恋愛ノイローゼ
松浦 由香


1〜Le partenaire qui veut embrasser


 つい、余所見をするのは、ソレに興味が無いからだ。興味が無いと言うことは、遠まわしに、嫌いだと言うことだ。でも、殆どの女がそれを理解しようとはしない。自分だけの「モノ」扱いをする。そして、余所見をすると激しく怒る。
 だから、俺はお前なんか嫌いなんだって。

 喫茶店のざわめきが一瞬のうちに消え、そして小声が広がるまで三秒。
 注目を浴びているのは、見た目にも綺麗で、かっこよくって、多分、女にもてるだろうと思われる男が、さっきまでその前にいた女に水を引っ掛けられた姿だった。
 ぽた、ぽた。と前髪から水が落ちる。
 彼は女に水をかけられる以前から、ずっと窓の外を見たままで、今も動いていない。 どうやら、彼女の話を聞かず、余所見をしていたのに腹を立てられたらしい。
「かっこいいのにね」
 遠くのほうで誰かが呟いた。
 カッコイイから、彼氏にとって不足は無いか。と言えば、それは「NO」だ。現に俺は水をかけられたじゃないか。
 彼はすっと店内に目を向け、立ち上がる。
 彼をよく見れば、いや、立ち上がってやっと判ったが、百八十近い身長が近くの有名進学高校の制服に覆われている。
―高校生?―
 周りが驚く中で、彼は彼女が置いていった伝票を掴んでレジに向かった。
 先ほど怒鳴って出て行った彼女は、少なくても二十歳過ぎたOL風だった。高校生相手に、いい大人が何をヒステリーに? と思う好奇の視線の中、彼は店を出た。
「まったく、容赦なくかけやがって、しかも、氷いってぇ」
 額に当たった氷のあとを擦る。
 空の弁当箱しかない鞄を掴み直して、自転車を引っ張り出そうとした彼の前にハンカチが差し出された。
「いくら暖かくても、風邪引くよ」
 その手を見下ろせば、小さな女が立っていた。眉をひそめる彼に、彼女は背伸びをして前髪を撫でる。
「くそ、ちょっとは屈んだら、背が低いあたしがどれほどがんばっても届かないでしょ」 彼女の言葉に素直に前に倒れると、彼女は「よし、よし」と頷きながら前髪を撫でた。「あ、時間が無かったんだ。ごめん、貸してあげるから、ちゃんと拭きなよ」
 彼女はそう言って彼の自転車のハンドルにハンカチをかけ、走っていった。入っていったビルには英会話と、エステの看板があった。
 彼はハンカチを取り上げた。
 甘い匂いは、モモのフレグランスだろう。
「イノセ カスミ」
 彼は刺繍された文字をなぞる。
「返せるあてなんか、無いんじゃないか? あの前で待てと?」
 彼はそう言ってもう一度ビルを見上げる。ビルにかかっている時計が四時を指そうとしている。
「あ、ああ……、俺も時間だ」
 彼は自転車に跨り、ポケットにハンカチを突っ込んで家へと向かった。

 本居 遼二。それが彼の名前だ。
 有名進学高校に通う一年で、その美形に多方面の学校からも人気がある。
 背が高く、綺麗な顔立ちに、家が金持ちだと言う点でも、性格を無視して人気が出てしまう。
 水を引っ掛けた女は、夜、街を歩いているときに声をかけてきて、そのままホテルへ行き、翌日にはすっかり彼女気分で人を呼び出した。高校生だと知って逆上し、詐欺だの、なんだの言い出し、挙句に水を引っ掛けた。
 何だって言うんだ、女は。
 だから特定の誰かを好きになれない。しおらしいと思ったら、キャーキャーと騒ぐことしかしない。煩いし、やたらと見栄っ張りだ。
 あたしの連れている人はこんなに美形なの。美形じゃなきゃつれて歩かないの。と言うのが目に見える。
 そういう女を相手にする男が、心底惚れると思ってんだろうか?
 遼二は呆れ顔のまま自宅へと帰りついた。
 遼二の家は学校から自転車で二十分行った市内ぎりぎりの地区にある。今では周りは閑静な住宅地だが十数年前まで、そこは田んぼで、遼二の祖父がそこの地主として貸していた。
 貸していた先も高齢者が多くなり、数年前一転してマンション、アパートとを建て、すっかり新住宅と言う姿に変わった。
 その中にあって、ひときわ大きく立派な家が遼二の家で、この辺りでは知らないものはもぐりだと言われている由緒正しい地主の家だ。
 母屋の隣に遼二用に建てられた家がある。もともとは祖父の娯楽用に立てたものだが、祖父が死んで遼二が住むようになった。
 一階は畑いじりが好きだった祖父のため、耕運機などが置けるよう土間のままで、二階は十六畳ほどの部屋になっている。
 遼二が部屋に上がるとすでに二人の男が着ていた。
 臣人と槇だ。
 臣人は遼二より二つ上なので、高校三年。別の高校に通っているが、中学校が一緒で、バイク仲間だ。
 槇は遼二の従兄弟で、誕生日が二日違い。これまた違う高校に通っているが、従兄弟である点を除けてもこの男も美形だ。
 臣人は美形と言うより無骨な奴だが。
 遼二はいつもの定位置に腰を下ろす。テレビ前においたテーブルの側が遼二の場所。ちなみに、臣人は入り口近くの隅に向かって、バイクの部品を広げては分解したり、塗装したりしている。槇は遼二とほぼ対面に座る。側に置いてあるソファーベットがお気に入りでそこに座っていることが多い。
「おっすぅ」
 甘えたような声で神野 里佳が入って来た。唯一ここに入っていいと許した女だ。まだ中学二年で、ここには来なくなったが露木の弟の彼女だ。里佳のあとから純也が入って来た。これが露木の弟。
 二人は付き合うことを否定しているが、多分、このままいい関係を続けていずれは結婚までするだろうと思われる。
 里佳はそこら辺の女とはかなり違う。自分たちの集団にまったく興味を示さなかった。甘えたり、無遠慮な嫉妬を抱くこともせず、俺たちだからと言う感じを大事にしてくれた。
 だから、里佳のような奴なら付き合ってもいいと思った。でも里佳の中で、遼二や、そのほか、純也以外の奴と付き合うと言う考えはないようだった。
「お前、そこどうした?」
 槇の言葉にそちらを見れば、里佳が前髪を上げてぺろっと舌を出した。
「壁に激突。体育の授業で、体育館で走り込みをしてたのね、急に止まれなくって、激突」
「あほ」
 四人に同時に言われ里佳は頬を膨らませながらも、鞄からお菓子を取り出し机に並べる。
「痛かったんだよ、凄く」
「壁のほうがへこんだだろ」
 純也の言葉に里佳は大手を振りかぶる。
 そういう二人のしぐさを見ていると、かわいい弟とその彼女がじゃれているようで、微笑ましかったりする。
「で、呼び出した女とはどうなった?」
 槇が里佳が持ってきたせんべいを口で砕きながら言う。
「OLで、二十……六? ぐらいで、人のこと詐欺師呼びした」
「年言わなかったの?」
「いわねぇよ、そん何、聞かれなかったし」
「まぁ、聞かれてないことを喋る必要はないとは思うけど、でも、26が高一相手じゃぁねぇ。本気になりかけてたら、そりゃ詐欺だと言われるだろうよ」
 里佳はそう言ってせんべいを遼二に差し出す。
「まぁ、他の彼女を見つけるんだね」
「彼女なんて、面倒だ」
 遼二はそう言って横になる。
 里佳は首をすくめそばに置いてあるエロ雑誌を開く。
「こういうのを望むから、現実の女を相手できないんだよ」
 里佳の言葉に頭を少し上げる。巨乳で人気のAV女優の花崎弥生のヌードを開いてみせる。
「胸がでかくて、尻が軽くて口が堅い女って、どれだけ男に都合のいいことか」
「理想だな」
「居ないから」
 槇に里佳がすばやく突っ込む。
「第一、槇ちゃんには彼女居るでしょ、臣君にだって居るし、居ないのはジュンとリョウちゃんだけ、早く見つけたほうがいいよ」
 純也は里佳が居るからずっと見つける気無いよ。と思いながらも誰も言わない。
「もっと、自由に遊んでから見つける」
 遼二は小さくそう答えた。

「何で」
「何が?」
 遼二は前に並んでいる浜田の肩越しに話しかける。隣の女はどう考えてもここに並びそうも無い華やかな顔をした女ばかりだが、いつも無視。
 で、浜田に遼二はふてぶてしい顔を突き出して聞く。
「何で、俺らが卒業式出るんだよ」
「卒業式は午後から、これは門出式。まぁ、うちの学校だけなんだろうけどな。在校生全部が卒業式に出れないかららしい」
「あほらしい、これ済んだら帰るんだろ? 来るんじゃなかった」
 遼二の言葉に浜田は鼻で笑う。
「卒業生代表挨拶」
 壇上に女子生徒が上がっていく。長い髪は三つ編みにして下げ、メガネをかけている。ああ、昔の純女学生だ。
「在校生の皆さん、ご指導くださった先生方。私たちは今日……―」
「おい、あれ」
 あの声、メガネが邪魔だが間違いじゃない。昨日の「イノセ カスミ」だ。
 凛と張る声がマイクを通して隅々に聞こえていく。
「あれ? 元生徒会長」
「居たか?」
「ああ、二期連続当選して、隣の明南大学医学部に進学が決まってる」
「有名なんだな」
「一応、新聞部部長」
「まだそんな部あったのか?」
 浜田が「そんな部とは何だ」とけしかけてくる言葉など聞こえなかった。
 イノセカスミのあの声に遼二の頭は支配されていった。
 門出式が済み、卒業式が済み、生徒が校舎の外へと出てひときわにぎやかになった。 花束を抱えている人の波を掻き分ける。
「あ、リョウ君、」
「ども」
 見知らぬ女だが、多分一度くらいデートしたことがあるはずだ。そんな人たちに片手を上げ、通り過ぎる。
「いつから行くの?」
 彼女の声だ。
 天性か、声についての聴き分けが昔からできる。ただ、どうでもいい奴の声は記憶に残っていない。
 でも、ふと立ち止まる。足は動かしているので、立ち止まると言う表現はおかしいが、気持ちが少し停まる。なぜ彼女を探しているのか、探してどうするのか、なぜ探そうとしているのか、あの時差し出したハンカチの人だというだけで、なぜ記憶に残っているのか。
 遼二はその視界にイノセカスミを捕らえた。ゆるい三つ編みがたれていて、花束を持った背中。その前にいる同じ卒業生、だが奴は花束を持っていない。あるのは、ご祝儀程度の一輪のカーネーションだけ。
「そうかぁ、」
「引越しとか、手続きとかあるからさ」
「そうだね」
「メールするし、加須美も、休みの間に出て来いよ」
「相談してみる」
 奴の顔をじっと見上げているのに、奴は照れているのかその視線から目をそらすように顔を背けている。でも、二人が付き合っているのは、会話で解かる。
 でも、声がかけられそうなほど側にいて、声をかけられないのは、苦痛だ。
「イノセ先輩」
 イノセカスミが振り返った。
 丸い顔に、三つ編み、黒ぶちのメガネ。
 振り返った先に顔が見えないので、眉間にしわを寄せ遼二を見上げた。
「背、高い」
「そりゃ、どうも」
 遼二は頭を掻いた。
「あ、リョウ君、今日一緒しない? カラオケ行くけど」
「遠慮する」
 遼二は適当に笑顔を、どこからかかけてきた声に振りまいてイノセカスミを見下ろした。
「三年だったんですね」
「卒業したから、もう三年じゃないけど」
 イノセカスミのくすくすと笑いを含めた声。
「これからどうするんですか?」
「これから、友達とカラオケ行って、帰るの」
「それより、俺とデートしません?」
「はぁ?」
 遼二の笑顔はまともだった。よく知りもしない女を口説くときのような態のいい笑いじゃなく、本当の笑顔だった。
 イノセカスミは俯き、首を横に振った。
「だめ、友達との約束が先だもの」
「じゃぁ、それが終わったら、」
「だめ、六時から用事があるし、九時には門限。会う時間は無いわ」 
 遼二は少し口を尖らせ考える。どうにかして逢う時間を作らすためには、どういえばいい?
「それに、あなたみたいな人なら、他の子でいいんじゃない? 私よりもっと派手な子はいるわよ。じゃぁね。吉岡君も、またね」
 イノセカスミは校門へと歩いていく。
 そこに一緒に行くと思われる一群が、吉岡と遼二を見比べている。
「何で、リョウ君が話しかけるの?」
「知らない。答辞読んだからじゃない?」
「それだけ?」
「知らないって、だから」
「吉岡とは遠距離することになるし、校内一と言われている美形に声をかけられたのに、あたしたちとの約束のほうを優先するなんて、」
「はっきり言って、古いよね」
「あ、でも、無視されると頭くるけど」
「確かに、ぜっこーだよね」
 一群が盛り上がる。
「か」
「先輩、俺待ってるから、マックで、ずっと」
 吉岡の声をさえぎった形で遼二が声を張り上げた。
―何で、リョウ君があんな事言うの?―
―言われたこと無いよ―
 嫉妬の視線がやたらと厳しく刺さる。イノセカスミは片手を挙げてそれを振る。
「行かない」
「待ってる」
「じゃぁね」
「俺、待ってるから、何時でも」
 イノセカスミはもう返事をしなかった。

