BLNE(Boundary Line Not Existing)
松浦 由香
グランドチャンピオン出展作品
お題「乱雑なキス」「届かない思いに、いつまでも執着してしまう」「あの村長は悪党だから」


 
×1×斎賀 静流
 男
 女
 この世にはこれ以外には居ない。と言うことが前提で話を進めると、必ず、男女の友情は存在しないと回答が返ってくる。本当にないのだろうか?
 たしかに、友情を振りかざしていた彼らが、いつの間にか付き合いだし、別れただの、結婚しただのと聞く。それを聞くたびに、まぁなんて賑やかなんでしょう世の中って。と思ってしまう。それを他人は世間ずれしているというのだが。
 
 斎賀 静流(さいが しずる)。一応女である。職業は作家。聞こえはいいが、ジャンルを聞くと必ず引かれる。ジャンルは、レディースコミックの、とくに恥美小説を担当している。
 カランとグラスの中の氷が解けた。グラスの中身はウーロン茶だ。この店で酒など飲んだ日にゃぁ、いくらぼったくられるか知れない。とはいえ、この店に来てから一度も払ったことはないのだけれども。
 店の名前は「クラブ・美獣」名前からして怪しいし、どういう店かも大体想像はつくはずだ。そう。中身はただの化け物クラブ。いわいるゲイバーのランクCの店。何だってこんな場所に通っているかといえば、ここにいる健生(たけお)、源氏名「カナちゃん」と知り合いだからだ。締め切りに間に合うと必ずここに来るので、真面目に仕事をすれば月に一度は顔を出す。だが、このところ取材だの、仕事をしたくない病―いつものことなのだが―でふた月顔を見せてなかったので、今日は久し振りなのだ。
 健生はもともと可愛らしい男の子だった。背が百七十あったが、それでも可愛い子だと思った。
 健生と知り合ったのは、静流がその時連れていた男の話をしなければならない。
 男の名前は、成瀬 恵夢(なるせ めぐむ)。ファッション雑誌のモデルをしている。当時26、7歳だったはずだ。今はすでにおじさんだが。
 恵夢と知り合ったのは更にさかのぼる。恵夢が―二度ほど浪人をしている―大学四年のとき、親からの仕送りが途絶え、ようやく見つけたシェアメイト募集で見つけた場所が、静流のマンションだった。
 静流は原作を書き始めようと思い始めたころだった。少女漫画小説の道では食っていけず、親に見栄張って買った分譲マンションの支払いに困ってシェアメイト募集に踏み切ったのだ。
 二人ともお互いの名前を不理解のままであった。作家「斎賀 静流」と大学生「成瀬 恵夢」……。
 
 だが、すでに十年以上も同居人である以上、この選択は正しかったのだと思われる。
 とはいえ、女を連れ込み、服を脱がせたところに静流が帰ってくると、大喧嘩の上、何人の女の怒声や奇声が聞こえたか知れない。ただし、静流は男を連れ込むことはなかったし、男っ気など見られない。あまり気にしてないので、そういう話は一切出てこない。
 二人は気のいい、都合のいい同居人だ。
 恵夢が大学をようやく卒業できそうなころ、モデルのスカウトを受けそのままそっちの世界に入ってなお、シェアメイトは変わらなかった。事務所の社長だとか、マネージャーがきて説得していたが、恵夢に出て行く気もなければ、静流の家だから静流は当然出て行かない。雑誌で叩かれたりしたが、アメリカでは普通なことがなぜ日本では異常なのか? それは日本人への差別じゃないのか? などと仰々しく述べたら、あっさりとスキャンダルの火は消えた。
 だが、他人が思うような「いい」ところなどないのだ。女が同居人であっても、先にも言ったが、静流は恥美小説家で、ノーマルな考えを持ち合わせていなかったりする。女だから台所に立って当たり前ではない。腹が減ったヤツが台所に立つ。洗濯は自分でする。あれは金の要らないコインランドリーだ。掃除機もあるのだから勝手に使って綺麗にしたい場所だけすればいい。とまぁ、よほど女らしさからかけ離れている。
 女らしさからかけ離れているといえば、夜な夜な居間から怪しげな声がすると思えば、和洋折衷問わずアダルトを見ていたり、鞭を持っては人形をひっぱたいたり、よほど他人では不理解きわまることをする。
 最初こそ恵夢も唖然としたが、それも一週間ほどで別段気にもしなくなっていた。だからこそ十年もいっしょに住めるのだろう。
 マンションの間取りについて、ごく普通のファミリー向けマンションで、玄関を入って左右に六畳ほどの部屋がある。右手が恵夢の部屋。左が納戸になっている。納戸部屋の隣がユーティリティールームになっていて、トイレ、洗面所、風呂場と仕切られている。そしてリビングが、台所と、静流の机、それも業務用のとてつもなく大きな机にパソコンと、本棚が部屋の真ん中を占拠していて、部屋の隅には静流のベットがパーテーションに区切られて置かれている。サイズはダブル。台所は対面式でそこに広めのカウンターが付いていて、そこで食事を取る。ベランダ側にはソファーが置かれていて、時折静流が干されるくらいは、あまり活用のないソファーだ。
 
 話を戻そう。武雄と知り合った時のことだが。その恵夢とバーで飲んでいたとき、健生が話しかけてきたのだ。真っ赤な顔をして、
「ボク、ケイさん―恵夢のステージ名―のファンなんです。どうすれば、側に居られますか?」
 静流は目を丸くして健生を見た。本当に真っ赤で、純粋な男の子のようだった。
 それに対して恵夢はあくまでも「ケイ」で返事をした。
「俺は女のほうが好きで、今はこいつと一緒に居る。お前といっしょに居たいとも思わねぇ。でも、世の中にはお前を必要としてくれる奴はいるだろうから、そいつの側に居な」
 正しいような、でも冷たい気もする言葉を突きつけられた健生は、俯いて、半ば泣きそうな顔をした。
 べつに見捨てることは平気でできたのだが、彼の勇気は相当だったのだろう、外の雨に肩が濡れて、やっと店に入ってきてこれじゃぁ可哀想だなぁ。と静流は自分が飲んでいたカクテルを差し出した。
「飲める? それとも、未成年?」
「いえ、飲めます」
「無理すんな。飲んで温まったら、帰ったほうがいい。あんたが思うほどこいつはいい男じゃないから。まぁ、人の好き好きをどうこう言う気はない。たしかにこいつはいい男ではあるけれどそれだけだよ。良い男と、好い男―字で書くと、良いか好きかだけど―だいぶ違う。こいつも言ったけど、こいつじゃなくてあんたを必要としてくれる人を見つけるべきだよ。本当に」
 健生はカクテルを一気に飲み干し、頭を下げて店を出て行った。
「くだらねぇ持論」
「可愛かったよ、あの子」
「(あいつは)女にゃぁ興味ないんだぞ、」
「知ってるよ。べたな女と一緒で、ナニが大きいのを一番と思ってんだろうよ」
 二人は健生の出て行った扉を見つめた。
 それから半年が過ぎた頃だった。街で健生を再会した。と言っても、健生はあのときのような子ではなかった。きれいな女になっていた。だから静流は露骨に冷視の視線を武雄に向けた。
「切っては無いです。両方ともあるんです。こういう格好もちょっと好きで、」
 健生は静流よりもはるかに女らしかった。
「ボク、この店で働いてるんです」
 武雄は綺麗に塗られた爪で名刺を静流に差し出した。
「ボクなんだ」
「そのほうがウケがいいんですよ」
 健生は首をすくめた。
 まるっきり女だ。下手な女よりも可愛い。
「あ、でもケイさんと一緒になんていいませんから。お邪魔したし、迷惑かけたから、お一人で、あ、いやならいいんです。ただ、こういうことででしかお礼できないから」
「いいよ、行く。ケイも連れて行ってあげるから、ただにしろよ」
 それ以来、一切金は支払っていない。
 
