深い蒼、銀の月

松浦 由香
菊花賞
ノベルフェスタ70



 昔、昔の話。
 四国という島の中央にある山深い村での素敵な恋の話し。姫様の名前は平紫重(たいらのしえ)。大将の名前は大高泰彦(おおたかやすひこ)と申しました。二人は敵同士として出会ってしまったのでした。

1……落人

 ぽっかり。浮かんだ暗闇の中の月を仰ぐといつも思う。なんだって自分はこんな場所に寝ているのだろうか? と。
 家にいれば温かい布団、家族が居て、【貧しい】ながらも楽しい我が家があったはずなのに。と。
 聞こえるのは蟲の声だけ、今年ももう終わる。また冬が来る。寒くて、辛い冬が来る。
 紫重は深くため息を落とした。頬を渡った風は冬のそれに似ていてどこか寂しげに撫でていった。それが恐ろしく哀しく感じてそっと手で頬を包む。誰かのそばに居て、誰かにこうしていて欲しいと願う気持ちは、ただの甘えなのだろうか?
「紫重様」
 紫重は体を起こす。
 都から逃れてすでに三月。地べたに体を横たえることも平気になってきていた。それでも一枚だけ着物を敷いてくれるのは、自分が女だからかもしれない。もし女でなければ、「様」付けされない女であれば、今度は地べたを這いずり回らねばなるまい。あまりの屈辱だ。
 想像だけだとしても、紫重はその想像に唇を噛み締める。
「源勢は、まだ我らを探し回っております」
 紫重は憂鬱そうに地面に目をやった。
「そう。房村はいかが申しております?」
「は、明日の明朝よりここを立ち、さらに山深き場所へ移動、土佐に向けて山を下ろうと、」
「土佐。まぁ、まるで異国の国だと思っていたそんな外れにまで来ているのですか?」
 紫重は月を見上げた。
 淡い黄色の色をしているそれがぽっかりと空から抜き出ている。
「房村を呼んで下さい」
 紫重の言葉のあと、百も数えぬうちに房村と呼ばれた武者が入ってきた。
「房村。今までありがとう。あなたと言うものがあったからこそ私はここまで生き延びれたと思っております」
「紫重様」
「でも、もう良いではないでしょうか?」
「どういうことでございましょ」
「もう、逃げても討たれるのであれば、我らの疲労も限界。ここまで追って来る源群も、これまた限界に達するでしょう。ここいらが潮時だとは思いませんか?」
「降服をなさるおつもりで?」
「いけませんか?」
「それならば、自害を」
「自ら断てば、源の手柄にはなりますまい? 私の首でさえも手柄とするならば」
「そのようなことを!」
「もう、疲れたのです。自分でどうにかする気にもなれない。逃げることも疎ましいし、戦うこともいや。もう良いのです。ですから、皆に伝えてください。逃げるものは逃げよ。戦うものは戦え。死を選ぶもよし。もう、私に構わないで。と」
 紫重は頭を下げた。お辞儀とも、項垂れとも見える姿に房村は唇を噛み締めた。
 翌朝。
 夜の間に房村の命令で近隣を偵察しに行っていた者の話しで、近くに小さな山村があるという。一向はそこに向けて歩を進めることになった。
 初秋とはいえ、朝のまだ浅い時間では草木の露で地面は濡れ、ときどき女房たちの小さな悲鳴が聞こえる。紫重は馬の上でそれを遠くの音として聞いている。
 前を行く房村が更新に邪魔な木を切り払っている。周りには屈強な男たちが歩いている。その中に房村の若い息子の姿も見える。
 自分さえ、
 紫重は言葉をこぼしかけて黙った。
 行進が止まり、開けた視界の裾野に山村が広がった。
 小さくて粗末な村には五つほどの家屋しか見られなかった。
「村長(むらおさ)に会いたい」
 房村がそう言うと、恐る恐る出てきた老父に房村は事情を説明し、金を渡した。
 五つある棟の中でもまだ立派で大きい家に紫重は居を構えることとなった。ここに住んでいた者たちはどうするのだろう。とか、これからどうなるのだろう。そんなことは考えられなかった。
 そんな知識が紫重には無い。あるのは、父の決めた相手と結婚するだけ。後は何も無い。廊下を歩き回るものの用事も、自分以外が仕事をしているということも、それが仕事だというものだということも紫重の知識には無い。
 広い部屋が紫重の部屋になった。だが何も無い。それでも、紫重が座る分の畳が敷かれ、そこに紫重が落ち着くと、そのあとで、いろんなものが運び込まれてきた。
「あやめ」
 紫重がそばにずっと長くから居る女房に声をかける。あやめは紫重の着物を畳む手を止める。
「お疲れでしたら、寝間の用意をしましょうか?」
「私は、どうしたらいい?」
「お好きになさいませ。…、寝間の用意をしましょうね」
 あやめはそう言って帳の中に布団を敷き、紫重の手をとってそこに座らせた。
「あやめは、どうする?」
「姫様のお邪魔にならぬように片付けを済ませ、そのあとお台所に向かいます」
「…、そう……、では、横になります」
 紫重はそのまま倒れるように横になりまぶたを閉じた。
 落ちていく。眠れる。やっと床の中で。真っ暗い中に落ちていく。
 紫重の寝息を聞いてあやめは部屋を出て行った。
 台所ではこの家の元の持ち主である女将と一緒に数人の女が食事の用意をしていた。
「あ、房村様」
 房村が外から土間に入ってきた。
「姫様は?」
「お休みになられました」
「お疲れだったのだな」
 房村は水瓶から杓で水を掬い上げる。
「あのぅ、房村様。ここにある食料だけでは、暫くの足しには出来ませぬ」
 房村は開けられた米びつ、保存されている野菜を見た。
「申し訳ないです。ここにはおらと、じいしか居ませんで」
 女将は村長の娘だといった。だが、もう四十過ぎていて嫁にいけそうな感じは無い。
「近隣の村に買出しに行かせよう。村の中でそういう役割をするものも居るだろう?」
 女将は肯き、房村に村で唯一の若い男を紹介した。
 この村に住む五世帯二十人ばかりの者達の十九人ものが年寄りに付属する。唯一のこの青年は、この村で生まれ育ったものだが、それ以降この村に子供は授からず、この男が嫁を娶らなければこの村は消えてなくなるのだといった。
 青年は、やそ吉と言った。やそ吉は狩りも上手で、寒い冬はやそ吉の狩りの腕が村の飢えを救っていたという。
 台所のかまどの前で火を起こす娘が重苦しいため息を落とした。
「もうじき冬だというのに」
 独り言のつもりだった。もちろん独り言なのだが、みんなの手が止まるほど大きな声だとは思っていなかった。
「おじゅん?」
 じゅんと言う娘は顔を上げた。母親であるあやめが険しい顔で立っている。
「何? かあ様」
「冬が来たら、どうだというのです?」
 じゅんは目をそらしバツが悪そうな態度を取ったが、すっと立ち上がり、
「冬ですよ、かあ様。寒い冬が来るというのに、こんな隙間だらけの家の、粗末な環境。都に居たならば、」
―こんな下女の仕事、私がしなくても良かったのに―
 じゅんはさすがに口をつぐんだ。
「紫重様が都落ちなさったとしても、必ず平家は立ち直ります。そのとき、紫重様も迎え入れられます。それまでの辛抱です」
「いつですか? 源氏の野蛮人が都を占領してすぐだというのに、いつになるのです? 第一、紫重様は大殿の末娘とはいえ、寵愛もいただけなかったお人。忘れられておりますわ」
「じゅん!」
 あやめの奇声とともにその手はじゅんの頬を叩いた。じゅんはきっと唇を噛み締め外へと飛び出していった。
 あやめはすぐに土間に伏せ房村に頭を下げる。
「しょうがない。娘時だ。都の華やかさを見た者にとっては此処はあまりにも寂しいものだ」
「でも、口が過ぎましょう? でも、私にはあの子しか居りませぬ。もう、言わせませんから、」
「ちょうど姫も居られない。此処だけの話にしよう」
 房村は土間から出て行った。
 都を追われたのは夏の盛りだったはずだ。蝉時雨の急き立てる中、平家の一行とともに歩みを西に向けていた。壇ノ浦で留まろうとした軍勢を捨て、先を急ぎ、さらに仲間と別れ、とうとう、紫重の側に居た三十ほどの人間のみとなった。
 自分の家族と、あやめの家族、数人の武士だけの寂しい一行の中では、じゅんのようなものが居てもおかしくは無いだろう。
 華やかで快活な娘が一生を終えるには此処は寂しすぎる。
 房村はため息をこぼした。
 じゅんは山裾の水路まで走ってきていた。壊れかけてぎしぎしと鳴るばかりで用事にならない水車小屋があった。
「…、若い娘? ということは、あんたが姫様か?」
 声のほうを見れば村で唯一の青年であるやそ吉が居た。やそ吉は本当の紫重を知らないようだった。まじまじと見て頬を赤くし、地面に伏せた。
「あたしは……、そうよ。でも、今は伴を連れていないの」
「一人で大丈夫ですか?」
「平気でしょ、こんな山の中、誰が襲うっていうの馬鹿らしい」
―こんな場所まで逃げてこなくても、源氏側につけば都に居られたのよ。昔の恩だか何か知らないけど、そんなくだらないもののために紫重様について行かなければ、父上も、兄様も死ななかったものを。やっぱり紫重様は鬼門で生まれたお子なんだわ―
 じゅんの顔が険しくなるのをやそ吉は首を傾げて見上げていた。
「何よ」
「いや、どこか具合でもお悪いのかと思って」
「悪いわ。胸がずっと、むかむかする」
「それはいけない。寝ていないと。あとで薬草を持っていきますから」
 やそ吉は山に入った。
「馬鹿ね、紫重様なわけないじゃない。でも、気分はいいわ。相手が地面に伏して私を見上げるなんて」
 じゅんはくすりと笑い少しだけ気分がよくなって家に戻った。しかしその少しでは足りないほどの労働が待っていた。
 水汲みも、洗濯も、あれもこれもと仕事が回ってくる。
 じゅんはたらいの中の洗濯物を睨みながら立ち上がった。
「じゅん」
 あやめの声にゆっくりと振り返る。
「私は下女じゃないわ」
 あやめの懇願するような切ない顔を振りきり、じゅんは自分の部屋に帰った。
 あやめが深くため息を落とし台所に入ると、やそ吉が草を持って立っていた。
「何をしているのです?」
「いや、紫重様が胸が悪いと聞いたんで、これを煎じて飲めば楽になるので、それで」
 あやめは首を傾げながらも、その草を受け取り煎じて紫重の元へと運んだ。
「夕時?」
「夕餉の支度はもうじき出来ます」
「おなかはすいていないのよ」
「いけません。ちゃんと食べませんと」
 紫重はあやめが持ってきた薬湯を飲む。
「これだけで十分。もう少し寝ます」
 紫重はまた倒れるように横になった。
 台所に行ったあやめに房村が近付いてきた。
「姫様は?」
「食事をとられずに寝ると」
「壇ノ浦からこちらあまり召し上がっていないだろう?」
 あやめが肯く。
「少しでも食べていただきたいのですけどね」
 あやめは薬湯を床に置く。
「それは?」
「房村様でしょ? 姫様が胸が悪いから薬草を取ってくるように若い者に頼まれたのは?」
「いいや」
 房村とあやめが急いで紫重の部屋に駆けつける。
「姫様?」
 紫重がゆっくりと重いまぶたを開ける。
「どうしました?」
「お加減はいかがです?」
「先ほどの薬湯のお陰でしょう、胸の辺りがすっきりして楽です」
「本当に?」
 紫重が肯くと、二人は静に退席した。
「誰が頼んだのでしょう?」
「姫がお加減が悪いなど誰にも言っていない。長旅で横になられている程度だ」
 房村とあやめが首を傾げた。部屋の前の廊下で話している会話をじゅんはその部屋で聞いていた。
「あたしの薬湯……」
 小さな小さな声が怒りを交えて激しく熱い。
―何故あの人は私から全てを奪う? ただの女じゃない。私と同じ女じゃない。こんな場所にいては姫なんて何の役にも立たないというのに。何よ、絶対に許せない。あたしをこんな場所に連れて来た。お父様やお兄様を殺した。ぜったいに許さない―
 じゅんの目が強く月を睨みあげた。

