霧雨の傘


 パリは霧雨と、寒さで煙っていた。霧雨に慣れた人々は足早に過ぎていくが、森沢 澪は手にしていた画材道具が濡れないように、注意していた。
 赤い傘は好みではなかったけど、よくパリの街に映えていて、嫌いになれず手放せなかった。
 吐く息が少し音を立てて消えていく。なぜこんなに苦労するのだろう。澪はたまにそう思うと、画材を捨てるために街を歩き回る。それが唯一の打開策であるかのように。
 街に敷かれた石畳は澪のヒールを響かせる。小さな雑貨屋のショーウインドーに移る顔を見て、再びため息を付く。
「まったく浮かばないのも、考え物だわ。」
 澪はそう言って悔しそうに唇を噛んだ。
 もうすでに二時間、この界隈を歩き回っている。でも、服を描くに至る勘が働かないのだ。
 何度もため息をこぼし、何度も、何度も街を見渡すけれど、感性に響くものがない。
 そんなときだった。モスグリーンの上着を羽織った日本人が向こうの歩道に現れた。彼にしてみればその路地から出てきただけだが、澪にしてみれば降って沸いたように見えた。背の高い、綺麗な人だった。
 髪の毛の雫を払うように軽く掻き上げ、車が切れるのを見ている。
「神崎、宏樹……。」
 パリで活躍する日本人モデルは少なくはない。でも成功しているのは一握の人ばかり。その中の一人。ヒーローという芸名なのか、通称を持ち、パリっ娘たちですら彼に惚れる。その彼が目の前にいるのだ。ただし、彼の目に澪の姿はない。
 車が途切れる。彼は車道に足を降ろす。その様子はスローで、映画のようだった。長い足が交互に動き、慌てることもなく、スマートに車道を横切った。そして澪の前を何事もなく過ぎるはずだった。
「やん!」
 澪の傘が風に煽られ傾き、それを直そうとした手から画材が落ちる。
「大丈夫?」
 宏樹は突然道をふさいだ傘を掴み、画材を拾おうと手を伸ばす。
「絵、描いてんだ。デザイナー?」
「え? ええ。まだ、まだですけど。」
 画材を拾い終わり、澪が頭を下げる。
「いつかそれ着れるように頑張って。」
 宏樹の何気ない言葉。自分が売れているモデルが言わせた言葉なのか、それとも、単なる励ましか、そんなことはどうでも良かった。宏樹にいつか着てもらいたい。それが澪に伝わったすべてだった。
 遠ざかる宏樹、雑踏が澪をかき消そうとしたが、澪の頭の中は宏樹の姿を探し、やっと見つけた感と似ていた。
 澪はアパートに駆け戻った。描きたかった。描きたくて、描きたくて、真っ白いものがあればそこに宏樹に着せた衣服を書き殴っていった。
 宏樹に着てもらいたい一心で……。
 再会はそれから数年もあとだった。有名デザイナーのショーにほんの数着ださせてもらうことが出来た。それも前振りで、客のほとんどが関心を示さない順番だ。
 それでも澪は精一杯の気持ちで服を作り、それを着たモデルにそれをよく見せるように施した。
「大丈夫か?」
 澪が振りかえると、宏樹が椅子に座り、それを心配するように徹が側に立っていた。
「どうか、しました?」
「なんでもない。服は?」
 宏樹は突き放すようにそう言って立ち上がる。その顔は蒼白で、脂汗が浮いている。
「悪いもんでも喰ったか?」
「うるせぇ。」
 嫌な予感が働く、宏樹は今日ここには帰ってこない。そんな漠然とした思いが、数分後に当たった。
 宏樹は花道の先端で倒れた。急性盲腸炎だった。翌日には手術をし、宏樹が目を冷めたのは、術後三時間が過ぎてからだった。
 静かに引き出される備え付けの棚に、服を入れる澪。ビニールはすべて廊下で外してきたらしく、まるで音を立てない。切り揃えた髪が少し垂れ、その隙間から妙に潤んだ目が見えた。
 宏樹は目を閉じ、彼女が出て行くのを待った。
「あ、森沢さん。」
 徹が入ってきて、澪は頭を下げる。
「気にいるかどうかは解りませんが、着替え、ここに入れておきますね。」
「すみません。」
「いいえ、では、お大事に。」
「あ、先生も、ローマの仕事、頑張って。」
 澪は軽く頷いて出ていった。
 ローマでの仕事は徹にはなかった。しかし宏樹はそのショーの出演が決まっていた。勿論澪の服を着ることにもなっていた。だが、それはすべてキャンセルだ。今日の夜の便でイタリアに向かわなければ間に合わないのだから。
「起きたか?」
「ああ。」
「盲腸だってな。」
「ああ。」
 徹は椅子に座り、側に置かれていた、絶対に澪が持ってきたと思われるミートパイに目を向ける。盲腸手術者にしてはかなり栄養のある物だが、それが付きそうと言った徹に当てたものだと、徹には直ぐに解った。
「さっきの……。」
「起きてたのか?」
「ああ。」
「いい女だ。」
