ロメートの女神

松浦由香


 

月夜の晩餐

 

 眼下には、先々代皇帝が無理を承知で作らせた水公園と“市場(フォロ)”とを結ぶ、緑美しい蔦や、藤の木に彩られたアーチが見える。そして、この屋上庭園の下を絶え間なく笑い声が過ぎていく。その道は、この庭園から南にある“渡り宮殿(ドムス・トランシトリア)”とつながれている。

 現皇帝の財政危機打開策が、元老員議員の妻達の売春だとは情けない実状だが、しかしながら、そうでもしなければこの国の財政は立ち直りそうもなかった。

 そして庭園下の地下道を過ぎる笑い声は、それらの声であり、それを聞いている少女にとっては身をもがれると同時に、恥ずべき声でしかなかった。

 彼女はまだ十歳を少し回ったばかりの、ほんの子供だった。そしてその母クリスティーネインは、他に漏れず、あの地下道を、彼女の知らない男と一緒に歩いて行っている。肌の色は褐色で、薄汚い口髭を生やしている。醜い異国人だ。

 父は? 彼女が振り返ると、彼らは机に伏せるように、そう、まるで現状を見ないように杯に口を浸し、とろんとした目でうつろに座っている。そしてその部屋に充満する黄昏。

 なんという荒廃の進んだ国だろう。この国はもう持ちはしない。余所から大群が来ずとも、自らの意志と堕落とを引き替えにこの国は滅びるだろう。

 彼女は小さな手でスカートの裾を払って歩き出した。汚らわしい地下道を通らず、上がってきた道と同じく、地下道の横腹に作られたような階段を下っていく。

「何やつ!」

 一瞬の閃きと、電光石火の声に彼女は身を躍らせ、小さく「あ」と叫んだだけで立ち止まった。大人たちは自分たちの狂事に必死でその警戒の声も、ましてやあれほどの小さい悲鳴にも気付かないで居た。

 彼女の目の前に出たのは剣だった。見たことのない、あの汚らわしい男達が持つなんともそり返りの激しい剣だ。

「子供?」

 出てきたのは、相手も大した子供だと思われる。少年だった。頭に白い布を巻き、朝黒い肌に、精悍な目を持っている。

「こんな場所に何故?」

「居てはいけないという法はないわ。第一ここは【私の国】ですもの。」

 彼女がそう言うと彼は眉をひそめて彼女を見た。

「シルヴィオ?」

 大人の、男の声が彼を呼ぶ。彼・シルヴィオは彼女に石階段の隅に隠れるように合図を送ると振り返る。

「何ですか? 父さん。」

「お前こそこんな所で何をしている?」

「何ってわけではありません。ただ、あの場は、あまり楽しくないから。」

「そうだな、子供のお前には無理があるな。しかし、ここはロメートだ。みんなから外れるのは危険だ。ヴィンチェンとは違うのだからな。」

 シルヴィオが頷くと、彼の父親は向こうに行かそうと背中に手をあてがう。

「少しだけ、あと少し深呼吸をした後、戻りますから。先に行っていてください。」

「少しだぞ。危険はなるだけ回避するんだ。」

「解っています。」

 シルヴィオが頭を下げると父親は宴会場に向かって歩き出した。

「出ておいで。」

「助けたの?」

「さぁ。でも見つかっていたとしても咎はないだろうが、親に説教されるだろうね。」

「別に、あそこであなた達にお酒を振る舞っているような人の説教なんか大したことはないわ。でもありがとう。ではごきげんよう。」

「あ、名前いいかい?」

 歩き出した彼女は暫く歩いて振り返ると、「ミルト。」と答えて立ち去っていった。小さい影は直ぐに闇に消えていった。でも彼は彼女がこの荒廃していく国に今後関わるだろうと予感していた。そのくらい彼女の碧眼の光は単純なものではなかった。

 シルヴィオは宴に戻った。この宴の無意味さに呆れ、大人たちのすっかりと豹変した無様さにいらだって抜けた場所で、意外なものを見つけた。まるで宝を独り占めしたような気がする。そう思うとシルヴィオの顔は少しだけほころんでいたのかも知れない。

松ぼっくりの中庭(コルティーレ・ヂツラ・ピーニャ)

 あの夜から五年後、皇帝は新しい皇帝に代わり、ミルトは成人の儀を迎えるまでに成長していた。

 栗色の長い髪に、小さな小花の飾りがちりばめられ、ほのかに赤い頬紅に、熟れた林檎のような唇。それは素晴らしい乙女へとなっていた。

 彼女の母親は二年ほど前、あの夜の行いでもらったであろう病気により他界。父親はその生活全てを酒と黄昏に注いで、滅んでいった。彼女の保護者であり、身元引受人は、父方の祖父であり、威厳高き祖父はミルトを我が子以上に、そして、他の若い娘よりも素晴らしく育て上げた。ミルトはその規定に反することなく成長していった。

 青みのかかった白いドレスは成人の証であり、無垢の象徴だ。これにベールやら、青いリボンでドレスに刺繍をしたものは花嫁衣装になる。だから、娘達はこぞって立派な真っ白いドレスを作った。

「この様な立派なものを作ってくださいましてありがとうございます。お爺さま。」

「ミルト。お前も成人した。今日は私の取って素晴らしく誇り高き日である。しかし、お前は他の娘のようにこぞってドレスを買いに行かないので、きっと遠慮していたんだろうと。勝手だとは思ったが送らせてもらうよ。」

「ありがとうございます。」

 ミルトは膝を折り、同じように成人式を迎える友達たちと会場に向かうため家を出た。会場は各“諸皇帝の公共広場(フォリ・インペリアーリ)”で行われる。ミルトたちは一番近い場所にある先の皇帝陛下、つまり母親を死に至らしめた卑俗な皇帝の建てた広場に向かった。

 街には、諸皇帝が建てた公共施設が山ほど点在していた。そしてそれは皇帝の力の誇示であり、現れでもあった。だから、現皇帝もあの荒丘に神殿を建てているのだ。出来上がれば、神皇帝と言われた皇帝の建てた“黄金宮殿(ドムス・アウレア)”を見下ろす建物となるはずだ。

