 キノコは首を振って、頷き、弁当を完食した。
 だが、終了時間。渡瀬は待っていた。
 キノコが呆れたような顔を向けると、それを見ながら通り過ぎるパートさんを見送り、あっという間に静かになった。
「妹なら、」
「用はない。用があるのはあんただ」
「私はないです」
 二人は黙った。経理の人がでてきた。
「キノコ、何、……あ、じゃぁね」
 キノコは同期に手を挙げる。
「キノコ?」
「うるさい。いったい何がしたいんです?」
「だから、」
 部長が出てきた。
「渡瀬社長、あの、何か?」
「いえ、会社には特に、個人的な用です」
 部長はキノコを見て、頷くと歩き去った。
「居た堪れないなら、行こう。乗って」
「一度、一回だけですよ。二度は無いですからね、次はしないでくださいよ」
 キノコはそう言って車の横に立ったが、しばらく考えて後部座席の戸を開けた。
「つくづく嫌な女?」
「お好きに」
 渡瀬も乗り込んだ。
「手短に済むんだったら、ここでちゃっちゃと話してもらえます?」
 キノコは足をと腕を組んでむっとした顔を見せた。
「この前から言ってるじゃない。付き合おう。って」
「その答えなら、いやです。話はそれだけなら帰ります」
 キノコが戸を開けると、渡瀬が車を少し動かした。
「あっぶないでしょ!」
 渡瀬は何も言わない。
「何で私に構うんですか?」
「変えたいから」
「はぁ? 私を?」
 渡瀬は何も言わない。
「それって傲慢ですよ。自分の都合よく動く女がいいなら、従順そうな女の子を捜してください。私は違いますから」
「そう?」
 そう言うが早いか、渡瀬は車を動かした。
 キノコはとっさに車のドアを閉めた。
 車は遠慮もせずどこかへ向けて走った。
「どこ行くんですぅぅぅぅぅぅぅ! あ、いったぁ。ちょっと、もう少し安全運転しなさいよ! 事故するでしょ!」
 渡瀬は黙ってただ運転をした。
 このまま行けば海へ行く。海水浴の季節とは言え、こんな状態で海になど行っても楽しくも無い。
「あの、ホント、どこ行くんです?」
 渡瀬の無言につい、「つい」手が出る。キノコは渡瀬の後頭部を拳骨で殴る。
「聞いてる? あたしの話?」
「いってぇ。何するかなぁ」
「聞けよ、どこ行くんだっつってるでしょ!」
「行けば解る」
「それなら早く言えよ。でも、それじゃぁ、答えになってないんですけど」
 キノコはむっとしながら座りなおした。
「連想ゲームしよう」
「はぁ?」
「鎖」
「はぁ?」
「鎖」
「頑丈」
「鍵」
「安全」
「海の日」
「連休」
「私有地」
「進入禁止」
「閉塞」
「……、どういう連想ですか?」
「閉塞」
「……監禁」
「さぁ、着いた」
 車が着いたのは海が一望に出来る家の側にある駐車場だった。
「ちょっと待ってください。どこ、ここ?」
「歩いて帰るなら、そこの坂を下り、三十分歩けば一日に一本のバスに、運がよければ乗れる」
「けんか売ってる?」
「こうでもしなきゃ、付き合わないでしょ」
「こういう征服趣味があるんだ」
「……そうだね、従わない人にはね」
「何で私? 妹のほうにしてよ。私じゃなくて」
「妹、妹と言うけど、俺はキノコに興味がある」
「じゃぁ、山に取りに行けば?」
 渡瀬は鍵を抜き、車から降りる。キノコは鍵を閉める。
 物凄い音で渡瀬が窓ガラスを叩いた。多分、本気で割る気だろう。
 キノコが鍵を開けると、渡瀬はあのすがすがしい顔で笑い、
「お利口」
 と言った。
 キノコは顔をしかめて、差し出した渡瀬の手を叩いた。
「こういうのって、犯罪だって言うの知ってます?」
「だから言ってるでしょ、帰りは坂を下って、」
「三十分後、一日に一本のバスでしょ、解ってるわよ。でも、なんでぇ??」
 キノコの言葉など無視して渡瀬は家の方へと歩き出した。
「そこは僕の別荘なんだよ。?」
 キノコの嫌みったらしい言葉に渡瀬は振り返り、
「あぁ、一応ホリデーグループ社長だからね」
 にべも無く言い捨てると家の扉を空けた。
「そろそろ夕立が来る頃だ」
 そう言って中に姿を消した。
 キノコが見上げると確かに黒い雲が迫ってくる。
「一日に一本のバスね、いいわよ、」
 キノコは坂を下り始めた。もしバスに間に合わなくても、人が居そうなところまで歩けばいい。スニーカーだし、わりと健脚だ、と思う。
 キノコは坂を下りて直ぐに後悔をしていた。だが引き返し渡瀬の元へ行くのは癪だった。
「大体なんで私なのよ。私ってそんなに惨めな女? 軟禁されるのはそれだけの価値があるだろうけど、これじゃぁ、拷問じゃない。ブスには拷問を? ブスなのは顔じゃなくて中身なんですけど、ほんと、悪いけど、この手の顔なんかブスって言わないのよ! 」
 キノコは声を張り上げ坂をてってと歩く。以外に急勾配な坂は膝を痛める。呼吸も不規則で、汗がぼたぼたと落ちる。
 携帯を取り出し、家に電話をかけるが誰も出ない。しょうがないので妹の携帯に掛ける。
「もしもし?」
「あ、志保? 今日、帰れそうもない」
「何で……、渡瀬 愁と一緒?」
「今はいない」
「今はいないってどういうことよ!」
「そんなことより、なんなのよ! あんた好きなんでしょ、あいつをどうにかしなさいよ、何で私がこういう目に遭うのよ!」
「どういう目よ?」
「辺鄙な海の別荘につれてこられて、嫌なら歩いて帰れって、そんなに恨みを買うようなことあんたしたの?」
「してないよ」
 興奮していたはずの志保の声が静かになった。
「なのよ、何隠してるのよ?」
「何も、」
「あんたね、この世の中でたった一人の姉と、あの傲慢ちきな金持ちボンボンとどっちが大事よ!」
 志保からは直ぐに返事がなかった。
「志保!」
「雑誌見たの、」
 声が響いている、たぶん玄関だろう。そして階段を上がり、部屋に入ったようだ。
「それを見ただけ、かっこいい人で、直ぐ好きになった」
「おいおい、それじゃ本物には会ってないわけ?」
「逢える訳ないじゃない、すごい人なのに、」
「って、物凄い、それこそアイドルとかと同じ片思いなわけ?」
「そうよ、悪い?」
「いや……悪くないけど、あれは、どうかな、」
「おねぇは渡瀬さんのこと何にも知らないからそう言うのよ、若いからって、二代目だからって馬鹿にされないようにすごい努力したんだよ、言い寄ってくる人とか居ても、今は会社が大事だからってすごく硬いんだって、」
「そんなの、雑誌受けのいい台詞じゃない」
「違う、渡瀬さんは違う」
 志保の言葉にキノコはため息をつく。こんな純粋な思いしばらく見なかった。