 一群の先頭に立って早足で歩く。
 なぜ彼が声を掛けて来たのか解からない。あれほど女に困らない奴が、なぜ自分に声をかけるのか不思議だ。遊ぶつもりなら、行く気はない。でも、もし、本当に何時でも待っていたら、どうしよう……。確かめに行って、ほかの誰かが変わりにいて、馬鹿にされるのは、いやだ。でも、居たら? 本当に待ってたら、行かなかったら、ひどい奴だと思う?
 加須美たちは近くのカラオケ屋に入った。卒業式だったこともあり、多くの生徒が着ていて部屋はほぼ満席に近かった。
「でも、何だって加須美なんだろうね?」
「知らないって、だから」
「珍しいからじゃない。今どき黒ぶちのメガネに、三つ編みなんてさ」
「確かに、古いよねぇ」
 加須美は頬を膨らませる。
 そのあともなぜ遼二が声をかけたのかの推理をしていたが、加須美が一曲入れたのをきっかけに、歌を歌うことに熱中し、その後その話題は出なかった。
「あ、もう時間、ごめん、先に帰る」
 時計が五時半をさしたころ、加須美は一人そこを抜け出した。
 もう、一緒に居て合わす事の無い友達たち。話題も、趣味も、何もかも一緒に合わせてきた人たち。一緒に居ればそれなりのメリットがあったから一緒に居ただけで、あまり話題にもついていけなかったりした。
 今日でそれが終わると思うと、少し寂しいが、清々した気もする。
 階段を下りる。浅春の風がスカートを持ち上げていく。
 加須美は昨日と同じビルに入る。そこの三階が加須美の行く場所だ。
 看板こそかかっていないが、そこは確かに、階下のエステ店や、英会話教室とは違う空気があった。
「いらっしゃい、あ、卒業おめでとう」
 笑顔とともに、加須美を迎えてくれたのはそこの主である清河 葉子だった。
 カウンター席二個と、向かい合わせになるだけのテーブルが一個あるだけの小さな喫茶店。
「ありがとう」
 加須美はいつもの奥の席に腰掛ける。毎日ここにきて、本を読んで時間を潰すのが加須美の小さな幸せだった。ここはそれが出来る唯一の場所だった。それは葉子が加須美の叔母であることも理由の一つだった。
 叔母と言っても八つしか違わないので、姉の様に思って来た。
 家に帰ることは出来たが、家でこれだけ静かな空間は無かった。母は料理好きが講じて家を料理教室に改装したほどで、毎日近所のおばちゃんたちの溜まり場となっている。だから、ここに来て時間を潰すのだ。
「今日は、料理発表会の日?」
「そう、卒業式だって言うのに、入学祝の料理発表会だってさ」
「それで、何時まで居る気?」
「今日の晩御飯は残ってないと思うから、今日は割りと遅くまで、ハコちゃんの彼氏が迎えに来るまで、」
 葉子は首をすくめコーヒーを机に置いた。
 葉子は赤いバンダナを巻き、メガネをかけていた。緑色のエプロンに赤い小花が散りばめている。
 加須美は髪を解き、メガネを机に置いた。
「伊達メガネ、いつまでかけてる気?」
「一生」
 葉子はクッキーを置いてため息をついた。
 蓄音機から流れてくるようなノイズのかかったラジオを流す。それがここの好い所だった。英語の歌は自然とハミングが出来て、本を読むことが楽しくなる。
「そう、じゃぁ、待ってる」
 葉子が電話を置いた。
 加須美は電話をしていた葉子の方を見た。
「邪魔した?」
 首を振る。
「修一さん?」
「そう、今日は早く帰れそうだって、」
 葉子はにこやかに微笑んだ。
「ねぇ、待つって、どういうこと?」
「はぁ?」
 葉子は首を傾げる。
「待つ。って、どういう気分で言うんだろう」
「どういう気分? 難しい事言うわね、どうしたの?」
「待つって言われたの」
「吉岡君に?」
「違う。ぜんぜん違う人に」
「何で?」
「解かんない。一年の子で、結構有名人」
「有名人?」
「すんごーくかっこよくって、女癖がいい子」
「ほぅ、そんな子が加須美に?」
「そうなの。まったく解かんない。で、今日、声かけてきて、マックで待つって」
「じゃぁ、行かなきゃ」
「でも、でもよ、もし冗談とかで、行ったら別の人が居て、笑いものにされるのは嫌。でも、居たら、行かなきゃ酷い奴だと言われるだろうなぁって、何であんな事言うのかなって、何で待ってるなんて言うのかなって」
「そりゃ、興味があったからじゃない?」
 加須美は首をすくめ、コーヒーを口にする。
「何の興味よ、古い目立たない子に興味? 回りの派手さに飽きたから新鮮だったって訳?」
「さぁ、そりゃ、本人に聞かなきゃ解からないわよ。でも、少なくても加須美が古いからってだけじゃないと思うよ。まぁ、これは身内びいきな意見だけど」
 葉子は笑って同じくコーヒーを飲んだ。
 七時。修一がやってきて加須美は店を出た。
 街にサラリーマンが溢れ、学生の姿が少ない。
「早く、水につけなきゃ、」
 花束の花が少し元気がない。加須美はそれを抱きしめかえろうと足を踏み出す。
 「マックで待ってる。いつまでも」遼二の声。
 加須美は足を止める。振り返ればマックのあの看板が目に入る。
「待ってるわけない。待ってるかもしれない。どっちよ……」
 加須美は暫くその電光を見つめていた。

 遼二は机に突っ伏していた。
 時々声をかけてくる人から避けるようにずっと俯いていた。
「腹、へったー」
 ハンバーガーやフライドポテトの匂いが鼻孔をくすぐる。
 来ないだろう。と思いながらも、いや、俺が誘ったんだから来る。という自信も捨てきれない。でも、「行かない」の言葉に嘘は無い気もする。
 俺って、そんなに魅力無いか?
 店には、帰って行く人のほうが多くなっていた。店の一番奥のボックス席の遼二を不審がる店員が、うろうろしている。
 ごと。冷たいものが額に当たる。
 顔を上げるとラージサイズのジュースが置かれていた。
 さらに顔を上げると、加須美が立っていた。
「二十四時間じゃなかったら、どうする気だったの?」
 自然と顔がほころんだ。不思議なほど安堵して、安らかな気分になる。
 そんな遼二の顔を見ていると、加須美も笑顔がこぼれる。
「よかった、来てくれて」
「来なかったらどうしてた?」
「店の前にでも座ってるさ」
 加須美は向かいに座る。
「何でそんなことするの?」
「さぁ? 自分でも解からない。まぁ、言った手前というのもあるけどね」
 遼二は加須美が置いたジュースを口に含む。
「腹減ったぁ」
「なんか、買って来ようか?」
「いい、先輩はどうする?」
「あたしは、」
「門限があるんだっけ?」
「一応ね、」
「じゃぁ、家に送る」
 加須美は立ち上がった遼二を目を丸くして見上げた。
 「家に送る」? すぐにホテルへ行くと聞いていたのに、これはどういうこと? やっぱり、ただの気まぐれで声をかけただけか。
 加須美は頷いて店を出る。
「あ、でもいいよ、あたし電車だから」
「大丈夫、送る」
「大丈夫って何が?」
 遼二は笑顔で頷いた。
 よく、解からない。
 遼二が何を考え、何をしたいのかさっぱり解からない。
 電車の切符も買い、一緒に電車に乗り込み、同じ駅で降りる。
「帰る方向違うんじゃない?」
 やっと声をかけたのは駅をでた時だった。
「まぁね、いいの、俺は」
 遼二は笑顔で答えた。
「ねぇ、何で声をかけたの? まぁ、暇つぶしと思ったなら、面白みに欠けただろうし、失敗だったけどね。何で?」
「さぁ?」
「さぁって、」
「声、かけたいな。と思ったから」
「そんな安易に声をかけれるような容姿してないわよ、今どき黒ぶちメガネだし、」
「それって、伊達だろ? それに眼鏡だからってかんけーねぇし、それより、卒業式で話しての、彼氏?」
 加須美は音の変わりに頷いた。
「そう」
「普通の人でしょ? あなたの様に特化してないから、どこがいいんだろうって思う人でしょ?」
「でも、そういう奴にも、優しさとか、強さとか、引かれるものは合ったんでしょ、自分で否定するようなことは言わないほうがいいよ」
 十六歳。でも、大人だ。
 加須美はそう思った。吉岡と遼二を比べて、吉岡といる自分が少し恥ずかしいと思ったのは、見たくれを比べている自分が居たんだ。吉岡に悪いし、比べる必要なんかないことなのだ。
「そうよ、同じ会話が出来たの」
「同じ会話?」
「あたしたち医者になるの、医者になるための勉強を一緒にしたの。だから、話しが合うの」
「何科の医者に?」
「婦人科」
「あいつも?」
「彼は外科」
「何で婦人科に?」
 加須美は少し黙った。
「あ、いや、言いたくなきゃいいんだけど」
「あたしね、子供が生めないの」
「え? ごめん」
「あ、ごめん。あたしのほうこそ。でも気にしないで。子供が生めないと知った人は、いつでも簡単にセックスできるなって笑う。そのうち付き合うと、あたしが不妊治療をもっともっと研究する医者になるんだという夢についていけなくなるの。重荷なんだって、子供が出来ないなんて、都合いい体してる癖にって思うんだろうね。でも吉岡君は、え?」
 加須美が笑って顔を上げた視界に、遼二の涙が見えた。
「ごめん、そんな話しさせて」
 遼二は袖で涙をふきながら、ポケットを探った。何か柔らかいもの。取り出せば昨日加須美に借りたハンカチだった。
「あ、それ」
 加須美の前でそれで涙を拭う。
「また、借りとく」
 加須美は頷いた。
 だから声をかけてきたのかもしれない。ハンカチを返すだけだったんだ。なら、もうちょっと早く来てあげたら、もうちょっと早く家に帰れただろう。彼も。
「いい夢だと思う。人のためにもなるし、先輩のためでもあるし。いい夢だと思う」
 遼二は力強く頷いた。
 加須美は俯く。
 加須美には普通の歩調でも、足の長い遼二には少し遅すぎるだろう。
「もう、いいよ、帰る時間遅くなるよ」
「邪魔?」
「そんな事言ってないよ」
「じゃぁ、気にしないで」
「でも」
 加須美は遼二の横顔を見て黙った。
「あ、君の夢は?」
「俺? ……、俺は、別に、無い」
「無いの?」
「まだ、何やりたいかわかんねぇんだ」
「そうだよね普通。あたしはずっと同じ夢もってたから。他の人にもあるんだって思っちゃうんだよね」
「いいことだよ、夢があるって言うのは。知り合いに、バイクのメカニックになりたい奴とか、モデルになろうとしてる馬鹿とか」
 遼二は鼻で笑う。
「人の夢よ、馬鹿ってことは無いわよ」
「……、そうだね、あいつらしい夢で、これでも愛情のこもった馬鹿なんだよ」
「いい友達なのね」
「ああ」
 遼二は槇のことを思い出していた。俺の将来はモデルかAV男優になること。まったく違う世界の二つを追いかけている愛しい従兄弟の顔が浮かんで、思わず微笑んでしまう。
「もういいわ。ここだから」
「料理学校?」
「母さんの趣味で、家を改築したの。卒業式に、入学式のお祝い料理の発表会で、多分酔いつぶれてると思う。近所の人たちと。あ、だからって、あたしが料理上手かどうかは聞かないでね」
 加須美の言葉に遼二は小さく笑った。
「そうだ、これ」
 遼二はコートの胸ポケットから小さな箱を出す。
「何?」
「多分、同じもの。開けて見て」
「あけて、いいの?」
 遼二は笑顔で頷く。
 花束を遼二に預け、リボンを解き、箱を開ければ小さなハート型のガラス瓶に、桃色の水が見え、かすかに甘い香水の匂いがする。
「これ、」
「卒業おめでとう」
「もらえないよ」
「大丈夫、高くないし、これも女をくどく手段の一つ。そう言われたら、簡単に受け取れない?」
「他の子と同じ扱い? とはいえ、そういうことなら気軽に受け取れるかな」
 加須美はそのビンを鼻に近づけた。
 きっと、加須美ならそうするだろうと思って買った。多分、他の女も同じことをするだろうが、そんなもの想像なんかしない。なんか、買ってて楽しかった。
「ありがと」
 遼二は軽く頷いた。
 玄関の戸が開き、にぎやかな声があふれて来た。
「あら、加須美ちゃん。お帰り」
「どうもです」
「あら? 彼氏?」
「いいえ、ただの後輩です」
 遼二が答えると、出てきた近所のおばさん五人は惚れ惚れと、玄関の外灯に照らされている遼二を見た。
「あら、加須美、お帰り」
 最後に出てきたのが母親らしかった。目元が似ている。大きな目に、細面である点から、加須美は父親になのだろう。
「吉岡君?」
「違う。あ、なんか食べるもの残ってる?」
「多少なら、あんた外で食べなかったの?」
「修一さんが迎えに来たから」
「そう」
「あ、ねぇ、晩御飯食べていかない?」
「俺?」
 遼二は自分を指差す。
 加須美は笑顔で頷いて遼二の腕を引っ張った。
 家に上がり、散らかしたままの居間に通される。
「散々だなぁ。もう」
 加須美は遼二が座れるだけのスペースをとりあえず作る。
 外では帰るといいつつまだ話しているおばさんたちの声が聞こえる。
「ごめんね、ここいらに据わってて。すぐに持ってくるね」
「あ、いいの?」
「送ってくれたし、これ、くれたでしょ?」
 加須美は台所に向かい、なべのふた、冷蔵庫の中を見た。
 遼二は座り、テレビわきの写真たてを見た。加須美の小学校の入学式の写真。たくさんのスナップが置いてあるが、どこにも父親の姿はない。
「ごめんね、加須美、片付けなさい、やってあげるから」
 母親が入ってきて台所に立つと、加須美は入れ替わって遼二の側に来て机の上を片付け始めた。
「すみません、突然で」
「いいのよ。でも、残り物っぽいんだけど」
「ぜんぜん平気っす」
 遼二はそう言って漂ってきた匂いに鼻を動かす。
 ぐー
「やべ」
「すぐにするわね」
 母親の笑いに遼二は首をすくめ小さくなった。
 残り物といいながら、さすが「入学祝の料理」。春の野菜をふんだんに使った散らし寿司と、吸い物。おかずにはこれまた春をイメージしたような手羽もとのから揚げが用意されていく。
 遼二は早速遠慮なくそれに手をつける。加須美が前に座って同じく食べるが、遼二のがっつきぷりに唖然と見守る。
「うめぇ」
 五分で間食し、遼二ははたと気付く。
「あ、先輩の分、」
「いいの。君の食べっぷりを見てたらお腹張ったから。いいね、その食べっぷり」
「よく飲み込むな。と言われるけどね」
「親友?」
「ああ。そういうところよく見てるんだ、他はどうでもいいくせにね」
 遼二は里佳を思い出していた。本当に後はどうでもいいのだ。箸の持ち方と、食べる姿勢、たとえば茶碗はちゃんと持つとか、犬食いや、掻き込みが嫌だとか、ちゃんと噛めとかそういうことにはいちいち口を出すくせに、他はどうでもいいのだ。
 遼二のくすりと笑う顔に加須美もなんだか幸せになる。
 なぜだろうか、この男は人の表情を勝手に変えさせる力を持っている。この男が本心から笑うと、自分もこの上なくおかしかったり楽しかったりする。もし、彼が悲しんでいたり、困っていたなら、きっと手を差し伸べずには居られないかもしれない。
「うれしぃわ、これだけ食べてもらったの久し振りだもの」
「すんません、遠慮なくって、めっちゃうまかったもんで」
 遼二は頭を掻いてやっと恐縮した。
「いいの、ケーキとかは好きかしら? 男の子は甘いものだめかしら?」
「チーズケーキぐらいなら、嫌いじゃないですけど、あまり得意じゃ、」
「よかった、チーズケーキなの」
 そう言って冷蔵庫からチーズケーキを出して来た。
 ホールのままなので、加須美が帰ってきたら切り分けるつもりだったのだろう。
「うまそう……、あの、…、無遠慮ついでと言っちゃぁなんなんですが、これ、少し分けてもらえます?」
「ご家族に持っていくの?」
「いや、里佳(妹)に持ってってやるんです。あいつすんげー好きなんで」
「妹さんに? 優しいのね。じゃぁ、箱に詰めましょうね」
「すみません、ほんと、遠慮なくって」
「いいのよ」
 母親の朗らかな声が台所で鼻歌に変わる。
「あ、ほんと、俺」
「相当うれしいのね。男手が無いから、食べっぷりも、にぎやかなのも、うれしいのね」
「わりと、小さいとき?」
 加須美は首を傾げる。
「離婚したなら、写真なんか飾らないかなと。でも、小学校辺りから姿が見えないからね」
「事故でね、卒園式の翌日だった。すごく悲しくて、それから二人っきり。だから、あんなお母さん見るのも、久し振り」
「いいお父さんだったんだね」
「すごく。よく覚えていないことのほうが多いけど」
「いい人だったはずだよ。先輩はいい人だし、お母さんだってあんなに美人だ。好きなことができる人を好きになれる人は、すごくいい人なんだよ。その人のすべてを愛して受けとめれるなんて、いい人意外にできないからね」
 遼二は台所で箱詰めしている母親をじっと見ていた。
「い、妹さんて、いくつ?」
「妹? いないよ」
「でも、さっき」
「あれは、」
「お待たせ」
「すみません、遠慮なくって」
「いいの。これはあなたの分」
 白い皿に切り分けられたケーキと、甘い紅茶が程よく合う。遼二はこれもあっという間に食べ終わり、まだ食べたり無いという顔をして、加須美からそれすらも奪う。
「うまかったぁ。また、本当に来ていいですか?」
 母親は笑って頷き、「加須美がいなくてもいらっしゃいな」と言った。