 ミルトはふいに背後に気を取られた。それは声がしたからでもあったが、珍しい局地雨が降ってきて、そのすごく音に振り返ったのだ。その雨はひとしきり局地に降ると、しかもおかしな事にこの広場の東側出入り口のほんの1平方もない所だけを狙って降ったあと、すっかり止み、暗雲が晴れて三つ数えた後、そして再び雨をもたらした。

 成人者たちはそれぞれに庇の仲に逃れていく。勿論ミルトも友達と一緒に店の軒先を借りた。

 雨は数分後には止んだが、広場はぬかるみ、式典は省略の上、昼前には済んでしまった。ミルトは友達がその後行く予定だという食堂へは行かず、老父のために広場近くの雑貨屋に入った。

「やぁ、ミルト、成人おめでとう。」

 女将はにこやかな顔をしてミルトを迎えてくれた。ミルトはそれに微笑み、いつもの箱煙草を買って帰る。老父はことのほかこれが好きなのだ。特に、インドで取れる煙草は特別だと言うが、これが非常に高い。とはいえ、今日は成人式だったし、国をあげて多少なりの御賞金を頂いたばかりなので、ミルトは買おうと思ったのだ。

 大事そうにそれを手にして店を出ると、広場を横切るように豪華な馬車が駆けていった。五年ほど前の夜以来、異国人の馬車など見慣れているが、あれは珍しく豪華なものだ。

 この国は、あの国・ヴィンチェンと友好を結んで生きながらえているという有様に落ち着いている。しかも、昔合った広大な国土の三分の二ほどがヴィンチェンのものとなっている。

「要人馬車だね。」

「噂は、本当だろうか?」

 ミルトの背後で街の人が会話をしている。今日成人となったミルトでさえ、要人馬車か否かは解るし、噂も知っている。

 ミルトは家の方に歩き始めた。箱煙草をしっかりと握り、ぬかるみに裾を気にしながら歩いた。

 噂。あまり言い噂ではないが、この国が、国として残るための手段としては、致し方がないものであろう。つまり現皇帝の息女をヴィンチェンの嫁がせる。綺麗事では済まされない政治結婚だ。

 ただ、ヴィンチェン皇子がことのほか優しい青年であり、姫も嫌々でないことが救いである。ただ、皇子を取り巻く暗闇が、皇子の性質を曇らせてこの国の民は伝え聞いているから、ほとんどの民衆が同情的なのである。

 ミルトは以外にも市民とは別に、【運命】という言葉で括り、さして気にもしていない。ただ、好きでもないものと一緒になることを、他人に決められるということに抵抗があるだけだった。でも、あの老父ならば、この国の、どこかの若者を急に連れてきて、明日から妻となれと言うだろうという予感はあった。それはいやだったが、それを打開する策は持ち合わせていなかった。

「やぁ、ミルト。」

 家の前に好青年を装っているこの辺りの地主の息子・オリエンスが立っていた。だが、ミルトはこの男が嫌いだった。あからさまに嫌悪を示すのは、老父に悪いが、でもこの男が、街で若い女を引き連れ遊んでいるところを何度となく見ているし、そう言う噂も老父の耳に入っていないはずはなかった。だが、大地主の息子であると言うことは、ミルトの将来安泰が約束されている。それだけのために家の敷地に入れているようなものだった。

「成人式おめでとう。」

 ミルトは会釈だけして中に入ろうとする。その腕をオリエンスが掴み、無理からにミルトを抱き締めようとした。その時、家の戸が激しく開く音と、馬の嘶きが同時に聞こえた。 オリエンスは家の方と、そして近付いてくる蹄に振り返る。ミルトは家の方を見たままだった。

 入り口に立っている険しい顔をした老父。いくら無理矢理だからとはいえ、抵抗しなかったミルトを責めるだろう。そう言う目をしている。

「誰だ?」

 オリエンスの言葉にミルトが振り返ると、馬上に乗っているのはヴィンチェンの若者だった。褐色の肌に黒い髪、そして黒真珠の眼。

「この国の男は、いやがる女性に平気で抱きつく習慣でもあるのか?」

「何?」

「娘、聞きたい。ミルトという娘の家はどこだ?」

「私が、ミルトです。」

 普段なら一切そう言うことには答えない。いくら拷問されようが、ミルトが最初の質問で声を発しないことは、この三年ミルトの側をうろついているオリエンスが一番よく知っているし、それが老父の教えだった。でもミルトは答えた。彼の瞳には言わせるだけの強いものがあった。

「シルヴィオ様!」

 馬上の青年が振り返ると、背後から黒馬に乗ったこれまた黒い髪に褐色の髪の青年が近付いてきた。そのお陰で、彼・シルヴィオはミルトに言いそびれたような顔をしたまま、その彼を見た。

「姫がお呼びです。」

「何の用だ?」

「それが……。」

 あまり良いことではないらしい。それは彼の曇る顔とくぐもった声で解った。

「ミルト、また機会があれば逢おう。」

 シルヴィオはそう言って飽き飽きしている様子で鼻息荒く馬を駆けさせた。

 ミルトは思いだしていた。五年前の月の宴で出逢ったあの少年だ。シルヴィオ。あまり好きにはなれないヴィンチェン国の若者でありながら、何故か彼だけは違う黒真珠があるようで、今まで忘れることの無かったことさえも思い出した。

 何故彼をこれほどまでに覚えているのか、朝夕となく、思い出さない日はないほど、今日再会し、ミルトの名を呼んだ瞬間、身体が雷鳴にあったように弾かれた。

 ミルトはオリエンスを残し家の中に入った。オリエンスは閉まった戸でミルトの置き去りを知り、舌打ちをして立ち去っていった。

「何故あのものはお前の名を知っていた?」

 厳格な老父が、肩をわなわなと震わせながら聞いている。少なくても彼の息子夫婦はあのヴィンチェンに殺されたと思っている。そして、それはどのヴィンチェン人であろうと、全てのヴィンチェン人の行為であるように、シルヴィオを恨み憎む様相をしていた。

