こぼれる言葉


 
 澪は事務所の中に一人で居た。すでに二十二時を超えている。そろそろ帰らないと守衛に迷惑がかかる時間だ。
 澪は荷物をまとめふと気配に顔を上げれば宏樹が立っていた。
 久し振りに帰った日本で偶然に会って、その後モナココレクションの最中急に日本に帰ったから一ヶ月ぶりの姿だ。
「あの、今日はもう皆帰って、」
「そのようだ」
 宏樹は呟いて入り口にもたれる。
 澪は黙ってその場に立ち尽くす。
「聞かないのか? 何故日本に急に帰ったのか。ドタキャンなんて無責任だと」
「人にはいろんな事情がありますから」
 澪は俯いたままで答える。
 長い沈黙の間、時計の針が時を刻む音だけが響く。
「コーヒーを入れてくれるか?」
「あ、そうですね」
 澪はキッチンルーム―日本で言うところの給仕室の様な小さなスペース―に入っていく。
 すべてのコンセントが抜いていた。コーヒーメーカーのコンセントを刺し、コーヒーを入れる準備をする。
 カップを二つ。砂糖とミルク・ポーション。宏樹が部屋を覗く。
「私が最後で、コンセント抜いていたので。少し時間が、かかりますけど、いい、です、か?」
 宏樹が部屋に入ってきた。徐々に近づくにつれ澪は息苦しさを感じた。動悸が激しくなり、体中が高揚していく。
「震えてる」
 宏樹の漏れる声。澪は俯き顔を背ける。
 解っている。震えていることぐらい。好きで望まなかった訳ではない。過去の二回、震えなど無かったのは、どこかで邪魔が入ると解っていたからなのだろうか? この状況で邪魔が入るとは考えにくい。そんなことを考えるのは、この状況が嫌で、逃げたいのだろうか? 
 
