誰かのために、鳴るや、鐘
〜七国一大陸物語〜

松浦 由香



一章
十六の娘
 琥国が倒れすでに十六年。ようやく再建させようという動きが出て来た。とはいえ、琥国の国王だった与順(よじゅん)一族は亡命中何者かの手により殺害された。
 そこで国再建に乗り出したのは残った六国だった。ここで互いの領土を増やそうとするよりも、宝器山から流れ出る妖魔によって難民が自国に入ってくるのを食い止めるために、暫定国家を立ち上げようとしたのだ。
 そこで目をつけられたのが、宗国の博士叡備(えいび)の孫娘で、才色兼備と歌われた備麗(びれい)だった。
 備麗十六歳。遥か異国の国の王妃となるために出発した。

 仙馬左に預けられた娘は十六になっていた。仙馬左は何とか伊那を助けたがその代償に左腕を方から根こそぎ落とし、親友であった通はそのときの大傷が元でそれから半年後に死んだ。
 仙馬左は伊那を男で一つで育てた。
 伊那には出生の秘密を話してある。母親は少なくても普通の女ではなかったかもしれないことも。その後の妖魔の襲来に遭って死んだのではないかということも。だが伊那は仙馬左を父と慕い続け、仙馬左も伊那を娘として育てた。

 鳶が甲高く鳴き、輪を描く空を伊那は暑苦しそうに見上げた。
 初夏から夏へと移行する空の色はますます濃くなっていくようだった。
「伊那、」
 仙馬差の声に伊那は家に走りこむ。
 家の中に入ると、見知らぬ男が立っていた。
「伊那、今日からこの人と行くんだ」
「行くんだって? どういうこと?」
「この人は俺の恩人で、お前の世話を頼んでおいた人だ」
「世話って、どういうこと?」
「その人はいい人だ、なぁ、俺の言うことを聞いて、黙って行くんだ」
 仙馬差はそう言うと、勝手に荷造りしておいた包みを伊那に押し付け、家から追い出した。
 伊那は戸を叩くが、扉は開く気配を見せず、伊那の後ろでは馬車のきしむ音がする。
 振り返れば男は黙って馬車に乗っていた。
「おとう、あんた、おとうにいくら渡した? お前、人買いだろ?」
 男は何も言わずに伊那を見下ろした。
 黙っている二人の間にきな臭い匂いが漂って来た。
「馬鹿が、」
 男はひらりと飛び降り、扉を蹴破った。
「おとう!」
 仙馬差なその家の釜戸の前に火を背中に受け、腹には斧を自らの手で突き立てていた。
 伊那が駆け寄るのを男が静止する。
「行け、もう、我慢しきれねぇ」
「解かった」
 男はそう言うと伊那を肩に担ぎ上げ、馬車に飛び乗ると同時に鞭を振るった。
 走りに走る馬車から伊那は大声で身を乗り出す。男に体を抑えられているので飛び降りることが出来ない。
 家の壁に火が移った瞬間、地響きを思わず音が聞こえ、炎が家を瞬間多い尽くすと、それは妖魔の姿に変わった。
 妖魔は火の中で焼かれもがき苦しむようにのた打ち回った。
「おとう!」
 伊那の声に妖魔は手を伸ばす。伊那は思わず伸ばした手を引き戻した。
「仙馬差は命と引き換えに妖魔と契約した。お前を嫁にやると。十六になったらと言う約束をした」
「妖魔の嫁? あたしが?」
「あの混世では妖魔にだって魂を売るだろう。仙馬差は結果的にお前を不幸にさせることになるだろうが、あの時はどうしてもお前を生かしておきたかったのだろう」
 男の言葉に伊那はおとなしくなった。その様子に男は手を放し手綱を握り締めさらに馬車を急がせた。
「あなたは、誰?」
「私は李郭。妖魔退治屋だ」
「妖魔退治屋? って、あの法外な金子を取り上げるって言う、」
 李郭はにやりと笑い、伊那にしっかりと掴まれと言った。
 馬車は大きく蛇行して走り、家の炎と同化した妖魔の追い手を振り切った。
「おとうはどうなった?」
 伊那は不安で胸を抑えながら李郭に聞く。
「妖魔は仙馬差の体に入り込み、お前が十六になるのを待っていた」
「じゃぁ、あたしは、」
「育てたのは仙馬差だ。妖魔じゃない」
「あたしは、大丈夫か?」
「さぁな、あの妖魔がおとなしく引き下がるとは思えない。火に焼かれたからどうだと考えたほうがいいだろうな。それこそ、通りかかった虫っけらに入り込んでさえ生きることもできる野郎だからな」
 伊那はぞくっとする体を抱きしめた。
「どこへ行くの?」
「仲間のところだ。逃げるだけの策略を考えなきゃいかんからな」
 李郭はその後黙って馬車を走らせた。
 村を抜ける頃、黒煙が見えた。黒煙は妖魔の姿の様に立ち上り、伊那を探して揺れているように見えた。

酒宴酒歌
 そこは濁に変わった国の首都南都だった。新しい王妃が来るというので、人が集まり始めていたが、それでも妖魔が時々来るので無頼漢や、役人たちが地盤基礎のために居るだけだった。
 整備されていない土道を通る。
 馬車から降りると、馬借屋に李郭は入り、今まで乗っていた馬車を馬ごと売り払った。
「そんな簡単に手放して、」
「あれが仙馬差の駄賃だ」
 伊那は馬借屋を振り返った。
 馬は馬車から放され、荷車は整備のために人が乗った。
 仙馬差の最後のものだと思うと、その行方が気になる。だが、李郭はそんなことに気をとられないように歩き続け、伊那もその後を追うしかなかった。出なければ無頼漢たちの格好の餌食となるだけだった。
「好色宿?」
 絶句しそうなほど甘く、溶けそうな匂い、濁り酒の匂いと、酔っ払いの臭気が漂う宿屋に李郭は入っていく。
「あら、お帰んなさい。誰だい? あんた」
 細身で、赤い襦袢をちらちら見せている狐のような女が伊那を見下ろす。
「俺の連れだ。あいつは?」
「馬阿(まあ)と部屋だよ」