「今日は本当にご馳走様でした。ほんと、悪かったです」
 遼二は玄関先で頭を下げた。
「いいよ、駅まで、」
「いい。駅まで来てもらったら、そこから帰る道を心配するから、お休み。お母さんに、本当にありがとう、ご馳走様でしたって伝えてください。それじゃ、」
 遼二は玄関を飛び出て、軽やかに走って闇に消えた。
 加須美は扉を閉め、居間に入る。
 後片付けが終わった母親が笑顔で加須美を見返した。
「いい子ね」
「変わった子よ。あれだけの美貌でなんだってあたしに声をかけてきたのか、」
「仲よさそうに話してたじゃない、ずっと親しかったんでしょ?」
「今日いきなり声をかけてきたの」
「あんたに?」
「だから驚いてるの」
 加須美は椅子に座って頬杖をついた。
「まぁ、どうであれ、おいしいと言ってくれたし、あの食べっぷりにはお母さんすごくうれしくなったから、また来て欲しいくらいだわ」
「来たいって言ってた」
「ほんと?」
 娘のような甲高い声を出して母は喜んでいた。
 そんな姿を何年ぶりかで見た気がする。医大に合格したときさえもそれほど喜ばなかった。いつだっただろうか、こんな喜んだのは、随分と昔だ。

「加須美は大きくなったら何になりたい?」
―お嫁さん。お父さんの―
「加須美はいい子だ」

 真夜中に目が覚めるのは、あまりいい気分ではない。
 懐かしい父の声(多分)。大きな影姿。それがふと遼二に代わる。
 吉岡は? 横臥して机のうえにおいた写真たてを見る。小さなプリクラで撮った初めてのツーショット。
 吉岡はプリクラが好きだった。携帯のカメラも好きだった。でも加須美はそのどちらも嫌いだった。だから、それしか持っていない。
 小さすぎて目を凝らさないとこの闇では見えない。諦めて目を閉じると遼二のあの満足げに食べる顔が浮かぶ。
「おいしそうに食べてたから。ああやって食べる人、あたしも好き」

 翌日。卒業式を終えた学校は、三年一学年がいないだけでひっそりとしていた。そんな中在校生は最後の学期末テストを迎えていた。
 そして遼二は家に帰って来た。
 里佳たち中学生組みもテストとあって集まりは非常によかった。
「里佳、土産」
 遼二はそう言って箱を差し出す。
「何? あ、チーズゥケーキィ」
 里佳は半分丸々入れてくれていたケーキにフォークを突き刺す。
「どうしたの、これ。おいしぃ」
「昨日もらった」
「そうだ、お前昨日どこ行ってた?」
 槇が口を挟む。
「ずっと待ってても帰ってこない。携帯はつながらない。つながったのは九時を回ってた。しかも、どこにいる? って聞いたら宮岡って、ぜんぜん向こうじゃん」
「多分、好きな奴が出来た。といえばいいんだと思う」
「はぁ?」
 全員が同時に首を傾げる。
「と、言えばいいって、どういうこと?」
 里佳がフォークをくわえたまま聞き返す。
「正直初めてで、多分。としか言えないんだ」
 里佳の首の傾げに遼二は笑いながら続ける。
「今まで、どんな女も変な話し好きに出来たけど、「先輩」はそんなことしたくないんだ。なんか、ずっと側にいることが気持ちよくってさ。変だろ? だから、多分好きな人だと思う」
「変じゃないと思うよ。でも、先輩? いつものリョウちゃんなら「オンナ」なのに」
「だから違うんだって、今までも奴らと。他の女と里佳が違うように。とはいえ、里佳は妹的存在だけどさ」
「うん、一応女扱いされてた。弟と言われたらどうしようかと思ったよ」
 里佳がころころ笑う。
 でも、先輩ならくすくすと笑うだろう。そんなことを想像する。
「いい女?」
 槇の言葉に遼二は槇の方を見る。
「いい女……、どうかな。美人じゃないし、派手じゃない。遊ぶことをしない医大生になるんだ」
「すごい、リョウちゃん、喋り方とか、いろいろ変わったよ」
「先輩のことを思うと、自然とこうなる」
「優しすぎて奇妙」
 里佳が笑う。純也も声に出さないが笑っている。
 遼二は鼻を鳴らし、顔を背けると臣人が笑みを浮かべてみていた。
「臣君まで、」
 遼二は頭を掻いた。でも、確かに随分な変わりようだと思う。
 一昨日まで何も楽しみが無かった。この部屋でこの面子がそろうまでは、どこへ行っても鬱陶しかった。この面子で居るときだけは、気楽で居られた。
 でも、昨日、加須美と逢っている間中、本当に安らかだった。
 初対面の自分に辛い話をしてくれたことも、あの手料理も旨かったし、本当に昨日は幸せだった。

「え?」
 加須美の前に座っている唯一の親友といっていいみどりは聞き返した。
「なんつー嘘」
「だって、遊び人で有名なんだよ、ホテルとかに連れて行かれたらいやじゃない」
「だからって、妊娠できないからって、初対面で?」
 加須美は口を尖らせて頷く。
「でも、まぁ、もう来ないと思う。彼はまだ高校生だし、あたしが大学に行くし、会えることって無いもの。いくら隣の学校だと言っても」
「もし逢ったら?」
「逢っても、……、謝った方がいいかな?」
「さぁ? 謝られても向こうも困ると思う。向こうの出方が解からないからね、このまま本当に逢わなきゃいいけど、たとえば、たまに逢うとかは別よ、校門ですれ違うとかそういうのね、また、デートしましょ。なんて言われたら、多分、向こう本気なんじゃない?」
「だって、有名な女たらしなんだよ、負荷のある、嘘だけど、そんな女と付き合う?」
「そうよねぇ、そんな女と付き合いたいという理由も、でも、生めないなら好都合じゃない」
「だから、よくそういわれるって言った」
「そしたら? 向こうはなんて?」
「泣いた」
「泣いた?」
「うん。泣いて、そんなつらいこと話させてごめんて、」
「ちょっと、まずいんじゃない?」
「だと思ったから、相談してるのよ。気にしすぎだといいなと思う。でも、もし、本当にデートしようって言われたら、」
「……、あ、でも、吉岡と付き合ってるの知ってるんでしょ?」
 加須美は頷く。そこが悲しいことなのだ。と思いながら。でも、なぜ悲しいことなのか、自分では解からない。
「じゃぁ、いいんじゃないの? もしばれても、吉岡がそういえば誰も寄り付かないって言ったからって言えばいいわけだし、吉岡は吉岡で東京じゃない」
「簡単に言うよね、」
「下手なうそついた人が悪い」
「そのとおりです」
 笑ったが、内心ではとても辛かった。