 よく、解らなくなってきた。
 
 宏樹の動きが止まった。澪が顔をゆっくりと上げると、宏樹がじっと見ていた。慌てて顔背けようと首を振るのを、宏樹の手が止める。
「嫌、か?」
 澪は返事の変わりにその手に軽く触れた。
 宏樹はゆっくりと顔を近づけてきた。
 コーヒーメーカーの合図音がする。
「コーヒーを、」
 澪がするりと抜けて行こうとするのを力いっぱい掴み、唇を塞ぐ。
 背中を撫でていく手、腰に回ると、片手が首から胸に降りてきた。
 ぞくっと背中を走る感覚に足に力が入らなくなる。
 台に澪をぶつけるように宏樹は澪の唇に押し当てる。
 ボタンをはずし、指先に感じる下着のレース。その下にある生暖かい肌の温度が指先から全身を駆け巡り身体を熱くさせる。
 唇を離すと激しい呼吸のまま澪を見る。
 澪もまた口を塞がれ呼吸が激しい。肌蹴た服からブラジャーが見える。澪はそれを少しためらい気味に押さえ、コーヒーメーカへと手を伸ばす。電子音が消え事務所に静寂が戻った。
 澪は少し身体をひねり、台から降りた。強く押し付けたとき乗ったようだ。
「どうしたら、いいのか、解らないんですけど、仮眠用なら、奥に、」
 宏樹はふらっと後退り、息を吐き出した。
「すまない、こんなことするつもりじゃ無かったんだ。会いたくて……」
 宏樹の口から微かに声が漏れる。
「あのぅ、誰か、居ます?」
「え、ええ。私、」
「あぁ、ミオ? 今日も残業かい?」
「ええ、今いいところだから、もう少ししたら帰るわ」
「あまり無理するんじゃないよ」
 守衛の声が消えた。階段の電気を省電力に切り替えて歩いているのだろう。澪のとっさの返答に守衛は中までは来なかった。
「私、ヒーローなら嫌じゃないです。だから、気の済むままに、」
 澪は宏樹のだらしなく下ろした両手をそっと包んだ。
「同情か? 俺を哀れんでるのか?」
「違います。私は、」
 宏樹は事務所を跳び出て行った。
 澪は追いかけることも出来ず扉に寄りかかり、肌蹴た服を着なおした。
 コーヒーメーカーのコーヒーを捨て、綺麗に洗うと、荷物を持って事務所を出た。
「お疲れ、あんたで最後だ」
「ええ、お休み」
「ああ、また明日」
 澪は頷いてビルを出る。
 すっかり秋よりも初冬といった冷たさを感じる風が吹きぬける。
 これから帰るのが億劫になる冬がやってくる。雪は嫌いじゃないが、歩くのはやはり苦手だ。
 パンプスの踵を出来る限り鳴らさないように歩く。角を過ぎたところで一台のエンジンを掛けたままの車が止まっていた。
 フランスではよく見る赤いライオンのマークのついた車だった。
 澪がその横を少し離れて歩こうとすると、助手席のドアが開いて、澪がそちらを見れば宏樹が乗っていた。
 宏樹は無言だった、前を見つめ何も言わない。
 澪は黙ってそれに乗り込む。
 ドアを閉めると、無造作に車は発進する。
 車はパリ郊外へと向かっているようだった。すでに三十分以上澪と宏樹は黙っていた。「どこへ行くか、聞かないのか?」
 澪は頷く。
 宏樹は黙って車を走らせる。
 パリも東郊外にやってきた。向こうへ行けばDisneyland Paris(ディズニーランドパリ)があるはずだ。そんな一号線の側にあるHôtel d'appartement(アパートメントホテル)の駐車場に入った。
 エンジンを切り宏樹は黙って降りた。澪も黙って降りる。
 夏を惜しむような人が数人歩いていたが、誰も宏樹を認識していない。
 Hôtel d'appartementのエントランスをくぐり、遅くなったというような事を話している。渋るように鍵を手渡され、宏樹は無言でエレベーターへと向かう。
 エレベーターの中でも無言だった。静かに階を上り、最上階に着くと、いつまでも無言で宏樹は下りて部屋へと向かった。
 澪は俯き、黙ってそれに着いて行く。
 いつか―、いつか、もう帰っていいぞ。と振り向かれるのじゃないかと心臓が傷む。だが宏樹は黙ってドアを開け、澪を中に入れた。
 開け放したバスルームは、白いトイレと、ガラス張りの浴槽が見える。通り過ぎるとき、バスルームの壁一面にかかっている大きな鏡が目に入った。
 白い壁、キングサイズのベットにはオレンジのカバーがかかっている。綺麗に整理された部屋。小さなキッチン。小さいチェスト。ただそれだけの部屋。
「ここに住んでるんですか?」
「ああ」
 殺風景で生活観のない部屋。カーテンは分厚い物が引かれ、外と中からの視線を遮っていた。
 宏樹はベットに腰を掛けた。
 澪は部屋の入り口に立ったままで、沈黙が辺りの静寂に解ける。
 澪はキッチンにあるインスタントコーヒーを見つける。
「コーヒー、入れましょうか?」
「あ? ああ」
 澪は頷くとキッチンへと行き、コーヒーを入れる。
 ベットが音を立てた。宏樹が立ち上がり、澪の背後に立った。
 電気ポットからお湯を入れ終わり、それを手放すまで沈黙が続く。
 澪が紙コップを置くと、宏樹が澪の背後からそれを流しに置く。
 背中に熱が伝わり耳の側に息が当たる。
 澪の声が漏れる。
「あ……、今日、汗かいたので、シャワー、浴びてきていいですか?」
 かすかに震えているような声、俯いている横顔は赤くなっている。
 宏樹は離れ、風呂場へと向かう。
「帰りたければ、タクシーぐらいは捕まるだろう」
 宏樹は戸を閉めた。
 
 宏樹がシャワー室の扉を開けると、すっとガウンが差し出された。
「ありがとう」
 宏樹はそれを着て出てきた。
 澪は上着を脱いでいた。宏樹が部屋に行くのとすれ違いにシャワー室へガウンを持っていく。
「帰らなかったんだ」
 宏樹の言葉に頷いて澪はシャワー室に入った。
 熱気がいっぱいあって、シャンプーの匂いがかすかにする。
 服を洗面台に置き、ガラスの扉を閉めシャワーを身体に受ける。
 宏樹が使ったボディーソープ。シャンプー。同じ匂いがバスルームに広がる。
 澪は壁に手をつき、俯いて首にお湯を受ける。
 