「言えば、恐ろしくなるだけですよ。」

「構わん! 言え!」

 そう怒鳴ったあと、老父ははっと息を飲んだ。それはまさに、ミルトさえヴィンチェンに手込めにされたのではないかという猜疑心が芽生えた証であり、それを想像して怒りと、ミルトを同情しなくてはならない目に変わったが、ミルトは少しだけ伏し目にあの夜のことを話した。老父の目はあの夜のあの恥事を、あの時まだ幼い子供であったミルトが見ていたと知って、徐々に驚愕と、そして取り乱さなかったミルトの精神に驚いていくのに変わった。

「お前は、あの場に、居たと?」

「ええ、大勢の女が酒を酌んでいる姿、そして、大勢の男が黄昏の煙の向こうにあったこと。すっかり見て覚えています。」

「なのに何故お前は取り乱さない?」

「取り乱す必要がどこにありましょう? ああしなければならなかったのでしょう? それは絶望政策だったのでしょ? そうしなくてはいけなかった。あたしは両親を誇りに思ってはいません。だからといって、決して感謝をしていないわけではないのです。でも、ただ一つ、憎むべきことがあるとするならば、私が大人となることの拒否の切っ掛けは、他ならぬあの夜の出来事があったから。ではあるのですけどね。」

 ミルトはそう言って老父の方を見た。灰色に濁りきった瞳からは何の光も発しては居なかった。あれほど尊厳きわまる力強い目で見ていたはずだったのに、ミルトの心の傷とそれを知らなかった自負が彼をほぼ廃人に追いやっていったようだった。

「私、成人式で少々疲れました。部屋で休んでよろしいですか?」

 ミルトの言葉に老父はただ頷き、小さく唸るような声を絞り出すのに精一杯だった。

 

 それから数日が経った。市民の間でまことしやかに囁かれていた噂が飛んでもないものに変わったのだ。それまでは、ロメートの皇女とヴィンチェンの皇子の結婚話がほとんどだった噂が、今日、この日、突如的に変わったのだ。

「戦争が起こるだって?」

 口火を切ったのが誰かなど、噂とは解らないもので、それがまるで水面を揺るがす波紋のように大きく、大きく広がって行くに、留めることは不可能であった。

 噂はこうだ。ロメートの現皇帝の息子、つまり皇太子だが、彼がどうも影で兵の強化を図り、貴族、市民、農民如何を問わず、各家から一人ずつ男子を国に治める。出来ない家は金貨にして五十枚。それは農家以外の商家が一年休まず働いて、飲まず食わずで二年ためた額に相当し、金のない家は男子、もしくは、金貨に相当する分の農作物、または女子の鉄鋼労働で償え。と言う俗に言う徴兵制度を設ける動きがあるという。

 ミルトはその噂をいつも通り街に買い物に出てきて知った。生憎、ミルトの家には男子は居ない。しかも、そんな金などもない。いや、男子はいる。あの日のミルトの告白により、すっかり意気消沈した老父が。だが、そんな者が戦場に借り出されてどうなろう。鬼畜でもそこまではするまい。と言う他人の温情とは裏腹に、ミルトの中で、「そんなはずはない。不埒な政策を摂った血筋だもの」という思いがあった。

 そしてその日は現にやってきた。

 ヴィンチェン人を強制撤去。それに応じないものは各収容所に強制連行。そして貴族は術からに対応殿と呼ばれる、言い換えれば貴族専用の収容宮殿に収容された。そして皇太子は皇帝を暗殺し、自らが皇帝となって戦争宣言をした。

「我々の大地を取り返す。そもそも不本意は条件なのだ。政策に苦しんだ先々代の皇帝陛下の足下を見、そして、土地と引き替えに助力するなど。言語道断。事実、この国は助力無しに繁栄を盛り返してきている。今こそ我々は元の国に戻り、不正に取られた土地を取り戻そうではないか。さぁ、神に選ばれし民、ロメートの市民よ。我の元に集い、我とともに聖なる国家ロメートを再建しよう!」

 皇帝の口上には、今までヴィンチェン貴族に踏みにじられていた市民の心に火を付けたのは言うまでもなかった。本当にうまい具合に皇帝は立ち上がったのだ。市民全てがヴィンチェン人に憤りを覚え始めた頃、この機会を過ぎて立ち上がっても、ロメート人自体にその気が無くなっているだろう。本当にうまい具合だ。今立ち上がり、神の民と豪語することで、市民はヴィンチェンに更なる怒りを覚える。

 

 ミルトは洗面所にいた。流れ出ている水を眺め、背後の気配に振り返ると、廃人だった老父の目が驚愕に戦慄いている。

「な、何をしている?」

「戦争ですよ。お爺さま。」

「ああ、知っている。だが、それと、お前が髪を切るとどういう関係があるのだ?」

「母譲りの豊かで綺麗な髪。私も好きでした。しかしながら、この家に金貨五十枚はなく。かといって、お爺さまが戦場に行ける出もない。ですから私が出て行きますの。どうせ、この家は衰退の一途でしたでしょ? お爺さまは地主だからと言う理由で汚らわしいオリエンスを私の側に近づけたようだけど、私はもし彼と結婚しなければならないのならば、その寝首を切る気で居ましたからね。どちらにしても、この家も、そして私も、未来に輝かしいものはないのですよ。でも、だからといってお爺さまを悲観させたくはない。だから志願するのです。男として入り込めばいい。」

「そんなことをして、ばれたら、すみませんでは済まぬぞ。それは皇帝陛下をはばかったことになるし。だいいち、お前が死んだのなら、儂は。」

「もうとっくに生きてはいません。」

 ミルトは短くした斬バラ髪のまま老父の隣を過ぎた。

「もしばれたのならば、先にも言ったように私は気丈に乗り切ります。それでもだめならば、身の処分方法は知っているつもりです。」

 ミルトはそう言って古着の服を鞄に押し込めた。

「ミルト……。」

 ミルトは窓の外を見た。これで見納めになるだろう。そこから見えるのは、あの屋上庭園だった。忌々しい、ミルトの記憶の始まった場所。その日からミルトの記憶が刻まれていったと言って良かった場所。それまでの楽しく暖かな家族が、一瞬にして堕落した場所。「お爺さま、お元気でいて下さい。私が出兵した甲斐がない。」

