六角堂外聞録 薬屋
 大河内 大門。それが本名だった。奉行所の薬師番に務め、出世街道をひた走り、家を顧みず、家族のためにと役所勤めをしてきてあと数年で年期を終えようと言うとき、妻が病にかかった。流行病気ではなく、医者によって紹介された薬屋・六角堂に大門は立っていた。
 若い娘がキセルをふかし、客が来たというのに高座に座っているだけの店。
「奥さん、性病だね。」
 娘は、まだ大門が何も言う前からそう言った。
「あんた、大河内の旦那でしょ。奥方の名は、すえ。この数ヶ月ですっかりやせこけ、挙げ句に何かに取り憑かれたようにひせったり、泣き出したりする。違ったっけ?」
 娘はそういってキセルを火鉢に打ち付けた。煙草が落ちるのを、大門ははっきりと目で追えた。そのくらい長い間があったような、胸を縛る時間。
「有名だよ。あんたの奥方が、男を連れ上げているのはね。初めこそ、あんたの家臣達だったが、今では、そこらのごろつきや、挙げ句には、まぁ、余りいい言葉じゃないが、身分相応の輩でない輩までお通ししている。」
 大門は拳を握った。侮辱だった。妻をそう罵る根拠も、その証拠もないのに、ただ、薬を処方せいと言いに来ただけなのに、大門が娘を見上げたときには、娘はそこから降りて、先程までみだらな着方だった着物をぱりっと着て、大門の側に立っていた。
「いらっしゃいな、薬を処方しましょ。」
 大門は、隙あらば小娘を手打ちにする覚悟で、娘の後を追った。
 向かった場所は岡場所だった。
「かような場所に。」
 と言葉を切った先に、見るもあらわな姿をしている、病で、息絶え絶えに寝ていたはずの妻がそこに、凛として座っている。しかも、見ず知らずの男を五、六人囲んで、わいわいと話しをしている。
「すえ……。」
 大門の言葉に、奥方は立ち上がり、側の娘をひと睨みしてから、岡場所の奥へと走り出した。大門はその後を追いかける。 二人が向かった先は、からからと風車の舞う社だった。人気もなく、妙に寒々しい空気の流れる場所だった。
「どういうことだ!」
 大門はか細い奥方の腕を強く握る。
「辞めな。その人の身体は、強く掴まない方がいい。」
「儂の妻だ。」
「でも、阿片をすって、空洞化した骨なんて、簡単に折れちまうよ。医者が、普通の薬屋じゃぁ処方できないが、うちならって教えたんだろうが、生憎と、そう、そこの奥方にも言ったけどね、阿片なんてものは作らないし、売ってない。これだけはモットー、そう、うちの店の格言でね、そればっかりはどうにもならない。ただ、奥方がうちの店に来た頃に、あんたが奥方の病状を知ってさえいれば、奥方は壊れなくてすんだんだよ。」
 大門は奥方の方を見た。奥方はがたがたと震え始めていた。
「もう、手遅れだね、その時点で立ち直らせようとするのは、死ぬほどの苦痛を与えるに久しい。それを一緒に乗り切るだけの信頼や、愛情があんたにもない。おまけに、奥方はどこのやからか知らない子供を抱え、挙げ句に、性病を抱えている。酷く重い奴をね。まぁ、その身体で妊娠期間を耐えうるか不明だし、耐えきって産めたとして、子供にどんな影響が出るか。」
 娘の酷く他人事の言葉に大門は目を見開いてねめつけた。
「言っとくが、うちは薬屋であって、医者じゃない。薬屋であって、奥方の良き理解者になり得なきゃいかん配偶者でもない。責任転換する暇があるなら、舌を噛まぬように手拭いでも噛ませておくんだな。」
 娘に言われ奥方を見れば、口の端から鮮血を流している。慌てて口を開け、その中に手拭いを詰めた。
「頼む、助けてくれ。」