2……追手

 重苦しくため息をついて腕組みを解き、膝に手を置く。
「若虎?」
 そう呼ばれた若武者は首だけを少し動かした。
 若虎とは彼のあだ名で、それは幼名に由来する。今は、大高 泰彦(おおたか やすひこ)という。
 年寄りであり、自分の生の師である側役の大庭が徳利と杯を手にどかっと隣りに胡座をかいた。
「いかがしました?」
 鼻を鳴らして返事をしたが言葉を出す気にはなれなかった。
「大殿のことでございますか?」
 再び鼻を鳴らして返事に変える。
「若虎はいったいどう思っておいでか?」
 泰彦は暫くして重く口を開いた。決して口にしてはいけない言葉をつぐむように。
「それほど追って、どうしようというのだろうか? 逃げたのは末姫の一群で、数も少ないという。平家の首を討ち取り、主要なものはすべていないというのに」
「末姫だからですよ。血は絶えませぬと」
「それほど恐ろしいのだろうか? 話せば解るであろう? 都に呼び、落ち姫として暮らさせてあげればよかろうに」
「若虎はお優しい。だが、所詮平家の血を引くもの。都に居れば必ず反旗を翻すものとなりましょうぞ」
 泰彦は空を見上げた。
 一月ほど前。
 四国に逃げた末姫紫重の首を取ってくるように命令が下り、中国地方に向いていた軍勢を率いて四国に上陸。そして後を追っているのだが、一向に追いつかない。
 いや、追いつく気が無いのだ。女を手にかけて何が嬉しいというのか? だが、都からの催促は、紫重姫の首だけを望んでいる。いくら女なのだからと渋っていても、今日は構わないが、明日、明後日、大殿である源頼朝が兵を従え自分もろとも攻めに来るかもしれない。
 そうならば、自分を信じてついてきた家臣に申し訳が立たない。
「たかだか一人の女のために……」
 泰彦は小さくこぼした。
 紫重姫の名を知ったのは頼朝に命を受けた時が最初だった。それまではまるで知らない名前だった。平家の末娘らしいが、何しろ平家が傾きかけているときに生まれたため、政略結婚の道具としても扱われず、親の愛も薄く育ったという噂だ。お陰で、その住処として与えられていた屋敷も酷くまずかったようだ。家族といえば側女房と、護衛のためについている者ぐらいでひっそりと暮らしていたらしい。
「何の利があるというのだ」
「若虎が気に病む事ではない。取って来いと言うのなら、取って行けば良い。若虎の家が大きくなるのであれば」
 泰彦はため息をこぼす。
「皆はどうしている?」
「歩く疲れているのでしょう。休むものが多うございます」
「明日見つからなければ、都に帰るか?」
 大庭は静かに泰彦の膝を打って立ち上がって退席した。 
 泰彦は空を見上げ月を肴に酒を口に運んだ。
 私は本気だ。
 喉の奥で張り裂けんばかりに叫ぶ言葉を呟けば、どれほど楽か知れない。こんな馬鹿なことで、浪費していていいのか? 親の代から側に居てくれているものたちだ。大事な部下を、捨てごまのような扱いをされて良いわけが無い。
 と思うとちらりと思い出す。
 頼朝は確かに偉大だ。頭もいいし人望もある。だが、弟に比べればその人望も劣るし、性格も悪い。それが解らないように弟を遠ざけておくのだ。
 そしてちらりと思う。こんな犬か何かのような扱い、もしかすると頼朝は自分を優秀だと思っているから、遠ざけているのだろうか。と
「そんなわきゃ無いな」
 くいっと杯を開け、寝床に入る。
 月は本当に綺麗だった。綺麗すぎてその中にいると心を見透かされているようで窮屈になる。
 泰彦は寝返り腕枕のまま眠りについた。
 本当に明日、紫重姫の一行を見つけられなければ都に向かおう。その道すがら、伴の者たちに金を渡し、自分ひとりの責任として処分していただこう。家を潰すのは惜しいし、親不孝だとは思うが、伴を野垂れ死にさすほうがよほど親不孝だ。
 泰彦はそう決めると気が楽になり寝息をかき始めた。
 翌朝。
 泰彦は良く澄んだ朝の空気を胸に溜め込み山の奥を目指した。この辺りまで来ると、都でいくら農耕夫上がりの武士とはいえ、それでも武士として武術を学び始めて久しく、山道はきつくなってきていた。連日の疲れもあいまって居るのであろう。そうなるとこの辺りに留まっているか、自決をしているかだろう。
 自決など、そんな何の解決にもならぬことをしていられるのは少々困る。屍の首をはね持ち帰る変態的な行動はしたくないし、仲間の誰にもさせたくない。できるならば生きている紫重姫に会ってみたい。此処まで追いかけてなんだが、何と無くそんな気がする。
 山道は日が上がるとともに湿気を含み、土の匂いを放っていく。葉の紅葉もすっかり終わりかけている木も見える。
 こんな寂しい場所に落ち着くのは、都女としては腑に落ちまい。かな?
 泰彦の一行が無言で歩を進め半日。夕日を背に受け、今日の野宿先を捜そうとしていたときだった。
 太陽と月が一緒に出ていて、茜と紺碧の空が奇妙に混ざる時刻。ついにその人と出会った。