 大丈夫よ。何も怖くない―。
 
 澪がシャワー室から頭を拭きながら出てくると宏樹は椅子に座ってタバコを燻らせていた。
 澪は入り口側に立っていると部屋ベルがなった。
「いい、君は隠れていて」
 澪は黙って従った。
 
 人には、見られたくないものね
 
 澪が入り口から隠れたのを確認して宏樹が扉へと向かう。
「Il est demandé. Monsieur(頼まれていたものです)」
「Merci. C'est un éclat.(チップだ)」
「Merci. Monsieur. S'il vous plaît passez une bonne nuit. (ありがとうございます。よい夜を)」
 やり取りから言って何かを持ってきたのは解ったが入ってきた宏樹の手は手ぶらだった。
「すみません、私が居るから」
 澪がそういうと、宏樹はサイドテーブルに何かを投げた。
 Préservatifと書かれたコンド−ムだった。
 澪の顔が赤くなる。
「君のその姿を見せたくないから、」
 そう言って吸いかけのタバコの側に行きねじ消した。
 澪は箱から宏樹へと視線を向ける。
 こういう場合、場数を踏んだ女はどうするものなのか、どうすればいいのか。まったく見当がつかなかった。
「あ、コーヒー入れなおしますね」
 澪がそう言ってキッチンへと向かう腕を宏樹が掴んだ。
 向かい合い目が合うと澪はすぐに視線をはずし床へと眼を落とした。
 宏樹は澪を抱きしめ、背けているがゆえに見える首筋に唇を這わした。
 押し殺しているが澪の口から声が漏れる。そのかすかな声に宏樹は澪をベットへと押し倒した。
 首からネックレスがぶら下がる。
「それ……」
 澪が手を伸ばす。
「君の何かが欲しかったんだ。君がデザインしたものだと聞いて」
 澪が宏樹の目を見返す。初めてじゃないだろうかまっすぐ目を見入ったのは。少し茶色の入った目は綺麗なアーモンド形をしている。綺麗な顔立ちだから少し引けを感じるが、目は十分すぎるほど潤んだかわいい目をしている。
「あれ……気にしないでください。私なら大丈夫ですから。あなたの良いように。私はそのほうが嬉しいから……本当です」
 澪は目だけで箱を見た。宏樹も箱を見たが首を振り、
「傷つける気は無い。君が、澪が安心したらつけない。まだ怖がってる。だろ?」
 宏樹はそう言って澪の頬に手を伸ばした。大きな手は澪の耳まで達し、ぞくっとする感触を背中に走らせる。
 ゆっくりと唇が移動するたびに、全身が疼いていく。こんな単純な愛撫で感じるのは子供だとか、もう相手にされないかもしれない。
 意地悪くよがったり、ジラすほうがいいのだろうか?
 澪は頭が真っ白になる中必死で考えていた。どうすれば相手が喜ぶのか。
 だが言うほどの経験もなく、解体前のマグロのようにどしっとしている自分をどこか冷静に見下ろしていると、つくづく情けなくなる。経験豊富で誘導するのはどうかと思うが、だが、それにしてもされるがままというのは、面白みに欠けるのではないか?
 宏樹の手が下部に伸びる。さすがに澪は身体を少し浮かせ、その手を掴んだ。
「あ、いえ、あの……。そこは、」
 宏樹は何も言わず優しく下部を触る。
 澪の身体が弓形に反り返る。全身を駆け巡る痺れに似たものが音になって口から漏れる。澪はとっさに手で口を塞いだ。
「どうか、した?」
「外に、聞こえるのは、よくないですから」
 曇った声に宏樹は澪の手を口から離し、ベットに押し付ける。
 口付けを交わす。
 澪の耳に言い難く認知したくない音が入る。
「いや、音は、たてないで、」
 声が途切れる。言葉を発することが出来ないほどの快楽が澪の身体を染める。
 澪は息を止め宏樹の手を掴んで止める。
「私のことはもういいです。あなたが……、」
 澪は顔を背けた。見たことのない優しい顔の宏樹の目に高揚しだらしない自分の顔が見えたのだ。
「触っているだけで十分気持ちいい」
 宏樹はそう言うと澪の胸を口に含んだ。
 澪の身体が反り返る。
 宏樹はサイドテーブルに手を伸ばす。
「いいんですよ、本当に、」
 澪の言葉に宏樹は微笑み、澪の首筋に唇を押し当てた。声が漏れる。
「足を、開いて」
 澪はほんの少しだけ開いた。澪にしてみれば開脚ぐらいの気分だったが、宏樹が後で足を広げたので、多少のことはなかったのだと知る。
 今までとは比べ物にもならない血流が身体を駆け巡る。突き上げてくる興奮。宏樹と呼吸が揃う。
 宏樹の感歎が漏れる。
 深く呼吸をし、宏樹が澪をしっかりと抱きしめた。
 かすかに汗ばんでいる宏樹の体。澪はそっとその背中に腕を回す。
 縋っていないといけないほどの高揚が二人の身体を結びつける。
 宏樹は片手を澪の背中から抜き出しベットについた。
 澪の唇が微かに震えている。
 