 高校時代あの姫が一人の人に入れあげ、でも彼は妻子もちのダッサイ中年物理の教師、それでも姫はがんばって、ただ、「よくやったな」という言葉のために三年間がんばっていた。あのときの姫をキノコはちょっと羨ましかった。
「解った。いい人だとしよう。だけど、それなら何で私をこんな目に合わすのよ? そうでしょ? 人里離れた場所に連れて来て、日に一本のバスしか通らないような田舎、どうして私なのよ?」
「……好かれたんでしょ」
 志保の悲痛な言葉が胸に刺さった。これは、志保の口から言わせてはいけない言葉だ。
「ごめん」
 キノコが謝ると、志保はため息を落とした。
「しょうがないよ、私はただのファン。おねぇは顔見知り、どっちに軍配が上がるっていたって、顔見知りのほうが強いに決まってるじゃない。それに、反対するのは、男なんてのおねぇに彼氏が出来るのがいやなの。しかもそれが、渡瀬 愁というのが」
「会えば、あんたの方が可愛いから気が変わるかもね、バス停に下りたらまた電話する。迎えに来てよ」
「無理、お父さん急な仕事で車乗っていったから、」
「マジ?」
「だから、バスで、」
「あんたね、会いたいんでしょ、渡瀬 愁に?」
「逢いたいけど、」
「じゃぁ、来てよ」
「……、やっぱり、いい」
「何で?」
 少しの間のあと、遠くはないが近くないところから、
「いいって、何で俺がお前のねぇさんと、」
 キノコは眉をひそめる。
「誰?」
「梶尾」
「おい、梶尾って、あの梶尾? 中学のときあんたを階段から突き飛ばして骨折させた?」
「そう、あの梶尾」
「何で?」
「さっきコンビニで会って、乗りで家に来てるの」
「おい?」
「あぁ、大丈夫、お母さんは快く上げてくれたから」
「そうじゃなくてさぁ、さっき渡瀬 愁についてあれほど熱っぽく話してたじゃない、」
「だって好きだもの」
「それで、梶尾?」
「遠くのダイヤより近くのサファイア。だっけ? おねぇの持ってる小説家なんかの、よく言う台詞。あれ」
「おい、」
「じゃぁ、切るね、まぁお母さんには、おねぇにも男が出来てこの連休連泊するといっとくよ。じゃぁ」
「おーい」
 電話は切れた。即効リダイヤルするが「現在電源を切っておられるか、電話の届かない場所に……」キノコは肩を落として立ち止まった。
 坂はまだずっと続くようだ。まだ半分も来ていない。
 戻るのも億劫で、行くのも疲れた。少し休もうとどこか座れそうな場所を探したとき、雷が鳴った。
 さすが海に近い場所だ。避雷針に振られた雷が海へと向かっている。
 あまりの音のすごさにキノコは耳を塞いでしゃがみこむ。
「こ、こりゃ、マジですごい」
 キノコは坂を再び下りる。膝を心配するより、雨を避ける場所と、とにかく平坦な場所へ下りるのが先だ。急ぐ気に追い立てられながらキノコは坂を下りる。
 雷が鳴る。キノコは耳を塞ぎ身をすくめながらも歩く。
 ぽつ、ぽつ、ぽつ。と降ってきた雨が激降りになるのに時間は掛からなかった。
「い、痛い!」
 キノコは少しさらに急ぎ足で坂を下りる。
「あ、いや、ちょっと、きゃぁ」
 坂と、雨にぬれた小石、足がとられキノコはその場に尻餅をついた。
 稲光にキノコは耳を覆い、体を縮める。
 バケツをひっくり返したような雨ですっかりぬれてしまった。髪からは雫が落ちる。
「痛いよ、雨、酷いし、雷うるさいし、もう、サイアク」
 そのとき、後ろに車の気配がした。どんなことを思ってもそれが渡瀬だと解る。
 敷きたきゃ敷け! もう、動かない。
 身動きしないキノコの側で車を停めると、渡瀬が運転席から出てきた。
「ほら、」
 腕を掴んで立たせるがキノコは立ち上がろうとしない。
「いい加減にしろ、早く車に乗れよ、」
 キノコは渡瀬を睨む。
「睨むのはあと、ほら、」
 渡瀬は無理やりキノコを立たせ、「後部座席」にキノコを押し込んだ。
 車はまっすぐ坂を下り、バス停に止まった。
「一日に一本のバスは、10:35。今日の分はとっくに出たあと。とりあえず今日は別荘に戻るよ」
 キノコは何も言わなかった。
 バックミラー越しに渡瀬が何度もキノコを見ていたのは気付いたが、キノコは何も言わずに黙っていた。
 別荘に着いても雨脚は弱まろうとはしなかった。
「ほら、」
 後部座席からキノコを引き摺り下ろし、無理やり別荘へと入れ込むと、用意していたバスタオルをキノコに突き出した。
「シャワーはまっすぐ行った右手、その前はトイレ。客用のガウンを用意してるからそれに着替えればいい」
「パンツがない。ブラジャーも、」
「Lサイズのお買い得三枚千円「パンツ」と、Bカップのブラジャーならある」
「何よそのサイズ選択は、」
「俺の好み」
 キノコが顔をしかめると、渡瀬はバスルームのほうを指差した。
「内鍵が掛かるので、ご利用ください」
 キノコはむっとしながらもバスルームに向かった。
 確かに鍵はあった。でもこじ開けれそうなかけがねだ。安っぽい輪っかに引っ掛けるだけの。
 キノコはそれを掛け、服を脱ぐ前に用意してあるといったガウンを広げた。薄いピンクの前合わせのタオル地のガウン。その下に本当に「お買い得 三枚千円」とシールの貼られた三枚入りの「Lサイズ」のパンツに、Bサイズの赤いブラジャーがあった。
「趣味悪すぎ、」
 そう言いながらも全裸になって風呂場を開ける。
 窓から空が明るくなっていくのが見える。やはり夕立だ。あと十分もないうちに雨はすっかり止むだろう。
 シャワーをひねる。熱めにしたお湯を首筋に受ける。
 シャワー室から出てくる。
 さっきは良く見なかったが、平屋のこの別荘の入り口側には北に台所とソファーセットが置いてある。南には妙な空間と、ちょうどトイレの横にあたるところにベットが置かれている。
 部屋を見渡したが渡瀬は見えなかった。
 海側、南の妙な空間の窓が開け放たれている。
 キノコが近づくと渡瀬がテラスに立っていた。今雨が上がっていく様子を静かに見ているようだった。
「その服も、洗濯する?」
 キノコの声に渡瀬が振り返る。
「濡れてるでしょ、まだ回してないから、ついでだから一緒に回すけど」
「そう……、」
「ここで全裸にならないで、風呂場へ行きなさいよ」
 渡瀬はシャツを脱ぎ、慌てるキノコに首をすくめてバスルームへと向かった。
 雨はすっかり止んだ。
 キノコはソファーに座る。渡瀬は窓際に椅子を持って行き海を眺めている。洗濯機の音がかすかにするほど静かで、遠くで波の音がする。
「何もするわけじゃないなら、帰してくれません?」
 渡瀬が煩そうに首を向ける。
「何かする気だった?」