「姐さん、飲みすぎですよ」
 健生は静流より一個年下だった。静流さんとは呼ばず、姐さんと呼ぶ。だらしの無い、女と呼べない人だと健生は思ってそう呼ぶのだろう。
「飲み過ぎって、ウーロン茶だって」
「脱稿したの解かるけど、ねぇ、また寝る、もう」
 こうすれば健生が負ぶって部屋に連れて行ってくれる。もちろん健生の部屋だ。近くのワンルームのマンションに住んでいる。少女趣味もいいところだが、静流はよく泊まる。
 
 ……胸が、寒い。
 
 静流が片目を開けると、健生がむっとした顔で座って静流を見下ろしている。眉をひそめて腹を触れば、服が引き上げられ、胸が露になっている。
「何してんの?」
 寝ぼけたような静流の声に、
「何であんたにこれがついてて」
 胸を叩く。詳細をいえば乳房になるのだが、
「何であんたに、」
 小気味いい音がして静流が胸を押さえて丸くなる。
「何すんじゃい!」
 静流の怒声と、健生の頭を叩く音が同時に鳴り、朝が明ける。
 静流は不機嫌そうにコーヒーを飲む横で、ピンクのエプロンをして朝食を作っている健生がいる。
「だってぇ、ねぇさんには無用じゃない」
「勝手に決め付けるな、」
「あたし偽物でもいいから欲しいのに」
 コーヒーを口に含む。健生がハムエッグのサラと、バターロールを机に置く。
「たしかに、あんたのほうが女らしいけど、ほらやるよとはいかんのだよ。叩くな」
 健生はすねながらパンをちぎる。
 うっすらと健生の素顔にヒゲが見える。まだ男性ホルモンは存在しているらしい。
 ったく、昔男子バレー部のアタッカーだっただけはある―とはいえ補欠だったらしいが―まだ胸がジンジンする。
 
 静流が家に帰ると、恵夢が台所に立っていた。
「朝帰りか?」
「うん、健生の家に泊まった」
「メシは?」
「いらない」
「コーヒー?」
「ちょうだい」
 静流はカウンターの椅子に座る。側に置いているゴミ箱に箱を見つける。
「彼女?」
「あ? ああ、仕事があるって帰ったとこ」
 コーヒーが置かれる。
「いったい、何回したんだか」
 箱を指差すと、恵夢は黙ってほくそえむだけだった。
「そうそう、健生のお父さん、村長になったんだって」
「はぁ?」
「どっかの村長さん。で、今度の週末に就任祝いをするから帰って来いってさ」
「(武雄のこと)知ってんのか?」
「知らないんじゃないの? ここでふわふわしてるより、引き戻して政治を手伝わせて、いずれは村長になって欲しいとか思ってんじゃないの? なんと言っても長男一粒種だもの」
「厄介だな」
 恵夢がタバコに火をつける。
「ホント」
 静流もタバコに火をつける。
 恵夢はブラックで唇を湿らし、静流の隣に腰掛けた。
「一緒に行ってくれないかと言われたけどね、面倒でさぁ」
「取材とか行って、清水さん―編集者の人で、清水 咲子、38歳独身様である―からは逃げられるんじゃないのか?」
「そういう手があったか、でも、なぁ」
「俺も行こうかな、」
「お、珍しい。あ、仕事ポシャったな?」
「演出家と意見の食い違い」
「殴ったか?」
「しねぇよ、もう若くねぇ」
「でも、首か?」
 恵夢は何も言わずに煙を吐き出した。
「じゃぁ、いっしょに行くと返事しとく」
「ああ」
「で、どんな女?」
 静流は目に入ったゴミ箱から恵夢のほうを見る。
「べつに、どこにでもいる女」
「お前、そのうち病気になるぞ」
 恵夢は鼻を鳴らしてコーヒーを飲み干し出て行った。たぶん、打ち合わせか、どっかに行ったのだろう。別段気にもしない。
 お互いどこへ出かけようと、何をしようと関係ないのだ。そう、寮にいるもの同士がどこに行き、どこで何しているのか逐一知らないように、共同アパートの住人同士がお互いの生き死にに興味がないように、静流と恵夢もそれぞれの行動に興味はないのだ。
 
×2× 日常
 静流の日常は、その殆どがパソコンの前で済まされる。たまに資料として怪しげな店や、ビデオを見る限りは、ずっとパソコンの前でいかに破廉恥に見えるかの創意工夫で成り立たされ、終わっていく。
 静流は文章につまり、背もたれにもたれセブンスターを探したが中はカラだった。舌打ちをしてカウンターに目を向ければ、恵夢のラッキーストライクが置かれている。あまり好きではないが、ネタに詰まったのでそれを咥える。
 かすかに恵夢の匂いがする。いや、これが恵夢に残り香となって嗅ぐわっているだけで、恵夢自身の匂いではないのだが、不思議と恵夢がいるような気がする。
 
―不味ぅ―
 
 パソコンの文章は昨日からさっぱり進まなかった。べつに珍しいことではないのだ。一週間同じ画面を四六時中つけていても打てないことだってある。だから、ごく普通なのだが、みょうに焦燥感を感じる。
「あ、トイレかな? 行こうっと」
 静流は立ち上がり、トイレへと入った。
 
 恵夢は意見の食い違いでショーを下ろされ、その説明をしに事務所に来ていた。それも珍しいことではないのだが、今回は、たぶん、回りに非難されるであろうと思われる自分の身勝手が生んだものだと、理解している。
 女社長は五十の中年だが、色っぽさがあり、短めの銀杏色のスーツを着ていた。
「なんで謝らなかったの?」
「べつに」
「頑なねぇ。五月さん―岡崎 五月。恵夢と同じ年で彼氏とは五年目になるが、結婚の模様がない―に聞いたわよ、」
 恵夢は顔をそらして熱帯魚のほうを見た。
「斎賀さんのことを悪く言われて腹がたったって、」
「べつに、それが原因じゃないですよ」
 恵夢は顔を戻さずに言った。
「やっぱり、あの部屋でたら? シェアメイトって言う言葉は日本ではなかなか流行らないし、理解できないのよ。いくら芸術家気質な人でも、結局は日本人なんだから」
「解かってますよ。でも都合いいんですよあそこ、駅には近いし―駅に近いと言うことは、女を連れ込んでも、翌朝送っていかなくてもすむってことなんすよ―家賃二万ですよ。それと同じ条件の部屋を探してきてくれたら、出て行きますよ。俺だって、探してはいるんですよ。この十年。でも、あの条件で二万なんてないんですよ」
「あるわけないじゃない」
「でしょ? そんな都合のいい場所ないんだよ」
 恵夢はタバコを吸おうとポケットを探ってないことに気付く。
 
―カウンターだ―
 
「それで、暫くどうするの? このショーにでるつもりでスケジュール取ってたのに」
「野暮用で、週末は出かけます。そのあとは、また来ます」
「新しい女?」
「いいや、静流と、ちょっと」
「そういう関係だった?」
「いや、友達の田舎に誘われたんで」
「無茶と、変なスキャンダルはいやよ」
「無いっすよ。静流とですよ?」
 恵夢は眉をひそめて甲高く言った。
 女社長はため息をこぼしながら了承したように頷いた。
 社長室から出ると、昨日一晩一緒にいた受付嬢が手を振ってきたが、昨日は昨日。今日は、今日。恵夢はサングラスをかけ外に出て行った。
 