 老父は唇を噛み床に跪いた。その間にミルトは部屋を出ていった。その後、老父は再びミルトとは会わなかった。数日後、心臓に過大な荷重がかかったと見えて死亡したのだ。

 

 集合場所。それは小さな屋敷だった。一市民の徴兵士など、小さな屋敷で雑魚寝で構わないと言うのだろう。中には大きな女も居た。彼女は日に焼けた肌に真っ白い歯を見せて笑い、漁師をしていて、男の二、三人ほどなら、腕の中で首をへし折ってきたと豪語した。だが、ミルトは彼女に近付かず、その庭の隅に控えていた。ただ誰とも会話をせず、黙って周りを見ていた。時々、松の若葉の匂いが鼻をくすぐる程度で、ミルトの感触に触れるものは何もなかった。

 屋敷から偉そうな軍人が姿を現して、一人一人がどの部隊に配属されるなどの手短な面接を行った。

 ミルトは面接官の前に立つと、一人の男が舌なめずりをした。確かにどう見ても女であるから、それは仕方のない行為だった。長年女性とは無縁を虐げられ、今この軍事国家となりつつ以上、彼らをおいて順位に上がる者はない。つまり、兵役を免除するから手込めになれと言う合図でもあった。

「女だな?」

「確かめてみればいい。」

 ミルトがそう言うと男達は顔を見合わせ、その中でも長の付くらしい男が『そう言うなら』と楽しげに笑って立ち上がった。その瞬間だった、男の唸り声と同時に、午後の光を照らすような光が天井を差したのは。

「一つ忠告しておく。もしヴィンチェンと戦をし、勝ちたいのであれば、強欲に顔をゆがめていると、たかだかな小娘の刃にその首廃る。そんなこと私に言われなくても、軍で習ってきた。でも確かに今、私の刃はあなたの首にあてがわれているし、身動きしようとしているあなたの喉に鮮血の線を付けている。」

 ミルトがそう言い終わったときだった。戸が開き、その異様な光景に銃がミルトを狙い構えた。中の誰も呼んでいない警備兵達ばかりだ。

「何事だ!」

 凄むような声は試験官達を縮み上がらせた。入ってきた男は口髭を生やした四十後半の男で、胸には昨今までは無用だったはずの勲章達が並んでいた。

「この女が急に。」

 そう言った試験官を咎め見下そうともせず、ミルトは剣を鞘に片付け彼の人の方に近付いた。

「急にか?」

「まぁ、そう言われればそうでしょう。首筋に刃をあてがうなど、急でなければ誰もが予見し阻止しますからね。」

「名前は?」

「ミルト、ミルト・ラクラシアです。」

「ではミルト、お前は私について来い。」

「一徴兵が指揮官にですか?」

「来れないわけでもあるのか?」

「いいえ。」

 ミルトは彼についていった。彼の名は、ヴォヌス。ヴォヌス騎兵隊長で、市民上がりの徴兵達を一喝して指揮するいわば、ミルト達のような徴兵がお目にかかれる最も高貴な人であった。

 ミルトはヴォヌスのあとについて小さな部屋に入った。そこはヴォヌスの公室で、大きな机と椅子。それと応接用の机と椅子があった。

「お前は見たところ普通の街娘だ。それが何故クシャラの背後を取れた? クシャラとはお前が背後を取った班長の名前だが。」

「さぁ、しかし、彼らの卑猥な視線を見ているとつい身体が動いた。その様な感覚です。別に意識して動いたわけでも、こう動いたから、背後が取れたという説明は出来かねます。」

「特別の訓練などしていないと?」

「しておりません。普通のどこにでもいる街娘として育ってきております。ただの一度もそのようなものを見たことも、行ったこともありません。ただ、あの時は、そう身体が焼け付くように熱くなったかと思うと、自然と身体が動いておりました。」

「無意識にか?」

「無意識? それとも違います。ちゃんと、すごく素早い動きをしていることも、何故にそこまでしなくては行けないのかも、そうとも思いながら行動をしておりましたから。」

「お前なりに分析して見せてくれ。お前がとった行動を。」

「と申されましても。ただ、一瞬、嫌な過去を思い出し、体が熱くなった以外、何一つ覚えておりませぬ。」

「そうか。だがお前はクシャラにあのような行為を取ったことで、あの者の標的にまずなるであろう。あの男には私もほとほと困っている。いくら夜這いをかけ、怪しいからと言って切り捨てても、あやつの家が言うことを聞かぬだろう。従って、お前は私の側に居て、私の秘書という形になれ。そして戦闘が始まってもなお、お前は私のそばから離れるな。」

「それは、私が女だからですか?」

「いいや、このたびの徴兵制度に関して多くの女が自己を犠牲に出兵してきている。そう言うものばかりの兵も用意するにしかりだが、お前をそこに置いておけば、そうでなくとも男どもの格好の餌食となるだろうが、あのクシャラに何の因縁を付けられるか。そう思うと、いくら無意識にほど近い意識の中でそうしたとはいえ、あれほどの男の背後を瞬時に取り、あの場にいた試験官どもを身動きさせなかったのだ。捨てるには惜しい。」

「では、女兵士達の家の周りには高い塀を作り、女兵寄宿舎側の塀の周りに鋼鉄を張り巡らして下さい。そうすれば彼女たちも少しは安全かと思います。」

「そのようにしよう。お前がここに居る間の仕事は、女兵士と同じ特訓をうけ、その後私に同行する。まぁ、戦局が怪しくなれば嫌でも同行が多くなるであろうが、それだけはなるだけ避けたいものだな。」

「本気で戦争になるのでしょうか?」

「する気だろう。何せ向こうはシルヴィオ兵隊長を呼び戻したからな。」

「どなたです?」

 ミルトの胸は躍った。再会はたった数秒であったあの男のことだろうか?