「何かするからわざわざこんな人の居ないようなところに連れてきたんでしょ? 用がなきゃ、」
 洗濯終了のブザーが鳴る。
 渡瀬は無言でバスルームを指差す。
 キノコはむっとしながらバスルームへと向かった。
 洗濯の終わったものを、洗面所内に吊るされたままのパラソルに干す。
「手際いいねぇ」
 キノコはむっと来て、大きくバスタオルをほぐしはたく。
 渡瀬は首をすくめて向こうへ行った。
 キノコは大きく息を吐き出し、そこに置かれた丸い椅子に腰を下ろした。
「何やってんだろ、でも、もう歩く元気ないよ、」
 あの坂を下りて出来た靴擦れ、酷く足に倦怠感が残っている。
「何で、私なのよ、」
 洗面所の鏡に映る自分を見る。
 絶対に人前で下ろさない髪は濡れていても纏め上げたまま。
 黒ぶちの眼鏡が落ちかかるのを手の甲で持ち上げる。
「軽い女に見えないよね? 可愛いというわけじゃない。何が気に入った? ただの嫌がらせ? 女を束縛したいという欲求のためだけ? それならもう少し可愛くて素直なほうがいいでしょうに、何で私なんか、」
 キノコがため息をついたとき、渡瀬が中を覗いた。
「何?」
 キノコが顔をしかめる。
「そんなに時間掛かるかなぁと」
「別にすること無いんでしょ? どこに居たっていいじゃない。……、ねぇ、もう一度聞く。何で私で、何をしようとしてるわけ?」
「一緒に居たくて、変えたいだけ」
 キノコはため息を深々とつく。
「別に何もしなくていいよ。いつもどおりでいてくれればいい」
「意味わかんない。別にすることも無ければ私じゃなくていいじゃない。何で、何で私なのよ」
「何度も聞くね、ちゃんと答えてるけど、」
 キノコは立ち上がって渡瀬の横を過ぎようとするのを、渡瀬に腕を掴まれ壁に押し付けられる。
「俺はキノコに興味があって、一緒に居たいと思った。それだけ」
 キノコはしっかりと掴まれた両手を逃そうと体を動かすが「流石」男だ。力は強い。
 渡瀬の顔がキノコの首に近づく。
「PPPPP蹴りますよ」
 渡瀬は苦笑いを浮かべて手を離した。
「本気でやりかねないからね、君って」
 渡瀬は先に部屋の方へと行った。
 キノコもついで部屋に行く。
 玄関正面に掛けた時計が六時半を指していた。
「夕飯……」
 キノコの言葉に渡瀬は台所を指差した。
「適当に」
 キノコが台所を見ればインスタント食品が大量買いされていた。
 キノコはため息をついて冷蔵庫を開ける。
「まるで無し……」
 冷蔵庫はただの箱だった。
 キノコはため息をつくとインスタント食品を見た。
 カップ麺が2個ずつ9種類、レトルトカレーも2個ずつ4種類。レンジで暖めるご飯3個入りが6個。缶コーヒーがひとケース。
 キノコはため息をついて、
「栄養価の高い食事だこと」
 と渡瀬を見る。
 渡瀬は何の反応も無く海を見ているだけだった。
 夕食は酷く虚しいものだった。
 並んだカップ麺2個。ただすする音がするだけ。
 キノコはソファーに座り、黙っていた。
 時計の音などここ久しく聞くということは無かった。
 テレビも無く、オーディオも無い。まったくの沈黙の中渡瀬が開けている窓から海と、ごくたまに通る車の過ぎる音が聞こえるだけだった。
 することもなくて何もせずにやっと七時半。
 キノコはため息を落とす。
「また」
 キノコは渡瀬のほうを向くと、ゆっくりと立ち上がり、椅子を持ってこちらへ来る渡瀬が
「またため息をついた」
 と言った。
「そうね、渡瀬さんはため息なんかつかなくても楽しそうですからね、」
 キノコの言葉に渡瀬はソファーに鍵を放った。
「何?」
「車のかぎ、運転できるよね? 帰れば?」
「……渡瀬さんは?」
「誰かに迎えに来さす」
「そんな手間じゃない。それに人の車に乗れるほど巧くないし、第一渡瀬さんが連れて来たんだから連れて行ってくださいよ」
「俺は連休をここで過ごす。家に帰る気はない。でもキノコは帰りたいんだろ? じゃぁ、帰ればいい。そう、連休最終日にでも迎えに来てくれたらいい」
 渡瀬はそう言って椅子に座り、缶コーヒーを開けた。
「そういうことしないだろうとかって思って言ってます?」
「別に、逆にするだろうと思うけど」
「私結構めんどくさがりなんです。運転も好きじゃないし、たとえ今日、今から帰ったとしても迎えになんか来ませんよ」
「いいよ、ひっそりとここにいる」
「はぁ? 何言ってんですか、」
 渡瀬は立ち上がるとキノコの隣に座り、ゆっくりと頭をキノコのほうに倒す。
 キノコはすばやく立ち上がり渡瀬を見下ろす。
「残念」
 そう言ったが別に残念がっている風は無い。
 キノコは渡瀬が座っていた椅子を持って部屋の隅に向かった。
「帰っていいよ、」
「服が乾かないんじゃ、帰れませんから」
「そ、じゃぁ、鍵はここに置く」
 渡瀬はそう言って鍵は机に置き、ソファーに足を投げ、腕を顔に乗せた。
 キノコは隅に背中をあてがい座っていたが、本当にすることも無いと眠気がきてしまう。でも、ここで眠ると何かされたとき同意のもとだと言われてしまう。そう言うと気ほど睡魔は襲ってくる。
 あ、触った。
 キノコがばっと目を開けるのと、渡瀬がキノコを抱き上げたのと同時だった。
「ちょっと、止めて、放して、下ろして」
 腕を振るえるだけ振り、爪を立てれるだけ立てる。
 渡瀬の顔や肩、背中に命中しただろうに、渡瀬は顔をしかめてベットまで近づくと、さすがに我慢できないようにキノコを放り投げた。
 どすんと下ろされたキノコは渡瀬を見上げる。
「そこで寝るんだ」
「でも、」
「でもじゃない、女が居るのにベットを使う男じゃない」
 渡瀬はキノコに人差し指を突き出しそう言うと、ソファーに向かいながら腕をさすった。
 ソファーに寝転び、痛みを堪える様に呻いた。
 キノコはベットに座り渡瀬を見つめた。
「電気消す。一応豆球はつけておくけど」
 と渡瀬は電気を消した。
 時計の針がゆっくりと分を刻む。それを暗がりで見つめる。
「寝ろよ、何もしないから」
 暗がりでぼんやりと座っているのが解るのだろう。
 キノコは枕元へ行き、壁にもたれてタオルケットで体をくるむと、ひざを抱えた。
 うつらうつらと頭が動くたびに目を開け渡瀬のほうを見る。
 ソファーからはみ出した長い足、寝苦しいらしく寝返りを打とうとするけど打てなくて諦めの息をこぼす。
 キノコはベットを見た。シングルサイズではない。ダブルなのだろうか? 見たことが無い広さだ。これなら端と端に寝ればいいじゃないか。でもそれを口にしたら同意したことになるのだろうか?