 女狐は伊那を凝視したまま口を開く。
 李郭は階段を上がり、伊那もそれについて上がる。
 二階は匂いがますますひどかった。女の笑い声と、男のけたたましい息遣いが廊下まで聞こえてきそうだった。
「李郭!」
 奥の部屋辺りで声がした。
 伊那が李郭を見上げれば李郭の眉は厳しく曲がっていた。
 ある部屋の戸を開けると、着物を羽織りかけた女と、上半身裸の男が居た。
「まったく、昼の日中から、」
 李郭の苦言に男は女の尻を叩き、
「もういいぞ、出てけ」
 女はくすくす笑いながら出て行った。
 戸が閉まると、酒と、なんとも言えない匂いが鼻腔を覆い、伊那は顔をしかめる。
「その娘は?」
「仙馬差という男から、この娘を妖魔から守ってくれといわれた」
「何で?」
「花嫁にするという約束をしたそうだ」
 男はじっと伊那を見た。
「また、下らんことを」
 男はそう言って机の上の肴を抓んだ。咀嚼しながら頬杖をついて李郭を見上げる。
「それでどうするって?」
「狙ってるのは欲魔だ」
「だろうな」
「金はもらってる」
「もらうなよ」
 李郭が男を睨んだ瞬間、男は伊那へと飛び掛った。
 伊那が悲鳴を上げるのと、男の後ろの窓が壊されるのとは同時だった。
 ばらばらという音の中から女狐が出て来た。
「つけられやがって、ばぁか」
 男はそう言って伊那を脇に抱える。
 座っていて大きさは判らなかったが相当な大男だ。李郭より頭一つ大きくて、肩幅も相当ある。李郭が細身だといっても、ごく普通の男よりは大柄だ。だが、この男はもっと大きい。
「李郭が、」
「あいつは死なねぇよ、」
 男はそう言って脇の伊那に笑いかけ、二階の屋根から地面へ飛び降りた。
「李郭、任せた」
 男は大きくよく通る声を張り上げて走った。
 川原に着いたのはそれから少ししてからだった。街中を抱えられ、通り過ぎる人に振り回されている足が当たりながら、伊那は恐怖から顔を押さえてしまっていた。
 川に着てやっと下ろされ、肩で息つく伊那に比べて男は平気のへっちゃらという顔でたっていた。
「ひどい、李郭さんを置いていくなんて、」
「あ? じゃぁ、お前さんを抱えたままあれの相手をしろってか?」
 伊那は口を尖らせたまま男を見上げた。
「まぁ、あと数秒としない間に来るさ。あの冷静無血男なら」
「無血って、」
 絶句する伊那に男は笑みを見せた。
 この男の笑みは緊張しているこの場を和ませる。自然と見ているこちら側も笑顔になるし、この男の無茶なやり方にさえも信じることが出来てしまう。
「李晃(りこう)、」
 李晃の言ったとおり李郭はすぐにやって来た。だがかなり険しい顔をしている。
「やぁ、李郭ちゃん」
「どうしたらあんなツケができるんだ!」
「いやぁ、ちょっとした遊びをね、」
「あの、あれ、妖魔じゃ、」
「ああ、そうだよ、巣食われてた。より、あの額では、この仕事無条件に引き受けざるをえないからな」
「面倒は、」
「言語道断、お前の所為だ」
 李郭は李晃の鼻先を指差した。
 伊那は眉をしかめた。
 妖魔が襲ってきたことで逃げたのはさほどの問題ではなくて、ツケの高額のほうが問題だとは、変わった連中だ。こんな連中が自分を助けてくれるのか不安になって来た。
「まぁいいやさ、そうだ、俺は李晃。こいつとはいとこ同士だ。お前名前は?」
「伊那」
「これから度々あんなわけわかんねぇ連中が出てくるが、俺たちから離れるなよ」
「お前のほうが正体不明だといってるぞ」
「何を? 俺はまっとうな人間じゃねぇか」
「まっとうが聞いて呆れるわ」
 李郭の言葉に李晃が激しく攻撃するがそのたびに一言で玉砕される。
 伊那は深くため息をついた。
 ―おとう、選ぶ相手、間違ってないか?―

才色兼備
 備麗(びれい)が濁の王妃となった経緯には、宗国の王が備麗の才能を妬み恐れたからだとも、博士諸君たちが危険人物だと追放したかったとも言われているが、真相はうやむやの中、どちらも正しいと思わざるをえないほど、備麗の才能は秀でていた。
 頭がよいというのも学問上ではなく、人を見、動かすことができる。単純に相手を意のままに動かすことが出来る話術、腹のそこを探り見る力。その上に美人だった。
 大きな目は黒真珠の輝きを持つ瞳を潤ませ、少し丸い鼻に、薄く吸い付きたくなるような唇。血色のいい頬。どれをとっても美人だった。
 だが、本人はそんなことには頓着しなかった。美人だといわれればいわれるほど勉強家になるし、才能があると言われれば言われるほど、そこから逃げ出したいくせに、勉強をしなくてはいけない気になった。
「かごの鳥」
「は?」
 そばの侍女が首を傾げて備麗を見た。
「なんでもないわ。それより、もうそろそろ規の国に入るでしょう?」
「そうですか? 私にはぜんぜん」
「川を渡ってもう半刻は過ぎてる。もうそろそろでしょう」
 備麗はため息を漏らした。侍女たちはいつか嫁に行く。そのときのための侍女使いだ。ブランド。そう。ブランドだ。誰に使えていた娘だから信用と、勤勉を保証される。だが、誰一人として備麗の会話を成立させたものは居ない。
 話が楽しいとか、おしゃべりをしたいという気にさせた侍女は今だかつて一人も居なかった。
 備麗の予告どおり規の国に入っていた。
 規国は七国一大陸中一番国土が狭いが、故国宗国の次に発展している国である。規王は老翁だったが、政治的手腕には長けており、何よりもユーモアのある人物だった。
 備麗も、一度宗国で会ったことがあった。今度の旅のことを知り快く宮廷に休むように言ってくれたのが早かったのも規王だった。