 ランチ時にはどこも人で込む。会話から木曜らしい。曜日感覚が鈍るのもこういう職業のおかげだ。週末どうするかの会話に、聞き耳を立てている。
 健生の田舎に同行するといったのは、健生の実家が旅館をしていると知っているからだ。感じのいい温泉旅館だという話を自慢していた。健生はそれの跡継ぎを振って出てきているのだ。田舎に帰ったらどうなるかおおよその想像はつくが、どうなることやら。健生も、一人で帰り辛いからって静流をつれて行こうなど無茶もいいところだ。
 恵夢はサングラスをかけたままコーヒーを飲む。黒い視界から街をガラス越しに見ると、ずっとずっとこの街はこじんまりと見える。
「ひでぇ女。それでも女かよ」
 ふと入ってきた会話。
 昨日のことが思い出される。
 ショーの練習中、演出家がこぼした言葉。
「たしか、これ君の知り合いだったね」
 そう言って静流が原作を書いた漫画を持って来た。
「ほらね、僕が言ったとおりだろ? ケイはこういう怪しい女と同居しているから怪しんだよ。しかし、何考えてんだか、こういう女は女とは言わないね、まったくひどい。スケベとかそういうんじゃなく、これこそ変質者として訴えるべき価値があるね」
 その言葉に恵夢は一切の行動をやめ、さっき言ったことを取り消せと詰め寄り、首を言い渡されたのだ。
 頬杖をつき窓の外を見る。
 静流の「言葉」は確かに変質極まりなくて、怪しいが、女としての価値がないわけじゃない。あれは女だ。ただ、世間が見れる女と言う線から逸脱しているだけだ。
 ひどい女と言っているお前はどうなんだ? 恵夢は自傷する様に鼻で笑い、コーヒーを口にした。
 
―先ほど無視した女に対する俺の態度。あいつらを笑える資格ないな―
 
 先ほど買ったばかりのラッキーストライクを咥え、煙をくゆらす。天井へと向かうそれを上目遣いで見ながら、恵夢は二時間ほどそこで時間を潰した。
 
×3× 桃源温泉郷老舗「村長温泉」
 健生の田舎へ帰る日になった。朝八時にここを出れば、昼過ぎには着くというので、静流は恵夢の車に乗り込んだ。
「緑のカエル」
 と静流はいつも呼ぶ。恵夢の愛車はオープンカーとなってそこに元気よく待っていた。
「外車をカエルと呼ぶな」
 が恵夢の反論だ。
 ブリティッシュグリーンのロータスエランは、磨き上げられたその姿を朝日に照らしていた。静流がカエルと言うのは、その顔の滑稽さにだった。日のあるうちには隠れているライトが、つけようものならボンネットから姿を見せる。それがカエルの顔にそっくりなのだ。それに加え車体色が緑なので、緑のカエルとなったのだ。
 ツーシートなので、健生は乗ってない。健生は一足早めの列車で向かった。一緒に乗っていくと言ったなら、この車は選ばれなかったはずだ。健生はまだ、恵夢の前では緊張するし、長距離長時間など、親父さんとの対決を前にくたばりかねないと思ったのだろう。
「狭い、きつい、くさい」
「なら、降りろ」
「うるせぇ、黙って運転しろ」
 静流の悪態に恵夢は適当な喧嘩腰の言葉を返し一路高速へと向かった。
 
 高速は車の流れもスムーズで心地いいドライブにはなった。
「オープンカーは気持ちいいねぇ」
「髪、鬱陶しいんですけど」
 恵夢が静流の頭を押さえる。
「触んな、ったく」
 静流は髪をしぶしぶ束ねる。
「で、タケは親父さんをどうするって?」
「さぁね、でもあのままの格好で行くそうな」
「けんか売る気だな」
「買ってくれるかどうかは不明だけどね」
 健生が昼過ぎに着くと言ったのは嘘だ。高速をひた走り、県を四つもまたいで料金所を降りるころには、いいかげん茜色の空が広がり、地理に疎い二人ではすっかり夕飯時間になった。
 桃源温泉郷老舗「村長温泉」。それが健生の実家だ。
「村長(そんちょう)?」
「むらおさ。あんた健生の苗字を知らないの?」
 恵夢は頷き、トランクから荷物を取り出す。とはいえ、このツーシーターの外車にトランクらしきものは皆無で、無理やり押し込んだ荷物を取り出すのが大変だった。
 玄関を潜ると広々としたエントラスが迎えてくれた。板張りの磨き上げられたそこ。受付はまるで一流ホテルのようなカウンター。この田舎には不釣合いな洋館に感じた。
「姐さん!」
 受付へと行こうとした二人を健生の声が止めた。振り返れば早速第一ラウンドが済んだあとの健生が駆けて来た。
 健生は見事に父親のフックを顔面に食らったらしく顔に青あざができていた。
「綺麗な化粧ね」
「嫌味は言わないで、あ……、ケイさん」
 健生は恵夢を見て首をすくめもじもじと恥ずかしがる。静流は呆れたため息の音を立てて出すと、健生は口を尖らせ静流を見たあと、恵夢に真っ赤な笑顔を見せた。
「こっちです。いい部屋、取っておきましたから」
 そう言って別館へと案内した。
 別館は、本館とは違い静かな和館だった。裏山沿いにまっすぐ廊下が伸び、少し寒い感じの廊下を歩き、奥間に近い場所の扉を開ける。
 部屋は六畳間が三つ、仕切りのふすまは開け放たれ広々とあった。トイレと風呂場完備。クローゼットと押入れがあり、押入れには布団が入っていた。
「ベットじゃないんですよ、だって、ここが一番綺麗なんですから」
 そう言ってご自慢だといった窓の障子を開け放したとき、窓から差し込む人口の光とともに眼下に湯気の立つ内露天風呂と、垣根の向こうに広がる真っ暗な日本海。昼間であれば見える色とりどりの木々。
「絶景かな、絶景かな」
「そうでしょ」
 健生はうふふと笑って静流と窓の側に立った。
「お父さんたらね、この格好を見るなり激昂して」
「いや、ごく普通の条件反射だよ」
「解かってたけど、いきなり殴ることないじゃない。ほとんどの従業員がボクだって解からなかったのに」
「手塩にかけて育てたんだ、どんな馬鹿だろうと見分けはつくんだろうよ」
 静流はそう言って窓を開ける。ひんやりとした日本海の冬の風が体をくるみ、そのあとで温泉独特のかすかな硫黄が鼻を突く。
「いい部屋だ」
「ボクのお気に入りなの。そりゃ、本館のようなベットもいいけどね、ここで布団を敷いて、露天風呂に入ったりするのって、なんだかすごい贅沢でしょ? 今はほとんど利用がないのよね」
「女将にでもなったら?」
 健生の顔がすっと真顔になって静流を見る。
 静流は恵夢が座って茶菓子を食べている机に向かい、座椅子に座る。
「風流、風流」
「ボク、どうしたらいいんだろう」
 健生が窓の側に座る。
 恵夢のタバコの煙が天井へと昇っていく。
「人間てのは、三種類のことしかできないようになってんだよ。まず一つ好きなことをどんな苦労や困難があってもやり遂げる人と。したいことではないけれど、しなきゃいけないからと我慢してする人と。所詮夢だからと諦める人。どんな人間でもそりゃその人の好きで、勝手で生きてんだからとやかくいっちゃぁいけないだろうけど、どうせやるんなら、好きなことを胸張ってやったほうがいいと思う。引け目や、罪悪感なんてものを感じるなら、それは所詮それだけのものなんだと諦めろ。その上で、あんたがしたいことをすればいい」
 静流はそう言って茶菓子の包みを開ける。
 最中皮の中に半透明の餅にオレンジの餡が詰まっている。包みには収穫柿と書かれていた。つまり最中がかごで、このオレンジ餡の餅が柿なのだろう。上品な甘さの中にかすかに忘れていたような遠い記憶の中で食べた柿の味がする。
「干し柿の味がする」
 静流は一口だけかじったあとを恵夢に差し出す。
「だめだぁ。干し柿も、干しぶどうも」
 静流は座椅子を倒しそのまま天井を仰ぐ。
「静かだぁ」
 静流はふと出発前を思い出していた。
 取材で田舎の温泉へ行くと連絡を入れて清水はすっ飛んで来た。清水も恵夢のファンで、ことあるごとにやって来ていたが、その恵夢と温泉に行くと言ったなら連れて行けと言い出した。
 大騒ぎする清水をころりと静まらせたのは恵夢だった。
「大勢のほうが楽しいのだけど、ショーを首になってどんちゃん騒ぎする気無いんですよ、俺。静流は取材だって、それにくっついていくのは俺だし、そうさ、俺なんかどうせ」
 女はこういう投げやりな態度をする男に弱い。いや、38歳独身、憧れている人の弱気を見ると、なぜか「大丈夫よ」と無意味な説得をする。清水は泣く泣く、本当に泣きながら今回は遠慮した。
 清水が居たならば、締め切りでもなければ、格別用も無いのに温泉へ取材に行こうとか、恵夢の部屋へ行こうとか、いろいろと言い出すに違いない。連れてこなくてよかった。
 静流はすっと寝息を立てた。
「メシって、ここで喰えるのか?」
「一応、食堂があって、そこで」
「……、コンビニとかあったっけ?」
「僕行ってきます。てか、何か作って持ってきますね」
「いいよ、これ以上ごたごた背負うことはねぇよ。静流に何か掛けといてくれや、ちょいと行ってくらぁ」
 恵夢は部屋を出て行った。
 健生はその背中を惚れ惚れと見送った。
 