 それがどうしたと言うのだろうか、たった一度じゃないか。目を閉じていれば直ぐに終わる。その儀式に意味は無い。なら別にあれほど―さっき運んでくれたほど手足をばたつかせて―拒否することは無いじゃないか。
 そうやってまで守る価値は、もう無いものかもしれないのに。
 キノコはこの前佐倉と姫に言われた言葉を思い出した。
「じゃぁ、結婚しないの? 仕事つったって、パン工場の従業員で、何に一生を捧げるのよ。男は要らないって、あんた、」
「要らない訳じゃない。しょうがなくなれば、」
「しょうがなくって?」
「年取って、よぼよぼで面倒見てもらうときには、金で買うわよ。若い男を」
「何よそれ、こう好みって無いの?」
「好きな人は居る。でも、それは憧れ。あんな夫婦になりたいという願望の象徴」
「不倫?」
「してるか! そういう下世話なことはしないわよ」
「あんた、正直付き合ったことあるわけ? 男と」
「無い」
「無いときっぱり言ったか、……処女?」
「相手が居ないんじゃぁ、そうだろ?」
「居たよ、ここに。天然記念物だね」
 キノコがため息をついた。
―また、ため息をついた―
 渡瀬の言葉を思い出し口を尖らせる。
「あのぅ。起きてます?」
 眠っていたならば邪魔しない程度の音だ。
「どうした?」
 起きていて耳ざとくなっているようだ。躊躇無く答えた。
「あの、その……。結局のところですよ、結局のところ、セ、セ、セ……」
 渡瀬が体を起こした。
 キノコはつばを飲み込み咳払いをして
「セックスをすれば帰してくれるんですか?」
 と言い放った。
 静寂がさらに静けさをまとう。
 場違いな台詞だった? でも、それ以外、女を軟禁する理由が解らない。
「なんだって?」
 渡瀬の語彙には怒りが含まれている。
「いや、だから、こんな辺鄙な場所につれてくるんだから、それが目的で、それで、」
 渡瀬からは何も返事がない。返事は無かったがしばらくしてソファーを離れベットに近づいてくるのが解った。
 キノコは壁に強く背中を押し付けた。
 ベットに渡瀬がひざを乗せた。そして手、そして体がキノコに近づいた。
「そうしたいのか?」
 身がすくむほどの軽蔑を含んだ声にキノコの顔がゆがむ。
「だって、」
「もしそれなら有無を言わさずとっととやってる。帰る方法も言わず、ここに入るなり腕を縛り上げ、猿轡をかませて、抵抗すれば殴って、さっさとやってる。掃き溜めの様に何もかも吐き捨てて見捨ててとっくに帰ってる。そうして欲しいのか?」
「そんなわけ無いでしょ、でも、こんな場所に、」
 渡瀬の顔が直ぐ側に近づいている。声が出ない。別に腕を押さえられているわけでもない。拘束されていない。でも、
 ―怖い―
 はらりと涙が落ちた。それをどうして知ったのか解らないが、渡瀬は直ぐに身を引き顔を覗くような姿勢をとった。
「な・い・て・るのか?」
 キノコはひざに顔を落とした。
「ごめん、脅すつもりじゃなかったんだ。ただ、あんまりなことを言い出したから」
 渡瀬は直ぐ手の届くところに座ったまま何も言わなかった。
 キノコが泣き止むのを待っていた。
 少しだけ泣いて、直ぐに涙は止まったが、キノコも黙っていた。
「今はもう遅い。明日の朝送る」
 渡瀬はベットから立ち上がるとソファーに向かった。
 キノコは息をつき俯いた。
 酷い言葉だとは思った。考えていたときにはそう思わなかった。最適な、妙案だと思った。でも口にして、あれほど怖い思いをして解った。少なくても渡瀬はセックス目的で連れてきたのではないのだ。
 キノコはひざを抱きしめいつしか辺りは白々と夜が開けてきていた。
 電気が無くても辺りが判別できる。時計は六時半を指している。なんだかんだと言いながらキノコは横になって眠っていたようだった。
 キノコが体を起こすと渡瀬も眠っているようだった。
 ―お腹、すいたなぁ―
 だが、想像する食材はあの味気ないレトルトだ。ああいう物は肉体的精神的疲労時に食べるからありがたいものであって、今はおいしいものが食べたいと思っているときには、あれは愚材にすらならない。
 車の鍵が目に入る。
 バスルームに行けば服は少し湿っていても着れなくはなかった。
 着替えると鍵とカバンを掴んだ。
 玄関が閉まると渡瀬は目を開けて体を起こした。床を見つめ、時計を見上げる。
 ―あと、二時間したら家に電話を入れよう。それまで、眠ろう―
 ソファーに深く体を沈めた。
 キノコは坂を下りながらますます「眉間」に深いしわを作った。
「私、こういう、道、大っ嫌い!」
 がたがた道上に昨日の雨でところどころがぬかるみ、しかも他人の車。車幅はキノコの乗ったことがある車より大きい。
「嫌い、嫌い、嫌いーーーーーーーーーー!」
 やっと県道だか、国道だか、とにかく舗装された道に出たときには、まだ涼しい時間ながら大量の汗を流していた。
「右? 左? ……、えぇい、右じゃ!」
 がりがりがり(汗)。他人の車に傷をつけながらキノコは車を右、東へと走らせた。
 右手には朝の海が広がる。
 しばらく走ると魚河岸がすでに開かれていて活気付いていた。
 キノコは車を停め、何度も深呼吸をして下りると、見たことのない車とキノコに視線が集まる。
「これ、渡瀬さんの車じゃないの?」
 ぎょっとして振り返ると、キノコを怪しく見る中年婦が立っていた。
「えぇ。借りてきたんです」
「借りてきた?」
「あの山の家? あそこに居て、」
「……渡瀬さんは?」
「多分、寝てます」
「あんた、渡瀬さんの彼女?」
「まさか」
 否定したがその一言はてきめんだった様で、キノコは「渡瀬さんの彼女」になってしまった。
 苦笑いで訂正するキノコを無視して、
「で、その彼女がどうしたわけで?」
「いや、食材の調達です。あの家、カップ麺とか、レトルトばかりで、貧しくて」
 中年婦は大笑いをし、
「じゃぁ、いい物をあげる。ついておいで」
 と中へと案内してくれた。
 「渡瀬さんの彼女」は偉く歓迎された。
「あの、渡瀬さんて、有名人ですね」
「そりゃね、もともとあそこは愁君のお父さんが育った家だったのよ。貧乏でねぇ。でも一代であの大きい会社作ったけど、時々週末にやってきてたの、愁君も。二十歳のとき名義もリフォームもして愁君の家になってから、そうね、家を継ぐって言うまであそこに居たのよ、愁君。時々早起きして漁に出たり、この市場でも働いたりして、でも最近来なかったのよね。忙しいらしいから」
 中年婦は懐かしそうに話を続けた。ほとんどがいい人なんだと言う内容だった。
「これ、焼き蛤にしたらおいしいのよ、作り方知ってる?」
「いえ、こんな大きい蛤見たことないから、」
「街の子?」
「街、なんですかねぇ?」
「網焼き、これ持って行きな、これの上に乗せて口が開けば食べれるから、お醤油垂らして、食べたらいいわ。これは採れたてのわかめ、」
「味噌汁にいいですね」
 中年婦はいろいろと食材を持ってきた。
 キノコは遠慮なく頷いてもらう。