 起立しているミルトの顔に午後の光が当たり、ヴォヌスは椅子をくるっと振り向かせて窓の外を見た。

「優秀な若者だ。私の家で世話をしたこともある。あいつの親父とは親友でな、その所為でよく知っている。ヴィンチェンの東方兵隊の隊長に就任したほどの腕のたつ男で、剣術にしろ、騎馬術、槍術、弓術ともにヴィンチェン1だと私は思っている。まぁ、それを仕込んだのは私だから、そう言う自負があっても良いだろう? あの男は本当に気持ちが良くできている。まるで初夏の小川のようだ。静かできらめき、誰の心の潤す。だが一度怒りに乗じれば、大河となって襲いかかる。本当にいい奴だ。」

「敵味方となっては惜しむばかりですね。」

 ミルトの言葉にヴォヌスは苦笑いをして背もたれにもたれた。

「初めてだ、私がこれほど話しをしたのは。お前はまるで壁のようだ。」

「壁、ですか?」

「そこにあると知っていながら、不必要ではない。しかし絶対的に必要なもの。私の数多い秘密を知っていながら、さしてそれをひけらかすこともない。シルヴィオにも少し似ているかも知れない。」

「お逢いしたいですね。」

「戦場で会うことになるだろうよ。」

 ヴォヌスの悲しげな言葉にミルトは言葉を返さなかった。ただ黙って頭を下げると、部屋に隅に歩み黙ってそこに起立した。本当に『壁』だなと内心では苦笑いをしたが、だがあのクシャラとか言う奴の目の中にいるよりは数段、遙かにいいとしてそこに居ることにしたのだ。

 ミルトの仕事は思いのほかヴォヌスの内情を知る手掛かりとなっていった。重要な会議に中にも参加したし、どこに行くにもその伴をした。影ではひそかに愛妾だという声も聞かれたが、ヴォヌスの妻はそんなこと構わずにミルトを娘のように接してくれた。

 二人に子供が居なかったこと。そしてミルトが天涯孤独となったことが同時期だったためだが、それでも、軍のたまの休みには、ミルトは女に返り、第二の母親と一緒に買い物に出掛けるのだった。

「綺麗よ、これ。」

 そう言って母親がミルトに差し出したのは青い石のペンダントだった。

「年頃ですもの。こういうモノ一つでも持っていないとね。」

 母親はそう言ってミルトに微笑みかける。しかし、どれほど母親が接してくれていてもミルトの心の妙なものは埋まらなかった。

 それはヴォヌスと一緒に会議−兵隊の配置及び、現況の兵力報告などの会議であり、それ以降の軍配置や、作戦会議には退席している−に出始めた頃から見始めた夢だ。初めこそ内容すら知れないことだったのだが、この辺り、妙な焦燥感が心を襲うのだ。

 大理石の床、柱、天井の絵画壁。それは随分と前の皇帝が建てた黄金宮殿の一間の様子に違いなかった。夢でそれを確定してから、ミルトは何度となくそこに足を運び、それを照らし合わせた結果、同質であるという決定が下っているので間違いない。

 しかしながら、もしここがあの部屋ならば居なくてはいけない黒衣の青年。その姿がない。ただ黒い服を着ているのか、それとも逆光にいるから、それ以外なのを黒く見えるのか、今は解らなかった。でも、彼は確かにミルトに手を差しのばしているし、ミルトもそれを掴もうとしている。

 ミルトは休暇でその宮殿に来ていた。やはりこの場所に違いなかった。

 この宮殿は皇帝の遺産として広く一般公開されている。ただ一番奥の王の秘室に続く廊下から北の一郭は仕切られているが、それでもここは人の出入り自由な宮殿の一つであった。

「やぁ、ミルト。最近姿を見せないと思ったら、随分といいご身分になったな。」

 振り返るとオリエンスが立っていた。横には二人の女性が居て、強い香水でその身を飾っていた。ミルトは母親からもらった帽子を被り、彼女が若い頃着ていたというドレスを着ていたので、随分といい身分に見えるのだろう。確かに、今までの格好と言えば、同じ服に前掛けを掛けるぐらいだったのだから、その変わり様はオリエンスが言わずとも確かに違う。

「オリエンスは何を?」

 ミルトは挨拶程度にそう言ってオリエンスの方に向き直る。オリエンスは今までの服ではさっぱり解らなかったミルトの二の腕や、腰のくびれを舐めるように見た。

「干渉さ。ロメートの男たるものこういう美術作品の鑑賞はしないとね。」

「そう。では。」

 ミルトはその言葉に何の興味もなく立ち去る。オリエンスは慌てて二人の女性の腕を解き、ミルトの後を追った。

「ちょっと待てよ。」

「痛い。」

「お前娼婦にでもなったのか?」

 ミルトがオリエンスの顔を見れば、その顔は、もしそうならば今すぐにでも買ってやろうか? と言うような顔をしている。

「生憎と私は随分と高いよ。」

「銀貨三枚か?」

「金貨五十枚だ。」

 ミルトは腕を振り解き、歩き出した。オリエンスは絶叫し、ミルトを罵倒する。その声が急にぴたっとやまり、息を引き飲む声がしたためミルトが振り返ると、騎士の刀がオリエンスの肩に乗ってあった。

「ジャスカフローネ。」

「随分と舐めたガキだな。」

「放って置きなさいな。親の威光で生きているような奴は。」

 ミルトはそう言ってくるっと振り返ると、騎士は刀を治めミルトの後を追った。

 厳つく大きな体躯。赤毛の癖毛が風に踊る。有名な剣士ジャスカフローネ。ヴォヌスの隊の中でも1、2を争うほどの腕前を持つ男で、有名なのは、その強椀のためだ。何せその一振りで大の男の二十の首が飛ぶのだから。別名大釜を持った死に神と言われている。