 朝起きて、遼二の涙を思い出してからずっと胸がしくしくしていた。あの時は本当にそういえばホテルに行くことも無いだろうと思っただけだった。
「泣くなんて……」
 加須美はみどりと別れて吉岡と逢うためにいつも会う図書館前に立っていた。
 短めのスカートの裾がゆれる。
「誰が泣いたって?」
 振り返れば吉岡が立っていた。
「別に、」
「ここで待ち合わせも今日で最後だな」
 吉岡は感慨深そうに図書館を見上げた。
「明日は逢えそうに無い?」
「ああ、明日日用品とか買いに行くから」
「そうか、じゃぁ、出発に見送りに行く」
「いいよ、空港までは遠いからさ」
 加須美は頷いた。
 図書館横の公園に入り、並んで歩く。
「絶対にメールするからさ」
 加須美は吉岡の顔を見た。
 多分、落ち込んでいるから、自分が行くことを寂しがっているのだと思ったのだろう。もしここで遼二の名前を出したら、この人はどうするだろうか。
 加須美は目を伏せ、ずっと遼二のことを考えている自分を責めるように頷いた。
 吉岡は東京へ行くために目が輝き、未来を見つめている気がした。
 留まる自分は寂しさと、悲しさで立ち止まっている気がする。未来に進むことを嫌がっている。このままでいることを望んでいる。でも、口にしたら、この人はなんと言うだろうか? 遼二はどういうだろうか……。
「一日、伸びない?」
「何?」
「出発日、一日」
「無理、飛行機のチケット取ったし、向こう行って引越しとかしてたらギリギリだからさ」
「そう、だね。ごめんわがまま言って」
「わがまま? あ、ああ。いいよ、あんまり加須美ってそういうこと言わないから、解かんなかった」
 加須美と呼ぶ声より、先輩と言っていた声が甘くくすぐったく感じる。遼二と吉岡をスタイルや容姿で選んでいるんだ。遼二の方が数段かっこがいい。そんな人と一緒だったから、そう思うだけで、現実を見るべきだ。
 ホストクラブに一晩行ったと思うように、夢だと思うように、自分の彼氏は……。
 加須美は吉岡を見た。
 キスをしたのは去年の夏休み。付き合って二ヶ月目だった。セックスしないのは、加須美に勇気が無くて拒んだから。今、手は握っていない。寄り添っても居ない。楽しそうに新居の近くを説明する吉岡がただ眩しくて遠い。
「そうだ、昨日、行った?」
「どこへ?」
「あの一年の生意気な奴に言われてたじゃん」
「あ、ううん」
「だよな、あんないい加減な奴のいうこと信じちゃいけないぞ、いろんな女いい加減に捨てて遊んでる奴なんか」
 胸が、痛い―。
 加須美は頷きながらも、涙が出そうなほど辛かった。自分も同じことを思っているくせに、吉岡には言われたくなかった。吉岡には、気にしてない風に装って欲しかった。
「あ、今日、山田たちと最後会うんだ、ごめん帰るね」
 吉岡はそう言って自転車に跨った。走り去る背中。置いていかれた加須美。
 ベンチに座って図書館を見上げる。
 去年の初夏、どきどきしながらここを歩いて「好き」と言えた。ここに来るといつも思い出す。そして初心に帰るようにわくわくする。なのに、今日はこの道のどきどきなんか無意味だった。
「やっぱり、素直に言ったほうがいいかもしれない。中途半端に嘘ついたから、引っ掛ってるんだ。言えばすっきりして元に戻れる。怒るだろうけど、それだけ嫌いだと解かるでしょう、きっと」
 加須美はそう言ったが、口は重く結んでしまった。

 テストが終わり、終了式を迎える。
 三年が居ない階で遼二は一人、廊下側の窓にもたれていた。
「居ないんだよな、来ても」
 がらんと静寂しかない廊下。なぜもっと早く知らなかったのか不思議でならない。でも、知っていたら、こんな気分になっただろうか? 逢えないから増す思いと言うのもある。
「ぬぉ、くそっ」
 遼二は学校を抜け出し自転車を走らせた。

ドアチャイム
「はい?」
 扉を開けると遼二が立っていた。
「どうしたの? まだ、学校のはずじゃ、」
 息を整え、遼二は笑顔で加須美の顔を見た。
「逢いたかったから、」
 どっきっと胸が痛い。
「まぁ、俺に言われても嬉しくないだろうけど、ああ、それより、彼氏は行った? メール、来てる?」
 加須美の手にある携帯を見つけて遼二は聞く。
「あ、うん。さっき来て返事打ってたところ」
「元気だって?」
「みたい、あ、入る?」
「お邪魔します」
 遼二は居間に通された。
「他にはなんて?」
「え? ああ、今日はなべを買って、ラーメンを作るんだって」
「食生活貧しいなぁ」
 遼二の言葉に加須美は噴出し、返事を転送して携帯を閉じた。
「昼は?」
「まだ」
「じゃぁ、なんか作ろうか?」
「先輩の手料理?」
「チン!」
 加須美は甲高くそう言って笑う。
 遼二は何もいわずに首をすくめた。
 台所で母親が暖めるだけにしておいた料理を暖めている加須美を、遼二はずっと目で追った。
 卒業式以降一週間逢わずに居た。その間も何度もここに来ようと思っていた。でも、来ようと思えば思うだけ、邪魔じゃないか、もし彼氏と出かけていたと知ったら、自分は正常で居られるかどうか不安だった。
 もし、自分が吉岡の立場なら、絶対に一泊旅行にでも誘う。遠距離恋愛をするなら、逢えなくなる分、多分、抱く。間違いなく。居なかったら、絶対に、狂っていたはずだ。でも、こんな思いを自分が抱いていいのかどうか解からなかった。
 昼を済ませ、会話が途切れたところで遼二は帰った。
「元気そうでよかった。彼氏が居なくなってしょげてんじゃないかと思ったから。じゃぁ、ご馳走様」
 走り去る背中が遠くなるにつれて、思い出す。
「言うの、忘れてた。言えたのに、あの、こと」
 加須美は追いかけられなくなった背中を見送って戸の中に入った。
 「逢いたかった」暖かくなる言葉。でも、今は無い。加須美は体を抱いてソファーに寝転ぶ。
「浮気しちゃ行かんぞ、あれが、彼の、手、なんだ、から、……たぶん」

 高校は春休みに入った。でも遼二はあれ以来姿を見せなかった。気にしないようにしていたが、どうしても気になってしまう。嘘をついている後ろめたさもあるが、「逢いたかった」と言った言葉が嬉しすぎた。吉岡は、そんなこと言ったことがなかった。
 毎日学校で逢っていたからそんなこと言わなくても良かったのだろうが、言われると、嬉しい言葉だ。
 [You get mail]
 携帯がオレンジに光る。
 すばやく取り上げふたを開ける。
 吉岡からのメールだ。
 「おはよう 今起きた コンビにいって飯を買ってくる 隣の奴とも親しくなった 写真送る」
 写真には見知らぬ男と笑っている吉岡が写っていた。
 知らない時間をすごしている。今まで一緒だったのに。
 加須美は膝を抱きしめた。吉岡が東京に行くと言っても寂しくは無かった。同じ医療を志すから、お互いいつか良い医者となって逢おう。そう思っていられるはずだった。遼二の「逢いたい」という言葉を聴くまでは。
「みどりにでも、電話、しよう」
 留守電サービスに入った。他の友達も、いろいろと忙しいらしく、誰ともつながらなかった。
 加須美は一人で家に居る事に飽きて、外へと出かける。
 行く当てなどないのがほとほと悲しい。本屋を覗き、気付けば映画館前に立っていた。
 そんなに映画など好きではない。見たいものもやってはいない。看板を見上げても、どれも見たいとは思えない。
「暇つぶしには、高いんだよね、映画って」
 呟いた加須美の後ろに気配を感じて振り返る。
 あの胸だ。
 顔を上げると遼二が立って笑っていた。
「すごい偶然だね、映画?」
「どうしようかなって、君は?」
「友達と映画でもと思って、一緒に、見る?」
「どうしようかな」
「面白そうなのない?」
「そうね、」
 遼二も看板を見上げる。友達と一緒だといったが、それらしき姿は周りには見えなかった。
「何で、あんたみたいなのがリョウ君の側うろついてんのよ、」
 加須美はドキッと声のほうを探した。
 あまりにもひどい女の口調だ。言われた方が萎縮して、悪いことなどしていなくても謝ってしまうような、あまり良い声ではなかった。
 声が集まっているほうを見れば、中学生らしい子に、学校でよく見ていた同級生や、後輩が集っている。
「何でといわれても、」
 彼女はかなり困った顔をしながら、声を出来る限り小さくしているように見える。
「あんたみたいなガキを、相手するわけないでしょ、」
「と、いわれても、というか、あまり大声は、」
 加須美が遼二を見上げれば、遼二が加須美を見下ろし微笑んでいる。
「ごめん、少し待ってて、」
 そう言って顔を彼女たちに向けたときには、見たことも無い険しい顔をしていた。引き止めることさえ出来ない雰囲気を醸し出した。
「悪いな、俺たちの妹に何のようだ?」
「リョウ君!」
 中央に居た彼女が頭を押さえ項垂れた。
「妹って、血なんか繋がってないじゃない、」
「だからどうだってんだよ、こいつは俺たちの大事な女で、これに手を出したらどうなるか言っただろ、」
「リョウちゃん、」
 彼女が明らかに遼二を制止するような声を出している。だが、遼二は聞こうともしないで彼女たちに詰め寄ろうとしている。
「だって、その女がいるからあたしたちの相手しないんでしょ」
「お前らと比べたら、こいつの方が数段いいに決まってるだろうが!」
 加須美の胸も、言われた彼女たちと同じようにショックで締め付けられる。
「馬鹿リョウ!」
 彼女は遼二の両頬を両手で挟み叩いた。
「落ち着け、別にあたしは何もされてない、ここであんたが暴れたって、何の解決にもならんでしょうが、あたしが大事で守りたいというなら、そんなことで暴れるんじゃない。解かった?」
 遼二が彼女の両手を掴む。
「解かった。だが、」
「リョウちゃん」
 彼女の声に口を尖らせる。
「リョウの言うとおり、俺たちの妹に何かあれば、リョウだけじゃないよ、暴れるの」
 加須美の隣から声がでた。見れば遼二に似た顔をしたでも別の男が立っている。
「あ、時間、映画、ほら、入んなきゃ」
 彼女が遼二の手を引っ張って映画館へと向かう。
「まったく、短気の単細胞め」
 彼女が加須美の側で立ち止まる。
「槇ちゃんも助け舟出すの遅すぎ、ジュン、あんたも止めに入れよ、まったく」
 彼女は遼二を見上げる。見上げて加須美に気付く。
「……、リョウちゃんはそこで反省しな、先入ろう、」
 彼女が槇の腕を掴み、三人は映画館へと入った。
「彼女、」
「里佳。妹」
「似てないよ」
「血のつながりなんてさっぱりないからね、義兄弟でもないし、赤の他人。いや、仲間であるけどね。あいつが一番あとに生まれたから妹だというだけ。俺がまともなのはあいつが居たから。変だろ?」
 遼二は笑って加須美を見下ろした。自分に向けられていた柔らかな顔じゃない。新たな顔だ。
「あいつに会う前、本気で何もかも面白くなかったんだ。女と付き合っても、けんかしても、そんな時純也が連れて来た。喧嘩して顔のはれた俺に、真剣に心配して、喧嘩なんかするなって命令した。見てて痛いのは嫌だって、そんなに痛いことが好きなら、あたしが叩いてあげるって、馬鹿だろ、でもおかげで喧嘩はしなくなったし、女と遊ぶのも制限できてた。とりあえずね、でもあいつは俺の彼女になんかならないんだ。なれないんだよ、俺は変態だからってさ」
 遼二の乾いた笑いが、きっと里佳を好きなんだと思えた。
「映画、見る? それともどっか行く?」
「みんなと来たんでしょ、あたしは、別に帰ってもいいし、」
「せっかく逢えたのに、……、先輩が帰りたいというのなら引止めはしないけど、」
 少しすねたように顔を背ける。しょうがない、付き合ってあげる。そう言ってしまいそうな顔をする。
 だが、まだ後ろには顔見知りが立っている。
「大丈夫、守るよ、里佳と同じように、里佳とは別に」
 加須美が遼二へと顔をあげる。
 気付いているのだ、後ろに居る連中が加須美を睨んでいることなど。
「でも、いいわ。友達と楽しくね、じゃぁね」
 加須美はその場を立ち去る。追いかけてきて欲しいが、あの取り巻き立ちに纏われるのはごめんだ。
 横断歩道を走り渡る。ビル風がスカートの裾を揺らす。
「あと少し短ければな」
 勢いよく振り返って、加須美は鼻を打つ。
「ごめん、大丈夫?」
 遼二が顔を覗き込むように屈んでくる。
「友達、」
「大丈夫、里佳は察したみたいだから、外に居ろって言ったんだし、もしあのまま中に入ったら、里佳に今度はどやされる」
 遼二は煩そうな顔をする。
「里佳さんに言われるから?」
「さん? せめてちゃんでいいよ、てか、呼び捨てでいいよ。あれは」
 遼二はそう言って加須美の腕を掴んで走り出した。
 すっと腕を撫でて握られて手。走るのは、あの取り巻きたちから逃げるようだった。
 立ち止まったのはマックの裏手で、店員がごみを捨てに来る以外は誰も来ないような場所だった。
「しつけー、あいつら」
 遼二はぜいぜい言っている加須美を見下ろす。
「ごめん、大丈夫?」
 加須美は首を横に振り、深呼吸をして息を整えた。
 遼二が心配して近づけてきた顔があと二十センチの隙間を生む。
 加須美は少し俯き、前髪の隙間から遼二のあごの稜線を見る。
「放っておいてくれたら、こんな目には合わなかったんだけど」
 心にもない迷惑事が口をついて出る。
 遼二の申し訳ないような目が地面に伏せる。
「ごめん、つい、一緒に居たかったから。…、じゃぁ、ここから俺出るから、五分したら出て、帰れると思う……、ごめん」
 遼二が路地を出て行こうとする手を加須美が掴んだ。
 遼二がゆっくり振り返る。
 息が徐々に収まっていく。
 [you get mail]
 遼二が加須美の手を振り解き、笑顔で手を振って走っていった。
 加須美は携帯を鞄から取り出す。
 吉岡からのメールだ。
 「チョー面白い顔」
 変な顔で写されたあの隣人の写真。
 こんな写真のために遼二は手を振り解いて帰って行った。
 また逢えたのに、一緒に居たかったと言ってくれたのに、こんな変な、見知らぬ男の顔のために……。
 加須美は携帯を壊しそうなほど握り締め、息をついて返信を返す。
 「変な顔 楽しそうだね こっちは」
 あんたの所為で、彼は多分、あの人たちに捕まったか、仲間の元に帰れたか、どの道もう戻ってこないのに。
 「いい天気だよ 干したての布団に寝てた」
 嘘つき。
 加須美は携帯を鞄にしのべた。
 込み入ったビルの間の小さなスペース。そこから見上げる空はまるで写真ほどの大きさしか見えない。遠くに小さくある空色。手が届かないのは、遼二も同じだ。
「どうしちゃったのよ、私の彼は、吉岡でしょ?」
 携帯を抱きしめても、吉岡からの気持ちを知る術は伝わってこない。