「それで、あんたたちいつまで居るの?」
「……、今日の昼には、帰るかと、」
「そうなの? 明日の夜、花火大会なのに」
 キノコは中年婦が指差したポスターを見る。
 日曜の夜―翌日は海の日なので日曜にするらしい―八時から打ち上げ花火をするということを書いていた。
「……、一応相談してみます」
 キノコは返事を待っていた中年婦に思わずそう答えてしまった。
 大量の食材はゆうに三日分はありそうだった。助手席に乗せて運転席側に行こうとした時、
「これ、食べな、まだ暑くはないけど」
 と中年婦が持ってきた。
「カキ氷ですか?」
「愁君に、要るなら取りにおいでって、そう言っといて」
 キノコは頷く。
 その視界に服屋が目に入った。
「あそこって、服屋ですか?」
「そうよ、」
「まだ、開いてませんよね?」
「何、服ないの?」
「急にきたもので、これだけで、」
「まぁ、ちょっと待ってな」
 そういうが早いか、大声で服屋の名前らしい名前を叫ぶ。二階の窓から中年ふと同じとしか、一つ下ぐらいの人が顔を出した。
「ちょっと、店開けてやってよ」
「何で、」
「愁君の彼女の服、ないんだって」
 「渡瀬さんの彼女」という肩書きはとても有効らしい。
 店は直ぐに開き、キノコは中でTシャツと、ズボンを買った。
 そんな地味な。と言われたが首をすくめてそれだけを買ってあの坂道の家へと帰った。
 がりがりがり(汗×2)両方に多分きれいな線が出来たはずだ。
 キノコは鼻で笑いながらやっと上り終えると誓った。絶対にこの車を運転しない。
 キノコが家に入ると渡瀬は深い呼吸をしていた。
 台所に行き、言われたとおり蛤を網焼きの上で焼く。味噌汁を作り、玉子焼きを焼き、獲れたての魚の刺身を切る。
 ハマグリが口を開けるまでかき氷を食べながら鼻歌を歌う。
 渡瀬は匂いと音に目を開ける。
 鼻歌を歌いながら皿に玉子焼きを盛り付けているキノコが居る。
 渡瀬はゆっくりと体を起こす。
「あぁ、おはよう。朝ごはんちょうど出来た」
 口の開いたハマグリに醤油を垂らし皿に乗せてキノコが机に乗せた。
「帰ったと、」
「お腹すいたから、レトルトじゃあまりにもかわいそうでしょ。私が」
 キノコはそう言うと手を合わせて食べ始めた。
 ご飯はレンジでチンのご飯なのが少々不服だった。
「キノコちゃん!」
「は、はい?」
 キノコが慌てて玄関を開けると、市場に居た中年夫と中年婦が笑いながら立っていた。
「どうしたんですか?」
「これ、畑で取れたナスときゅうり」
「うちで獲れたから不恰好だけどね」
「すみません」
「愁君は?」
「……起きたてで不機嫌最悪状態ですけど、」
「じゃぁ、いいわ。じゃぁね」
「ありがとうございますぅ」
 軽トラが坂を下るまで見送り家に入る。
 渡瀬が顔をしかめていた。
「これ全て渡瀬さんの彼女がもらってきたもの」
「は?」
「そういうことになっちゃったの、訂正したのよ。まったく聞きゃしない」
 と言いながらキノコは玉子焼きを頬張った。
「あ、明日の夜花火大会があるんだって、来て欲しいってよ、」
 味噌汁を飲む。
「食べないの?」
「いや……、いただきます」
 キノコは出来るだけ顔を合わさないように俯いたり、碗で顔を隠して食べた。それでも、インスタントやレトルトではない満足感を得てキノコは微笑んだ。
「旨いよ、」
「この年になるとね、親が「料理ぐらいは作れとけ」って料理学校に行かしたりしたからよ。料理が出来るだけで結婚できると信じてるから、うちの親」
「しないの? 結婚」
「相手が居ないのに? 居てもどうかな、紙切れで縛られて融通が効かなくなる時だって平気かなぁ? それほど自由奔放ではないけど、でも、二の足踏むかな」
「金?」
「何が?」
「金銭的な理由?」
「……、そういうのはどうにかなる気がする。いや、実際だとそんなこと言ってられないのかもしれない。でも、精神的なこと。好きとかじゃなくて、価値とか、本質と言うか、つまり、そうやって何だかんだとごねるだけで、結局相手が居ないから僻んでいるだけ、私は結婚なんてものに縛られてなくて自由なのよって。でも本当はそんなこと抜きでしたい相手を探しているんだろうけど、どこに居るのやら、探しに行くのも、この年になると億劫でね」
 キノコは笑い、自分の食べたものを台所に下げた。
「洗うよ」
「いいよ、」
「男が台所に立つの嫌い?」
「別に、ただ、その気分の悪そうな顔色じゃなきゃ頼むって言うだけ」
 渡瀬はキノコに言われ、ふと目に入ったガラスに映る自分の顔を見た。
 確かに浅黒くて、不機嫌そうな顔をしている。だが、
「それは、キノコも同じ。寝てないだろ」
「寝たよ、知らぬ間に」
「手は出さないって言ったのに、」
「解ってるよ、でも、寝れなかったのよ。人に窮屈な思いさせといて自分だけ悠々自適になれない性分だと昨日知ったんだから。驚いたねぇ。私」
 キノコは笑いながら皿を洗い、終わるとベットを指差した。
「ジャンケンしましょ、勝ったらベット、負けたらソファー」
「だから、」
「いいから、昼寝ならソファーで十分」
 キノコが首を傾げる。
 渡瀬は頷く。
「あ、その前に、車の両サイドに新しい模様をつけといてあげたから」
「……、お前ソファー」
 渡瀬はそう言うとベットに向かった。
「あ、ちょっとジャンケン」
 渡瀬は手を振りベットにもぐった。
 キノコは頬を膨らませたがソファーに横になった。
 体が酷く重力を感じる。満足した気分の中深く深く沈む。
「……いいのか?」
 キノコが目を開けると、キノコはベットに寝ていた。
「な!」
「十時。バスに乗るならもう出なきゃ間に合わないぞ」
 キノコは時計を見た。確かに十時少し前で、今から坂を下りても十分だったし、車で送ると言うならなおさら十分な時間だ。
「……、車で帰れるから、いい、寝る」
 睡魔は年とともに酷く体を支配するものだとキノコは思う。
 いくら寝ても疲れは取れない。この疲労感はいつになればどっかへ行くのだろうか? と思いながら蓄積され続けている。
 キノコが目を開ける。
 渡瀬がまだ腰をかけているからだ。
「何?」
「女の人の寝顔見たの何年ぶりだから」
「……、好きな女じゃないと皆不細工でしょ、」
 キノコは寝返りを打つ。
 渡瀬は首をすくめる。
 キノコはベットの端へと体を動かす。
「どうしたの? 別に何も、」
「しんどそうよ、寝たら?」
 渡瀬は言葉を掬われ黙った。だが直ぐに横になった。
 背中側が沈む。
 しばらくすると二人の寝息が揃った。
 昼過ぎ、「キノコちゃん」の声に目を覚ませば、そうめんを湯がいただの、漬物を切ってきただのと昼ご飯が用意された。
「慕われてるのね」
「昔住んでたから」
 そうめんをすする音。
 海風がふっと入ってくる。
「ねぇ、変えたいって、何を変えたいの? 私にはそのままでいいって、何を変えたいの?」
 キノコが言うと渡瀬は箸を置いた。
 また、怒らすような質問だったのだろうか?