「日暮れまでには来れる予定でしたが、」
 遅いお茶を開いてくれた規王に備麗は申し訳なさそうに言った。
「構わんよ、遵国経由ではなく、我が領土に立ち寄ってくれる。それが何よりじゃ」
「ありがとうございます。でも、やはり晩餐に差し支えてしまいました」
「構わんよ、どうせおべんちゃらの貴族どもだ、放って置きなさい」
 規王は豊かな顎鬚をゆすって笑った。
「それよりも、備麗。そなたは本当に濁の王妃になろうというのか?」
「そのつもりです。運命や、宿命というものに私興味はございませぬの。でも、規国にはすばらしい月読みがおられましたね、我が宗にも一人居りますわ。その者が申すに、私が南に行けばすばらしいことが起こると予言しましたの。他のどの者も、妖魔のまだいる荒れた土地への旅、それだけならまだしも、そこを平定しようなど、私のような娘に出来るはずないと否定的ですわ。なのに、その者だけは、南に幸運があると示したのです。月読みに事動かされるのは私の本意ではございませぬが、でも、いいことがあるというのならば、それがどのようなものか知りたくありません? あら、これは女の直感というものじゃなく好奇心ですわ、でもそう、そうかもしれませんね、いいことがあるといわれたら、あるような気がしますから。だから参りますの。国の基礎も、平定も二の次です。本心は」
 規王の言葉に美麗は眉一つ動かさずに答えた。
 無邪気そうな夢を語る少女のような言葉の中に、彼女を邪険視する大人への強い反発心を規王は感じていた。
「規国の国境を過ぎた辺りから気をつけることだ。わが国の民はそなたに友好だが、朴のものは知れぬ」
「でも信用しなければならないでしょう」
 備麗は立ち上がり、テラスに出た。
 夕方の風が吹いてきて彼女の裾を揺らす。
「朴には有名な妖魔使いが居られたはずです」
「まさか、それを柱にすえるというか?」
「助言をいただきたいのです。どのような柱ならば、国が倒れた後暫くは持つかを。私が平定し、いいえ、出来れば良いであろうと思っておられるくらいでしょうが、もし仮に平定したとして、すぐにどこからか男がやってまいりましょう。そして我が夫となるか、私を殺すか、そのどちらかの後、国を治めるはずです。それがよい男ならいいが悪ければ国は再び途絶えましょう。そうなったときに、民が逃げれるだけの時間が欲しいのです」
「国を作る前から倒れたあとのことを心配しておるのか」
「用意です。安全に過ぎた事はございませんでしょ?」
「だが、朴の妖魔使いは宝器山に入る口の村に居て、酷く人格の損なったものと聞く。娘一人で向かうには、」
「そこで終える命ならばそれもしょうがありますまい?」
 備麗はくすくすと笑った。
 この国、いや、この城を出てからどれほどのことが襲い掛かるか、その苦労を楽しんでいるような備麗の微笑みに、規王は眉を潜ませた。
 もしかすると、大人たちがこの娘に濁を任せたことは、その才能を僻んだ所為であったとしても、今はそれがこの娘の強運に左右されている。もしかすると、この娘は濁の創始になるばかりか、名君と歌われるのではなかろうかとさえ思った。

 翌朝、備麗は礼を言って規国を旅立った。

廉恥美人
 伊那は二人の後を歩いていたが、眉をしかめるばかりで、決して笑えるときなどなかった。
 李郭は真面目で物静かだが優しくて、伊那を気遣ってくれる。対して李晃はその粗暴な振る舞いにはあきれ返るばかりだ。女と見れば誰彼構わず声をかけ、夫もしくは彼らに追われたりする。
 伊那がため息をこぼす。
「どうした? まだ半日も歩いてないぞ」
 李晃は陽気にそう言った。
「お前の行動にため息を落としてるんだ」
「俺? 何で?」
 李晃はまるで気にしていないように答えた。李郭はそれ以上何も言わぬとばかりに歩く。
「ねぇ、どこへ向かってるんでしょう? どこかへ行っていると思うんです。でも、どこへ? 私のことは、」
 伊那は思いつめたように問いかけた。二人は二三歩前で立ち止まり、
「どうにかできる人を訪ねている。それまではまだまだ歩かなくてはいけないから不安にさせるでしょうが、」
「心配ねぇって、もし何かあれば李郭を置いて逃げりゃいい」
 李晃は大袈裟に笑う。
「簡単に言わないでください」
 伊那は思い切って言い放つ。
 李晃は李郭のほうを見た。
「大丈夫。貴女の事を思っての旅だ。安心できないと思うだろうが、他のものと一緒で居ることのほうが安心ならないことを強く伝えておくよ」
「好い加減だ」
 李晃がにやりと笑う。「いいかげん」という言葉にむっとして伊那が顔を上げると、大百足が地面から突き出て来た。
 伊那が悲鳴を上げる。
 李郭が剣を抜きながら振り返り、李晃は百足の頭が現れた高さまで飛び上がった。そして李郭の剣が百足の胴体を、李晃の踵が百足の頭を叩き割った。
 ぐしゃっと血を噴出し百足は地面に叩きつけられ、ぴくぴくともがくのを、止めとばかりに李晃が両の足で踏み降りた。
 伊那は口を手で塞いだ。耐え難い異臭が辺りに棚引き、息さえ出来ない状態だった。
「たまに、倒せるかもと思われるから面倒だ」
 李晃はそう言って両足を二度振って肉片を振り落とした。
「いつ、」
 伊那は「いつもこんなものと戦っているのか?」と聞こうとして息を吸い、その臭気に当てられて卒倒した。
「ただの娘に、花嫁の烙印はむごいな」
 李晃は倒れる伊那を救い止め、抱き上げた。
「香炉の残りが少ない、早くこの国を出て、張(ちょう)に会わねばなるまい」
「あの爺に会いに行くのは気が引けるが、こればかりはしょうがねぇやな」