「言ってやろうか?」
「何を?」
 昼間の着信にみどりが夜、電話を掛けて来た。
 風呂上りで濡れた髪をタオルで乾かす。
「あんたが周りに居ると、かき乱されて、遠距離が続かないって」
「そんな事言わないでよ、あたし一人がそう思ってるだけで、向こうは、」
「じゃなかったら、会いたいだの一緒に居たいだの言わないでしょ、」
「でも、」
「あんた、吉岡が好きなんでしょ? 何ふらついてんの?」
「ふらついてなんかないよ、ただ、言われたことないことばかり言われて、嬉しくて、」
「それがふらついているというのよ」
「でも、みどりだって言われたら嬉しくない?」
「悪いね、彼氏なんぞ居ないよ」
「でも、」
「解かるよ、そりゃ。吉岡がそういうこと言わないタイプだということもさ」
「言わないかな?」
「多分ね、まぁ、GWごろには帰ってくるんでしょ? そん時言うかどうかじゃない?」
 加須美は頷いた。GWなんて、まだ二ヶ月も先じゃないか。
「まぁ、それまで、極力逢わないことだね、リョウ君には」
 加須美はみどりが呼ぶ「リョウ君」に抵抗があった。他のみんなもそう呼ぶ。あの子、里佳はリョウちゃんと呼んでいた。自分はそのどれもを呼べない。名前で呼ぶと、特別視をしそうな気がした。向こうが「先輩」と呼ぶ以上、こちらも名前では呼ばない。なぜそうこだわるのか自分でも不思議だったが、区切りのような気もしている。

 加須美はみどりの意見に同意し、できる限り繁華街に出て行くことを避けた。
 そして入学式。ピンクの淡いスーツを着て大学に向かう。
 高校の入学式も同じようだった。真新しい制服が高校へと入る。ほんの二週間ほど前まで居た学校。でももう、そこへ足を踏み入れることは出来ない。
 加須美が大学へ入ろうとしたとき、後ろから「先輩」という声が聞こえた。振り返れば女生徒が新しい三年の女子に話しかけている。
 先輩は、先輩だ。加須美は苦笑いを浮かべる。
 式は単調に終わる。キャンパスには人が多く溢れていた。加須美はその中を歩くたびにいろいろな誘いを受けた。
 ようやく校門にたどり着いたときには、式が終わってから一時間もあとだった。
「やっと、でられた」
 ため息をつく加須美の前に手が差し出される。
 顔を上げると遼二が立っていた。まだ高校の制服を着ているからに、少し恥ずかしさを感じる。
「おめでとう」
「ありがとう、学校は?」
「終わり、今からどうする?」
「今から、その、」
 [You get mail]
「携帯、」
 遼二が鞄を指差す。
 加須美は鞄から携帯を取り出す。吉岡からのメールだ。
 「入学おめでとう! 俺は今済んだ俺映画好きだったじゃんだから映研に入った 今から早速歓迎会に行く」
 加須美は携帯を閉じた。
「彼?」
 加須美は頷く。
「向こうも今日が入学式?」
「そうみたい、映研に入ったって」
「先輩は? 何か入った?」
 加須美は首を横に振る。
「高校生の彼氏だってさ」
 通り過ぎる男の声。
「でも、かっこいい感じ」
 後ろで聞こえる声。
「忙しそうだから、俺行くね。暇になったら、マックに居ると思うから」
 加須美が頷くと、遼二は優しく笑い、
「ほんと、おめでとう」
 と歩き出した。
 加須美は携帯を開いて返信を打つ。
 「映画が好きなんて知らなかった。あたしは何の部にも入らないことにした。勉強して余裕が出来たら考えようかなって思う」
 加須美のメールの返事は翌日の昼過ぎに来た。
 「ごめん、昨日誘われるまま飲んでてちょー気持ち悪くって今起きた」
 昼休みには食堂や、売店には高校では考えられないほどの種類で充実していた。それでも、加須美は母親特性の弁当を持って、いつかあそこで食べたいと思っていた大学の裏手にある桜並木へと向かった。川沿いに桜が植えている道路を見渡せる中庭には、やはりそこで食べたいと思っていたらしい生徒や、上級生がすでに居た。
 風が頬を撫でて過ぎる。桜の花が風に舞い、自然と空に目が向く。
 あの小さな空を思い出した。
「先輩」
 自転車のブレーキ音。顔を道路に向ければ遼二が学校を抜け出して、近くのコンビニに弁当を買いに出てきている姿があった。
「何してるの?」
 まるで母親のような叱り方だ。
 遼二は首をすくめ、弁当を指差す。
「あ、彼氏は、元気だって?」
「あ……、歓迎会で飲みすぎたって」
「無理すると急性アル中になるって注意しなきゃね、あ、そうだ、これあげる」
 遼二はフェンスを越えて大福を放り投げた。加須美が受け取ると笑顔で走り去った。
「豆大福……」

「それでさぁ、部長って言うのが、変わりもんでさぁ、マトリックス主義とか言って、エージェントスミスしてんの、そんで、まっつんがさぁ」
 わからない……。
 電話の向こうで吉岡は、吉岡なりに精一杯の言葉で説明している。でも、誰がどうしても笑えない。
「なんか、元気ない?」
 十分経っていた。加須美の返事が重いことにやっと気付いたようだった。
「そんなことないよ、ちょっと、解からないから、」
「あ、そうかぁ、加須美は映画見ないんだっけ?」
「そんなことは、」
「まぁ、でもさぁ、すんげー面白いんだ。いい大学入ったって感じ」
「そう……」
 吉岡の話は続いた。
 耳鳴りのように名前が出てくるが、誰一人として知らない。映画の話も解からない。解かるのは、吉岡が充実して楽しいということだけ。

「いいじゃん、元気で、楽しんでいたら、向こう行ってしょげて、元気ないよりは、楽しんでるって言うのはいいことだと思うよ」
 加須美はまたフェンス越しに遼二と逢っていた。
 元気のない加須美に遼二は優しく話を聞き出し、そしてそう言った。
 加須美の中で何かが鬱積する。自分を振り回す遼二に対する怒りなのか、吉岡だけ楽しんでいることへの嫉妬か、とにかく、面白くない。
「つまんないとか、もう学校行きたくない。って言われて心配するより、いいんじゃない? そりゃ、先輩が寂しいと思う気持ちは解からんでもないけど、でも、相手が楽しいと思ってたら、嬉しくならない? 苦痛で居るより」
「私の気持ちなんて解かるはずないでしょ、君に、」
 加須美は言って黙った。自分が振り回されているだけのくせに、ずっと吉岡さえ見ていればこんな思いをしなかっただろうし、今こうして遼二とフェンス越しに話もしないだろう。
「確かに。でも、俺だったら、相手が幸せだと嬉しい。今は、窮屈だけど」
 小さな声だった。フェンスを掴んでいる加須美の手を握ってすぐ、
「じゃぁ、帰る。山ブタが煩いからさ」
 加須美は少し笑った。まだ彼女はそう呼ばれているのだ。音楽の教師で映と指導部の山藤先生。体格は丸くて、いつも文句を言っているから山ブタ。
「先輩は、笑ったほうがいいよ。笑わないと、難しい人に見える」
「難しい人よ、あたし」
「そんなことないよ、かわいい人だよ。じゃぁ」
 遼二が去っていく。
 フェンスに頭をつけ見送る。

 そのうち、遼二はフェンス向こうで座り、加須美もフェンスにもたれて昼食をとるようになっていた。
「どうしたの、眼鏡」
「ああ、これ? 最近好きになったからちょいとかけてみた。伊達。いいね、眼鏡越しの空って、絵を見てるみたいで、」
 遼二は笑って空を見上げる。
 加須美はそう思ったことがない空を見上げる。
「GWには帰ってくるって」
「二ヶ月ぶり?」
 二人とも空を見上げたままで居る。
 フェンス越しに体重が背中に感じられる。
「…、近くね」
「じゃぁ、篠山って知ってる?」
「この北にある山?」
「そう、そこにいい感じの公園があるんだよ、」
「公園?」
「その近くにバイクのコースがあるんだけど、まぁ、それは良しとして、その公園に藤棚があって、五月ごろ最高に見頃なんだって、行ってみたら? 近いし、弁当持ってさ」「誘ってみる」
 遼二は笑顔で頷いた。
 [you get mail]
「また写真、」
「写真?」
 加須美はそれを見せる。
「映研の仲間」
 と書かれたそこに、男五人に女が三人映っていた。この前の、映画一緒に見よう会に一人だけ居た子が居る。
「楽しそうじゃん、」
「ほんと、あたしは授業に追いつくので精一杯なのに、あ、」
「俺、もう行かなきゃ、」
 話さなきゃ。
 と思うが加須美の口は動かない。遼二は手を振って帰っていく。

「猪瀬さん、」
 大学の廊下を歩いているところを呼び止められた。
「あの、高校生の彼氏だけど、」
「あれは友達、彼は東京に居るけど、」
「じゃぁ、紹介して、高校生のくせにちょーセクシーじゃない」
「はぁ、でも、どうかな、聞いてみるけど」
 断るはず。でも遼二は予想に反して
「先輩の頼みなら」
 と逢うことを引き受けた。

 何で断らないのよ。
 風呂上りに居間でがしがしと頭を拭く。
 あたしは頼んでないのに。だが、話を持ち出せば、頼み事になるのかもしれない。
 加須美は時計を見た。時計は八時を指している。多分、まだ合コン中だ。
 携帯を取り上げる。
「あたし、番号、知らない……。知ってても、何で連絡するのよ」
 登録のない名前、自分も教えていないのだから、知らなくてもおかしくない。
 [you get mail]
 吉岡からだった。
 「今日も飲み会!」
 写真が送られて来た。数人の男と、一人だけ居るの女。
 「いい感じに飲んでるね、あたしは家で一人さ」
 加須美はすべてを消して携帯を机に置いた。
 みんな勝手に楽しんで、あたしは一人家に居るのに。
 勝手な文句だと解かっていても、加須美は膨れてソファーに体を預けた。

 翌日。大学の廊下に遼二を紹介した彼女たちが立っていた。
「猪瀬さん、」
 かなり怒っているような口調だ。
「行かなかったの? 彼?」
「来たわよ、でも、ぜんぜん面白くないの、ずっと黙ってて、カラオケ行っても歌わないし、全員で押し倒そうかって意気込んだのになんか乗り悪くって、」
「……、高校生だから、大人ばかりに驚いたんじゃないの?」
「そんなんじゃないわね、完全に馬鹿にしてたよね、」
「そうそう、ときどき物凄く冷たい笑いをするの、お前ら馬鹿だなって言わなかったけど、なんかちょーむかつく」
 加須美は眉をひそめた。

「だって、本当に面白くなかったから」
 遼二はそう言ってフェンスにもたれパンをかじっている。
「面白くなかったって、じゃぁ、行かなきゃいいじゃない」
「先輩の頼みだから」
「頼みだからって、嫌なら断ればいいじゃない。嫌だって、」
「嫌だって、……、言えないよ、言ったら、楽だけど」
 最後の一言は加須美には聞こえなかった。
 遼二はパンを咀嚼して空を仰いだ。
 東京に行ったあいつのことなんか忘れろよ、嫌なんだ、あいつのほうを見てる先輩を見るの。そう言えたら、どれだけ楽か。でも、言えば、困らせる。彼女は、あいつが好きなんだから。
 