3……虚栄

 じゅんは翌日朝早くに屋敷を抜け出た。それを見ていたようにやそ吉が近付いてきた。鋤や鍬を持っていて、早朝から畑仕事でもするのか裾も捲し上げられている。
「姫様」
 じゅんは立ち止まり振り返る。
「お加減、よろしいのか?」
「薬草なんかもらわなかったわ」
「そんな、確かに渡しました」
「もらっていない物をもらったとは言わないわ」
 やそ吉は眉をひそめ俯いた。確かに台所に居た女房の一人に渡したのだ。
「嘘よ。伴の女が具合が悪いからそちらに分けたの。だから私も欲しくなって取りに行こうとしていたのよ」
「姫様が?」
「…、他は当てにはならないもの」
「そうなんですか?」
 やそ吉はまっすぐにじゅんを見返す。その目に一瞬うろたえながらじゅんは肯いた。
「何て酷い人だ。姫様を働かすなんて」
 やそ吉の熱の入った言葉にじゅんの体が震える。
 そうよ、私の方が随分と姫らしいわ。教養もある、美人だし、何よりも人に指図する的確さがあるわ。
 じゅんはやそ吉の手を取った。
「あなただけよ。本当に、私の事を思ってくれるのは。私は都に帰りたいの。でもできないのは、屋敷奥に寝込んでいる者のせい。私は皆に気を配らなければならないけれど、その者が具合を悪くさせた所為で行進が出来なくなってしまったの」
「では、捨てておけばいい」
「出来ないわ」
「お優しいのですね」
「どうにかしたいのだけどね」
「そのものを連れ出せませんか?」
「どうするの?」
「猪と間違えて撃ったと言えば都に帰られましょう?」
「まぁ」
 じゅんは恐ろしい計画ながら、自ら手を下さない安心と、やそ吉は必死で間違えただけを繰り返す純朴な青年だと確信し、それでも少々戸惑っているような様子を見せる。
「やはり駄目よ」
 そう言いながら、人が起き出すぎりぎりまで粘り、やそ吉に押し切られたように肯いた。
「姫様」
 じゅんは屋敷に戻り、普段通りの仕事を済ませ、昼を下げに行くと言って、紫重の部屋を訪ねた。
 じゅんが部屋に入ると紫重は脇息にもたれて座っていた。
 いつ見ても、同じ年だと言うのにこの女は何もせずそこに居るのだろう? ずっとそうしてもたれて、自分が来たというのに座さえ直さない。
「どうしました?」
「あ、はい。外の空気がよろしいので、どうでしょう、ここに来て一度もお散歩をなさってませんから、お出かけになられましたら? 紅葉も特に綺麗ですし」
 紫重は窓から入ってくる秋色の昼の光を見つめた。
「そうね、綺麗ね。出てみようかしら」
「では、ご用意をしましょう」
「いい。一人で行くから」
「姫様?」
「すぐそこだもの。誰にも狙われなどしないわ」
 紫重は肯き、じゅんは昼餉を片付けていった。
 用意は出来た。後は出かけていったあとをやそ吉に追わせ、猪と間違わせて射殺せば都に帰れる。こんな辺鄙で面白くも無い場所から出られる。
 紫重はじゅんの思惑通り一人静かに出かけていった。異常に気にかけていたのでじゅんには解ったが、あやめすら出かけていったことに気付かぬくらい紫重は静かに出かけていった。
 夕方近くになって夕餉の支度をしているところに、外が俄かに騒がしくなった。男たちが帰ってきた声じゃない。人が増えた声だ。
 じゅんたち女が外に出ると舌打ちをする房村と、源氏の軍勢がにじり寄ってきていたときだった。
「平紫重君の一行とお見受けする」
 凛とした良く通る声の主が馬上から声をかけた。じゅんが見上げたそこに泰彦の逞しい顔が見える。
 房村ががくっと俯いて
「あやめ、姫様をお連れしてまいれ」
 あやめの顔にも翳りがかかる。
 手を下さずとも、都に帰れたのではないの。
 じゅんがほくそ笑んだときだった。あやめの奇声と行儀悪い足音であやめが飛び出してきた。
「居ませぬ。姫が居られません」
「居ない? 馬鹿を申すな、姫が出てゆかれる理由が……、まさか」
 房村とあやめが不安げに山を見上げる。
「一人逃げたか?」
 大庭の言葉に房村が激しい目を向ける。
「姫はそのような方ではない。ただ、一人居なくなればと、もしや……」
 泰彦たちも山に目を向けたとき、鳥がどわっと飛びすぎる。
「何だ?」
「やそ吉が居らぬぞ」
「狩りに行くと言って出て行った」
 やそ吉の母親が蒼白した顔で房村の側に駆け寄った。
「あの子、こんな夕暮れじゃ、もしかして誤って、」
 房村が山へと目を向けたその視界の端を泰彦の馬が駆け過ぎる。駆けて行く馬の尻を呆然と見送る。
「姫! 紫重姫!」
 山に入るなり泰彦が大声を出す。
 胸が窮屈に重い。馬を止め無造作に折られた枝を見ながら後を追う。
「姫、どこに居られる?」
 がさっと草が鳴りそこに目を奪われたときだった。横目に少しだけ開かれた中に女が一人寝転がっているのが見えた。
「姫?」
 泰彦が恐る恐る近付くと、紫重が首を動かして泰彦を見る。
「源氏の方ですか?」
「大高 泰彦と申します」
 泰彦が馬から下り、紫重の側に膝をつくと紫重は起き上がり、両手をそろえ頭を下げた。
「平 紫重です。この首を都にお持ち帰りなさい。ここにはもうじき冬が来ます。兵が弱らぬうちに」
 泰彦は驚き紫重を見返した。
「姫様!」
「若虎!」
 同時に声がする。
 紫重が顔を上げ、泰彦が振り返ると、房村と大庭が同時にやって来た。
「姫様?」
 座っている姫に房村があわてて近付く。
「寝てました」
「寝てました?」
「ええ、季節はよろしいし、風も気持ちがいい。声を掛けられなければそのままずっと寝ていたはずです」
「このような場所でですか?」
「いけませんか?」
「猪が出るそうです」
「そう。では帰りましょうか? そうそう、今日は遅うございましょ? 我が屋敷にお泊まり下さいな。何もしてあげられませぬが、休むことは出来ましょうから。それから後、都に参りましょう」
 紫重はそう言って立ち上がった。その手を房村が支え先を歩く。
「若虎?」
 大庭が小声で近付く。
「厄介になろう。兵もすぐさま折り返すのは大変だから」
「討ち果てれば厄介になど」
 泰彦は大庭を一睨して歩き出した。
 泰彦たち源氏の主要人。泰彦を筆頭に大庭、泰彦の乳兄弟である久武、信明、そして十郎が紫重の食卓に集まった。と言うより家が狭くそれ以上は庭に茣蓙を敷いて座っているのだが。
「姫様!」
 房村があわてて腰を浮かすのを、紫重が左手を差し出して止め、あやめに支えられながら部屋に入ってきた。
「お加減がよろしくないと聞いてましたが、大丈夫なので?」
 泰彦の言葉に紫重は微笑み返し、
「飲まず喰わずでも生きております。丈夫なのでしょう」
 泰彦は肯き、用意された膳に目を移した。いくら敵とはいえ、膳の上の貧しさに目を疑ってしまう。
「本当に、まずいですね。でも、これしかありませんの。いくらお金があったとしても、買いに行く場所がありませんでしょ? それに、農耕などした事の無い都人、格好になりませぬ」
「そのようだ」
 泰彦が屋敷に入る際立て掛けてあった農具を思い出して肯く。
「でも、だからと言ってあなたが食べないと言うことはいけない」
「そう、こんな私のわがままでここまで来てくれたものたちにとって、此処で終わりなど情けないやら、かといって私を恨むことも出来ず随分と恨めしいと思っていることでしょう」
「好きなのですよ」
「なんと?」
「好きでなければ、こんな場所にまでやっては来ますまい。口で暴言を吐くだけましです。本当に嫌ならばここまでついて来てくれなどしない。都に残るか、それとも私の方が捨てられるかだ。だから、あなたもお食べなさい」
「お優しいのですね、あなたは。苦労しますでしょうに、ほかは」
 紫重が小さく笑い口元を袖に隠した。
「甘いとよく叱咤されますよ」
「でしょうね、そんなことでは首を持って帰ることも出来ませぬよ」
 辺りが静かになった。紫重は微笑んで膳の上の杯を手にした。
「月のお酒です」
 康彦が杯を覗けば確かに月が欠けて映り込んでいる。
「月はいい」
「お好きですか?」
「はい」
「私も好きです。透過されていく様で、ずっとだって見ていられますわ」
「では、縁のふちで飲みますか?」
「そうそう、忘れる前に、あの者たちの同席を認めてくださいね、もともとはあの者たちの屋敷だったのですから」
 泰彦は肯き縁側に出た。紫重はあやめに手を貸してもらい縁側へと向かう。
「大庭殿」
「放っておけ、若虎の気がすむようにせねば我々は動けぬ」
 と言って、膳の上のものに箸をつける気もしなければ、酒にさえ口をつける気も無い。不味かったり、毒でも入っていたら大事だ。と思っている一同の前で泰彦は紫重よりも先に酒を口に運ぼうとするのを紫重が止める。
「毒見をしてからにいたしたら?」
「入ってないでしょう。酒などに入れるなど勿体無い」
 紫重はくすりと笑い杯を開け、泰彦も同じく空けた。
「あまり飲まれない方がいい。悪酔いする」
 肯き紫重は月を見上げた。
「銀月は鈴のように涼しげですね」
「銀月ですか、」
 泰彦が酒を口に運んだのを見て大庭たちも酒に手をつける。
「都は、随分と変わったでしょうね?」
「ええ、侍ばかりになりました」
「そうでしょう……。でも楽しみ。私ね、屋敷が外れにあったので都人とはいえ、華やかな場所を見たことがありませぬのよ。どんなに賑やかか想像がつきませんけどね。ええ、とても楽しみですわ」
「あまりいい場所ではないですよ、都など」
「そう思いますか?」
「私の肌にはあっていない」
「では、私にも合いますまい」
 泰彦がゆっくりと月から紫重に目線を降ろす。ほんのり頬が赤くなり、側のあやめに寄りかかっていく紫重。
「具合でも?」
「いいえ、いつも脇息に寄りかかっているから、一人で座れないのだわ。きっと」
 紫重はころころとあやめに寄りかかって笑う。
「笑い上戸だね」
 泰彦があやめのほうを見て笑う。
「初めて口になさいましたから」
 あやめの足しためるような言葉に泰彦が眉をひそめる。
「甘酒なら好きよ」
「あれは酒と名のつくだけです」
 紫重は少し頬を膨らませ首をすくめた。
 都の外れの末姫には成人の祝杯は無かったようだった。泰彦は杯を持ち上げ、じゅんの酌で酒をちびりと飲む。
「そうだ、農耕は初めてと仰ってましたな?」
「ええ、どれもこれも」
「手ほどきをしましょう」
「若虎!」
 大庭の鋭い声に泰彦は首をすくめながらも、
「もともと我らは農耕夫上がり、鍬や鋤もお手の物だ」
「でも、今は侍でしょ?」
「あなたの家臣よりは出来ますよ。そう、あそこに居る盛八と言う男は農耕具を作るのに才をなしてますから、まずは手入れから始めましょう」
「お手間じゃありません?」
「働かざるもの喰うべからずですよ」
 泰彦の言葉に紫重は笑い、その申し出を受ける。