「俺自身」
「何で?」
 渡瀬はそれっきり黙りこんだ。
 夕方また誰かが食料を運んできてくれても、渡瀬は一度も顔を合わさず海の見えるテラスに出て椅子に座っているだけだった。
 夕飯も黙々と食べ、キノコが片付けをし、シャワーから出てきてやっと渡瀬は口を開いた。
「帰らないのか?」
「……、そうね、忘れてた」
 嘘じゃなく本当に帰ると言う事を忘れていた。渡瀬が黙り込んでからずっと渡瀬が気になり、あのまま暗くどっかに沈んだままになりそうな渡瀬を一人にしておけなかった。
「変なの、」
「人の事言えないわよ」
 渡瀬は頷き、海側のベットに腰掛けた。
「つまらなくなってきたんだ」
「何が?」
「全て、」
 キノコは黙って先ほどまで渡瀬が座っていた窓際の椅子に腰掛けた。
「何で?」
「親父が倒れて、二世だの、親の七光りだの、いろいろ言われてもがんばった。がんばって、がんばって、実力を認めてもらった。認めてもらい、俺よりも年上の人も、俺を認めてくれた。そうしたら、急に、」
「燃え尽き症候群?」
「そういう奴」
 キノコはまとめていた髪をばさっと解き、タオルで水気を取る。
 渡瀬はその姿を見つめながら、
「そんな時、電車の中で啖呵切っているキノコにあった。最初はなんて女だと思った。口は悪いし、酷い女だと。でも、気分良かった。あれだけの悪態は冗談抜きにしても女の口からは聞きたくない。でも、キノコがそれを楯に戦っているように見えた。本当はそんなこといいたくもないのに、言わなきゃ負けるって、物凄い重装備を感じたんだ。まるで俺……。声を掛けたのはちょいとしたからかいもあった。でも、話をして、自転車に跨って帰る姿を見送って、居なくなった寂しさを感じた。キノコと居たら、気が楽で、鬱々としていた自分が少しだけ前向きになった気がした。だから、一緒に居たいと思った。確かに、順序とか、段取りとか考えずにいきなり連れて来たのは悪かったと思う。でも、そうしなきゃいけないほどキノコは人の話しを聞かない。いや、俺の話をか。とにかく、強硬手段に出て連れて来た。でも、昨日の涙は……、そう思うよな、いくら帰る手段があっても、目的なんか一つだって、でも、ちゃんと言えるほど俺はまだうつうつから立ち直ってないんだ。この話しもどうでもいいと思うから言える。キノコにちゃんと伝えようと決めたわけじゃない。半ば茶化す気で話してるから、」
 キノコは渡瀬の隣に座った。
「変なことするなよ。先に言うけど……。ありがとう。話してくれて。あたしは純粋に素直じゃないから、褒め言葉を上手に受け取れないように出来てる。プレゼントをもらってうれしいのに、顔は無表情。眼鏡におさげはブスだから、ブスと言われたら相手を攻撃する手段として暴言を吐くようになった。性格ブスは顔にまで反映されるのにね。私と居て楽になったりすると言うのはどうかとは思うけど、昨日よりは嫌いじゃないよ、ここ」
 キノコは渡瀬のほうを向いて微笑む。
 渡瀬も口の端を緩める。
「夜の海って怖いねぇ。吸い込まれそう」
「そう願うけど」
 キノコが渡瀬の手を握った。
「水死体は水脹れしてみっともないと聞くよ、せっかく美形に生んでもらったんだから、そういう手段は良くない。首吊りは穴という穴からなんかが出てくるというし、」
「どういう情報?」
「好きなのよ、サスペンスドラマが」
 渡瀬が鼻で笑った。
「馬鹿にしないでよ、サスペンスの女王が好きなんだから」
 キノコが頬を膨らませる。
 渡瀬がキノコの膨らんだ頬に顔を近づける。
 キノコが渡瀬の肩を押す。
「……ごめん」
 同時にそう言って黙る。
 キノコの手はまだ渡瀬の手を握っている。この手を離せば彼はまた海に吸い込まれたいと椅子に行くだろう。離せなかった。
「こ、こんな性格だからね、付き合ったことないのよ、」
 キノコが乾いた笑いをする。
「だから、だから、」
「言わなくていい。同情に漬け込むのは良くない。俺が悪いんだから」
 渡瀬は立ち上がりソファーに向かった。
 キノコはため息をついて俯いた。
 キスぐらいなんでもないじゃないか。抵抗なんて、何でしたんだろう……。
「あ、あのね、」
 キノコは少し考え、
「明日送ってくれると言うのはすごくありがたいし、ここに居る理由はないけど、でも、なんかね、居てもいいかなぁって。別に何するわけじゃないけど、……そう、またあの蛤食べたいし。だから、」
 渡瀬が首をかしげている。驚いているのだろう。じっとキノコを見ている。
「だから……居ていい?」
 キノコはそう言って直ぐタオルケットで顔を隠した。
 上目遣いで渡瀬を見ると微笑んで頷いた顔が見えた。
 こういう台詞と言うのは酷く恥ずかしい。よく他人はこういう言葉を交わす。多分、これから先もこんな言葉は吐かないだろう。PPPPPPと連呼しているほうが随分と楽だ。
「でも、でも、でもさ」
 キノコは慌てて話題を変えようと渡瀬に背中を向け、海のほうを見た。
「海に来て水着なしって言うのは寂しいよねぇ。まぁ、海に入るのってどうも苦手なんだけどね。プールも人がいっぱいで涼みに行ってるのに暑苦しいし、まぁ、どこ行っても熱いに変わりないんだけどね。そういえば明日花火大会でしょ、花火を冷房の効いた部屋でビール片手に枝豆頬張ってみるなんてたぶん一生の贅沢だよね。冷奴とかさ、あと、オクラとトロロの梅酢なんでのもいいよね」
「親父だな思考が」
「まぁね、おばさん化よりおじさん化が進んでるとはよく言われる」
「ここからでも花火は見える。ビールに豆腐に枝豆だっけ? 買いに行くか、明日」
「いいねぇ。って、でも魚河岸しかなかったよ」
「知らないだけ、地元だから」
 渡瀬の笑顔が変わった気がした。いや、変わったと思う。なんだかすっきりしたような顔をしている。キノコに話してすっきりしたのか、誰でも良かったのかもしれないが、誰かに話して気が楽になったのだろう。
 キノコも自然と笑顔が出る。
 キノコが渡瀬に近づき小指を立てる。
「約束、変なことしないで、約束したら、ベット半分貸してあげる」
「俺のだから、」
「いいから、ほら」
 小指を絡ませ昔ながらの約束をする。笑顔がこぼれ、自然と歯を見せて笑っている。
 台所の豆球をつけ二人してベットに並ぶ。
「星が見える」
 キノコが外を見てボソッと言う。
「撤去するって言ってたんだ。こんな辺鄙な場所誰も買わないし、でも家って言うのはいろいろと手入れも要るしって、でも、週末には帰りたいからって建て直して、でも、この家が建ってこんなにゆっくり出来たのは初めてだ。週末は気が狂いそうなほど忙しかったし、ここまで来る気さえそがれてたから」
「えらく大変な仕事なのね、あなたの仕事って」
「そうだね、親父は偉いよ。俺はその土台の上に乗っかっただけ、周りの人がいい人だから助かっただけ、親と同じ道を進もうなんて思っちゃ居なかったし、」
「そうなんだ。社長と言うレールからわざわざ外れようとしたんだ。変わりもんねやっぱり」
 キノコが渡瀬のほうへ寝返りを打つ。
「キノコは? キノコは何であの会社に?」
「高卒でいくつも試験受けて受かったところ」