「一ヶ月に一万」
 里佳がぼそっと呟いた。
 遼二の家にいつもの様に集まっている。
 遼二はテレビの側に座りゲームをして、里佳たちに背中を向けている。
「じゃぁ、一週間に一万」
 槇が笑って里佳の側に座る。
「一日に一万」
 純也の声に遼二がすごむような目で振り返る。
「何やってんだ?」
「あと何日禁欲するか」
 里佳の言葉に呆れたが、ふと考える。
 加須美に会ってからこっち誰とも何もしてない。前なら二日空けばノイローゼになった気がしたが、すでに二ヶ月何もない。
「忘れてた」
 遼二の言葉に全員が呆れて見返す。
「性欲のリョウちゃんがどうした?」
 槇が茶化すように言うと、遼二も首を傾げて笑う。
「その人のこと、すんごーく好きなんだね」
 里佳の言葉のあと、テレビからゲームオーバーの音がなる。
「好きでも、好きになってもらえないから」
「彼氏が居るんだっけ?」
「GWに帰ってくるらしい」
「東京に行って、新しい女とか出来そうだけどな」
「そうなったら、先輩が悲しむ」
「そうなったら付き合えるじゃないか」
 槇の言葉に遼二はあからさまに嫌そうな顔を向ける。
「そんなことで俺を見て欲しくない」
「マジだ」
 槇は笑ってそう言って天井を見上げた。
 里佳と知り合う前は、こういう時タバコの煙が立ち昇った。今は里佳が無理やり禁煙させたおかげで、この部屋でタバコの匂いはない。でも、こういうときはタバコが似合う気がする。
「つらいね、好きなのに、そばに居られないのって、」
「ああ、フェンスが、いっつも邪魔してる。ただの金網のくせに」
 遼二はコントローラーを放り出しその場に寝転んだ。
 空が見える。初夏の空は霞んでいて、風も涼しくて、心地いい。

 GWは明日からだ。今年は一週間も休みがある。みんなが浮かれている中、遼二はいつものように大学のフェンスへと足が重い感じを受けながら向かった。
「帰ってきた?」
 加須美はすでにそこに居て、弁当を食べていた。
「今日の夜だって、」
「楽しみだね」
 加須美は頷いて弁当を食べる。
「公園、行きなよ、あそこ、マジいいから」
 加須美は頷くだけだった。
 昨日の夜やっと帰る時間を知らせて来た。それまでずっと、今日何があったということの羅列だけに、加須美は返事をするのも億劫だった。
「休みはどうするの?」
「あ、多分、みんなと一緒、」
「里佳さん?」
「多分ね、あいつんちもどっかに行こうという家じゃないから」
「そう、」
 里佳の話をすると遼二の顔が緩む気がする。気の所為だと言われても、―こいつは俺たちの大事な女で、これに手を出したらどうなるか―あの言葉が耳から離れない。
「―好きなんだ」
 加須美はドキッと胸を掴まれる様に遼二のほうを見た。
「里佳、あれが好きなんだ、よく解からんけど」
 と遼二が指差しているのは、店の前に立てられた幟で、春マンの広告が載っていた。
「春マン?」
「いや、幟。あれがひらひらするのが好きなんだって、あれを見てるのが好きで飽きないらしい、変だろ、あいつ」
 遼二が鼻で笑い、幟を見つめる。
 優しい目、怖い顔。里佳に向けてならそういう顔をするんだ。あたしにはいつも柔らかい、でも時々哀れむような顔をするのに。遠距離はかわいそうだって顔……。

 GW初日。天気晴れ。
 吉岡が家に迎えに来た。少しすっきり見える。垢抜けたと言うのかは解からないが、とにかく二ヶ月前に卒業したときのあの吉岡では無い気がした。
 遼二に教えてもらった公園に来ていた。
 確かに藤棚の藤が満開で、あたり一面薄紫がかっていた。
「コンタクトにしたら? メガネって今時どうかな」
「え?」
「コンタクト。俺もしたし、」
「だね、なんかすっきりしてるから、」
「何でもっと早くしなかったのか不思議なくらい、世界がぜんぜん違うんだよ。せっかくいいものがあるんだからさ、したら?」
「考えとく、」
「で、加須美はどう?」
「どうって?」
「いろいろ」
「いろいろ?」
「そう、なんか変わった?」
「……何も」
「そう、でも、なんか二ヶ月ぐらいだけど、すんげー懐かしい。変わってないなぁって感じ」
「二ヶ月じゃぁね、」
「俺は変わったぞ、脚本書いてんだ、今」
「勉強は?」
「それもしながら、すんげー面白いのな、ちょっとトリックとかに説得力無いってよく北沢に言われるんだけど、でも、書くのってこれほど面白いのかって感じ」
「サスペンス?」
「サイコミステリだな、恐怖の中に心理的ミステリをふんだんに入れるんだ。そういう点では北沢は巧いんだよ、女のくせに」
「女、」
「ああ、唯一飲み会全部出席する酒豪。これかかなり飲むんだよ、で、しらふ。俺ヒッチコック好きなんだけど、北沢も好きでさぁ、お互い裏窓がすんげー好きで、あのシーンはどうとかって話すんだ、話しが合うんだよな」
 吉岡は楽しそうに話を続けている。
 横に並んで歩いている加須美の表情などまったく無視しているようだった。
「で、ここに来てどうすんの?」
「え?」
「何も無いじゃん、ここ」
「あ、そうだね、うん」
 藤があるじゃないか。綺麗に整備されて、お弁当を持ってきて食べるにはいい場所じゃないか。
「お弁当、」
「あ、俺さぁ、和屋のマーボー丼食いてぇ」
「あ、好き、だったね、あそこ」
「すんげー好き、行こうか?」
 加須美は弁当のバスケットを後ろ手に持ち頷いた。
 バスケットに弁当が入っているのが見えないのだろうか? ここにくれば、弁当持参だと気付かないだろうか?
 和屋は商店街の中にある定職屋で、昼はサラリーマンとかで混む。だがGWだからなのか客の数はまばらだった。
「で、まっつんがビールをジョッキで飲み干すと、北沢がそのジョッキに日本酒入れて飲むんだよ、もうサイコー」
 吉岡の話はまだ続いていた。出てくる人を整理するまもなく、吉岡は楽しそうに話す。
 加須美は相槌ぐらいしか打っていない。
 マーボー丼と、アイスコーヒー。
「食べないの?」
「あ、うん。ダイエット」
「へぇ、大変だな」
 加須美は頷いた。
「で、部長が今度ラブコメを見るとか言い出してさぁ、俺そっち苦手。とか言うと北沢も苦手で、部長と大喧嘩、いろんなものも見なきゃいけないとか言い出してさぁ、食わず嫌いなだけだとかさ。まったく横暴って言うんだよな。見たくないものは見たくないってーの。なぁ?」
 加須美は頷く。
 吉岡はため終わるとどんぶりに端を渡し、ため息をついた。
「腹いっぱい。じゃぁ、気をつけて帰れよ」
「え?」
「なんかしんどそうじゃん、無理すんなって、俺ならさ、西川たちとも合いたいし」
 吉岡は伝票を持ってレジに行き、気をつけて帰れよ。ともう一度言って出て行った。加須美のアイスコーヒーはまだ半分も残っていた。
 加須美は一人で店を出た。
 GW中にそこに居るとは思えないが、遼二が待っていたマックに行く。
「あ、先輩さん」
 声に見れば里佳が立っていた。
「あ、えっと、」
「一人?」
 加須美は里佳の側に近づく。
「あ、いや、リョウちゃんとかと、と、と、と、えっと」
「みんなと一緒ってこと?」
「あ、聞いてます? 篠山のレース場に居るんです。で、あたしは買出し係で、あ、聞いてないですね」
「お弁当があるんだけど、もらってくれない?」
「はぁ?」
「無駄になったから」
 里佳は加須美の目をじっと見入って、
「じゃぁ、遠慮なく、でもちょっと待っててください、飲み物買ってきます」
 そう言って挙手をしてマックに入り、両手に袋を下げて出て来た。
「受け取りたいんですが、両手ふさがってるんで、できれば持ってきてもらえますか? すみません」
 里佳は首をすくめる。
 加須美は頷いて里佳と一緒に篠山へと向かった。
「向こうへ行けば公園があって、藤棚が今頃綺麗なんですよね、」
「行ってきた」
「綺麗だったでしょ? あたし大好き、あそこ。向こうに行けば池があるんですよ、夏は涼しいんですけど、まだちょいと寒いかな。で、こっちにレース場があるんですけどね」
 そういう道を里佳のあとについて行く。軽トラやワンボックスカーが数台停まっていて、十人ぐらいの男ばかりがコースのほうを見ている。
「今誰が走ってる?」
「あ? ああ、里佳ちゃん、今ちょうどリョウに変わったとこ」
「だって、」
 里佳が加須美を振り返る。
 加須美は里佳が開けた隙間からコースを見た。白地に青い線の入ったスーツを見た人が銀色に光るバイクに跨っている。
「相変わらずコーナリングうまいなぁ、」
「下手すりゃこけるのにさ」
「ぎりぎりにするの好きだよな、あいつ」
 バイクが走りこんで来た。
 ドック前で三週目、あと七週。
 長い髪が揺れてそれを抑えながら加須美が見ている姿が目に入った。
 ドックあけてすぐのカーブ。一瞬の落ち度でコーナーを曲がりそこね横転したまま滑るバイクに引っ張られる。
 どさ
 枯れ草の車体止めに体当たりする。
 加須美は思わずバスケットを落とし、口を塞いだ。
「リョウちゃん!」
 里佳が出て行くのを純也が止め、臣人と槇が走り寄る。
 枯れ草から遼二が自力で出てきて頭を振っている。
「大丈夫か?」
「あ、あぁ」
「リョウちゃん?」
 里佳の声に遼二は手を上げる。
「よかったぁ、珍しいよねすっ転ぶなんて、驚いちゃった」
「結構マジで驚いた」
 遼二のバイクを回収し、チームは他のチームに走行を譲って駐車場に出て来ていた。
「三時からだってさ」
 純也が次の走行順番を聞いて帰って来た。
「しょうがない、三時からまた位置からやり直しだ」
 臣人の言葉に遼二は首をすくめる。
「わりぃ」
「いいよ、その代わりいいものにありつけたし、あ、俺、槇ね。こっちは臣君。あれはジュン。これは里佳」
「猪瀬です」
「旨そう」
 槇と里佳は遠慮なくバスケットの中のサンドウィッチを取って食べ始める。そのあとで、純也と臣人が手をつける。
「彼は?」
「逢ったよ」
「これ、」
「一緒に食べるつもりで作ったけど、彼はマーボー丼の方が食べたかったって、なんかせっかく作ったのにって顔してたら、俺、友達と会うからって帰っちゃった」
 加須美は笑って顔を上げると、遼二の切なそうな顔が見ている。
「哀れまないで、別に弁当ぐらい、」
「哀れんじゃいないさ」
 遼二は俯いた。
 槇がバスケットのふたを閉め、それぞれがそれぞれのジュースを持って立ち上がる。
「向こうで食べる。ここ、日が当たらないから」
 里佳の言葉に加須美が引きとめようと手を上げるのと、
「せっかく、一緒に居られるのに、何考えてんだ、そいつ」
 遼二が呟いたのと一緒だった。
「いいんだって、関係ないでしょ」
「女の友達ならきっと、一緒に居たかったでしょ? と言われたら頷けるんじゃない?相手が俺だから頷けないだけで、久し振りにあった彼女を置いて、その彼女が弁当作ってきてるのに食べないなんて、」
「だから、君には関係ないって、」
「関係ないさ、あいつがどう言おうと、あいつがどんなこと先輩にしようと、でも、先輩を悲しませる奴はどんな奴だって許せない。そうでなくても遠距離なんて負荷がありすぎるのに、寂しがらせてると思えば、絶対に、俺なら、」
 遼二は唇をかみ締めた。
 里佳たちは遠くに居るから声は聞こえないだろうが、ずっとこちらを気にしている。
 遼二がすっと立ち上がる。
「言ってくる」
「え?」
「リョウ!」
 槇が近づいて来た。
「行くなよ」
「放っとけ」
「馬鹿か? お前が行ってどうなる? お前が行くことで先輩が怪しまれるだろ? そっちはどうなんだって、この二ヶ月で他に男見つけてるじゃないかって、そんなこと言わせたら、お前、これ以上先輩が悲しむだろう?」
 遼二は槇を睨む。
「俺ならいくらでも睨んでいいけど、お前が出て行く場合じゃないぞ」
 加須美は二人を見上げていた。
 遼二はどすんと腰を下ろした。
「あ、だから、いいんだって、GWなんて短いものなんだし、その間に友達とか似合いたいのもわかるから」
「あたしは、好きな人と居たい」
 里佳が向こうでそう言った。
 加須美が里佳のほうを見る。里佳がにこっと笑い、
「あたしなら、どれだけ友達と会いたいといわれても、一緒に居たいって駄々こねる。とはいえ、そういう奴は居ないけどね」
「でも、久し振りに、休みなんか短いんだぜ、これで夏休みまで連休がないなら、友達とも遊びたいじゃん」
 純也の言葉に里佳は口を尖らせる。
「俺は、ずっと彼女の側に居る。でも、俺は俺であって、その彼氏じゃないから、そりゃわかんない」
 槇はそう言って加須美に微笑みかける。
「先輩は言わないからさ、一緒に居てと、言えばいいのさ、言わなきゃ、わかんないんだよ、そいつ」
 遼二は俯いてそう言った。
「言ったことないもの」
「言って欲しかったんじゃないかな?」
 遼二は笑顔を繕って顔を上げた。
「わがまま言って欲しかったんじゃないかな、本当は、」
「それはないと、」
「いや、そうかもしれないって」
 遼二は納得したように頷き、立ち上がって里佳たちのほうへと歩き出した。
「案外、探してるかもしれないよ、言ってみたら? 一緒に居たいって、」
 遼二は手を振ってそのままドック内に消えた。
「バスケット、またいずれリョウに返しに行かします」
 槇の言葉に加須美は立たざるを得なくなった。
「あの、あたし」
「リョウの言うように、わがまま言ってみたら、本当に気付いていないのかもしれないから。言わなきゃ、誰も気付いちゃくれないよ。ほんと。側に居てあげたいけど、それよりはリョウの側に居てやりたいんだ、ごめんね」
 槇もドックに入る。里佳たちも黙って入っていった。
 藤の花びらがここまで風に運ばれて舞っている。
 年下に慰められるなんて……。
 加須美は誰も居なくなった駐車場から立ち去る。
 公園の坂を下る。道は藤の花びらが敷き詰められていた。吉岡と同じ道を歩いたときには気付かなかった。今は、俯いているからすごく気付く。