 李晃は伊那を背中にしょい、腰と胸で縛った。
 お互いに顔を見合わせると、走り出した。
「香はいつまで持つ?」
「一昼夜といったところだ」
「朴に入るまで歩けば三日、」
「寝ずに走れば何とか一日半で行けるだろう」
「こいつが起きなきゃ」
 二人は走る。とにかく走った。
 先ほどから話していた香が少なくなってきている所為らしい。振り返れば見えなかったのに、ここに来て目に付く辺りで妖魔の姿が見える。
 香は妖魔の嫌いな匂いがしたためてあって、それを持つことで半ば無敵状態になっていた。だが、今ではその香の効力が薄れてきていて、妖魔が三人の、いや、伊那の匂いを嗅ぎつけて現れてきている。
 伊那を嫁にするはずだった妖魔、欲魔が伊那を売ったようだ。ありとあらゆる妖魔が姿を見せ始めている。
「有名人だからな、俺ら」
 李晃の言葉に李郭は呆れたが、確かに有名人だろう、妖魔たちにとってしてみれば。
 この二人を倒したら伊那が手に入る。そして、二人を倒したとして敬意される。一石二鳥だ。目が血走るのも判らなくもない。いや、彼らの目はすでに血走っていたかもしれない。
 ともかく、走る所為か香の効果がますます無くなってきている。
「どうする?」
「面倒なんだよなぁ」
 二人は立ち止まった。
 まだ香はある。だが、効力を発揮するほどの量ではない。
 李晃は伊那を下ろし、その手に李郭が香炉を握らせた。だが伊那はまだ失神していた。
「もって、一時間もない。と考えたほうがいいだろう」
 李郭はゆっくりと立ち上がり、すでに立ってじりじりと迫ってくる妖魔に向かって立っている李晃に背中を合わせた。
「あれだな、ほら、蟻。蟻だな、ぞろぞろ、ぞろぞろと。よくもまぁ次から次へと出てくるもんだ」
 李晃の短絡的な言葉に李郭は首を軽く振りながら剣を抜いた。
 李晃は手首を振り、足を地面を軸に回す。
「さぁて、どれから来る?」
 李晃の言葉のあと、妖魔がすばやく何匹かが飛び上がった。二人の視線が上に上がるのを見届けたその後ろの妖魔が突進してくる。
 李晃は飛び上がった妖魔を交わしながら、突っ込んできた一匹の棍棒と腕を掴み、それを棒切れの様に振り回す。
 肉というか、骨というか、内臓というか、水がぶち斬れる様な音がする。
 李郭はその見事に長く、綺麗な刃先の名刀「雨水(うすい)」を翳すと、飛び上がったものすべてがどういったわけか五匹一度に縦半分に切れた。
「まだやるかね?」
 李晃の欠伸交じりの言葉と、振り回されていたはずの、今ではすっかり何がなんだかわからないほどの妖魔が地面に捨てられた。
 妖魔たちに一瞬の怯みが生まれた。
 が、やはり一石二鳥。一挙両得。美味そうな伊那の匂いには勝てないらしく、今度はそれこそ全員で飛び掛って来た。
 わんさかと、次から次へと乗っかったり、腕を派手に振り回したり、あるものは石でさえも投げつけてくる始末だったが、それでも、それらを李晃と李郭は避け、交わし、叩き付け、その場所には黒い、まるで色褪せすることのない黒い粘液だらけに変えてしまった。
 伊那が呻いて目を開け、その場所の変わり様と、二人だけがそこに生えた様に立っている姿に息を引き込んだ。
「失神するなよ」
 李晃がそう言って先に動く。
「何、どうしたの?」
「ちょいとハエが多かった」
 蟻だの、ハエだのと言われて、蟻もハエも迷惑なものだ。李郭はそう思いながら剣を振り、粘膜を落とすと鞘に片付けた。
「さぁ、急ごう。香炉の按配も怪しいものだし、そろそろ朴だ」
「近づくにつれて足が重くなるんだがな」
 李晃の愚痴っぽい言葉を李郭は相手にせずに歩き出し、伊那に手を差し出す。
 伊那はそれに掴まり立ち上がると、香炉を李郭に差し出す。
「それは持っておくといい、残り少ないが、何とか守ってくれるはずだから」
 伊那はその香炉を頷いて胸に押し当てた。

運天果報
 朴の国に入ってすぐ、二人はそこから宝器山のほうへと進み始めた。
 七国一大陸は宝器山をぐるりと囲んで国が栄えている。だからどの国も宝器山に面し、国に隙があればそこから妖魔が降りてくるというわけだ。
 だが、今の段階でそこへ向かうことは伊那の不安を駆り立てるだけだった。
 ―もしかすると、妖魔に売る為に連れて来たのだろうか?―
 そんな不安がよぎったときだった。朴国でも宝器山の裾野に開けている「末村」にやって来た。
 末村は言わずと知れた終わりの村という意味で、そこで暮らす人間は数少なく、元盗人だとか、人殺しだとかというものが老いて流れて住み着いているような場所だと聞く。確かに、人相が悪く、どこか後ろ暗そうな面々が三人をその曇った目で見ているようだった。
 二人が一軒の家の前に立った。
 この村では一番立派な、本当に立派な赤い瓦の葺いている家だった。
 李郭が先に入り、李晃は伊那を入れた後で渋るように入って来た。
 門を潜ると広々とした中庭と、「悦楽亭」とかかれた看板が掛かっていた。
 伊那は李晃を見上げる。
 李郭はまっすぐ正面の戸を開け中に入った。
 李郭は激しく肩で息をついて伊那と一緒に中に入った。
「女か?」
 声は李郭の声ではない。年老いた、でも威圧するような声色だ。
 衝立を避けて中に進むと、李郭は老翁の前に立っていた。
 老翁は長く白い髭を胸に垂らし入ってきた伊那を片目で見た。
「若いな、そして肉がいい」
 老翁の言葉に伊那の顔は嫌悪がにじむ。
「素直なんだ、爺は好みじゃないんだと」
 李晃の言葉のあと、
「いた」
 李晃はこめかみを抑える。床に落ちる胡桃。