「一人でなんだってあんな場所に?」

 ジャスカフローネはミルトを見下ろしながら聞くと、ミルトは静かに「男のお喋りは嫌われる。」と告げると、ジャスカフローネは口を尖らせた。

「あの宮殿の奥の間は何故公開されていないのだろうね?」

「さぁ、ヴォヌス長に聞けば解るんじゃないか?」

「やはり。ありがとう。送ってもらって。随分と心強い護衛だったよ。」

「どうだい? 今から一杯。」

「そう言うことをいうとあの男と何ら変わらないぞ。」

 ジャスカフローネは顔をしかめて手を振った。ミルトは口の端だけゆがめてヴォヌスの屋敷に入っていった。

「あの宮殿にか?」

「はい。あの一郭だけが、どの宮殿でさえもそう言う区画は存在しておりません。」

 ヴォヌスは静かな目で向かいに座っているミルトを見た。私服であるときはなるべく女に見えるのに、険しい口調と、芯を持って話すときのミルトは、随分と大人で、男らしく感じる。まるでシルヴィオそっくりだ。

「あの宮殿のあの一郭には地下牢がある。」

「地下牢? それだけならば、閉鎖せずともよろしいのでは?」

「ただの地下牢であるならばな。」

「と、申しますと?」

「あの地下牢、いや、あの屋敷全体がそうなのだが、妙なからくりがあるんだ。」

「からくり? あの歯車や、紐の類で人形が動くあれですか?」

 ミルトのきょとんとした返事にヴォヌスは頷き足を組んだ。

「あれを建てた皇帝の名は?」

「クルブリット五世皇帝陛下です。」

「その通りだ。陛下が留学していたことを知っているか?」

「確か東くんだりの小さな国だったはず。」

「そうだ。そこでからくりなるモノを見て、この国に広めたんだ。」

「と言いますと?」

「陛下の広めたのは何も人形だけではない。彼が考案した吊り天井や、坂になる廊下。それらは知られざる発明だ。」

「吊り天井に、坂になる廊下?」

「侵入者が誤った場所を踏むと、牛を軽く貫くほど大きな針が無数付いた天井が落ちてくる。または、急に坂となり、その先には奈落への穴がぽっかりと開けられ、そのまま落ちる。陛下はたいそう命を狙われていた。それだから、そう言う宮殿を造った。ただ、坂の廊下も、吊り天井の類もその方法も、使い方も知れたのだが、最後の地下牢に関してはさっぱりなのだ。何の目的であれほど大きな回転牢を作ったのか。」

「回転牢?」

「格子が動き内外逆転するんだ。」

「よく解りかねますが。」

「つまり、牢内にいる囚人が、その格子の回転を利用すれば、守衛を全てそっくりのまま牢屋に入れることが出来るのだ。」

 ミルトは暫く考えていた。

「しかし、それでは意味がないのでは?」

「ああ、無い。だが、あれに一度閉じこめられると、開ける方法がない。」

「牢屋の役目は?」

「しなかったようだ。だが、陛下はあれをこよなく褒め称えていた。どういう理由でこしらえたものだか、さっぱり解らない。」

 ミルトもヴォヌスのように首を傾げ眉間にしわを寄せた。その後夕飯を済ませ、ミルトはやはり地下牢のことを考えていた。

 何故反転するような牢を作ったのか、何かと何かを反転させる気なのだろう。そして、そこには開かない鍵があって、床にあった円は、地下牢の格子を乗せて、これが回ることで、反転する仕組みらしい。

「なんで作ったのだろう?」

 なぞは謎のままだった。そしてその翌日もまた、謎が増えた。今まではびこるように、練り歩いていた高官達の姿がめっきり減ったようなのだ。

「ヴォヌス長。」

「なんだミルト?」

 ヴォヌス長は朝からの会議でようやく、この夕方、日が傾き薄暗くなってそれから解放され、長室に帰ってきた。

「今日の会議は随分と長かったですね。」

「ああ、酷い話しだ。」

「酷い?」

「皇帝は隣国、シャラースファに亡命すると申されている。」

「何ですって!」

 無かったことではない。皇帝の一時期のわがままで始めたこの戦争。と言ってもまだ大きな被害は出ていない。国境境に兵は送り込まれているが、一戦とて始まっていない。ばかりか、宣戦布告後、ヴィンチェンからの使者で考え直せの好文が届けられている。

 皇帝の行ったことはただの戦争ごっこの宣言であり、それの巻き添えになっている兵達は、生き死を舐めながら昼夜あの境にいるというのに、皇帝は隣国に亡命する。

「ヴォヌス長はいかがしますか?」

「いくら不届きであっても我が命は皇帝陛下に捧げ、そのためには全力と精神尽き果てるまで守るという誓いがある。」

「一緒に行かれますか。」

「そもそも、この戦争ごっこがくだらない遊びだったのだよ。」

 ヴォヌスはそう言って椅子に崩れるように座った。

「残られる高官方は?」

「誰も居ない、だろう。お前も、ことを知ったのだ、身近なモノを連れて逃げるんだ。お前のような才能のあるものは、恐ろしいことだがヴィンチェンに筒抜けだ。」

「筒抜け? 姦佞がいると?」

「いるだろう、皇帝に不服を申し立てていたものは、このばかげた猿芝居以前から大勢居たのだから。皇帝は踊らされたのだよ。シャラースファにな。皇帝は三年前留学した。その先はあの国だ。その時点でもうすっかり猿芝居は始まっていたのかも知れぬ。あれほど高貴な方を、その手に返り血を浴び、てらてらと滴る血を舐めた若造だ。鬼畜以下だった。なのに、この猿芝居を続けたのは我らにも責はある。」

「ヴォヌス長。高官が誰も残らないと申すのならば、私に、ここに残ってしまう市民の指揮長を任命して下さい。どうか、そう高官に。」

「ミルト、何をする気だ?」

「どうか、お願いします。」

 ミルトの願いはあっさりと受け入れられた。そして皇帝から直々の命令が下ると言われ、そこで初めてその男を見た。

 まだまだ若造だ。オリエンスでさえ彼よりは立派だと思える。ましてやシルヴィオなど、彼がどれほどはいつくばり懇願し、卑劣きわまりない行為にいたっても及び付かない。ほどの子供だ。