4……欲情

 翌日から農耕具の手入れから、畑の耕し方、育て方まで泰彦の部下は丁寧に紫重の部下に教えていた。泰彦も畑に出向き、畑を耕すのに一役買っていく。
 紫重はその様子を縁側から眺めている。
 その紫重を忌々しげにじゅんは庭の角から睨んでいた。
「あんた、姫じゃなかったんだね」
 はっとして振り返るとやそ吉が立っていた。その頬は大きく腫れ上がっていた。
「あなたが勝手に誤解したんでしょ。私から姫だとは言っていないわ」
「別に構わないんだけどね、ただ、あんたは姫様を殺そうとした」
「脅す気?」
「脅す? そんなんじゃねぇ」
「じゃぁ、何よ」
「そういう恐ろしいことは考えない方がいい。まず自分に恐ろしいことが返って来るから」
「十分恐ろしいわよ、こんな何も無い貧しい場所に居ることが。それ以上なんの恐ろしいことがあると言うのよ!」
 じゅんの声が興奮を含み大きくなった。全員がじゅんのほうを見る。はっとして振り返ったが紫重だけはじゅんを見ていなかった。
「とんぼ」
 紫重が竿に止まったとんぼを指差す。
「つがいね、仲がいいわね」
 飛んでいくとんぼを見送る紫重。
「のわ!」
 どすんという音がして畑を見れば、泰彦が畑に腰を突いて泥だらけになっている。
「若虎、なにをやっとるんだ?」
「いや、久々に桑を持って振り上げたら、上げすぎてしりもちをついたぞ」
「なんとも無様な」
 大庭の呆れた声にくすくすと笑う声とむっとしていた泰彦の大声が混じり、全員が笑い出した。
 じゅんは紫重を睨んで走り去った。そのあとをやそ吉が追いかける。
 紫重は居なくなったじゅんの後を追うように首を振る。
「姫様……」
「おじゅんには退屈よ。都に居れば素敵な縁談もあったでしょうに」
「姫様あっての我らです」
「……、おじゅんには必要ないものだし、今の私にも必要じゃないわ」
「姫様」
「都へは、私一人で行きます。お前たちは頃合を見て帰るもよし、此処に留まるもよし、好きになさい」
 紫重はそう言うと部屋にこもった。
 大庭が泰彦を立たせる。
「まったく、もうろくしたもんだ」
 泰彦の心のこもっていない言葉に大庭が手拭を渡しながら顔を伺う。
「散歩にでも、誘ってみようか」
 大庭はため息をこぼした。