 どうやって、いつ投げたのか判らないが、胡桃は李晃のこめかみを直撃したようだった。
「お前らが来ることは、妖魔どもが騒がしいんで解かったが、その娘はどういったもんかな?」
 老翁は伊那をじいっと見つめた。
「妖魔の花嫁にされそうなんです」
「……、なるほど勾魂鬼(こうこんき)の野郎がうろうろしているはずだ。だが何でこんな娘が妖魔と公約できた?」
「こいつの育ての親が、命と引き換えにという契約を、」
「まぁ、背負い込んだ運命はおっかねぇが、いい親父だったと思ってあげな」
 老翁の言葉が終わるか終わらぬかで庭がにぎやかになった。
「今日は、良からぬ日和だ。また人がきやがった」
 老翁は苦々しくそう言うと、机の上のつぼの中に手を入れ、紙を二枚掴むとそれに息を吹きかけて床に落とした。
「八津と津古。外の客人の相手をしておけ」
「我々のは厄介きわまるでしょうから、外のほうを早く済ませていただこう」
 李郭が八津と津古が出て行く間際そう言うと、老翁は細い片目を少し開いたが二つの式神に頷いた。
 二つが出て暫くしていい匂いのする女性が入って来た。
「宗国が博士叡備(えいび)の孫娘の備麗様にございます」
 女は備麗の侍女のようだった。
 紹介された女は美人だった。ため息をつくほどの顔立ちに、身のこなしまで美人であったが人を寄せ付けない高貴さが鼻についた。
「妖魔使いの雀師(じゃくし)さまとお見受けいたしますが、」
 備麗は言葉を切り、中に居た者に目線を向けた。
 一人は田舎娘だが、血色がよくて素直そうだった。一人は大きな体を持った男で、この場所に興味がないのか、つまらなそうに立っていた。奥に居るのが雀師だとすぐに解かった。その横に、美しい男が立っていた。
 頭が切れるであろうその面には備麗を見て少々驚いているような表情が浮かんでいる。備麗も同じくその男に驚いた。
 否やそれは語弊だ。一目見て気に入ったといったほうが正しかった。だがそんな若く、どうしようもない甘い想いはこの際関心を持ってはいけなかった。
 備麗は老翁のほうへ目を向け、静かに切り出した。
「助言をいただきたく参りました」
「助言とな?」
「はい、あなたが妖魔使いだとおっしゃるので、」
「ほぅ。だがわしに助言だろうが、何だろうが働かすということはそれなりの報酬をいただかねばならん。ただではせぬぞ」
「知っております。大変な額であることも。今はございません。いえ、今後も出来る保証はありますまい。でも、あなたは金子より面白いことがあれば無報酬で仕事を請けてくれるとも聞いております」
「事としだいだ」
「左様ですね」
 備麗はくすりと笑った。
 まるで花の様だ。伊那は思った。この人は本当に綺麗で、高貴が滲み出ている。この人に使えている侍女はそれが誇らしくてたまらないのだろうと。
「私、濁の初王妃になりますの」
 備麗はこともなげにそう言った。
「濁というのは琥国の新名です。新たに柱を築き、国を平定するのが私の役目です」
「どうりで聞き覚えのある名だと思った。それで、その王妃様がこんな老翁になにを聞きたいと?」
「柱となるべく妖魔使いを誰にするかということをです。私は女で非力で、たとえ国が出来上がろうともすぐに誰かの横槍を受けましょう。そして国は再び荒れるかもしれませぬ。その時、民が、琥国のときの様に多くの犠牲に遭わないように、逃げ去るまで力を持てるものを探しております。どなたかご存知ありませぬか?」
「民間人を使うとおっしゃるのか? 公人ではなく?」
「公人が何をしたでしょう? 琥国の王は民を捨て自らだけを守るため柱ともども逃げました。それが王のすることでしょうか? いいえ、私も、王となり思い上がれば同じことをするかもしれません。だからこそ、私を第一と考えるより先に、民をと考えるものが欲しいのです。可笑しいでしょうか?」
「いや、ご立派な演説だ。そうだなぁ、そういう他人思いの輩かぁ。この二人は無理だな。一人は女に、一人は本にしか向かぬものだから、」
 老翁はゆっくりと立ち上がる。
「昼寝の時間だ。すまんがあとでな」
「え、あの、私は、」
 備麗が急かそうが、老翁はゆるりと部屋を出て行き、扉を静かにぱたんと閉めた。
「私は先を急ぐのに、」
 備麗のため息の混じった言葉に李晃も同じようにため息を落とす。
「行くぞ、」
 李晃は伊那の手を掴むと部屋を出ようとする。
「何で?」
「お前、この二人のこれから会話される頭の痛くなるような、小難しい話を聞き続けられると思うのか?」
 伊那は備麗と李郭を見た。
 伊那は苦笑いを浮かべ李晃とともに部屋を出た。
 気まずい空気が流れた。
 備麗を紹介した侍女は、備麗を部屋に入れたあとすでに部屋を出ており、この見知らぬ男の部屋で、あの美しい男と二人きりになってしまった。
「あ、あなたも老翁に助言を乞いに?」
「助言? 言われたらそうですが、私たちはもっと具体的な、伊那、あの娘ですが、彼女のために来たのです」
 李郭の「彼女のため」という言葉に備麗の胸が少々嫉妬している。
「彼女が何か?」
「妖魔の花嫁の烙印を押されている。それが排除できるのは老翁のみ。それで来たのです」
 備麗は言葉なく目を伏せた。先ほどほのかに燃やした嫉妬心を恥じ、烙印を押された少女に対しての同情から言葉がなかった。
「そこへ、そこへお掛けなさい。老翁が昼寝と決めたら二時間はたっぷり寝付く。あの方を動かせるものは、天地災害であれ無理ですからね」
「よくご存知なのですね、」
 備麗は勧められた椅子に腰掛けた。