 事は簡単ではなかった。阿片常用者を立ち直らすのは至難の業ではなかったが、大門は精魂込めて一緒に立ち向かった。そのために役所も辞めた。そのために、薬師番という職を捨て、家を捨てた。
 娘・薬屋の主詩乃の用立てた竹林にある庵で暮らし初めて、半月がたったある日、それまで、何度となく峠を越えては、冷静さと、今までのすえを取り戻してきていたはずの奥方が、変わってしまった。
 薬師番の腕を持って、詩乃に言われるまま薬を調合し、今まで無かった腹痛薬などを作ってきて居た大門が、はばかりに席を立ち、薬を調合する部屋、それは奥方の寝ている部屋の隅にあるのだが、そこに戻って息を殺してしまった。
 奥方が、あまりにも変わり果てていたのだ。
 詩乃曰く、腹の子は見た目の育ちよりも早くすでに八ヶ月は来ているはずだと言っていた。だが、腹はまだ五ヶ月ほどの大きさしかなく、堕胎を進めたが、なかでは八ヶ月も育っていて、堕胎こそが危険だと言っていた矢先のことだったのだ。
 子供と言うべきなのか、胎児の変わり果てた、青紫の固まりを着物の裾から覗かせ、奥方は狂い笑った笑みを浮かべて座っていた。投げ出した二本の足の隙間から覗くその物体は動いてなかった。挙げ句に、奥方も、動こうとはしなかった。
 詩乃がやってきたのはそれから一刻してから。すでに夕暮れなのなかで、詩乃は何も言わずに奥方の側に座った。
「ショック死している。硬直からいくと、一刻ぐらい前だろうね。子供が産まれてきて、助けを呼ぼうにも、パニクっていたから声も出ず、子供の生まれ落ちる姿と、動かないことで、よほどの動揺が脈を速め、あとは、切れたってとこだな。」
「とこ、だなって、他人事だと思って!」
 大門は詩乃の襟を掴み持ち上げた。
「所詮他人事だ。我が身が可愛いさ。」
 詩乃はそういって逆に大門の手首を捻って、我が身を下ろさせた。
 大門は床にへばりついて泣き出した。その咆哮は野獣の如くで、いつまでも止まなかった。
 簡単な葬式だった。六角堂専門の坊主の弔いと、その寺の狭さから火葬され、埋葬された。知り合いは誰一人と来ない淋しい葬儀だった。
 大門は真新しい白木の前に座って、もうもうと煙る線香の中に居た。
「ご愁傷さん。」
 詩乃はそういって手を合わせた。
 大門は返事をしなかった。
「これからどうする気だい? 一人でうじうじしてても、奥方は浮かばれないよ。そう、どうせなら、薬屋を手伝わないか? これ以上奥方と同じような人を出しちゃいけないと思うならね。」
「他人事だと言っていただろう?」
「ああ、他人事さ。でも、もしそれが早い段階で助けれるって言うなら、貸しを作るって言うのも、悪かないだろ? 恩着せがましく、今しか助からないんだとでも言えば、金持ちからふんだんに金が取れる。」
 大門が詩乃を仰ぎ見る。
「もういいさね、あんたみたいに淋しく死んでいく女はね。」
 詩乃はそういって目を閉じた。
「姉さん、新しい薬なんだがね。」
 庵の調合室に、詩乃が久し振りにやってきていた。だが、手拭いで鼻を押さえ、顔をしかめている。
「今度のは、勢力増強。イモリの尻尾にコウモリの羽、ネズミの胃袋に、」
「煩い。気味が悪い。それで、効力は?」
「腹下しかな。」
「薬じゃないじゃないか。」
 大門は、薬屋として六角堂に居座った。薬屋の翁。それが大門の名前であり、それ以外の名は、無い。
「薬屋、お前、もう少し真面目に作れよ。女囲うのも結構だが、たいがいにしろよ。」
 詩乃はそういって庵を出ていった。
六角堂
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