 大庭は土間に入った。泥を落とし終え、すでに泰彦は屋敷に上がって大の字になっていた。
 大庭の側にあやめが近付き、水を張ったたらいを置く。 
 大庭のため息にあやめが顔を上げる。
「あ、いや、ありがとうございます」
 足を浸し泥を落とす。
「何か、不都合でも?」
 あやめはよく気がつく女房らしく、いくら敵だとはいえ不機嫌そうなものを見るのは嫌なようだ。
「うちの若虎のことだから、気にせんでくれ」
「大高様がいかがなさいました? 不都合があれば、姫様に怒られるのですが」
「あ、いや、あなた方の接客……は素晴らしい。ただな、そう、そういうことではないのだ……」
 大庭のため息にあやめは首を傾げる。
 そのことをあやめが房村に告げる。すると、房村が大庭たちの部屋としてあてがった部屋に行くのは必須だった。
 房村を囲むように大庭たちが座る。
「なにやら不都合がおありとお聞きしたゆえ、とりあえず姫様がまだ主である以上、お客人として招いているのです、腹を砕いて仰って頂きたい」
「それは、」
 大庭が言葉を渋る。
「いくら討ち果てられる行く末とはいえ、我らにも接客のもてなしの心はあります」 
 大庭は困り果てたように後頭部をぴしゃりと打ち、久武たちのほうを見た。
「正直にもうそう。若虎がな、都では女の毛の字も見なかった若虎が、」
 そこまで言って大庭が手を振った。
「まさか」
「そうであればと思う。だが、」
「確かに、若虎にしては紫重姫をやけに気にしている様子。あのおじゅんという娘がいかったときも、紫重姫に怒りが向いて寒々しくなった場を解す為わざとこけられたし」
 久武の言葉に大庭は辺りを見渡す。
「正直真っ向な男ですので、すぐに解ってしまうところが難点で、」
 信明もその通りだと言わんばかりにため息を落とす。
 房村が大きくため息を落とす。
「だから、此処だけの話ということにしてくださらんか。酷くなるようならば、我らも何とか食い止めるが」
「承知した」
 房村は部屋を後にした。確かに泰彦はいい若者だ。覇気があるし、敵味方でなければ紫重姫に推し進めるところだ。
「房村」
 いつしか紫重の部屋の前を歩いていたようだ。本来の目的である台所とはまったく逆なのに。
「はい、姫様」
「入りなさい」
 房村が入ると紫重はじっと庭を見ていた目を房村に向けた。
「大庭様はなにをご心配なさっているのですか?」
 房村は咳払いをした。あやめが言いつけたのは解っているが、内容が内容だけに言い出せない。
「お休みか?」
 泰彦がいい具合というか、悪い具合というか紫重の部屋を訪ねてきた。
「いかがしました?」
「もみじでも見に行かれぬか?」
「…、少し寒うございますから、おじゅんをお連れしてくださいな、心が少しは空くでしょうから」
 泰彦は渋々という顔をしながらも、「では、皆で出かけることにします」と言って立ち去った。
 確かに、あのお方は姫に好意を寄せているようだ。
 房村は肩を落としてため息をつきかけ、紫重の目があるのに気付き、体制を整えた。
「断ってはいけませんでしたかね? 私があまり接客をしないことが、良からぬと言っておられたのでしょう」
 紫重の言葉に房村はただ頭を振るだけだったが、あの時肯けば泰彦には良き事でも、大庭や、自分たちには余り良い事で無くなるのだ。
 大庭は紫重を上目遣いに見た。庭を見ながら「まずかったかしら」と後悔している横顔が妙に赤く、来て早々の疲れた顔には見られなかった強さを感じる。

5……嫉妬

 泰彦の呼びかけに紅葉狩りに出かけたのは、じゅんたち親子と、久武、信明といった比較的若者が中心だった。
「これなんか紅過ぎず綺麗ですなぁ」
 信明がそう言って一枝掴む。
「綺麗だ」
 泰彦はそう言ってそれをじっくりと愛でる。
 がさっと音がして信久と久武が柄に手を置くと、草叢からやそ吉親子が出てきた。
「すみませぬ。山菜取りの最中で」
「うまいものがあるか?」
 親父の側でやそ吉は肯き泰彦を見上げる。
「奥にきのこがあって、それをとりに行くんです」
「それは見てみたい、行ってもいいだろうか?」
 やそ吉は肯き、泰彦たちが行くかわりに腰の弱い親父殿は下山した。
「この村でお前だけが若いと聞いたが、何故だ?」
「皆出稼ぎに行ったり、村を捨てたりしてるんです」
「お前は出ぬのか?」
「此処で生まれ、育って、親も居るし、此処が好きなんです。昔憧れで讃岐辺りに行ったが、どうも水が合わないというか、やっぱり山猿なんでしょう」
「山猿とは面白いことを言う。確かやそ吉だったな、」
「はい、若様」
「若様か、姫が好まれていた薬草というのもこの辺りか?」
「あれは向こうにちらりと見える、あの滝のちょいと先にあります」
「私が行っても取れるだろうか?」
「そりゃ辞めた方がいい。足場が悪いから、用があるならいつでも仰ってください。取りに行ってきます」
「ありがとう」
 やそ吉は泰彦に礼を言われ頬を赤くした。綺麗で逞しい泰彦にやそ吉は惚れたのだ。じゅんを姫だと思い込み、淡い叶わぬ思いとは違う尊敬の想いだ。
「姫様はお体が弱いんで?」
 やそ吉の質問に泰彦はやそ吉を見つめ、暫くして首を傾げた。
「あの、悪いこと聞いてしまったのだろうか? そんなら、おら」
「いや、私にも解りかねる。返事に困っただけだ」
 泰彦はそう言って笑ったが、やそ吉の心は晴れなかった。
 じゅんはその様子を一行の最後尾から見ていた。
 先ほどから紫重の話しかしない。こともあろうに、自分が大事だと言ったはずのやそ吉さえもが紫重の事を心配している。
―たかが姫というだけで心配をしてもらっている。同じ女の私は、この急な山を杖もなく歩いているというのに―
 じゅんの顔が険しくなる。
「困ったもんだ」
 じゅんが顔を上げた。前を行く久武と信明が苦笑いを浮かべて見合っている。
「かなりのご執心。どうなると思う?」
「さぁな、話しによれば姫のほうも満更ではないと言う」
「本当か?」
「ああ、房村殿がため息をついて大庭様に話しておられた。この紅葉狩りに参加した方が良かったのだろうかといろいろと巡っておいでだと」
 二人はやそ吉と話を続ける泰彦を見た。
「こんな場合で無ければあの姫様は若虎にふさわしいと私は思う」
「久武?」
「討つ気なのだろうか?」
 久武の哀しそうな言葉に信明は地面に目を落とした。
「大殿の命令に従う人だから、」
「そうなったら、あの人はどうなるだろうか?」
「この討伐が他の人なら良かったのにな」
 二人は静かに肯いた。
―姫が大高様を好いている?―
 じゅんの体を震え上がらせるものがあった。
―もし、大高様が姫で無く自分を選べば、全てを手にしている姫から最愛のものを奪い取ることができるならば、自分は源軍の大将の嫁、そうなれば、平家の末娘など一打できる。私をこんな醜い村に連れて来た罰を与えることができる―
 じゅんはにやりと笑った。
 純粋な泰彦の気持ちをこちらに向けるなど簡単だ。姫よりも明るく、美人な自分には造作も無い。
 そうなのだ、泰彦を自分のものにすることで、紫重の全てを手に入れられる。じゅんの中に烈しい物が沸き起こり、それはある種確かなものであるという保証さえ感じていた。
 きのこ棚からもみじが綺麗に見える場所に降り、腰を降ろす。
「大高様、お水です」
 じゅんが泰彦に近付き水を勧める。坂も手伝ってじゅんは足をとられ泰彦の側で転がりそうになるのを、泰彦が受け止める。
「大丈夫か?」
「すみません、お着物が濡れてしまった」
「構わぬ、すぐに乾く」
 そういう泰彦の袖をぬらした水を、じゅんは手拭で拭く。
「大変申し訳ありません」
 じゅんが顔を上げるとほんのりと赤くなっている泰彦がこちらを見ていた。
 じゅんはすぐに離れ瓢を差し出す。泰彦はそれを受け取り口に運ぶ。じゅんはそれをちらりと見たあとですぐに側を離れる。
―きっと後姿を見ている。あの赤くなりようは、女がそばに居たことが無い証拠だわ―
 じゅんは後姿を意識するように背筋をはって歩いた。
 じゅんが泰彦の側で酌や、世話を焼くのは家に帰ってからも続いた。足を洗う順は泰彦が先だとしても、今まで一度として洗ったことの無いくせに、率先してたらいを運ぶ。
 泰彦の部屋へ夕餉のしたくの出来たことを知らせに行こうとするじゅんの腕をあやめが掴む。
「お前、どうしちまったんだい?」
「なにが?」
「大高様にくっついてばかりじゃないか」
「そんなこと無いわ。それにもしそうだとして何か悪い?」
「悪いかって? 悪いに決まってるだろ? あのお方は源の大将さまだ。うちらを討伐にきた方だよ。おまえのしているのはおべっかじゃないかい」
 じゅんの顔が険しくなる。
―姫が想う気持ちは良くて、自分が想ってはいけないというのか?―
「それに、仮に討伐をしないお方であったとしてもだよ、お前とは身分が違いすぎる」
「身分?」
「そうさ、向こう様に合う身分のお方といえば、此処じゃぁ、姫様ぐらいだ」
 糸が切れた気がする。口惜しい。身分という名の上に居るだけの女のくせに、あの女のどこがそれほど偉いと言うのか。
「ともかく、そんな想いがあったなら捨てておしまいよ」
 あやめは夕餉を運びに行った。
「姫と呼ばれなければただの女。いいえ、それ以下だわ。何のとりえも無い。美人でもないし、教養だって無い。なのに、姫だというだけで」
 唇を噛み締めすぎて血の味がする。
「おじゅん様?」
 振り返るとやそ吉が薬草をもって立っていた。
「あの、薬草……、口から血が出てます」
「出て行きなさいよ、お前の顔なんて見たくないわ」
 じゅんは薬草の持った籠を打ち払い自室に駆け込んだ。
 やそ吉は身震いをする。鬼の形相とはあのことを言うのだ。と思えるほど深い影を落としていたじゅんの顔。打ち払われて地面に落ちた薬草をかごに乗せる。
 その薬草に白い手が伸びはっとして顔を上げれば紫重がそれを拾っていた。
「綺麗な葉ね、これがあのお茶なのね? いい匂いだわ」
 紫重はそう言って一つを掴んで廊下に腰を降ろした。
「此処は寂しすぎる。心が荒んでも、私のわがままで連れて来たのだから、悪く言わないでやっておくれね。都に居れば美人で箔のある家に嫁げたのを、私なんかのために…」
 紫重の目から涙がこぼれる。
 家に仕えていた数少ない女房の中で、一番年が近いという理由だけで同行させたじゅん。彼女は都を出る前から行くことを拒んでいた。自分が、話し相手が欲しいとさえ言わなければ、実質、話し相手など一度もならなかった。話すことが無かったし、それどころの余裕さえなかったのだ。
 紫重は涙をぬぐい、やそ吉の方を見た。
「ときどき、持ってきておくれね。あたしが居る間」
 そう言うと立ち上がって台所を出て行った。
 やそ吉は立ち上がり紫重を見送る。じゅんが言うほど悪い人ではない。だが、紫重が言うとおり、この村に来たくなければ、都を出る気のなかったじゅんにとっては、紫重は悪い姫だと映るのかもしれない。
 そんな風に人を見ることを止めさせたかった。自分が卑しくなるのはいくらでもできる。でも、尊敬を持って相手に接する努力をしなくなっては、あれほどの美人もその色を失せていくだろう。あのまま都に戻ったところで、あの人は幸せになれるのだろうか? 本人はそれが幸せだといっているけど、やそ吉にはそうは思えなかった。