 優雅に座るその仕草さえも匂い立つようで、李郭は一瞬その香に当てられ目眩を起こしかけそうになった。
「ええ、私たちの師ですから」
「お師さん?」
「とはいえ、私たちを半ば誘拐に近い形で引き取り、跡継ぎにしようと無理からに教えつけたんですがね」
「ご両親や、親戚は何も言われなかったのですか?」
「この場所ですよ、誰の追っ手が来るでしょう」
 備麗は「確かに」と頷いた。
「でも、結果的によかったのです。親元に居れば私たちは安穏と生活をし、無気力に一生を終えたかもしれない。だが、妖魔退治などという職を手に持ってしまった今、それはどんな人生よりもメリハリのある生き方だと思ってます」
「怖く、ないですか?」
「怖い? 怖いですよ、いつ死んでもおかしくない。だから強くなろうと努力してます。私は李晃の様に体力にはあまり自信がないので、もっと強く、もっと強くといつも願ってきてます。限度があるにしろね」
 李郭はそう言って備麗に優しく、話の区切りとして微笑んだ。
 目が交じり合い、離れた場所に居るにもかかわらず側で息づいているような熱を感じる。
 李郭はその視線を交わし、懐から物を取り出した。
「老翁のものに比べたら、かなり貧弱なものですが、これをどうぞお納めください。あなたの国の発展と、あなた自身のために」
 李郭が差し出したのは小さな袋だった。
「お守り?」
「身守りというものです。ご自身の身を守るものです。老翁にもらうことが一番だとは思いますが」
「いいえ、大事にします。あなたの代わりと思って……、」
 再び視線が交わる。
 熱く、互いに相手を熱望している目。
 その絡みを邪魔したのは備麗の侍女の声だった。
「何でも、老翁様は具合が悪いから今日は起きないとおっしゃっておりますが、」
「具合が?」
 めったなことでもあるものだと言わんばかりの李郭に、備麗は仕方なさげにため息をついた。
「この辺りには宿屋があっても、宿屋でないようなもの。ここに泊まるがよいとの話でございますが、いかがしましょう?」
「そう出来ればいいわ。お部屋の用意をお願いしてください」
 備麗は苦りきった息をついた。
「困ったことになりましたな」
「本当に、一刻でも早く着いて、国を建てる準備をしたかったのですが、」
「まだ土台もありませんからね、それで、先遣者でも行かせていたら、まだ楽でしょうに、」
「誰もが妖魔に恐れをなして進んでまいりませぬの。私より一ヶ月も早くに出たはずの先遣隊を、一週間ほど前に規国で追い抜いたぐらいですから」
「なんという横着な」
 備麗はくすくす笑い、李郭も呆れたように首をすくめた。
 この人の笑顔のためならば何でもできるのではなかろうか。そんな気が一瞬した。だが所詮妖魔退治のならず者、一刻の王妃になる方のそばになど居られるはずもない。この奇妙な会談がなければ遭うことすらなかった相手だ。親身になるだけ無意味だ。そう言い聞かせるように李郭は扉を開け放した。
「一番立派な客間があの東屋です。ほら、あなたの侍女が出てきましたよ。あそこなら十分な寝台もあるし、ゆっくり休めるでしょう」
「あなたたちは?」
「我々はそれなりの寝床があります」
 備麗に言ったとおり、李郭と李晃にも部屋があった。隣には伊那が一人で寝る。
 夕飯のときでさえ老翁は姿を見せなかった。
 寝台に寝転んだ李晃は不信そうに小さく息を吐いた。
「どうした?」
 茶器机で本を読みながら李郭が聞く。
「いや、あの爺が食事を取らぬなど、雨か霰でも降るのではなかろうかと思ってね」
 李郭は鼻で笑ったが、確かに食事を抜くなどどうした風の吹き回しだろう。勇敢にして豪傑な妖魔使いも寄る年波には勝てぬというのか、明日の朝にでも加減を伺いに行こう。
 眠気に襲われ寝台に横になる。

伊那死亡
 李郭は、甲高く耳障りの悪い笑い声に目を覚ました。
 真夜中に目が覚めず、まだ頭の中に霞みがかっている。
 庭では女たちの声に、李晃の声が混じる。
「お前ら、」
 女を口説いている声ではない。キャッキャッと騒いでいるが、遊んでいる様子もない。
 李郭は頭を抑えながら扉を開け放つと、眩しいほどの陽が庭に降り注ぎ、それが昼前だと物語っている。
 東屋は粉々に壊れ、その前に腕から血を流している備麗の姿が見える。
「李晃!」
「ようやく起きたか、」
 李晃の苦りきった声がする。
「どういう……、まさか、そんな」
 気付かなかったことに自身を疑う。
 庭の侍女たちはすべて妖魔に巣食われていた。
 侍女たちは巣食われた妖魔の特性をよく発揮した姿をしていた。一人は顔が醜く変わっていたり、妙に腕が長くなった女も居る。
 だがどれもがすっかり妖魔になりつつある。腐乱していく体に、ときどきあげる「助けて」の悲鳴に備麗は耳を塞いだ。
 真っ青な顔に、血の気を失せたあの綺麗な唇が李郭の胸に痛い。
「老翁は?」
「どこにも見当たらん。伊那も名を呼んだが出てこない」
 李郭は伊那の部屋を開けた。
 伊那は、寝台の上で胸に剣をつきたてていた。多分、そこから流れていたであろう血の量からして、もう生きてはいまい。
 李郭は静かに扉を閉め侍女たちのほうを見た。
「お譲ちゃんのところへ」
 李郭の静かな行動に伊那の死亡を悟った李晃は静かに告げた。
 飛び掛ってくる侍女を左腕だけで振り払い、李郭は備麗のもとに来た。
 悲鳴を上げて李郭に飛びかかろうとした侍女を、李晃の足が背中を蹴り飛ばした。
「大丈夫ですか?」
「ええ、平気」
 備麗が抑えていた血の出ている部分の手をはずしたとき、服の避けた目からなにやら見覚えのある印が出て来た。