 その怯えきった瞳はすでに黄昏がかかっている。そして身震えるその身体はそれによりむしばまれ、ミルトは数年前に死んでいった父親の残映を浮かべ、顔をしかめた。

「お前か。女じゃないか。」

「女では行けませんか?」

「別に……。オレ達が逃げ切るまでくい止めてろよ。「あいつら」が一人ずつ死ぬようにしろよ。じゃないと、ヴィンチェンの、あの、シルヴィオなら、俺の行く先など、直ぐに追いかけてくる。」

「恐ろしいですか?」

「何!」

 若造はすいっと立ち上がり、まだ残っていたのか、誇りをけなされて怒れる気持ちが。その気持ちのままミルトの横面を叩いて、「好きにいたせ。」の捨て台詞を吐いて出て行った。そのミルトにそこに居逢わせた高官達は次々に唾を吐きかけていった。

 ミルトは部屋をもらった。そこはかつてこの国最高峰の砦を任されていた兵を統括していた長の部屋だ。今はすっかり皇帝の側に寄り添い、我先に荷造りをしている。彼のその逃避など知らない越境の兵は、一心に任務を遂行しているというのに。

 ミルトの部屋に二人の影が入ってきたどちらの大きく、どちらも頼もしそうに笑っていた。

「どうした?」

 一人は女だった。ミルトと同じく徴兵されたあの海賊大女だ。

「二人こそどうした?」

「ジャスカフローネと相談して決めたんだ。馬鹿の伴をしようとね。」

「馬鹿?」

「ああ、残って市民を率先させるらしいじゃないか。あの皇帝の盾になるって。」

「ならないよ。」

「ミルト?」

 ジャスカフローネが男のくせに少々甲高い声で聞き返した。

「でも、いいの? 二人は死ぬかも知れない。」

 ミルトはふわっと笑みを浮かべて二人を見返した。この子がどんな作戦を一人でねって、実行しているか知れないが、その笑顔に何故だか二人も返事をするように笑った。

「もしそうなれば、」

 ジャスカフローネは言葉を切り、大女の方を見た。

「もしそうなら、あんな皇帝より、あんたと一緒のほうがずっと面白い。で、どうするんだい? あたしは何人相手をすればいい?」

「いいや、戦わないよ。今、使いを走らせた。皇帝は今夜ここを捨て、明日の昼頃シャラースファに入る予定だそうだ。出来る限り多くの女を五世皇帝の宮殿地下牢に集めて欲しい。男はその上の階にでも。」

「どうする気だ?」

「あんた、まさか。」

「クラン。いくら私でも、昔の政策を執る気はないよ。」

 大女・クランは眉をひそめた。

「とりあえず女を集めるんだな?」

「そう。出来る限り大勢の女を。そう、理由は地下牢に逃げれば助かると言って。女子供と老人ばかりをね。男達も宮殿に集めてくれていて構わないよ。ただし、地下牢には入らないように。」

 二人は頷くとその大きな体に似合わずに走り出ていった。

「ミルト。」

「ヴォヌス長。」

 すっかり旅支度の出来た彼の目は、すっかり憂いを秘めている。

「何をする気だ?」

「シルヴィオと、話しをします。」

「出来るか?」

「してみます。無理であっても。」

 二人の間に短く、でも有意義な沈黙が流れ、ヴォヌスは旅立っていった。

愛と魂(エロスプシュケ)

 夜は静寂のうちに終わりを告げ、高らかなラッパの音が響いて、一気に緊張した。

 ミルトは誰も居ない街の真ん中で一人立っていた。太陽の陽射しがようやく降り注いできた頃、馬の大群、兵の大群が近付いてきた。

「ミルト。」

 シルヴィオは相変わらずな黒真珠をミルトに向けた。

「女! 皇帝はどこに行った? 引き渡すのだろ?」

「その前に、取引です。」

「取引だぁ?」

 シルヴィオの後ろに居たがさつで、いやらしい男はミルトを嘗め回すような目で見た。

「お前一人がオレ達の相手をするから助けろと?」

「いいえ。皇帝の行き場所を教えますから、市民の全てには手を出さないと言う取引です。」

「は? お前、馬鹿か? 皇帝を差し出す代わりに市民を助けろだ?」

「兄さん!」

 シルヴィオは厳しい声で叱咤すると、その男は舌打ちをして顔を背けた。

「どういうことだ?」

「この国の全てを捨て、戯れだったと逃げた皇帝に、皇帝の資格など無いでしょう。ここは私たちの国であり、ここで生まれた我々のモノです。この国である以上我々は幸せだったのです。その市民を決起させておいて自らは逃げるなど。言語道断。皇帝と引き替えに、ここの市民全てを助けてください。」

「出来ぬと言ったら?」

「……。おもてなしをしましょう。あの月の晩のように。」

 ミルトは少しだけ身体を捻り、宮殿側を向いた。

 シルヴィオの顔が引きつり、険しくなった。ミルトのすることが何であるかなどさっぱり解らない。しかし、おそらく、シルヴィオは先程の条件を飲むために頷くであろうと察したのだ。

「月の晩だと?」

 食らいついてはいけない。その話しには罠がある! シルヴィオの口がそれをつむがない。兄はミルトの言葉にある場所へと兵を急がせていった。

「五世の宮殿へ急げ。女はそこだ。」

 兵がミルトとシルヴィオを避けて過ぎていく。

「愚かなものですね。」

 ミルトが馬上のシルヴィオを見上げる。険しい顔をしていたシルヴィオはミルトの顔を見下ろしたが、どうしても憎めないのだ。何故それほど悲観した目をしている? 罠ではないのか? 心が乱される。シルヴィオはぎゅっと手綱を握りしめた。