―やっぱりカッコイイ―
 
 健生は押入れから布団を出して静流にかけると、ふうとため息を落とした。
 想像はしていたが、父親の反対は異常だ。いや、あれが普通なのだろうけど、もっと、少しでいいから話しぐらい聞いて欲しかった。自分がなぜこの格好を選んだのか。
 父親は、政治の勉強をすると言い出した息子を引き戻すために村長選に立候補して村長になった。村長村長(むらおさそんちょう)と言う奇妙な肩書きをぶら下げた父親の前に、二年ぶりぐらいで姿を見せた息子が、女になっていたのなら、やはり大腕を振って殴るだろう。
 
 恵夢はロビーに出てきていた。受付に行き、近くにコンビニがあるかを訪ねホテルを出る。出てすぐ、外で客待ちをしていた従業員が三人固まって話をしていた。
「大旦那の憤慨はすごかったねぇ」
「そりゃ、帰ってきた坊ちゃんがあれじゃぁ」
「ここも終わりかしら? どこかを探したほうがいいかしらね」
「しっ。お客さん」
 一人が目ざとく恵夢を見つけた。
「どちらへ? ご案内いたしましょうか?」
「いや、」
 恵夢が会釈をして歩き出すと、更なる小声だが、はっきりと聞こえた。
「あれ、坊ちゃんのお友達でしょ? あれも、そうなのかしらん?」
 くすくすと笑う声と、職を失うかもしれないという会話がずっと付きまとって来た。
 コンビニで適当に食糧を買い込んで戻ると、静流は起きてタバコをふかしていた。
 武雄の姿はなかった。
「どこ行った?」
「さぁ、居なかったよ」
 どさっと机に置かれた袋を見る。
「食べに行かないの?」
「寝込んでちゃぁ喰いそびれるだろうと思ったんだよ」
 静流は時計を見た。すでに八時になっている。
「行くか?」
 静流が立ち上がると恵夢は頷く。静流は最後の一服を深く吸い、タバコをねじ消した。
 
×4× 繕わなければならない女と染色体XXの女
 食堂は広く、料理はバイキングだった。
 静流と恵夢はそれぞれ離れて座る。普段一緒に居るわけではないので、別々に座り、別々のものを咀嚼した。食事が終わるころ、健生がコーヒーを持って静流の机に近づいて来た。
「何で別々に座ってんですか?」
 上目遣いで見たあと、コーヒーを受け取ると
「向こうがいいんでしょ? 向こうへ行けば?」
 静流の嫌味に健生は顔を赤くして椅子に座った。
「意地悪」
「誰が優しいといった?」
 健生が口を尖らせ、恵夢のほうを見る。
 恵夢の食事が終わったところらしく、タバコを燻らしながらコーヒーカップを手にしている。
 やはり惚れ惚れするほどいい男だ。足は長いし、指も長い、肩幅がしっかりとしていて、胸板が厚い。薄い唇に挟まれたタバコに嫉妬心を覚える。
「親父さん、なんて?」
 静流の声に健生は現実に引き戻され、深くため息をついた。
「ボクって、小さいころからこうだったから、大学に入るって、街の政治を習うんだって家を出たとき、正直嬉しかったんだって、男らしく家を出たって、それが女になるために出たなんて許せないんだろうね。たしかにこの家の跡継ぎはボクだけかもしれないけれど、僕はここを継ぐつもりがないし、政治をやろうなんて思ってもないんだ。姐さんが言った様に、好きなことをする。誰にも負けないような好きなことよ」
「おかまになることがねぇ」
「おかまのどこが悪いのよ」
 健生はわざとヒスって言うと、くすくすと笑った。
「いい女だよ、あんたは」
「姐さんと入れ替わりたいわ。姐さん、自分じゃ気付いてないだろうけど、顔だってまあまあだし、スタイルだっていいのよ。ただ、精神的障害があるだけで」
「障害って、」
「あれは障害の何者でもないわ」
 健生はきっぱりと言って、「あ」と短く言った。
 恵夢が見知らぬ女とどこかへ行くようだった。
「ラウンジでしょ、行けば?」
「いやよ。恥ずかしい」
「ケイよ?」
「だからよ」
 健生は頬を膨らませた。
「よぅ」
 声に顔をそちらに向ければ、乱れた浴衣を着た男が二人立っていた。
 その後ろでニヤニヤ笑っている団体が居るところを見れば、社員旅行かなんかだろう。
 静流と健生は黙って再び恵夢のほうへと目を向ける。
「なんだよ、澄ましてもおかまだろ? 俺のが欲しけりゃ、酌しろよ」
 健生がむっとして男を見た。
「なんだ? 男の腐ったヤツが、にらんでんぞ」
 大笑いする男に健生が唇をかみ締める。
 静流が健生の手を優しく触った。
 
―相手にするな―
 
静流の目に健生は頷いたが、次の瞬間すっと立ち上がり、男の胸倉を掴んでいた。
「うまく作ったなぁ」
 男はそう言って静流の胸を掴んだ。その痛さに静流が顔を顰める。
「その人は女だ!」
 健生の、健生と言う声と力が手にこもる。
 男は静流から手を離す。静流はすぐに胸を押さえた。
「女だ?」
 もう一人が同じように手を伸ばしたとき、
「あつ!」
 男が手を引いた。
「悪いな、俺の女の乳が貧弱でよぅ」
 恵夢がタバコを押し付けていた。
「お、女?」
「謝れ、この人に」
 健生の剣幕に一気に酔いが冷めたのだろう。彼らの悪乗りを煽る様な笑み浮かべていた仲間はそ知らぬ顔をしている。
「かまやしないさ。どうせ、染色体がXXと言うだけで、そう見えたんだろう」
「そう見えたって、姐さん」
「いいよ」
「訴えることだってできるのよ、セクハラもいいところだわ。そうよ、公衆の面前でのワイセツ行為よ。解かってる?」
「うるさいなぁ、健生、手を離さないと、お前もとバレー部で力はすごくなかったかい? 目が白黒してきてるよ」
 健生がぱっと手を離す。
「こういう馬鹿どもを相手にするな。自分があほらしく思えるぞ」
「姐さん」
 健生は呆れた顔で静流から恵夢のほうを見た。
「まぁ、こいつがいいって言うならいいんだろ。大丈夫か?」
「しこたま握られたんで、冷やすよ」
 静流は席を立ち、胸を押さえたまま部屋に戻った。
 