 翌日吉岡から電話はなかった。
 加須美は携帯を握り締めたままベットに腰掛けていた。
 友達と会っているのだ、電話のない理由も解かる。でも……、
 GW中日。雨が降っていた。
 加須美は吉岡に電話をした。
「もしもし、北沢?」
「え?」北沢って、……。
「あ、ああ加須美? どうした?」
「今日だけど、」
「ああ、今日は中沢たちと、」
「一緒に居て」
「はぁ?」
「うちに来て、一緒に居て?」
 吉岡は来た。珍しそうな顔でやって来た。
「病気か何かかと思った」
「ごめん、わがまま言って、」
「ほんと、らしくないことするから、」
 吉岡は、だから雨が降ったんだ。と言わんばかりに窓の外を見た。
 勉強机の椅子に座り、部屋を見渡してる。
「こざっぱりした部屋」
「あ、今日は、どうする気だった?」
「あ? ああ、中沢たちとボーリング。なんかすんげー珍しいから、こっちに行ってみるって、断った」
「ありがとう」
「いいって、で、どうした?」
「どうって、別に、ただ、一緒に居たかっただけ」
 吉岡は適当な返事をして机の上の本をチラッとめくった。
「まじめだよな、」
「医者になりたいから」
「ああ、そうだった。俺、半ば挫折かな。今は映画のほうが興味あってさ、」
「脚本、書いてるんだったよね?」
「ああ、」
「部活、楽しい?」
「まぁな」
 いつもならこれから話が続くのに吉岡は黙った。
「今日は、話さないんだね、」
「話すようなことじゃないし、」
「でも、そう、面白い部長さんなんでしょ?」
「そうでもない、」
 吉岡の中で、いろんな友達に話して聞かせた所為で、誰かに話したいと思う欲求が消化されたようだ。いまさら一から加須美に話さなくても欲求は満たされてしまったようだ。
「北沢さんも、映画好きなんだよね?」
「北沢? ああ、映研部だからな、…、なぁ、することないならさぁ、今からでも中沢たちとボーリング行くか?」
「暇?」
「……、というか、なんか、息苦しいというか、お前の親居るじゃん、」
 吉岡は下を指差す。
「あんま、大声とか出せないし、気、使うし」
「でも、お昼用意して、」
「マジ? 俺、あんまそういうとこでメシ食うのやなんだよなぁ。気を使わなきゃいけないし、なんか話しなきゃいけないしさぁ」
 加須美は黙って吉岡の顔を見た。
 こういう人だったっけ? そもそも、彼のことを知っていたのだろうか? 自分の知らない吉岡ばかりが出てくる。
「ねぇ、あたしたち、付き合ってた?」
「付き合ってた。と思うぞ。まぁ、高校生のかわいい付き合いだと思う。だって、学校じゃぁお互い友達とかと一緒で、放課後に図書館に居ただけ、帰りは別だったし、純粋だったなぁ、あのころは」
 思い出に浸るような吉岡に、加須美はため息を落とした。
「中沢君たちのところ行っていいよ」
「じゃぁ、行こうか?」
 吉岡はすぐに立ち上がった。
 加須美は首を振り、
「昼から友達と会うの」
「あ、そう、じゃぁ、行くは」
 吉岡は立ち上がり、加須美を待たずに部屋をでた。階段を下りる音。
「お邪魔しました、」
「あ、お昼は?」
「なんか、用があるらしくって、俺、帰ります」
 そっけない応答。
 階段を下りてきた加須美を見上げる母親の顔。
「じゃぁ」
 一瞬、ちらりと振り返る顔。
 加須美が玄関を下りる前に閉まる扉。
 扉を押し開けると、吉岡はすぐに会話を始めた。
「あ、俺、そう、行ったらさぁ、なんか暇で、今からでもボーリングやりに行こうぜ。ああ、急にしおらしい事言うからすんげー期待したけど、親が居ちゃぁ手がだせねぇしな。そうそう、んーじゃぁ、今から行」
 暇……?
 吉岡は加須美がでてきたことにも気付かないほどに、自転車に跨り走り去った。
 扉を閉める。
「昼、食べるんじゃなかったの?」
「うん、用があるって……」
 加須美は母親の顔を見ずに階段を駆け上がった。

 ボーリング場はごった返していた。さすがにGW中だけある。
 吉岡たちは手すりに座って開くのを待っていた。どうやら、8レーンが開いたようだ。
「あ、」
 その中の一人の声に吉岡が反応する。
 背が高くて、男が見ても美人だと思える遼二の姿があった。
「先輩、一人っすか?」
「ああ、何で?」
 こいつと話していると劣等感が生まれてくるから、物凄く腹立たしい気分になる。
「いや、彼女、すんげー先輩に会うの楽しみにしてたから、一緒に居られるとか言って、」
「居たよ、さっきまで、でも友達と会うんだとか言ってた。一緒に居たいの。って言って来てさ、あいつらしくないなぁとか思っちゃったよ」
「で、どうしたよ、そのあと、」
「でも、母親が居たからさ、なぁんも」
「しらけんな、親が居るのに呼ぶなって感じ」
 吉岡は友達との会話に戻った。
 遼二の腕を槇が引っ張る。
「行くぞ」
 ボーリング場を出る。
「行くなら言って来い、あんな思われかたしてたらきっと彼女は傷ついてる」
「行って、慰めて、弱みにつけこむみたいじゃんか」
「そうお前が思わなきゃいいんだよ、」
 槇はそう言って遼二の肩を軽く殴った。
 遼二は微笑して走り出した。

 玄関の扉を開けると、遼二が立っていた。
「あれ? 居たんだ」
 遼二の言葉に加須美は眉をひそめる。
「彼氏と出かけてるかと思って、じゃぁ、足りなくなるなぁ、ケーキ」
「ケーキ?」
「この前メシご馳走になったから、お礼しに来たんだけど。居るとは思ってなかったから、」
 そう言ってケーキの箱を加須美に差し出す。
「あら、遼二君、」
「どうもです、お礼しに来たんですけど、先輩居るんじゃ、彼氏にどやされるんで帰りますね」
「いいのよ、」
 母親が即答した。加須美が振り返るのを無視して母親は笑顔で続ける。
「せっかく作った料理も無駄になるところだったの、お昼どうせまだでしょ、食べない?」
「いや、またお礼が、今月遊びすぎですでにピンチなんすけどね」
「いいのよ、食べてくれるほうが嬉しいんだもの、さ、加須美そこ退いて中に入れてあげて」
 加須美は一歩下がった。
「一緒に居たいって、」
 遼二が聞く前に加須美は居間に入って行った。
 遼二は上がると居間へと入った。
「お客だったんですか?」
「いいのよ、どうぞ」
 母親はにこやかに食事を用意した。
 遼二はおとなしく箸を握り口を動かす。
「食べてきたあと?」
「いや、あんまりかっつくと、卑しいかと……、というか、無理」
 遼二は相変わらず豪快に口にものを放り込み始めた。
「やっぱ、旨いっす」
 遼二の食べっぷりはいつ見ても気持ちよかった。母親じゃなくても、つい笑顔になる。
 加須美はそれを振り切るように居間を出る。
「食べないの?」
「気分、悪い」
「ちょっと、遼二君の、」
「いいですよ、俺も、今日は先輩に会いに来たわけじゃないから」
 加須美は階段を駆け上がる。
「ごめんなさいね、彼氏が来るまではそわそわしてたんだけど、すぐに帰ったのよ、喧嘩したのか何なのか、一時間も居なかったと思うわよ。そっけない子で、昼を用意してるって言ったのに、要らないって、用があるならしょうがないけど、でも、何かねぇ」
「まぁ、いろんな人が居るから」
「加須美がね、ああいうインテリっぽい子、頭はよさそうに見えたのよ、あ、遼二君が見えないわけじゃないけどね」
「大丈夫っす、頭はよくないすから」
 遼二の微笑に母親は苦笑いをする。
「父親が技術部長だったのよ、まだ二十五歳で、頭がいい人だった。だから、そういう人を好きになるのかもしれない。でも、あの人はそれだけじゃなかった。加須美にはまだそれがわかる前だったから、見た目でしか選べないのかもしれないわ。あの子は、私あまり好きじゃないわ」
「…、お母さんがそんなこと言ったら、先輩の味方は誰も居なくなりますよ、そう思っていても応援してあげないと、先輩のお母さんなんだから」
「……遼二君は、優しいわね、本当に」
「嘘つきなだけですよ、俺」

 加須美は床に座って窓から外を見上げていた。
 ―暇だったんだよな、―耳鳴りのする言葉。
「加須美、お母さんでかけてくる」
 加須美は返事をしなかった。
 膝を抱え、暇だったと言った吉岡の声が頭の中を駆け巡っていた。
 ふと耳につく階下の音。
 母親は出かけるといったはずだ。時計だって、二分と進んでいない。
 加須美が戸を開けると、やはり音がする。テレビだと解かるそれに、静かに階段を下りる。
「な、何してるの?」
 遼二がソファーに座ってテレビを見ていた。
「いや、おか、おばさんが紅茶を切らせてたから買ってくるって、出て行って、ケーキお預け状態。テレビでも見ててといわれて……」
 母親が紅茶を切らすことはない。だが、ケーキは皿に乗せてあって、用意されている途中だというのはわかる。
 時計の針がなる。今の時計は何故か秒針がやたらと大きく音を立てる。姿はいいのだが、部屋に置くと耳について寝れないと居間に飾ってあるのだ。
「ボーリング場に居た」
 遼二はそう言ったままテレビを見つめていた。
「知ってる、友達に電話してたから」
「一緒に居たかったんじゃないの?」
「あなたたちがそう言えって言ったんじゃない、」
「だから言ったのか? 自分の意思なんかじゃなく、……じゃぁ、一緒に居たいなんていうなよ、あんな奴なんかと、一緒に居たいなんて、……、悪い、帰る」
 遼二はテレビを消して立ち上がる。
「何よ、都合が悪くなると居なくなる、君の友達も、」
「当たり前じゃん」
 遼二の声がやけに明るい。
 加須美は遼二のほうへ顔を上げた。
 辛そうな、あの哀れみを含んでいるような顔をして俯いている。
「先輩の側にいるのは俺じゃないんだから。それは、先輩が望んだことでしょ?」
 遼二の言葉に加須美は返事を返せない。
 暫く沈黙が続いた。重く、辛い空気を破ったのは、遼二のため息だった。
「ごめん、俺、これ以上居ると、先輩を抱きしめてどうにかなりそうだ、おばさんにはご馳走様って伝えといて、またどっかで逢えると思うから、じゃぁ」
 遼二は加須美の横を通り過ぎた。
 ―どっか出会える―ということは、もう昼休みには来ないということ?
 玄関まで追いかける加須美に、遼二は体ごと振り返り笑顔を見せた。
「今から行っても間に合うんじゃないかな、皆とボーリングするのもいいんじゃない? じゃぁ、ごちそうさま」
 遼二はそう言って玄関を出て行った。
 扉がゆっくり静かに閉まる。扉を押し開けようとするが開かない。
「出てくるなよ、文句言いたいの解かるけど、今言われると、マジ、セーブできねぇから、俺」
 遼二は扉にもたれて開かないようにしている様だった。
 門戸の金の音がする。扉を開けると、遼二が走っていくところだった。
「帰ったのね」
 母の声に加須美は慌てて声の方を見る。
「紅茶、せっかく買ってきたのに」
 買い物袋には本当に紅茶が入っていた。しかも、高級なもので、何かあるときにしか買わない紅茶だ。
「それ高いんでしょ」
「いいの、お土産まで持ってきてくれたのって、遼二君が初めてじゃない? 嬉しかったのにな」
 母はそういい残して家に入った。
 加須美もあとから入れば、母はなんとも寂しげに紅茶を入れていた。
「何落ち込んでるのよ」
「もう、彼は来ないわよ」
 母はそう言ってカップに息を吹きかけた。
 解かってる。
 加須美は床に目を向けてそこに突き刺すような息を吐き出した。