「ま、まさか、姫、あなたはこれをどこでお付けになった?」
「これ? さぁ、覚えがないわ」
「幼い頃からあったわけではないのですね?」
「いいムードのところ悪いが、くたばる気配がない」
「不死の呪詛を植えられてるのだろう」
「不死の呪詛?」
「ええ、死ぬことができないと言う呪詛です。それこそ、肉、骨、細胞一つさえ残っているだけで、痛みやら、苦しみやらが襲ってくると言う呪詛です。実際、そうなったものにそれほどの苦痛があるのかは不明ですがね」
 李郭は備麗の体を支えて立たせた。
「李晃の背に、」
 李郭の言葉に李郭をいとおしそうに備麗が見るが、李郭に背負われるより、李晃に背負われたほうがこの場を素早く逃げられると判断したのか、備麗は痛い腕を我慢して李晃に負ぶさった。
「どこへ?」
「濁へ」
 従兄弟同士頷きあうと、門へと走る。
 侍女、いや、元侍女たちである肉塊がそれを防ぐ。
 李郭は李晃の前に出て剣を抜き、それらを薙ぎ倒す。
 血よりも、臓物の肉片が返り血のごとく降って来る中を三人は駆け抜け、屋敷を出る。
 濁へ、昨日来た道を引き返し走る。
 肉片はその原型も、足も、手も腕さえも、踏ん張れるものが無くなってなお追いかけようともがいていた。

 仲林(ちゅうりん)の林に着いた。宝器山の周りにしか生えていない仲という木の林だ。ここは妖魔と遭遇する確立が多く、よく人攫い(妖魔(神)隠し)が起こる場所でもあった。
 安全を確認して李晃が備麗を下ろす。
 腕の血は乾いていたが、やはり備麗の腕には破れた袖から見る限りでも模様が見える。
「つまり、」
 李晃が李郭を見上げる。
「我らが老翁を頼ってくると知っていた。姫が頼ってくるであろうということも。仙馬差が俺たちに娘を託すであろうということを十六年前にすでに知っていた。だから、伊那が十六になっても殺さず、俺たちが来るのをじっと待った。一刻でも早く老翁の元へ生かすために。姫だとは思わないにしろ、濁を治める輩が必ず老翁を訪ねると見越して」
 李郭は苦々しくそう吐き捨てた。
「どういうことです?」
 備麗の腕に裂いた布で手当てをしてた李晃が小さく呟いた。
「伊那の、妖魔の花嫁の烙印があんたに移動した。妖魔は、濁の王に巣食い濁と言う国を治め、挙句には七国を統べる気なんだろう」
「そんな、」
「老翁は多分、戦い敗れたのだろう。侍女はすっかりやられてしまったが、」
「では、私が大変な焦燥感を抱いて濁へ行こうと思っているこの思いは、この烙印の所為ですか?」
「多分。姫であるのならば、そこで妖魔の色男が立っているさ。きっと」
 李晃はせせら笑うように言って立ち上がった。
「どうするよ、」
 李晃が李郭に聞き返す。
 が、李郭の険しい顔を見てお茶らけた表情が無表情になった。
「濁へ行く。そしてそれをつけた妖魔とけりをつける。出来なくはないのだ。自分でするには勇気が居るだけで、呪詛の解除など、所詮妖魔程度のもの、出来ないはずはない」
 李郭の言葉に李晃は眉を潜ませた。
 普段温厚な李郭の頭に血が上るととんでもない事を起こす。この表情から見て、自分がどれほどの犠牲を被ろうが平気だと言う感じだ。
「いけません」
 備麗の声に緊張の糸がぶつりと切れた。
「あなたが居なくなっては困ります。あなたの従兄弟が、」
 ―そして私が―
 備麗は頷いた。
「決して身を投げ出すとおっしゃらないで、困難であろうと私はあなた方を信じます。決して諦めず。だから約束なさい、無茶はしないと」
 娘の言葉ではなくそれは人の上に立つ者の言葉だった。
 李晃は暫くののち柔らかい笑顔を浮かべ、備麗の前に跪いて首(こうべ)を垂れた。
「お約束します。我はあなたの命に従い、あなたの言うとおり無茶はいたしません。ほら、李郭」
 そして隣に立ったままの李郭を見上げた。
「お約束いたします。私は貴女の為に生き、貴女の命に従い、貴女だけの為に存在いたします」
 李郭はゆっくりと傅くと額を、取り上げた備麗の手に当てて約束した。
「お二人を、濁の柱にしたい。いかがです?」
「考えておこう。な?」
 李郭は頷くだけで言葉は出さなかった。
 だが備麗は満足だった。二人が無闇に命を捨てることはないと約束したのだ。そして、自分のために居ると誓ったことが、腕の痛みを忘れるほど嬉しかった。
「あ……」
 備麗が腕を抑える。
 李郭の事を想い温かい気持ちになった瞬間腕に激痛が走った。
 蹲る備麗に李郭が手を差し出す。
「来たぞ」
 こういうときに限って、と言わんばかりに李晃が立ち上がり振り返った。
 土蜘蛛と呼ばれる雲の妖魔で、馬鹿でかい毒蜘蛛の姿をしている。目が赤く濡れていてそこを突き刺せば人間の血が吹き出てくるとさえ言われている人食い魔だ。
「李晃、姫を頼む」
「はぁ? 何、お前一人で相手するってか?」
「土蜘蛛の急所へは、お前の素手よりは俺の剣のほうがはるかに有利だ」
「確かにそうだが、てこずるぞ」
 無茶だとか、無謀ではなく、てこずると言ったと言うことは、倒せるが時間がかかると言うことである。
 李郭は姫の心配そうな目に微笑み、立ち上がると李晃の肩を叩いて剣を抜いた。
「へい、へい。行きましょうか」
 李晃は美麗に手を差し出し立たせる。
「でも、」
「一人でしたいらしい、あとで来るさ。じゃぁ、あとで」
 李晃は振り返りもせずに備麗の腕を引いて歩き出した。
 ずんずんを林を横切る。ときどき小物の妖魔がちょっかいを出してくるのを、李晃は不得手一本で殴りつけていった。
「大丈夫でしょうか?」