 二人がゆっくりと宮殿に入ると、暴行を受けている男達がそこここに倒れていた。

「どういうことだ?」

「何がです?」

「女が一人も居ない。男ばかりじゃないか。」

「ちゃんと聞きましたか? 大事なものはどこに隠した? と。女では解りませんよ。」

「そんなもの王室に決まっているではないか!」

「王室? 誰でも入れる場所に? 安易すぎますよ。」

 ミルトの言葉に、彼は一気に憤慨したが直ぐ、顔色を変え、あの一郭を見た。

「だめです!」

 シルヴィオの声などもう届かなかった。兵は雪崩入れるだけ雪崩れていった。そしてぎゅうぎゅう詰め状態で地下牢に降りていった。

 まさかあの地下牢の使い道があったなど。

 シルヴィオの苦々しい顔はミルトの予想したことだった。ヴォヌスに地下牢の意味を尋ねたとき、ヴォヌスはシルヴィオにも尋ねられたと言っていたのだ。

 地下牢前に兵がわんさかと集まり、一種異様な興奮だった。中には選りすぐられたような女の姿しかないのだから。恐ろしく男の悪臭なるものを放ちだした瞬間だった。

「やれぇい!」

 ミルトの甲高く澄み切った号令とともに、轟音と、そして今まで居た女の後ろから容姿様々な女やそしてあの二人、ジャスカフローネとクランの姿が一斉に格子を押しているのだ。ギリギリと音を立てて格子は通路側を塞ぎながら兵を飲み込み、一瞬にして牢内が逆転した。

「これには鍵がありません。ただあるのは、死刑を執行するためのボタンだけです。ここは五世皇帝の道楽で作られた地下牢です。」

 ミルトは女達がすっかり上がっていき、牢のまえにミルトとシルヴィオ、そしてその彼に剣をあてがうジャスカフローネとクランの四人しか居なかった。

「彼はここに攻め入ってきた兵を閉じこめ、それをこの仕掛け天井でもって殺すために作ったのです。しかしながら、皇帝が生きている間、そしてその後百年ほど近くの間誰も使わず、ただ解読不可能という理由からここは封鎖されてきたのです。さ、ヴィンチェンの使者よ。私たちの条件を飲んでいただけますか?」

「シルヴィオ、飲め。頷くだけだ。」

 シルヴィオはミルトからボタンを取り上げる。

「残虐な。」

「煩いものは処分する。汚らわしいだけで役立たずだから。」

 シルヴィオはそれを押して階段を上がると大声やら、奇声やら、絶叫が聞こえる。

「どーん!」

 ジャスカフローネが大声を上げると、兵はすっかり萎え、目や鼻、口から液体を垂れ流した。

「悪い人だ。」

 宮殿に上がり、家族で抱き合っている市民の前に出てきたシルヴィオは小さく笑う。

「ミルト。あなたの条件は飲めないかも知れない。でもただ一つだけ出来なく無い方法はある。」

「と言うと?」

「あなたが私の妻となってくれればいい。」

「シルヴィオ?」

「皇帝がシャラースファに向かったのはすでに予測済みだ。そしてその道程で暗殺されているだろう。」

「ヴォヌスが!」

 ミルトはシルヴィオの悲しい横顔を見て黙った。知っているのだ彼がどのような皇帝であろうと、彼の善意を持って尽くす人だと言うことを。

「あなたが私の妻となり、ここはヴィンチェンの一国家の街になる。ロメートと言う名もなくなるだろう。そして私がここの自治長になればここは救われる。いや、あなたが私の妻となることを断っても、それには相違なかろうが、ここに居る市民が救われるか否かは難しいだろう。」

「何故? 何故私の言動で?」

「あなたの力はヴィンチェンにとって恐ろしいものです。気付いていないだろうが、一晩で市民を統一させ、そして今助けたとおりだ。もしあなたが死ねば彼らは私に刃を向けるだろう。私がそれほど重要であるかどうかはあまりおごりたくないけれど、でも今よりも多くの兵がやってくることは必須だ。どうする?」

「私は、そんなこと抜きでも、貴方を、」

 ミルトは腕を差し出した。シルヴィオはその腕を取るようにして手を伸ばす。

「私はあの月の夜、あの出来事を思ってその後直ぐから、母の抱擁も、父の愛情からも逃げた。汚れたものを押し付けてくる気がして。でも本当はこうして誰かに縋っていきたかったのかも知れない。本当は、ずっと、あの夜、出逢った貴方に……。」

 鮮血が閃き、悲鳴と、血が混じる。

「ミルト!」

 ミルトは崩れた。シルヴィオの声が空しく空を切った。

 一瞬にして息が止まった気がした。もう息もしたくないほどの胸のつっかえが口から鮮血となって噴き出る。

 ミルトの背中には、シルヴィオの兄が投げた短剣が刺さっていた。何とか出てきた彼は、一矢報いる覚悟で投げたのだ。だが直ぐにジャスカフローネの刃の犠牲となった。

 兵がジャスカフローネに斬りかかり、クランともども応戦する。

「辞めろ! 辞めるんだ!」

 シルヴィオの聞いたことのない怒号だ。多分、この世の中で一番大きな声のような気がする。

「シル……。ヴォヌス長が、お前はいい奴だと。言っていた。」

 ミルトの力は無くなり、静寂が啜り泣く声に変わってもシルヴィオはその顔を見ていた。あの夜であった少女は、あのまま成長していた。悲壮感と絶望を抱いたままで。

 でも今この腕にいる人は、何と安らかな顔をしているのだろう。何故もっと早くに助けてあげられなかったのだろうか。

 シルヴィオはミルトを抱き締める。

「あの日、再会を果たした日。本当は、貴方を迎えに来たんだよ。そして、戦争が来るから。逃げようと。言うはずだった。貴方を。迎えに……。ミル……。」

 

 皇帝たち高官一同は国境を越えることなく、全てヴィンチェンの兵によってとらえられた。皇帝は市民に不安を煽り、そして反逆行為により公開処刑を。そして、ロメートはヴィンチェンのいち都市ロメートと生まれ変わった。

 シルヴィオはロメートの自治長となり、ジャスカフローネとクランという伴とともにその自治責任が無くなるその日まで大安に統治した。

 

 宮殿に足を運ぶと、ふとミルトの残像が浮かぶ。目頭を押さえ、そして目をつむっても。

あの日、喉が裂けんほど泣いた声がまだ木霊している。

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