 キノコの言葉に渡瀬は首をすくめた。
「パンが特に好きなわけじゃない。物を作ることが好きなわけでも、でも水が馴染んだんでしょうね、もう十年。あとから入ってくる子が皆寿退職して、あとは皆既婚者のパートばかり、おばさんとかってネチネチと派閥作るからそれを作らないように適当に裁いてると、おじさん化しちゃったらしいのよね」
「困った職業病だ」
「まったく」
 雨の音がした。
 キノコが体を起こすと雨が静かに降って来た。
「車の通りも少ないから雨の音が良く聞こえる」
 キノコの言葉に渡瀬はその髪の房を掴みながら
「何で、キノコ?」
 と聞いた。
「あだ名よ。保育園からの。ずっとずっとキノコ」
「本名は?」
「さぁ、忘れた。っていうほどなかなか本名を呼ぶ人が居ないの。親も、キノコって呼ぶくらいだから」
 渡瀬が眉をしかめる。
 キノコは髪の房を引っ張るとどすんと枕に沈んだ。
 言い得ない空気が流れる。寝返りを打つべきか、このまま眠るか。
 渡瀬が背中を向けるように寝返りを打った。
 キノコは内心でほっとして仰向けに寝返った。
 かすかに触れる温かさにキノコは目を閉じた。
 昼前、キノコと渡瀬は買い物に出かけた。
 昨日買った服を着たキノコに渡瀬は眉をしかめる。
「昨日買ったの」
 とさらりと言って、車の傷も胸を張って
「いい模様だ」
 と言った。
 渡瀬は慣れた手つきで坂を下り、魚河岸を過ぎて商店街に向かった。
 渡瀬が車から降りると顔見知りが近づいてきた。
 渡瀬の笑顔にキノコもやんわりとした顔になる。
「あら、キノコちゃん。愁君連れてきてくれたんだ」
「ビール買いに、」
 首をすくめると、人の輪から笑い声が湧き上がった。
 遠慮なくと勧められた店先で宴会が始まり、そこで昼をご馳走になる。
 焼き蛤と獲れたての魚の刺身丼。
 笑うしかない会話。会話の内容などまったく覚えていないのに、笑い疲れて夕方夕飯まで食べ終わって帰ってきたときには二人して疲れきっていた。
「こんなに笑ったの久しぶりだ」
 渡瀬はそう言ってベットにごろんと体を放った。
 キノコは買ってきたビールを冷蔵庫に入れ、枝豆を火に掛け、バスルームに向かった。
 シャワーの音がする。
 海からの風がふわっと入ってくる。ますます夏本番となるだろう熱い風だ。
「お先」
 キノコはそう言って洗いざらした髪を纏め上げ、いい加減に茹った枝豆をザルに上げた。
 渡瀬は、キノコの台所で何かをして動いている姿を見る。
「いいもんだ」
「はぁ?」
「女の人が台所にいるのって」
「裸にエプロンのほうがいいって?」
「それにこしたことはないけど」
 キノコは声を立てて笑い、ビールと枝豆を持ってベットに来た。
 ビールを手渡すと渡瀬がいつも座っている椅子を引き寄せ、それに枝豆の入ったざるを乗せた。
 枝豆を口に入れる。ふっくらと、よく日を受け身の大きな豆が口の中にごろんと落ちた。
 ビールを開け打ち鳴らしくいっと口に含む。
「そろそろじゃない?」
 キノコが電気を消しに行く。
 ベットに腰掛け、ビールを口に運ぶ。
 花火が上がった。直ぐに音が聞こえる。
「たまや〜」
 キノコの言葉に渡瀬も笑う。
「明日、午前中に送る」
 キノコは頷く。
「あ、車の修理代、」
「払う気あるの?」
「あ、払わなくていいなら払わない」
 渡瀬は鼻で笑いビールを口に含む。
 花火は大きく上がり、広がり、風が煙を運ぶおかげでずっときれいに見た。
「こういう時ってさ、浴衣とかの方が色気あるよね」
「俺はミニスカートかな」
「夏は浴衣でしょ、」
「温泉場は浴衣かな」
「なんか妙ね」
「そうかぁ? 夏祭りにミニスカート。いいじゃん」
「浴衣でしょ、でもあれってぞうりで噛むんだよね。痛いんだ」
「ならミニスカート」
「桜島大根大安売り二本組み。を見たい?」
「……いや、それは遠慮する」
「でしょう?」
 笑い声が少し乾いてきた。
「もう一本飲む?」
「あぁ」
 冷蔵庫に取りに行くがキノコは思った。今夜は酔わないな。
 どうも辛気臭く明日別れるリミットを感じて、おセンチにも「もう少し居たい」などと思っているのが妙だった。
 多分、別れを惜しむ恋人たちって言うのもこういうセンチメンタルな気持ちをいやというほど味わっているのだろう。
 恋人でも、なんでもないのにこれだけセンチになるのだから、恋人となればどうなるか。
 結局二人とも缶ビール―500ml―を三本空けたが酔うことなく横になった。
 二人して仰臥し、手を握って眠る。
 心中するわけでもないのに。と内心で笑いながらもそれを解くことはなかった。
 翌朝。キノコと渡瀬は現実世界へと帰った。
 家に帰って両親の第一声にキノコは眉をしかめた。
「男が出来たって? どんな人よ。え? もう帰ったぁ? ちゃんと引き止めるのよ、あとはないんだから」
 どういう意味だ。と思いながら部屋に帰ると志保が全て見通しと言う顔で立っている。
「何もなかったわよ。期待すべきことはね」
「そう、あたしはちゃんとしてあげたのに」
 志保の言葉が解ったのは翌日だった。
 急展開だとしても、すっかり存在を忘れていたとしても、無断欠勤はまずい。と思っていたが、
「大丈夫だった? 妹が声も出ないくらいの風邪を引いて。って電話してきてくれてさぁ。大丈夫?」
 キノコはこの三日夏風邪で声が出なかったらしい。志保の「ちゃんとしてあげた」はこのことのようだった。
 キノコはその日おとなしくしていた。笑えば嘘がばれる。わざとまだ直りかけのような嘘咳をする。
 昼休み、弁当を広げたキノコに外線が入る。
「キノコ? 今すぐ迎えに行く」
「は、はい?」
「面倒がおきて、とにかく、早退できないか?」
「と、言われても……」
 キノコは部長に所要が出来たんで早退したいと頼む。
「まぁ、キノコちゃんは良く働いてくれてるし、病み上がりだからね、無理しないように」
 キノコは思った。いやいやでも毎日来ていればこういう時、勘ぐられずに帰れるものだ。まじめに無遅刻無欠席を守ってきた甲斐があった。
 キノコが家に帰ると、眉をしかめている渡瀬がすでに待っていた。
「何があったんです?」
「今からちょっとうちに来て欲しいんだ。わけは車の中で話すから、乗って」
 キノコは首を傾げて車に乗り込む。
 車は少し機嫌悪く発進した。
 キノコが渡瀬を見る。
「親父の耳にキノコと居た三日がばれたんだ」
「あら。何で?」
「魚河岸の人が嬉しがって電話したんだ。彼女と来てたって、結婚式はぜひあそこでも開けって、それで、つれて来いって、」
「ちょ、ちょっと待って、そういうことなら付き合ってる人を連れて行けばいいじゃない」
「じゃぁ、聞くけど、キノコが誰かと付き合ってて、三泊してもないのにした振りをして一緒に行ってくれと言われて頷ける?」
 キノコは何も言えずに口をパクパクさせたあと、ため息を落とした。
「それにそんなやつは居ない。でも、連れて行かなきゃとことん探すと言い出して、」
「何で?」
「跡取りの心配だと、」
「はぁ?」