×5× 健生の初恋
 静流はタオルを濡らし、それで胸を冷やした。とりあえず、ブラジャーにタオルを挟んでいるが、じょじょにシャツも濡れていき、不快な冷たさに顔が歪む。
「ったく、手加減しないで」
 妙にあとになって腹が立つ。タオルを外し、そっと胸を触る。ひりひりするのは、そんなところめったに握り潰されない所為でできた傷の所為だ。
 恵夢はテレビを見たまま寝転がっている。それに背を向けるように静流は座椅子に座ってノートパソコンの画面を見ていた。
「ここに着てまで仕事?」
 健生が入ってきて呆れたように言った。
 健生が持ってきたビールをそれぞれ受け取り、プルタブを起こす。
「あの人たちがおごってくれたの」
 静流の視線に健生はそそくさと静流の視界から消えた。
「向こうはなんて?」
「ただひたすら謝ってた。僕じゃなくて姐さんに言って。と言ったけど、とにかくこれをって押し付けていなくなっちゃった。たぶん、裁判とかする気だと思ってんだよ、きっと」
 健生はいい気味と言わんばかりに笑った。
 
 静流と健生は一階にある土産物へと買い物に来た。健生が清水への土産を買いに行こうと誘ったのだ。そういうところに気付くのはさすが「女」だと静流は感心する。
「これよくない?」
 語尾上がりの言葉に静流は眉を顰めながら健生が手にしていたものを見た。 
 健生が手にしていたのはなぜかそこここにある猫キャラクターのキーホルダーだった。が、健生の手からするりと落ちた。
「おい」
 静流がそれを拾う。
「要人くん……」
 静流は落ちたキーホルダーを拾い上げ健生が見入ったまま動かないほうへと振り返った。
 車椅子に乗った髪を借り上げた青年。その側には美人が居るが、妙にぎこちなく見える。
「要人くん?」
 健生が少し近づいて聞く。
「……タケ?」
「そう」
 健生の声は弾んだが、要人の方は沈んだ表情で健生を頭からつま先まで見た。そしてあからさまに馬鹿にしたような語彙を含んで、
「やっぱり、変だったもんな」
 と言った。
「要人、」
 美人が制する。
「うるせぇな、どうせ俺はお前と違って聖人じゃねぇよ、誰彼いい顔なんかできるか、」
 要人はそう言うと車椅子を動かし一人で先にエレベーターに乗り込んだ。
「要人……。すみません。同級生の方ですか?」
 健生が頷く。
 美人は要人の婚約者で里奈と言った。
 里奈は次に来たエレベーターで慌てて乗り込んで消えた。
 小さくて、ストレートの髪が緩やかに肩を過ぎ、それを耳にかける仕草は要人が高校のときに好きだと言った仕草のままだ。健生が髪の長い女を意識して短い間はかつらをつけていたのも、その所為だ。
「そう、彼が初恋の人なの」
 健生はそう言って土産物のキーホルダーを一つ取り上げた。
「バスケが上手くて、僕マネージャーやってて、最後までボール磨きしてたら手伝ってくれたりして、その当時からボクって、変だから、寄るなとか、女々しいとか言われてたけど、要人くんだけは普通に話しかけてくれた。だから、好きだとか思っちゃだめだって、思ったら、たぶん逃げられるって、友情で、友達でいいのってずっと我慢してきて相手。そういう人、居た?」
 静流は清水への土産に桃源名物桃マンの箱を持ち上げて健生のほうを見たがすぐに並んでいるお菓子を見た。
「可愛い人」
 健生は里奈を思い出してぼそっと言った。
「あれになりたいんだね、健生は?」
「なれないけどね。僕すでに百七十以上あるし、自慢したくないほど男としていい体してるしね」
 健生はそう言ってふと腕を掴む。
「あんなの要人くんじゃないわ」
 健生は吐き捨てるように言った。
 
 初恋の相手と言うものに何年か振りにでも会いたいものだろうか? 綺麗な思い出の中に居る相手が、綺麗に大人になっているとは考えにくいのだが、それでももし再会したならば、昔の様に胸はときめくものだろうか? 今必要以上に好きな相手が居る場合いでも?
 
 翌日。バイキング食堂に要人たちの姿も見えた。
 要人はすでに里奈を怒鳴っていた。周りで見ているだけでも里奈を叱り付ける要人に原因があるように思えるが、その姿に誰も彼を非難しない。もちろん公には。
 各自部屋に戻り、先ほどの不愉快さを苦々しくはき捨てるだけだろう。他人にはそれができる。でも、里奈はどうしているのだろう? 理不尽なことを言われ続けてまで一緒に居る必要がないように思える。
「まったくねぇ、昔の羽振りはどこへやらね」
 従業員の小声が耳に入った。とは言っても静流だけだったようで、恵夢も健生も要人たちから遠く離れた場所に向かう。
「おい、タケ、腑抜けのタケ」
 要人の声に健生は苦笑いを浮かべ朝の挨拶をしに行く。
「あれ、お前の男か?」
「違うよ、彼は、……お友達」
 健生が恵夢のほうをちらりと見て真っ赤になって答えた。
 要人は何が気に入らなかったのか、里奈が置いたコーヒーカップを腕で振り落とした。
「要人くん」
「わりぃ、ここお前んちだったなぁ。拾っとけよ、若旦那」
 要人は車椅子を動かす。
「要人、」
「ついてくんな鬱陶しい」
 要人は一人で車椅子を動かしていくが、里奈はカップを拾い上げると、健生に謝って後を付いて走っていった。
「胸くそわりぃ」
 恵夢がこぼした。
 静流は要人たちが消えたエレベーターの方を見たあとで、呆然と落ちて染みになった絨毯を見つめる健生を見た。
「ちょいと、用がある。夕飯までには帰る」
「珍しい」
 静流がタバコをふかす恵夢のほうを見た。
「お前が行動予測を言うなんて」
「……、まぁね」
 静流はコーヒーで口を湿らせた。
 