 林を抜ける手前で備麗が零した。
「いいえ、大丈夫だわね」
 それに李晃が鼻で笑った。
「何です?」
「いやぁ、あんたも女だなぁと思ってさ」
「私は愚痴や弱音を吐いたのではありません。あの方の心配を、」
「だからさ、だから女だなぁと思ったのさ。もし、あそこに残ったのが俺だとして、あんたは李郭に聞くかい? 多分聞きはしないさ。聞いたとしてもそれほど憂いを含んでなんかないさ」
「そんなことは」
「あいつはいい男だ。だが、あんたには不釣合いだ。解かってるだろうけど」
 李晃の言葉に備麗は俯いた。

空言(むなごと)
 李晃と備麗は野宿をすることになった。仲林の林は妖魔が出てくる危険があったが、あまり人が踏み込まない、人が居なければ盗賊の恐れもない。それによく行き来する李晃たちには勝手知ったる林だ。
 よく利用する渓流にある洞穴で休むことになった。
「ちらちら妖魔の姿はあるが、襲ってこねぇなあ」
 李晃が不信そうに火を焚く。
「これの所為かしら?」
 備麗は昨日李郭にもらった身守りを見せる。
「……、多分、そうだな、肌身離さず持っていろ、」
 李晃はそれを見てそう言って火を見た。
 追いかけてくるはずの李郭が遅い。備麗の手前心配していない振りをしているが、あの李郭にしては遅すぎる。
 土蜘蛛はそれほど強くはない。だが、何かのときにふと激しく強くなる。それにたまたまかち合ったかもしれない。それは、今の李晃には解からない。
「雨……」
 備麗の細い言葉が漏れた。
「あなたたちについて、聞いていいですか?」
「…何なりと」
「老翁に無理やりに連れてこられ、妖魔使いの修行をしたと聞きましたけど、」
「まぁ、無理やりだな。いや、あれは誘拐とか、強奪に近いかもしれない。とはいえ、李郭には戦術を示唆する頭があった。俺には腕がある。五歳のときに山の神だと言われていた猪を倒した」
「まぁ、大丈夫でしたの?」
「生きてるからね。腕っ節だけの俺と、利口な李郭。二人がそろうととんでもないことが出来た。隣の家を乗り越え、姦通してた隣の家を暴いて大目玉くらうは、本当に手のつけられねぇ悪がきだった」
「彼は、妖魔退治屋になって良かったといってましたけど、あなたは?」
「よかったこと? まぁ、金に困らなくなったんで女は買えるし酒も飲める。でも家がない。でも家があると帰らなきゃいけないから呑気気ままな生活は出来なくなる。それはいやなんだ。李郭の本の虫と違って俺は自由気まま、風が吹くまま雨に打たれるままで平気だ。でも、休まる場所はない。それでも、俺もなってよかったと思う。黙々と土いじりをするだけで終わるのも悪くはない。反乱の徒となるもよし、だが俺の性分じゃねぇ。やっぱり、天職だな」
 李晃の言葉に備麗は膝を抱え、羨ましそうに李晃を見た。
「あんたは? あんたのようなべっぴんがなんだって濁へ行こうと決めた?」
「私? 占い師が南にはいいことがあると言ったから。……でもそれは表向きだわね。私ここに来るまでにそれを何べんも言ったわ。その都度思ったの。本当にそうかしらって。…周りの大人が言うのよ、私は女のくせに頭がいいと。美人なのだから口さえ出さなきゃ、いいところに嫁にいけると。私の未来を勝手に決めているの。私は、私が望んだことをしたい。そして濁の創始に誰がなると言う話しが出たとき、あちらこちらの賢者と言われる、まぁ、」
「その国にとって邪魔なものか、」
「そうね、政治に口出す厄介者の名の中に私があった。男が立てるより、女が立てれば義勇兵が集まるだろうとか、もし万が一にも立国したあとでも、夫となるべく行けばたやすいとか、いろいろ思惑があったのよ。それを聞いて、」
「反骨心が強いねぇ、美人なのに」
「美人は関係ないわ」
 備麗は笑った。まるでこの鬱陶しい夜の雨の中で昼間の明かりを放つ花がそこにあるような錯覚を起こさすような笑みだ。
「でも、ほんと、何故国で大人しくしてなかったのかと思うわ。大人しくしていれば、きっと、いい嫁になれたでしょう? 美人だもの」
「そうかな?」
 李晃は首をかしげた。
「あなたは現状に満足の行くような人には思えないけど」
「そう?」
「ああ、それこそ、李郭のくそ真面目な奴と口論してるほうがずっと楽しそうだ。大人しく夫に従うことは出来ないだろうな」
「口論など、」
「気にすんな、ここだけの話だ」
 李晃はそう言ってそのまま横になった。
「寝といたほうがいいぞ、寝れるなら」
 備麗は頷いて、膝頭に額をつけた。
 ずっと幼い頃、こうして膝を抱えてぎゅっと抱きしめ、ぱっと倒れると人知れず開放感があって、心地よさに何度もやっていた。あの頃はそのふっととける開放感が好きだた。空の下で何度もするから、見えるものが真っ青な澄み切った青だった。
 何故かそんな昔の遊びを思い出した。
 そういえば、その頃よく見ていた夢があった。なぜ思い出したのか、何がきっかけで思い出したのか解からないが、思い出す。
 赤、青、水色、茶色、黄色、白、黒、の透明な色の珠。それが暗闇の中浮かんでいる。備麗は必ずその真ん中に立っていて、その玉は絶えず美麗を囲むように浮かんでいる。
 そういえば、国の柱の数は七。幼いころから夢で見ていたのかもしれない。でも何故その柱に色があるのか不明だ。
 ―そうか、七人揃えなければならぬか―
 備麗が目を開けると、雨はうその様に上がっていた。
 洞穴の入り口では李晃が背伸びをしているところだった。



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