 宏樹が徹の方を見る。本気で言っているようだが、徹のいい女はあくまでいい女だ。世間の男が言うような卑猥さはない。なら、良くできた子だ。とか、言い方があるだろうが、徹にそう言うボキャブラリーはないのだ。必要がないから。いいものにはいい。悪い物には悪いしか言わない男には。
「お前が最後に着て出たあの服を作ったデザイナーだ。」
「な?」
 絶句した。デザイナーの見舞いなど、花だけが来ている中で、自分の服を汚した、言葉は悪いが間違っては居ないはずだ。そのモデルの見舞いに来て、しかも服や、徹の夜食まで世話をするなど、どんなデザイナーだ? 律儀な人は大勢居る。しかし貴重な時間を割いてまで来るようなデザイナーは居ない。友達なら別だ。しかし、徹のように付き添うほどの友達は宏樹には少なすぎる。
「いい女だろ?」
 徹はそう言ってミートパイを一口かじる。
「確かオレ達よりも三つ下だったな。そう言えば、カズと同じ年だな。にしてはしっかりしてる。うん、いい女だ。」
 徹の批評などどうでも良かった。彼女の名前や、それ以外のことが聞きたくなった。しかし、どう聞けばいい? 女に不自由していないとはいえ、そう言うことを聞き出すのは本当に苦手だ。
「森沢 澪。明後日から始まるローマのショーのためにあと二時間後の飛行機に乗る。追いかけるか?」
 宏樹は口を押さえ徹を見た。見透かされている。まぁしかたないだろう、もう十年以上も友達をしていて、親よりも身振りや素振りの変化には敏感な間柄なのだから。
「携帯の番号。すんげー気にしてたから、退院したら携帯入れるって、教えてもらったんだ。」
 どうしてそう気安く教えてもらえれるのか不思議でならない。そして、なぜ簡単に教える? 宏樹はため息を付いて鞄を見た。
 徹は小さく笑いながら鞄の中の携帯に澪の番号を入れる。
「礼をいっとけよ。普通、来ないからな。」
「ああ。」
 それから数ヶ月後、澪は再びパリにいた。パリの秋は早く、冬がそこまで来ているかのように、時々風が冷たく吹いてくる。
 澪は襟を引き上げ鞄を持つ手に力を入れた。そうしないと手先の感覚が無くなりそうで痛かったのだ。
 信号で止まり、手の中に暖かい息を吹き入れる。目指すは某有名ホテル一階のカフェ。そこを知ったのはいつだっただろうか? 宏樹と出会って直ぐ、雑誌に宏樹と徹が載っていて、好きな店だと、そこで対談をしている記事を見たときだったはずだ。宏樹が好きなエスプレッソの美味しい店で、宏樹はそこで何時間も時間をつぶすと言っていた。その間に、街の風景を見ながら人を観察するのが好きだと。
 「だから」澪もそこが好きになった。
 信号はなかなか変わらず、隣に立っていたパリジャンも、寒さしのぎに息を吹き入れていた。
 笑い声が近付いてくる。そしてそれが澪の直ぐ後ろで止まると、澪は息を止めたまま振りかえる。
「あ、森沢せんせー。」
 徹のにこやかな顔と、宏樹の無愛想な顔がそこにあった。
「今からどこへ?」
「え? あ、ああ、あのホテルの、カフェへ。」
「へぇ、奇遇! 一緒にどう?」
「ご迷惑でしょ?」
「ぜんぜん、花がある方がいいですよ。どうぞ。」
 徹に手を引かれ、澪は二人と同席をする。
「いつもここに?」
「え? ええ。まぁ。服の案に詰まったら、」
「俺はここのチーズケーキが好きでね。」
「美味しいんですか?」
「旨いっすよ。」
「そう、じゃぁ、食べさせたいな。」
 澪がそうこぼす言葉に宏樹は直ぐに反応したが、聞くことは出来ない。だから、徹を見る。徹は面倒くさそうに澪に聞くと、澪の顔が真っ赤になり、破顔した顔から出た言葉に、宏樹は胸を締め付けられた。
「同居人です。私の、私の大事な人。」
 秋のパリは静かに枯れ葉を運び、冬の訪れを待っていた。薄日は対して暖かくもなく、その日向で三人で飲んだエスプレッソはほろ苦かった。
 澪が言った同居人はみかげのことであるが、そんな事情、初めて聞く者に解るわけもない。
「彼氏?」
「いいえ、「ペット」です。
 澪の笑顔に宏樹と徹は笑う。しかし、ペットを人呼びするだろうか? そんなことを思いながら、別れ、その後何度も仕事を一緒にする。
 澪の知名度が上がるたびに、宏樹と一緒に仕事をする機会が増えた。澪は相変わらず無口だが、服に対するこだわりや、熱心さはどのデザイナーにも負けていない。それどころかそれ以上であるときさえある。たった一つのひだの角度でさえ、澪のこだわりの一つなのだ。
 その仕事ぶりを見たいために、いや、澪を見たいために、宏樹はオーディションしているようだからと偶然を装って事務所に顔を出してくるようになった。





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