 
 
「もしもし?」
 澪は宏樹の声に目を覚ました。
 澪の身体を宏樹がしっかりと抱きしめその腕の中でその声を聞く。
「え?」
 微かに電話口から漏れる声。
「澪の携帯よね?」
 澪は起き上がり携帯を取ろうとするのを宏樹が手で静止する。
「ああ。君は?」
「美樹よ。同僚の。……何、風邪? ……、そう、解った。毎日残業しすぎなのよ。ステフに言っておくわ。今日はゆっくり休むといいわ。お大事に」
 電話は切れたようだ。
「さっきの、」
「ステフには風邪だといってくれるそうだ」
 澪は時計を探した。十時。目を閉じくらくらする頭で整理する。
 寝付いたのは確かに五時過ぎだった。
 それまでずっと―。
 宏樹の愛撫する指、たくましい肩。力強い息遣い。目まぐるしくベットの上、キッチン、バスルーム。そして雪崩れるように眠った。
 すっと胸を触れられて澪が声を漏らす。
 宏樹は腕を掴み引き寄せる。
 そして再び深い深い快楽へと落とす。
 
 美樹は澪の家の戸を開けた。リビングに行くと、澪がコーヒーを入れたところだった。
「居たの? え、じゃぁ、ここで?」
 澪は首を振る。
「……、着替えないんじゃないかって、持って行こうと思ったの。……ヒーローでしょ?」
 澪は頷く。
「ステフは誰かと一緒なんだろうと気付いている気がする。トーイは完全に解ってるはずよ。貴女らしくない、寝すぎるほどがんばったの?」
 美樹が茶化すように言うと、澪は少し間を置いて
「一生分愛してもらったわ。もう、十分」
「何よ、それ」
「あたしね、」
「嫌よ。日本に帰るとか、辞めるとかは無しよ」
 澪が眉をひそめる。
「長年一緒に仕事して、シェアメイトだったあたしよ、解るわよあなたの性格ぐらい。それに、ペット(みかげのこと)に澪はこういう人だからって散々聞かされたのよ。貴女の携帯にヒーローが出たとき思った。あぁ、日本に帰る気で彼に抱かれたんだって」
「でも、会わす顔はないし、第一次に会っても彼は私を知らん顔で見る。だからと言って慣れるのも、スキャンダルになる。私は彼に迷惑は掛けたくないの」
「ヒーローはそれを望んでいるかもしれないじゃない」
「ないわよ。彼は一流のモデルでこれからどんどんショーに出て行くのよ。私なんかよりもずっともっと綺麗な人と一緒に居るべきよ」
 美樹はため息をこぼし、合鍵を澪に差し出す。
「ヒーローにあげて。もう、あたしには必要ないから。……彼も貴女が好きなのよ」
 澪は黙った。
 昨日ずっとそう言われた。背中越し。耳の側。
「信じないの? ヒーローの言葉を?」
 美樹の言葉に澪は返事をしなかった。

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