×6× 村長村長登場
 
「姐さん、は?」
 健生は、机には静流が呑んだあとのコップが見られるので、どこかに居るのだろうと辺りを見ながら、でも、かなりの動悸とめまいを覚えながら一人で居る恵夢に聞く。
「取材だろ、何を取材するのかしらねぇけどさ」
 恵夢はタバコをふかした。
 健生はその煙に眉をひそめる。
「あ?」
「いえ……、あまり吸い過ぎるのって、体によくないなぁって」
 健生が言ったところで恵夢が辞めるはずが無い。無意味に間が開いてから、恵夢が煙を吐き出した。
「まだ、お前はそんな格好をしてるのか?」
 二人は声の方を見た。
 たしかに健生が男のままで居るときに似ていなくも無いが、健生は母親にだと解かる。太い眉に、がっしりした顎。正義心が強いのか、息子の不埒な格好に眉をひそめていた。
 村長は恵夢に目をやり、あからさまに軽視した視線を更に息子健生へと向ける。
「まともな格好をしろ、いい迷惑だ」
 健生は黙って俯いていた。
 村長はその横を素通りし、温厚で、立派と言われるオーナーの顔で従業員に話しかけていく。
「あの村長は悪党だから」
 誰かの言葉に健生はすぐに振り返った。
「むす……こ?」
 五十か、六十まではいってないだろうが、世話好きの、世間話好きのおじさんがこっそりと話しかけて来た。
 健生がうなずくと、物珍しそうに健生を眺めたあとで、恵夢を指差し小指を立てた。健生は真っ赤になり首を振って否定すると、おじさんはいやらしげに笑った。
「まぁ、いいや」
「あのぅ、父が悪党って、」
 おじさんは言おうか言うまいか迷う素振りを見せた。だがその好意は恵夢にしてみれば無意味な行為だと思われた。言おうかと悩むのならば、わざわざ声に出して「村長は悪党だ」など言わなければいいのだから。
「お前の親父さんさぁ」
 おじさんは更に声を落とした。
「事故を起こした犯人をかばってんだよ」
「事故? 犯人?」
「ああ。半年前の事故、さっき車椅子に乗ってたやつさのあの事故」
「知ってるんですか?」
「ああ、知ってるとも。おかげで俺は仕事を首になったんだから」
「え?」
 健生の声におじさんは慌てて静まるように手を煽った。
「馬鹿、声が大きい」
「すみません」
「あの事故は居眠り運転をしていた「バス」側が悪いんだ。なのに、乗用車が突っ込んできただのと、俺は被害者なんだぞ」
 この人は、居眠り運転をしていたとされた乗用車の運転手のようだ。
 半年ほど前、職業団のバスケ選手だった要人たちを乗せたバスが、居眠り運転していた車と接触し横転。数名が骨折やらと怪我を負った大惨事の中、要人は重症と言われる両足骨折と言う目に合った。
 骨は継ぎ合わされるが、スター選手として活躍していたようには動かないだろうと。元のバスケットをできる状態には戻らないだろうと宣告されてからずっと、リハビリもしないで居ると言う。
「おかげで、職を失い、今はなぁんもしてねぇや」
「でも、ここで自由に宿泊ができてる」
 恵夢はそう言って煙を吐き出すと、おじさんは冷たくて兇器にも似たような目で恵夢を見下ろし、元に戻して健生を見た。
「あの村長はその後、犯人をかばった。そして村長選挙なんぞに出て当選。まさしく賄賂に収賄だ」
 知っている難しい言葉を立て並べれば博学にでも思ってもらえると思っているのか、そう言って頷き武雄の肩を叩いて向こうへと行った。
「乗るなよ」
「え?」
「お前の隙につけ込もうとしてるだけだ」
「隙って、」
「お前にその格好での引け目があるのを利用しているのさ。家のため、親のためにやつに何かしようと思うなよ。事実なんてものは、当事者でも解からない時だってあるんだから」
 恵夢の言葉に健生はただ頷いた。よく、理解できないで居る自分をさらけ出すのははずかしいものだ。それが好きな相手にならなおさらだ。
 
 健生は部屋で寛ぐと言った恵夢と別れて庭を散歩していた。
 昔、小さい頃から何一つ変わっちゃいない庭には、色づきのいい紅葉の木があって、すぐ後ろには日のよく透過する竹林がある。そこには春になれば鶯が飛んできて、春を謳う。その時期が好きだった。
 両親は仕事で忙しかったから、桜の時期も、紅葉の時期も忙しく花見や紅葉狩りなどに出かけたことなど一度も無かった。旅館はやってきていいものであって、住むにはあまりにも寂しい場所だ。
 幼い頃、同じ年の子供たちが一泊してすぐ居なくなる姿がとても寂しかったことがある。「また、来たいわね」と言う声だけを残して戻ってこない。他人の家の経済などに縛られていなかった子どもの思考ではそれが最大の嘘であると思っていた。
 
―今でも―
 
 今でも思うかもしれない。「また来るね」と言ってどれだけの人が戻ってくるのだろう? リピーター獲得のためにどれほどのことをしているのか知らないくせに。どれほどのことをしても同じ客は戻ってこないかもしれない。
 そう思うと健生には旅館経営など向いてないように思える。
 だが、仕事を始めて、慰安旅行で行った先で思った。うちの宿屋が一番いい。と。
 健生は庭から建物を見上げた。白亜の本館。古びているがそれが味わい深く。常連や、宿通には受け入れられている別館。そのどれもが健生の誇りに感じられる。
「健生……、って呼んでいい?」
 振り返ると着物姿の母親が立っていた。
「ごめんなさいね、忙しいから、」
「いいの」
 母親は健生の女口調に一瞬ためらいながらも、
「あなたが家を出ると言ったときに解かっていたはずなんだけどね」
 と呟いた。
「許してもらおうとか、理解してもらおうって思ってないわよ。ただ、帰って来いといわれても、僕は向こうで暮らす。好きなことを諦めて後悔したくないの。後悔するなら、好きなことをし続けたいから」
「べつに、それを否定する気は無いわよ。ただ、お父さんには無理かもしれないわね。一人っ子だし、」
 健生は頷いた。
 一人っ子で、厳しく育てられて来た。健生と言う名前も男らしい響きがある。だが嫌いだ。「カナ」と言う源氏名は母親の金子をもじったものだ。
「一緒の方は?」
「一人は取材。一人は、」
「取材?」
「ああ、彼女は……作家なの。かなり……マイナー―マニアックとも言うけど―だから、知らないと思う。でも彼のほうがすごいのよ。モデルなの。ケイって言うの。素敵でしょ」
「まぁ、作家にモデルって、すごい人と友達なのね」
 作家やモデルと言う職業である人間すべてが凄い訳ではないだろうが、母親の言いたいことは解かるので健生は首をすくめた。
「いい人たちなの」
「そのようね。……もし、お父さんとのことで嫌な思いしたらごめんなさいねって、」
「解かってる。ボクから言っておくわ」
「今日は、あなたの好きなブリを出しましょうね」
「社員割引でね」
 母親と健生は笑った。息子のはずの娘と。
 
「いつまで居る気だ?」
 健生が本館へ入ったところで村長と出くわした。運が悪いと言うか、いいと言うのか、とにかく廊下に人の気配は無かった。
「いつって、まだ二、三日は……」
「それだけ居るんならまともな格好をしろ。さもなくば帰れ。まったく、不届きな連中を連れてきて、そんな者がこの家のもんだなんていい笑い話だ」
 村長が立ち去っていく。
 不届きな連中。と言われて反論するために口を開いたが、言葉は出なかった。
 村長はそんな健生を鼻で笑って廊下を曲がった。客が何人か居て、村長は愛想笑いをして立ち去った。
 残った健生は通り過ぎていく客のいいさらし者になっていく。
 要人が里奈を怒鳴っている声がずっと向こうのほうで聞こえた。
 武雄はその声にふぅとため息をこぼした。
 
×7× 恋人を甘えさす難しさ
 
 翌朝。武雄はずっと静流たちの部屋に居て、要人たちのことが心配だと話しをしたが、二人ともそんな武雄を無視するようにぐっすりと眠った。
 食堂へと降りていくと、健生は昨朝のこと―要人にカップを落とされ、この家の者でオカマだと大声で言われた恥辱と、父親とのいざこざ―があったのにも関わらず、今、恵夢と二人向かい合ってコーヒーを飲んでいることに至福の時を感じていた。
 
―姐さん、ありがとう―
 
 感動に浸っていた健生の前で、恵夢がかすかに動いた。
 と言っても、それはごく微動で、タバコをふかして灰皿に持っていこうとした指がかすかに震えただけだったが、健生はすぐに振り返った。
 エレベーターから里奈が降りてきて、スタッフに何かを話しかけている。
「ちょっと、行ってくるわね」
「放っとけ」
 恵夢の言葉に健生は少し考えたのか、落ち着かせようとしているのか間を取って、
「放っとけないから」
 と里奈の方へと行った。
「物好きめ」
 恵夢は健生の後姿を見ながら灰を落とし、タバコを胸いっぱいに吸い込んだ。
 