6……思慕

 じゅんはそれから泰彦の側に寄り添うように世話を焼いた。房村がそのことに困ったあやめから相談を持ちかけられ、じゅんを前に座っていたが、じゅんはそれを悪びることなく、逆に房村を説き伏せていこうという気配さえあった。
「しかし、房村様。女の少ないこの場所で、何かとお世話をいたしてあげませぬと、此処の女房が賢くて気が聞くと、そういう女房の居るものの軍を諌める事は出来ぬと、そうお考えになられるはずです。わたくしは、この軍のためを思って尽くして居るのです」
「しかし、大高殿のほかのものはいかがだと言うのだ?」
「適当にやっております。大将の一存で全ては決まりましょ? 大将様さえお気持ちよければ、後のものがどうであろうと一向構いはしませぬ」
 房村は口を歪めじゅんを見つめる。そこへ紫重が入ってきた。
「姫様」
「じゅんの申すとおりです。じゅんの行いが良き事に向けばこの軍勢はひとまず安心でしょう。これからも心して尽くしてくださいな」
 紫重はそう言うと部屋を出て行った。
 紫重の居る間床に伏していたが、目はぎらりと庭を睨みつけていたじゅんは顔を上げるなり房村に微笑み退室した。
 房村は深くため息をこぼした。
 あやめのいい分では、じゅんは泰彦に取り入り都に帰ろうとしているらしい。それは一人だけで、あとのものは紫重と一緒にこの村にいようが、討たれ様が構わないとまで思っているはずだという。
 紫重の手前床に伏せていたが、平伏している様子がないことは房村にもわかった。昔は無垢で可愛らしい娘だったのだが、都落ちがそれほどまでにじゅんを変えたのだろうか?
 房村が思案にふけっている目の前にやそ吉が現れた。そわそわとしているやそ吉は、思い切って房村に声をかけた。
「何だ」
 思慮を邪魔されて少々不機嫌な房村に怯えるようにやそ吉が口を開く。
「あの、紫重姫様が裏山のほうへ行かれたんだが、誰もお供しなくていいのだろうか?」
「何?」
 房村はいらいらと立ち上がった。あれもこれもと問題が沸き起こりすぎる。大高の軍とはそれなりに気まずいながらもうまくやっているが、紫重の心情や、じゅんのこと、果ては食糧難まで、確かに都に居たならば気にしなくて済んだ事ばかりだ。
 房村は庭を飛び出て山に向かった。