 渡瀬の話ではそう言い出したのは父親ではなく伯母だと言う。父親の姉で、父親が絶対に頭の上がらない人らしい。豪傑で、父親が最初に立てた会社で経理として手腕を振るっていたと言う人らしい。その人が、どこの馬の骨とも知らぬ女、あたしが見定めてやる。と言い出し、連れて行かないと抵抗したら、草の根分けてでも探し出すと息巻いていると言うのだ。
「なんなの、そのおばさん」
「会社を大きくした一端は自分にもあると、株主でもあるし、母親がしっかりしていない―そんなことは決してないんだが、おばさんの性格上そう見えるらしい―だらけた躾をした結果、どうせそこら辺の女に引っかかったんだってね。見つけたら手切れ金をよこせとか、いろいろと恐喝しに来るとか言い出して、収拾つかなくなって、」
 キノコは深くため息を落とした。
 渡瀬の心労は仕事を継いだより、そのおばさんからの妙なプレッシャーの所為じゃないかと思えだした。
 渡瀬の家に着いた。流石はショッピングモールの社長だけあって大きい。
 玄関から応接間まで「廊下」というものを通る。
 キノコの家の廊下は多分、板の敷いた隙間。かもしれない。廊下と言うのは本来こういうものだろう。などと思いながら応接間へ連れて行かれてぎょっとなった。
 すでにご親族ご一行様が座って待っていた。
 キノコが身を引き眉をしかめると直ぐ、例の「叔母さん」が口を出した。
「まぁ、入って挨拶の一つもなく、なんなの、よその家に来るのにジーンズなんて、育ちが解るわね」
 と開口一番そう言い放った。
 キノコは渡瀬が頷いた椅子に座る。
 だが、口を開こうとはしなかった。ただじっと自分を値踏みしている親族たちを見返した。
「何か言うことないの? うちの大事な跡取りをそそのかし、挨拶の一つも出来ないなんて、社会人として根本的に失格なんじゃないの?」
 伯母さんの嫌味にキノコはちらりとそっちを見たが再び目を動かし、非常に渡瀬に似た人に目を留める。
「……、あの別荘、とても素敵でした」
 キノコはそう言って立ち上がると彼の前に行き、
「始めまして、木下と言います。渡瀬さんとは私が勤めてます製パンの関係で知り合いました。想像している様な色っぽい関係には生憎と成れず、どうも、嫌われているようです、私」
 と言って頭を下げた。
「そう……、中平と、安岡、この前工場の案内をしていただいたうちのものから聞いてます。好印象でしたよ、三人とも」
「そうですか? 猫を被った甲斐がありました」
 キノコが微笑むと、叔母さんが肘置きを叩いて声を荒げた。
「何を言ってるの! その女は愁をかどわかそうとしたのよ! 実際この女も言ったじゃない、」
「ねぇさん」
 元社長、渡瀬の父が眉をひそめた。
 キノコはため息を落とし伯母さんの方を振り返った。
「いい年した婆が、何わめいてんだよ。みっともない。若さがなくて、会社の権利が甥に移ったから自分の立場が危ういと感じろうとそもそもてめぇの財産じゃねぇだろうが、てめぇが能天気に井戸端会議をしている間どれほど頭を下げ、どれほど馬鹿にされ、二代目だとか、誹謗中傷、ねたみ、嫉みに遭って来たか知らぬくせに何えらそうなこと言ってんだよ。てめぇのどら息子はどうなんだよ、おじさんの会社の役員だから別に仕事をしなくても給料は入る。贅沢な車に女遊びしまくってんだろうが! 愁の事口出しする前に、てめぇのくそガキのことをどうにかしろ、くそ婆」
 キノコはそう言い放って胸が重苦しく痛くて泣きそうなのを我慢して渡瀬の父親のほうを見た。
「私はこういう場所相応しくないので、失礼します。でも、本当に、色っぽいことはなかったので、安心してください」
 キノコは頭を下げ部屋を出て行く。
「木下さん」
 キノコが振り返る。
 伯母さんは目を白黒させ、怒りに顔が徐々に赤くなってきていた。
「姉を侮辱したことは大変に遺憾です」
「当たり前よ!」
「でも、私もそう思う。これだけの親族の前に急に連れてこられ、罵倒したのはこちらが先ですし、あなたの言うことは正しい。愁が苦労したのを知っているのは、多分ここにいる中であなただけだ。友達だと言うなら、愁はいい友達を持ちましたよ」
「口も性格も悪いですけど」
 キノコは首をすくめ、深々と頭を下げた。
「送らせますよ、愁に」
「すみません」
 キノコと渡瀬が部屋を出たあとであの親戚の会合がどうなったかは知らないが、伯母さんの息子は上役を解雇され、伯母さんは会社での発言権を取り上げられたそうだ。
「悪かった」
 渡瀬は車を走らせて少ししてからそう言った。
「こっちこそ、口が悪いのはどうも直らないなぁ。これじゃぁ、ほんと、男が寄り付かない」
「わざと言ったくせに。あそこで悪者になってくれたんだろ? 体が震えてた」
「わざとでもないよ。頭にきたからね。でも、普段なら何てこと思わなかったあんな言葉が、酷く苦痛だったのは確か」
「もう、身を守らなくていいと思ってるからじゃない?」
 キノコが首を傾げて渡瀬を見る。
「俺はキノコが好きだ。キノコもそう思ってない? だから、楯を取っ払おうとしてあんな言葉なんか言いたくなかったんじゃない?」
 そんなことない。と口が開かない。あるわけじゃないじゃない。と口が開かない。何うぬぼれてるわけ? 私が誰かと付き合うって? 冗談言わないでよ。と口が開かない。
 キノコはただ黙って眉をひそめた。
「素直じゃなかったんだっけ……、じゃぁ、キノコは俺が嫌いだろう? と言えばそんなことないと言える?」
 キノコは渡瀬を見つめる。
 きっかけはなんでもいいのかもしれない。ただ、「好き」という言葉を言えるだけのほんの少しの羞恥心を捨てる何かがあれば、そんな言葉山ほど言えるのかもしれない。何で、そんな簡単な言葉さえ言えないのだろう。
 キノコは俯いて首を傾げる。
 車がキノコの家についた。
「あ、親が会いたいとか言ってたなぁ」
 ぼそっと言って顔を上げ、苦笑いを浮かべる。
「まぁ、今後どうなるやら解らないけど、また会えたなら、」
 渡瀬は何も言わない。
 帰るの、いやだなぁ。と思いながらも、別れの言葉のような、妙な言葉を続ける。
「キノコ……」
 渡瀬の手が頬に伸びる。
 キノコはその手を打っちゃる。
「いや、ごめん。あの、その、だから、あの、」
 キノコは両手を振り、軽いパニックを起こす。
 渡瀬はその手首を掴むと、キノコを引き寄せ唇を合わした。
 離れる唇。鼻頭がぶつかる。
「私、あなたが、好き」
 言葉は何の抵抗もなく出て行く。蛇口をひねって出る水のように。枯れるまで出続けるだろう。
 一頻りの沈黙の後、お互い離れ、キノコは頷く。
 ドアに手をやり、
「木下 紀子。あたしの名前」
 そう言ってキノコは外に出た。
 
 一年後。渡瀬は会社をさらに大きくしていき、キノコは相変わらず製パン工場に勤めている。
 あれから一度も会わなかった。季節もすっかり一巡した。また海の日がやってくる。
 梅雨の合間の真夏のような日差しの中、渡瀬が一年ぶりにキノコに会いに来た。
「結婚して欲しい」
 という言葉と、真夏をつれて―。

 
 
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