「どうか、なさいました?」
 健生の声に里奈が「あ」と小さく言って頭を下げる。
「お詫びを、コーヒーこぼして、絨毯染みになったと思って」
「いいのよ、いろんなお客様が居るんだもの。こぼしたってしょうがないわ。まぁ、バイキングするフロアーに絨毯敷いてる方がいけないのだし。ねぇ、時間があったら少しお話しませんか? ボク、要人くんのことが気になって」
 里奈は腕時計を見た。
 ピンク色の文字盤にミッキーマウスとミニーマウスがプリントされた子どもらしい腕時計だ。健生にそれを見られ里奈は時計を恥ずかしそうに隠す。
「要人に買ってもらったの、大学一年の、付き合い始めてすぐのときに」
 里奈はそう言って少しだけ話をしても構わないと言った。
 健生は恵夢のほうを見たが、彼の側で話すのは彼に対して悪いし、どうも初恋の人の話は、「今」好きな人にはなかなか打ち明けられない秘め事のようで、健生は恵夢と離れたところに座った。
「彼、どうしちゃったの?」
「人に当たるような人じゃなかったんですけど……。半年ほど前に、バスで事故があった話は……そうですが、お聞きですか。そのときの相手が、」
「まさか、うちの人間?」
 里奈は首を振ったが、
「でも、」
 と茶を濁す。
「でも知り合いの方だったらしくて、ちゃんと慰謝料とか、保証とかは頂いてるんです。でも、その……」
「ボク?」
 里奈は静かにうなずいた。
「何もかもちゃんとしてくださった上に、毎週、このホテルに泊まらせてもらえる。リハビリの援助もする。でもそれが、村長さんの好意でも、彼には、なんだかあなたに馬鹿にされているような、考え過ぎだって、そんなことないって言ったんですけど、あなたがいるのを見て、ほら見ろって、そんなこと無いとか言ってるって事は、お前あいつとなんか有ったんだろうって、」
 里奈がぽろっと涙を落とした。
 たぶん、人前で泣いたのは初めてなんじゃないだろうか? 溢れてくる涙を抑えることが出来なさそうに里奈は手で何度も目をこする。
「泣きたかったら泣かなきゃいけないわよ」
 健生が優しく肩に手を置く。
「タケ、もう辞めとけ」
 健生が恵夢の声に顔を上げると、車椅子の要人がエレベーターから出てきたところだった。
 要人は鼻で笑い、戻ろうとしたが無情にも扉は閉まるし、そばに置いてあった花器に車輪がぶつかり要人は横転した。
 里奈が急いで近づいたが、要人はその手を打ち払った。
「汚い手で触るな」
 要人はようやく体を起こす。里奈は一言にショックを受けながらも、手を出そうとしている。その手を要人が睨みつける。
「止めときな、そんなやつ助けるの」
 里奈はその声に顔を上げる。
 そこにはタバコに火をつけている静流の姿があった。
「姐さん……」
「やめな、やめな。そんなヤツ」
 静流は煙を吐くついでの様に言った。
「そんないつまでもどうしようもないヤツなんか。自分を見失った馬鹿よりも、人にけなされながら、親にさえ反感を買いながらも自分らしくいる健生のほうがよっぽどマシだよ。歩けるくせに、たかだか一度医者に無理だって言われたぐらいですねて、大事なものを傷付けてる馬鹿なんかほっときな」
 静流は健生に顎を恵夢のほうへとしゃくり上げると、健生は俯いて里奈に近づく。
「っざけんな」
 要人が小さくこぼし、里奈を支えにして起き上がろうとするのを、里奈がその手を打ち払った。
「あたしだって、そんな要人なんか嫌い。あたしの事守ってやるって言ったじゃない。いつも嘘ばかり言って、大きい事だけ言って、ホント、健生さんのほうが随分とりっぱよ」
 里奈は立ち上がり、走り去った。
 床に無様に置いてけぼりにされた要人が、閉まるエレベーターの扉を見るのを、冷ややかに誰も彼もが見ている。
「放っときな、あんたがどうこう言ってどうなるわけじゃない。第一、あんたが絡めば絡むほど解けなくなる時だってあるんだから」
 静流が武雄に耳打ちする。
「ボク、すごく好きだったんだよ。要人くんが。虐められてた僕を助けてくれて、お前にだっていいところはあるさって、そう言ってくれた人なのに。でも、ボク、こういうのだから、絶対に気持ち打ち明けちゃいけないって。でも、そういう想いってさ、届かない想いって、けっこういつまでも執着してて……。でも、今の要人くんは、虐められてたときの僕よりもずっと無様に見えるよ」
 健生はそう言うとホールを出て行った。
 静流は恵夢の前に座り、煙を吐き出す。
「っよ、名奉行」
 恵夢が小声で言うと、静流は細い流し目で恵夢を睨む。
「立ち聞き」
「は?」
「事故の犯人」
「ああ」
 恵夢は理解した合いの手を打った。
 静流はあまり正確に物事を言うほうではない。いきなり本題に入るのも珍しくない。
 そういえば、ある時などは、急に部屋に入ってくるなり「どう?」と縄を見せた。そこでそれの理由やら、思考やらを問いただすのだが、「縄で縛った肉の感じを見たい? と言うことか?」と言う結論に近づくまで一時間を要した。とはいえ、その件は丁重に断り、静流は舌打ちをしてどこかへと出かけた。怪しい趣味がある女と他人が思うか、本職の店へでも行ったのか定かではないが、帰ってきたときには揚々としていたので、満足したのだろう。
 だから、今回の切り出しなどはまだ随分と解かる方の出だしなのだ。
「あれは居眠りの乗用車の仕業だけど、その運転手と言うのが、あいつの父親」
 静流は要人の方を指差した。
 恵夢は呆れて言葉も出ないように口を開けて静流を見た。
「ああ。本当だよ。とはいえ居眠りなんかじゃない。偶然に起こった、まぁ、事故と言うのはそういうもんだけど、どちらかが悪いとか、要因になるべきものがなかったのさ。ちゃんと指示に従った。それなのに事故は起きた。ちょうど事故があったのがとある峠。連日の雨で土砂崩れが起きていたから、片側封鎖しての土砂崩れ災害用ネットを張ってたのさ。あいつの親父は前村長で、視察の途中だった。前村長の車が行くから、下で止めておくように伝えた無線の調子が悪かったのか、それとも、聞き流していたのか、警備員がバスを中に入れた。バスも、時間ぎりぎりだとかで慌ててたらしいから、その焦りで、上でも何とか行き交えますとか言ったのか、まぁ、実録されていない以上解からないけど、そうしてバスは進入し、最も幅の狭い場所でかち合ったのさ。ガードレールさえも流した土砂が敷き詰められた場所で、いくら普段なら行き交えるだけの幅があったとしても、それはそのときじゃない。バスは後輪から落ちていき、一回転。軽症なものはむち打ちで済んだけど、彼の様に骨折したものも居た。前村長はそのときの責任と、息子への詫びのつもりか村長を辞任。健生の父親は議院だったから前村長の痛みとかが解かって、ここを保養所として提供してるんだとさ。あの男は、犯人も、それが父親であることも、警備員は警備不備で首になったことも、それを公にせず、保養所と貸してくれているここにさえも恨みを抱いている」
「逆恨み」
「そう。やってやれないことはない。と同じように骨折した選手はすでに練習ができるほどに回復している。そりゃ最高潮に比べたら、やはり無理や絶対数が落ちるだろうが、そんなものは理由じゃないからね」
「……それを、調べに行ってたのか?」
 静流は大きく煙を吐き出し、
「虐めるならね、もっと虐めなきゃね。ああいう美人の顔が歪むのはいい姿だと思うしね」
 恵夢は首を振った。
 そうだ、この女を買いかぶってはいけないのだ。
 見た目はたしかにいいほうだと思う。大人しくしていれば。だが、その内情ははるかに善くない。そういう小説を書いている所為なのか、普段から頭の中ではそういうことしか考えていないようだ。
 つまり、虐める度合いが少ない。どうせ虐めるならとことん虐めろ。と思って探りに行っただけのようだ。
「それに、健生が真剣なのがよかったのよ」
 静流の言葉に、ホールを出たはずの健生が、扉を少し開け、中の様子を伺っている姿を見た。
「少し寂しい?」
「はぁ?」
「健生ちゃんの初恋が現れてさ」
 恵夢は呆れて息を吐き出した。
 