 山は色付きを終えていた。紫重はそばの枝をちょいと触れる。もうそこに色のいい葉はなかった。
「冬が来る」
 紫重が呟いたとき、割って入るような相槌が聞こえた。そちらを見れば泰彦が棒切れを持って近付いてきた。
「一人ですか?」
「何とか。あやめや房村が一緒ではまた此処に来れませんでしょ? 危ないとか、姫では山道は無理です。とか言って」
 紫重はくすくすとあやめや房村が言いそうなことを呟いた。
「心配なさってるんですよ」
「解ってますけどね、此処は一人できたかったので」
「では、お邪魔ですか?」
「いいえ、よろしいです」
 紫重は肯き眼下に広がる山間の裾野を見つめた。もみじが歩くように下に下に色が広がって行く気がする。
 紫重がふと右手で左頬を撫でた。
「どうかしましたか?」
 紫重が泰彦を見て首を傾げる。
「頬。痛みとか?」
 そう言われて無意識に持って行った手を下ろす。首を振り目線をそらす。
「寒くなってきました。村に帰りませんか?」
 泰彦はそう言った。
 紫重の行動が寒さをしのぐものだと思ったらしい。
「あと少し居ます」
「では、ご一緒します」
 紫重は肯き、木が抜けている、最初泰彦と逢った場所に座る。
「最初、そこに居られたとき、心臓が止まる思いでした」
「何故?」
「死んでいるのかと思いましたから」
「そうであれば随分と楽でしたのに」
「そのようなことを仰るな、皆が悲しむ」
 泰彦の言葉に紫重は返事をせずに落ち葉を一枚取り上げる。
「大高様、お願いがございます」
「私にできることでしたら」
「私とじゅんを都に連れて行ってくださいませね。あなたのお慈悲に甘えて、此処に残す伴たちの命を救ってくださいませ。そして、村を過ぎ、瀬戸内の海が見えました頃に、じゅんを先に出立させてください。先連絡のものと。そして都に近い場所でじゅんを放して下さい。じゅんの姿も消えました頃に、私の首を切り、大殿である頼朝様に献上して下さい」
「姫?」
「お願いです。どうぞ、あなた様が立派な大将様であるということを信じてのお願いです。他の誰でもなく、あなた様にお願いしたいのです」
 泰彦は唇を噛み締め顔をそらした。
 紫重は葉から顔を上げ空を見上げた。
「太陽と、白い月……。空は青く高いのに、手が届くかもしれないと思ってしまう」
 紫重が手を伸ばす。その手を泰彦が掴み、その場で抱き寄せた。
「……、あたた、かい…」
 泰彦が右手を紫重の左頬に添える。
 その手から熱が伝わり、心がじんと振るえ涙が落ちる。
「姫?」
「あと少し、こうしていてください。お願い……」
 紫重は泰彦の手に手を重ねる。
「ずっと、こうして誰かにしてもらいたかった。お父様も、お母様もお忙しかったから。あやめや房村は、私を姫だと崇めるだけで、私を抱きしめてくれるものは居なかった。ただ少しの間だけ、こうしていて欲しかった。温かさがずっと欲しかった」
 泰彦は黙って紫重を抱き寄せた。
「姫―!」
「お顔をお隠しなさい」
 房村の声に泰彦は自分の上掛けを紫重に掛け抱きかかえる。
「大高殿、姫は?」
「また寝ておられたようだ。少々寒気がするのでこのまま私が連れてまいる」
 紫重は泰彦の鼓動をその耳元で聞いていた。優しく打つそれに心地よさが加わる。
 ずっとこうしていられるなら、どれほどの幸せか知れない。でも、屋敷はすぐそこで、屋敷に着けば離れてしまう。
 泰彦でなくてもいいのだ。そう思っても、離れたらその鼻腔に残る匂いと、体についた温かさが名残惜しく胸を締め付けるのに決まっている。
 こんな確かな不安は今まで感じたことがなかった。
 屋敷に辿り着き、房村が障子を開ける。
「着きました」
 その小声に紫重は目をこすり、涙をぬぐった。
「寝起きで寒いでしょうから、これはお貸しします。では」
 泰彦はそう言って紫重を畳に降ろし部屋を出て行った。
 紫重は泰彦が掛けてくれた上掛けを払い頭を出して舌を出した。
「また寝ていたわ。あそこは気持ちいいから」
 紫重はそう言って脇息にもたれた。
 
 房村は泰彦を追いかけた。
「大高殿」
 泰彦が足を止める。
「姫が何か申されましたか?」
「何かというと?」
「我らのこと、いや、姫の行く末のこと」
「…、別に。よく寝ておられただけだ」
 房村は難しい顔をしてさらに問い詰めようと口を開いたが、泰彦はそのまま自室に入った。
―言える訳がない―
 姫は自分だけの首で丸く治めようとしていることなど、姫想いの者に言える訳がない。もし言ったのなら、自分たちが重荷であるならばと自害しておかしくない。なんだって自分たちはこんなことをしなきゃいけないのだろう?
 戦をしようという心の根のないものを追いかけ、気が触れ合えば良き者たちを手にかけるなど、何故しなくてはいけない?
 これならば九州へ逃れたのもたちのほうへ向かったほうが容易かったに違いない。でもそうなれば、姫は誰の手に落ちただろうか? ただ切り殺されるならばまだ名残惜しいで済むが、そんなたわ言等、数日の追跡などでへたりきった男衆に遭ったなら、どうなるか……。
 それもこれもこちらへ来た自分の判断ミスか? 貧乏くじを引いたものだ。
 泰彦は自分の運の無さに苦笑いをした。

7……伝達

「若虎!」
 久武の大声がした。
 苦笑いをしていた泰彦は表情を強張らせた。温厚で物静かな久武があれほどがなっているのだから、よほどのことがあったに違いないのだ。
「どうした」
「大殿からの伝達です」
 久武の手に握られた頼朝からの手紙。
 泰彦は静かになるために深呼吸をしそれを受け取った。
「あとで呼ぶ」
 久武が出て行った後、泰彦はそれを開けた。文面は予想に違わなかった。
「紫重姫を追跡中。その足跡情報から近しいと報告を得て久しいが、いかがしておられる。戦が長引いていると申すのならば援軍を派遣いたすが、いかんせん少人数の軍勢、それほどまでに時間が掛けられる必要が皆目見当つかず、命令疎かにしてやまぬのであらば貴軍攻撃す。さもなくば、一群の大将の首及び主要者の首を早急に持参せよ。それにより遅参の件抹消す」
 泰彦は深くため息を落とした。
 頼朝は姫だけでなく、房村たちの首も届けよという。さもなくばこの村に軍勢を送ると。やっと畑が全て耕し終え、来春には種も撒けるであろうと思われる土地に軍勢が来たならば、地は踏み固められ、再びあの苦労を残った村人で補うのは困難だ。
 だからと言って、姫の申し出どおり連れて行くのは忍びない。
「若虎」
「大庭か?」
「入ります」
 大庭は文面の予想がついているのか、難しい顔で入ってきた。
「いかがなさるおつもりか?」
「先ほど、姫に言われた。自分とおじゅんを連れて行けと。そして、おじゅんを都のそばで解放し、その後自分を打てと」
 泰彦は頼朝の文を大庭に差し出す。
「虎になりますか?」
 大庭の言葉に苦笑いをし、ため息を落とした。

 頼朝からの伝達の話はすぐにじゅんたちの耳にも入った。内容も容易に想像がつく。「一族皆殺し」その文字が頭をかすめ誰も彼もが顔に影を落とした。
 その夜の夕餉は今までになく暗く重いものだった。

「大高様」
 夜半を過ぎ、寝静まって誰一人音の立てるものの居なくなった頃、泰彦は肩を揺すられて目を開ける。
 そこに居たのはじゅんだった。じゅんは寝巻きのままでそこに座って両手を付いて伏せていた。
「どうか、寝間にご一緒させてください」
 泰彦はあわてて起き上がりじゅんを見た。
「どうか」
 手をつくじゅんに、泰彦はしばらくその天辺を見つめていたが、すっと布団から降り、静かに口を開いた。
「寝間を使いたければ使いなさい。それがあなたの願っていることでないことは重々承知だが、私はその願いを聞き入れることは出来ない」
「何故です?」
「それは、」
「姫の方がいいのですか? 何故姫なのです? 何も出来ない女じゃありませんか! 一人では生きていく術さえ知らず、器量だって良くない。お父上の後ろ盾さえないただの女じゃございませんの。その姫のどこがそれほど良いのです? 何故皆姫なのですか?」
 じゅんははらはらと涙がこぼれた。これは少なくても泰彦を想っての涙ではない。今まで想いつづけてきた姫への不満だ。でも、その不満さえも払拭できるほど、そういうじゅん自身が姫のことが好きだと気付いた涙だ。
「あいにくと、姫とあなたを比べてではない。決してそうでないと言える。でも、私の心があなたにないものを、どうしてあなたの願いを聞き受けられよう? 私はそのように不義理な男ではない。あなたは確かに器量がいい、私なんかよりもっといい男があなたを熱望するだろう。そのときのために……」
「私じゃ、駄目、ですか?」
 泰彦は静かに肯いた。じゅんは顔を覆って泣いていたが、暫くすると「お邪魔いたしました」と出て行った。
 泰彦は障子を開け廊下に出た。寒い秋風が頬を撫でる。その風にふと昼間に紫重を思い出す。
 頬に手を重ねて泣いた人。もうあの人の流す涙は見たくない。あの方と離れるのは忍びないが、此処を離れるほうが、この村のためになるだろう。
 泰彦の顔はすっきりとした決意と同じく晴れやかだった。

8……終焉

 翌朝、朝餉をいただいているときだった。
 泰彦が明日ここを出ると言う話を急に聞かされた紫重がそこに現れた。
「出られますのか?」
「はい。だが、あなたは連れてゆきませぬ。あなたの申しつけ通おじゅんは一緒に連れて行こうと思っております」
「おじゅんを私の身代わりになさる気ですか?」
「いいえ、平紫重の軍との攻防戦において我が軍は勝利し、しかしながら、女子供の多さに我ら心を痛め全てを埋骨。弔いに時間が過ぎてしまった。紫重姫の首確かに切り落としたが道中の長きにわたり腐り、献上に際しあまりのこと、道中に埋葬してまいった。そう大殿に告げるつもりです」
「でも、それで納得なさいますか? 頼朝様は噂に頭が切れる方だと聞きます」
「もし怪しまれたら、こことは別な場所へお連れするだけですよ」
 泰彦は大笑いをし、白湯粥(お湯で食べるお茶漬けをなんと言いますやろか?)を流し込む。
「そんなこと、本当にできるのですか?」
「してみせますよ」
 紫重の顔の陰とは変わって泰彦は本当に晴れやかな顔をしていた。
「では、首を埋めたと仰るならば、せめてその証しが必要でしょう」
 紫重はそう言うと、胸から短剣を取り出し髪を無造作に切った。あまりのことに一同は成すすべなく切られていく髪を見つめるだけだった。
「これを私の形見だとすれば、安心でしょ? あなた様の咎もありますまい」
「姫、」
「ありがとうございます。やはり、あなた様がこの村に来てくれてよかった」
 紫重は両手をついて俯いた。無造作に切られ短くなった髪がばらばらと肩を滑る。
「まぁ、髪を斬るとはこれほど軽くなるとは思いもよらなかった」
 紫重は微笑み、泰彦の切なそうな目から顔をそむけた。
「私が居ては場が白けるようだから、部屋に戻ります」
 紫重は立ち上がると部屋へと戻った。あやめが慌てて後を追いかける。
「気丈夫な人だ」
 大庭の言葉に手渡された髪の束を見つめる。温かさなど髪にはないとしても、かすかに温かさがあって、それが徐々に冷めていく。最後には鉄ほどにも冷たく感じられて痛い。

 紫重は部屋の真中に置いている畳座の側に座った。あやめが畳みに座るように言うが、床の方が気持ちがいいと座ったままで居る。
「髪、軽くなった」
「綺麗な御髪でしたのに」
「いいの、大高様の役に立てれば」
「お気に召されましたか?」
「素敵な方ではありますね」
「行っておしまいになりますよ」
「そうね、明日と言っていたわね」
「逃げてくださいと、連れて行ってくださいと仰られたら?」
「きっと、行ってくださるでしょう。でも、それでは大高様に辛い思いをさせます。あなたたちにさせたように。もう嫌なのです」
 あやめは紫重の肩に手を置き、寝間に行くように勧めた。
 その晩遅くまで、村人がそこに集まり泰彦たちが行く宴を開いていた。

 よく早朝。
 よく晴れた日だった。朝もやの霧も晴れ、秋が深まってきた山村でも今日は温かくなりそうな予感のする陽射しが、来春に向けて用意されようとしている田畑を照らしていた。
「世話になった」
「姫は、具合が悪いとのことなので、」
 房村の言葉に泰彦は肯く。そして懐に忍ばせた木箱を叩き、
「達者で暮らせ」
「お気をつけて」
 泰彦たち一行は馬の歩を進めた。この村にやってきたときよりも歩はさらに重く、あの峠、あの海、あの長い道のりを行く苦労よりも、この村を離れる寂しさで足取りが重い。
 じゅんは一行の中ほどに馬に乗っていた。母を一人残す寂しさはあっても都にいける喜びのほうが大きかった。だから歩がなかなか進まない気がしてイライラしていた。
「若虎」
 久武の弾んだ声に泰彦が振り返る。
「どうした?」
 大庭が面倒くさそうに泰彦の代わりに返事をすれば、山の中腹辺りで人影が見える。
「姫?」
 じゅんは言葉を飲み込みたかった。その言葉でまた行進が止まることは明白だったし、また数刻都に辿り着くのが遅くと思うと、出た言葉を消すものが欲しくなった。
「一同のもの、我らが大将大高泰彦は敵陣に切り込み、女子供を多く手にかけたことに思量した結果、その場に留まりその霊を弔うに勤めることと相成った」
「ひいては、それに従いし者あるのみの寂しい村として、あの村に住むことに遭い決まった。我、この件を大殿である源頼朝公に報告の上、紫重姫の形見の毛共々都へ参った後、この村に希望者の妻子などを引き連れてまいる役目を仰せつかった。皆のもの相違なかろうか?」
 久武と信明が交代でそう述べ上げると、泰彦が反論で口を開く前に、大庭が口を挟む。
「すまないが、この娘御を都近くで解放してやってくれ、これは姫から託された金子だ。おじゅん殿、一人で生きていくのは大変だ。だが、そなたがどうしてもと選ばれた道なので、この者たちがお連れする。だが、それ以降どんな不遇があったにしろ、姫を恨むことなかれ、姫はそなたを解放したのだから」
 じゅんは一人で生きて行くと言うことに顔色を曇らせた。
「おまえたち」
「若虎、良いではないか、あなた様が都に馴染んでいないのは、我らがよく知っている。何も無理に源氏に恩義を返す必要もあるまい。確かに、侍にしてくれた。今帰れば手柄もくれよう。だが、それが何だという? 好いた人が側に居るほうがずっと良いことではないか? わしはそう思う」
「大庭……」
「姫が待たれておる。いや、紫重さん。のほうが良いのかな? もう姫は、居らぬのだから」
 大庭の言葉に泰彦は山のほうを見上げる。動かなくなった行列を不安そうに見ているのか、紫重がそわそわしているような感じに見える。
「いいのだろうか、それで」
「構わぬ。攻められれば、ともに戦うまでだ」
 泰彦は大庭を見たあとで、全てを一巡した。彼らは力強く肯くと、泰彦は静かに頭を下げ馬を駆けさせた。
「大高殿!」
 村に引き返してきた泰彦に房村が驚く。
「我は残る。構わぬか?」
「もちろんです」
 房村の意気の上がった返事に康彦は馬を飛び降り山へと駆け上がる。

「何故、戻ってくる?」
 紫重は山を降りる。泰彦が戻ってきている。別れを言いに戻ってきているのか、それならばやはり隠れていたほうが良かった。
 坂道に足を取られる。急ぐとどうしてもうまく運べない。
「姫!」
 馬を下りて走ってきた泰彦が近付く。
「お別れは、」
「ここに残ります」
 同時に発せられた言葉。紫重が首を傾げると、泰彦は紫重に近付きその両手を掴んだ。
「ここに残ります。死ぬまで、あなたの側に居ます」
「大高様?」
 泰彦は右手を紫重の左頬に滑らせる。暖かな涙が手に触れていく。

 その数日後、泰彦と紫重はめでたく結婚する。翌年には一気に増えた男手や、人により思いもよらぬ豊作となった。
 じゅんは都に戻り、親戚を頼って暮らし、後三年後に紹介された武士の嫁になったということを風のたよりで聞いた。

「ほぅ、大高がな」
 頼朝は脇息にもたれて扇を掌で打ち鳴らした。
「はい、なかなか情に厚き男でございます」
 側近の一人の言葉に頼朝は口の端を上げる。
「大高が追った紫重姫の母御を知っているか?」
「はて?」
「平家きっての美貌の持ち主平光秀の娘三月さまだ。それがどういうことだか解るか?」
「色香にやられたと?」
「とも限らんだろう。大高は女には疎かった。だが、姫は美しいと言われた人の娘であることは確かだ。そして山の奥過ぎて我らが行くに面倒な場所だと言うことも考慮すれば、」
「姫は生きていると?」
 側近は形見として献上された髪を見た。
「それは解らん。だが、どうであれ、天下を取ったわしには小さなどうでもよいことだ」
 側近が頭を垂れる。

 秋が過ぎ、冬が過ぎ、季節が巡り、移ろいゆく山の中で二人は終生幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし


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