×8× 線のない境界線
 要人は里奈の叱咤に何とか立ち直りを見せてきていた。その姿を静流は面白くないと言っていたが、健生はほほえましく二人を見た。
 健生は一人、要人たちの結果に満足したような顔で中庭に居た。
「健生」
 健生が振り返ると父親が居た。
「とうさん、ボク」
「格好も、そういうものも私は肯定しない。でも、いい友達を持ったな。ただそれだけだ。早いところ出て行けよ」
 健生はいつもつんけんと言う父親の優しい言葉に、頷くだけだった。
 その後、恵夢の美形は客の話題となり、従業員たちにも持て囃され、武雄も、物珍しがられながらも本物の「おゲイさん」見たさに人気を博し、三日と言う工程は程なく終了した。
 父親は最後までいい顔はしなかったし、見送りにも来なかったが、料理に出たぶりの照り焼きでうすうすは許しているような気配を悟った。
 
 旅行から帰ってきて一ヶ月後。静流と恵夢はリビングで朝食を取っていた。
 かなり珍しいことで、二人して妙に居心地が悪かった。
 恵夢は朝帰り。静流は区切りのいいところで休憩を取っただけだ。べつに合わせて座ったわけではないのだ。
 食後のコーヒーを飲んでいるとき、健生が訪問して来た。
 訪問してきた武雄は恵夢の姿を見て一瞬怯んだものの、今日発売の「バラ国」―静流が原作を書いているレディースコミック―を静流に差し出した。
「いい出来だと自負している」
「そうじゃなくて、……そのぅ」 
 武雄の言いづらそうな姿に恵夢がそれを取り上げる。
 
 「バラ国」222ページ「線の見えない境界線」
 息苦しそうに項垂れている髪の長い主人公L。細くしなやかな体にごつい手が伸びる。彼の愛人M。長い腕に絡め取られるようにLは体を起こし、再び絶頂へといざなわれる。
 ここは二人で旅行に来た寂れた温泉宿。古い畳。叩けば年月が湧き出てきそうな置物。敷かれた布団はすでに三日敷きっぱなし。
 二人はここでずっとこうしている。汗なのか、体液なのか解からない液体が体のすべてを覆っている。
 開いた足もどこかごく自然な動作の一つに感じられる。甘く、もがき得ない快楽がそこに溢れていく。
 
 恵夢は顔を顰めて本を閉じた。
「ど、どう見ても、僕んちだよね。二人って、いつの間にそうなったの? 僕の知らない間に、ねぇ?」
 悲嘆する武雄の声に恵夢は呆れながら立ち上がり、静流は煙を吐き出した。
「ねぇ、どうなの?」
 武雄にしてみれば、この話のとおり恵夢と静流が付き合っているとすることが許されないようだ。
 しかも、これはかなり危ない関係だ。だとするならば、二人もそう言った危ない関係であると予想される。
 妄想が勝手な思考を生み、それがあたかも現実のような錯覚に囚われているようだ。
 武雄は空を掴むように静流の返事を待った。
 
「欲・しいぃ……」
 狂おしいほど甘美な声が、昼下がりの中に解ける。
 脱ぎ散らかった服と同じだけ乱雑なキスを重ねあい、ありとあらゆる場所で快楽を求める。
 
「お前、馬鹿」
 静流が吐き出す。
「あんた、あたしたちの部屋にずっと居たじゃない。夜だって、別に部屋があるからとかいいながら、結局居座ってたでしょうが? その間、ヤってたか?」
 静流が顎をしゃくりあげると、武雄は暫く考えた。
 そういえばたしかに自分はあの部屋に居た。本当は、恵夢と同じ部屋に居辛くて部屋を分けたのだが、要人のことでずっと部屋に居た気がする。
 
―そうだ―
 
 武雄は思い出したように首をすくめた。
「第一、こんな事になるわけないでしょう」
 恵夢は居間から出ようとドアノブを掴んだ。
 一瞬、空気が立ち止まった気配を感じる。
「あたしは女だもの」
 恵夢が居間を出る。
 武雄は確かに、と声を上げて大笑いをする。
 
 恵夢は居間の戸を閉め、タバコに火をつけた。
 ここに来てすでに五年。最初に来た頃となんら変わらない風景だが、静流とのシェアメイトの関係は少しずつ違ってきているように感じる。
 五年前に書いていた内容とははるかに違う。だからと言って、静流が今それを望んでいるのかなど不明だし、変わったように感じるだけかもしれないが、とにかく、
 
―乱雑なキスを交わす―
 
 乱暴ではないのだ。乱雑に。ランダムに。でも、心のそこから望んだもの。
「やっぱ、ここ出て行かなきゃいけないかな?」
 恵夢は小さく言って家を出た。新しい住処でも見付に行こうと……。
 武雄が帰り、静流はパソコンに向かった。
 
―我ながらこの表記に恐ろしさを感じる―
 
 静流は漫画を開いた。
「欲求不満か?」
 このごろ、相手の印象が恵夢に近いと指摘を受けたばかりだ。泊まりに行き、武雄でなくとも何かあったのではないかと錯覚させてしまうような事柄が多い。あのホテルをモデルにしても、恵夢をモデルにすることはないのだ。
 背伸びをしてタバコに火をつける。くゆる煙が天井へと触手を伸ばす。
 
 たとえば、気付かずに居たとして。最も側に居る同居人。それはたとえば動物かもしれないが、それが不意に消えたとき、人はどうなるのだろうか? 気にしていなかったぶん平気かもしれないが、依存度はかなり高いはずだ。しかもそれように空けている空間が、まったくの空間となったとき、自分の場所の確保に戸惑うはずだ。
 なのに人はそれらと同居したがる。居なくなった時の事を誰も考えずに、今一緒に居たいという欲望でのみ一緒に居る。果たしてどちらが正しいのだろうか?
 あとのことを考えて一人でいることと、居なくなる寂しさはあっても、一緒に居たと言う時間の重さと。
 
 静流はため息をついた。要人と里奈の姿を見ていてつくづく思った。女もこの年になると、一人で居る気楽さと、周りが急き立てる祝い事へのタイムリミットと言うものを感じると、頑なか、開き直りかの選択肢しか思いつかなくなる。
 今までどおりの姿勢では、誰かが、いや、誰もが責めて来るだろう。その言葉は自分には届かないかもしれない。届く場所が……。
 静流は廊下の扉を見た。先ほど恵夢が出て行った姿が不意に浮かぶ。
 
―ヤツが居る所為で独り者だと世間が言えば、そう言えなくもないのだ。身勝手だが、かなり依存しているはずだ。どこで何をしていようと気にならないが、結局の所ここに戻ってくると思っているものが、戻ってこなくなれば、どうなるだろう?―
 
 所詮同居なんて赤の他人の家族ごっこだと笑っていた十代が懐かしい。歳をとっていくごとに妙なものがでてくる。それを「情」と誰かが言っていた気がする。
 その情に縛られ、やつが出て行かないとするならば……あいつはあたしに情を抱いている。そのあたしはどうだろう? あいつに情を抱いていないのか? 抱いているからこそ、いなくなったならば寂しいだろうと想像する。
 
―でも―
 
 今までもそうだったじゃないか。たくさんのシェアメイトが入り出て行った。出会いと別れを繰り返したが、これと言う寂しさはなかったはずだ。利権が伴っているのだ、新しい金づるを探せばいい。今度は女にしよう。いや、女は面倒かな? かと言って男にするのも、恵夢意外に都合のいいやつは、いまい。……武雄にでもするかな。
 
 静流はタバコの灰を落とした。
 
 ごく、ごく自然の流れでいけば、このまま……
 
「だーーーーーーーーーーーーーー」
 静流は大声を張り上げ、髪を毟り掻き、すっくと立ち上がるとコートを引っ掴んで出て行った。
 
―このところ、ネタに詰まるとどうも保守的思考が芽生えてかなわん―
 
 寒気を催すような考えを拭い捨て、静流はまだ日の高い繁華街へと繰り出していった。
 
(終わり)
 
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