 加須美は家の側の公園に来ていた。子供が多く居て、今日は親子の姿も目に入る。
「GWだからね」
 加須美は一人呟いて、ベンチに腰掛けた。
 遼二と会ったから吉岡が不満に思えるのか、遼二に会わなくても不満に思えたか。吉岡に対して不満を抱いているのか、窮屈すぎる言われもし得ないものに不満なのか、何が不満で、不服で、苦痛なのか解からなくなって来た。
 遼二たちの言葉を借りれば、一緒に居たいと思うのに、居ても楽しいと思えなかった。 時間をもてあまし、はっきりとは言わなかったが、でも、もし母親が居なかったら、吉岡はセックスを求めただろう。すんなり抱かれただろうか? 電話したとき、北沢? と聞き返した吉岡に、すんなり抱かれただろうか?
「加須美?」
 加須美が横を見れば吉岡が立っていた。
「気になって、」
 吉岡が頭を掻きながら横に座った。
「言ったとおり、高校生の付き合いって、結局思ったほど強くなかったんだよあたしたちのって。遠距離してて逢いたくて、一緒に居たいって思うほど吉岡君は思ってなかったみたいだしね」
「それ、あいつに言われたからか?」
「あいつ?」
 加須美が首を傾げると、吉岡の顔が険しく加須美を睨み返した。
「あいつさ、女たらしで、誰でもよくって、自分の顔がいいからって、次々に女捨てていくあの遼二さ」
「彼は関係ないわよ」
 加須美の即答に吉岡は立ち上がる。
「どうだかな、あいつが言ってた、一緒に居たがっていたって、何で知ってんだよ、後輩じゃないか、逢わないだろ、普通、お前もあいつとセックスしたんだろ、適当に遊ばれて捨てられるだけなのに、だから、別れ話かよ、ふざけんな」
「ふざけてんのはどっちよ、関係ないわよ、彼とは」
 加須美も立ち上がり、声を張り上げる。
 吉岡の手が加須美の頬を叩いた。
 沈黙が流れる。
「関係ないわよ。もし比べてるなら、とっくにあんたなんかのこと忘れて、逢いたいなんて思わないわよ。彼はずっと応援してくれたのよ、自分の気持ち押し殺して、素直になれって、一緒に居たいって言ってみたらいいって、一度も、手さえも握られたこともないわよ、彼は、あんたとは違うのよ、お母さんが居ても、暇をもてあましていても、あたしのことを考えてくれて、一緒に居たいって思ってくれる。そんな彼とあんたを比べたら、あんたなんか見向きもしないわよ。でも、ずっと好きで、ずっと待ってたのに、部長さんの話も、映画の話も、北沢さんの話なんかして欲しくなかったの、逢いたいとか、逢えなくて寂しいとか、嘘でも、今からでも帰りたいとか、言って欲しかったの。やっぱり、付き合ってたのって高校卒業と同時に終わってたのかもしれないね。一緒に居て苦痛にさせる私も悪いんだし、好きな人の苦痛な姿は……、見たくないものね」
 遼二が言ってた言葉がわかった。
 遼二が哀れんでいたのは、遠距離恋愛が可愛そうなんじゃなく、遠距離をしていて辛そうな加須美を見て辛かったんだ。
 好きな相手が苦しんでいる姿を見るより、幸せで居る姿を見たい。
 遼二の言葉が胸にしみる。
「何だよ、それ」
 吉岡は逃げるようにその場を走り去った。
 加須美はベンチに腰を下ろした。
 叩かれた頬が痛む。
「どういう理由があるのかわからないけど」
 顔を上げると、葉子がハンカチを濡らして立っていた。
「家に寄る途中だったの。聞こえたから」
 加須美は頷く。
「あの女たらし君?」
「一緒に居たいと思ったから言った。でも暇だって言われた。彼はそれを慰めに来てくれた。でも、八つ当たりして、でも結局自分で解かってた。吉岡君からの電話で、自分の知らないことを話す彼の声がもう嫌だった。同じ会話、同じ時間が付き合っている条件だと思ってたんだよ。それに合わないから、もう、その時点で自分の気持ちはさめてたんだと思う。もし、彼に逢わなかったら、自然消滅という感じだったかもしれない。彼の声が、彼の行動が、吉岡君が好きなくせにって思いを引き止めさせていた気がする。彼のような人が声をかけてくるのは、自分が誰かを好きだからだって、変な理由付けて、あたし、やな奴」
 葉子は加須美の肩を抱いて引き寄せた。
「頭がよくて、義兄さんの血が濃くて屁理屈な所も好き、でも、素直な加須美はもっと好き。吉岡君との恋は終わったのよ。辛かったでしょうけど」
 加須美は頷いた。
 葉子と加須美はそのあと暫くして家に帰った。

 GWが終わってから一ヶ月。梅雨の気配が濃くなってきても遼二は塞いでいた。塞ぐと言っても、ただ暗いだけで、いつもの場所ではゲームをすれば笑うし、くだらない話でも楽しそうに話をする。
 でも時々思い出したように無口になり、じっと空を見つめている。
 意識して大学の昼休みに出かけなければ、やっぱり隣にあるとはいえ加須美とは会わなくなった。
 加須美の噂も聞かないし、学校へ行くことがまた苦痛になって来た。でも、里佳との約束で、学校にだけは行く。というただそれだけで出席していた。
 面白くもない学校を終えると、即効で家に帰ってくる。女をくどく気もないし、口説かれる気もないのだ。
「? 里佳は?」
 急に気付いたように遼二が言うと、槇が首をすくめる。
「お菓子買いに行った。何か居るかって聞いたのに、あいも変わらず雲観察してたろうが」
 槇の嫌味に遼二は肩の力を落とす。
「里佳がころころ笑うと、先輩はくすくす笑ったなと思い出すから、あいつも笑うとこ見たくないんだ」
「なんたる勝手」
 槇は呆れて首を振る。

 里佳は近くのスーパーで買い物籠を下げていた。
 ジュース売り場、菓子売り場、そのたびに誰かがついてきている気配を感じる。また、あの連中の中の誰かのファンだ。
 ああ、やだやだ
 里佳が振り返ると、加須美が立っていた。
「先輩……、」
 買い物を終え、大きな袋を一つ持って里佳と近くの公園に来た。
「すみません、重たいの持たせて」
「いいの、」
 里佳が何か言いたそうな加須美の顔を覗く。
「リョウちゃんに逢いに来てくれたんですか?」
 加須美は黙って里佳の顔を見た。
「なぜ、あなたはそういう言い方が出来るの?」
「そういうって?」
「逢いに来たの? じゃなくて、来てくれたって、」
「だって、先輩の家ってずっと向こうでしょ? この辺りに来るなんて、逢いに来てくれたとしか考えられないじゃないですか」
「そういうことじゃなくて、言い方よ、来たと、来てくれた」
 里佳は首を傾げ暫く考える。
 来たと、来てくれたの違い。
「まるで、あなたまで待っていてくれたような言い方」
「あったりまえじゃないですか」
 里佳の凛と鳴るような声に加須美は驚いて里佳を見る。
「だって、先輩と居るときのリョウちゃんがどれだけ楽しそうか、今は、かなり面白くないらしいから、会うのも面白くないんだけど、だから、来てくれてすごく嬉しいんですよ、あたし」
「あなたは、彼のこと好きなんじゃないの?」
「好きですよ、大好き」
「じゃぁ、」
「でも、世間一般で言う好きじゃないんです」
 里佳は荷物をベンチに置いて自分は地面にしゃがみこみそこに指で線を描き出した。
「世間で言うところの、付き合っている彼氏の好きがここだとする。その下が、まぁ好き。それなり、友達。同級生、知り合い、赤の他人。この付き合える人よりも上に居るのが皆。好き過ぎてね、彼氏にはなれないの。皆好きだから、誰か一人を選べないの。誰か一人を選ぶことも出来ない。それは好きじゃないんだといわれたら、そうだと思う。でも、もしリョウちゃんが私の彼氏になっても、私もリョウちゃんも楽しくないと思う。皆の中の二人だから楽しいんであって、皆の居ない私たちは楽しくないんだ。皆の居ない私は、私じゃないの。でもね、これを解かってくれる人は居ないの。だからよく喧嘩になる。多分、リョウちゃんたちの一番も私。でも、その一番は家族や、ペットなんかと同じ一番。でも、恋人の一番じゃない。何があっても私は彼らに守られる。でも、一番最初に忘れることだって出来る。それなのに、解からないんだよ、そういう感覚が。まぁ、解からないでもないんだよ、解からないということが」
 里佳は書いた線を足で消した。
「で、リョウちゃんに逢います?」
「私ね、謝ろうと思ったの、この辺りだって聞いて、偶然に逢えたら、謝ろうと思ってね、ひどいことを言ったから、」
「ひどいこと? あ、あぁ、そういうことはあんまり喋りたくないよね」
 里佳はつくろう様に笑って加須美の横に座った。
「一緒に居たいって、彼に言われていったとか、もっと、もっと酷いことよ」
 加須美はため息をついて、かすかに微笑んだ。
「もうね、彼とは終わったわ。自然消滅できる恋を、引きずってて、いろいろと迷惑をかけちゃった。逢って謝りたいと思ったけど、会えば何も言えなくなる気がするわ。だから、」
 里佳は頷き、小さく笑い出した。
「何?」
 加須美が首を傾げる。
「いや、家に行かないほうがいいなぁと思ったのよ。だって、リョウちゃんの家には物凄い数のアダルトビデオと、H本だらけなんだから」
「そんな中にあなた、」
「ああ、あたしは女だと見なされてないらしい。だって、あたしが女だと思われるのは生理のときだけよ。それ以外はそこに居るペットと同じ」
 里佳は首をすくめ舌を出す。
「あそうだ、これ持って行くの手伝ってもらえます? あいつら人呼んどいて手伝わないんですよね、先に行って待ってろなんてさ」
「いいわよ、すぐに、帰るけど」
「勿論、逢うこと無いって、そうだ、ちょいとトイレ行ってきますね」
 里佳は公園のトイレに駆け込んだ。
 ―可愛い人―
 加須美は里佳の駆けて行く姿を見ながら思った。
 遼二がふと優しい顔をするのが解かる気がする。彼女を見ていれば確かに優しい気分になる。
 里佳が戻ってきて二人は並んで一軒の家に向かった。
「大きい家」
「リョウちゃんちお金持ちだから、」
 にしても大きな門に、大きな家。その敷地内にある離れがごく一般的な家の様に思えた。自分の家はあれよりも少し小さいかもしれない。
 里佳が玄関を開ける。
 土間が広がり、その横に靴が一個置いてあって階段が二階へと伸びている。
「あ、紅茶入れてくるんで、先上がっててください、すぐに行きますから」
 里佳にそう言われ加須美は階段を上がる。扉の前に来ると加須美は下を見下ろした。
「槇ちゃん、戸を開けてね。お菓子両手いっぱいで開かないから」
 中に誰かが居るようで、ごそっと言う音がした。
 玄関の扉が閉まる音がする。
「ったく、考えて買って来いよ、馬鹿」
 遼二の声だ。
 扉が開いて中から出てきた顔も遼二だった。
「せ、先輩」
 加須美は戸惑いながら頷いた。
「里佳は?」
「紅茶、入れに、」
 遼二の顔が明らかに嫌そうに変わった。
「ったく……、中に入って、……あ、部屋、なぁ」
 遼二は頭を掻きながら部屋の中に目を向けてため息をつく。
「とりあえずそこら辺に居て、ちょいと片付けるから」
 加須美が部屋の中を見れば、小さなスペースが空いているのが見えるが、後はビデオが散らばっていた。
「ホント」
 加須美が噴出すと、ビデオを持ち上げていた遼二が振り返る。
「里佳ちゃんがね、あなたの部屋はビデオでいっぱいだって、」
「まぁ、趣味なんでね、」
 遼二はとりあえず数十個積み重ね加須美に座るように示した。
「なんか飲む?」
「里佳ちゃんが、」
「あいつらは帰ってこない。さっきまで居たんだ。でも、里佳に手伝えって言われて出て行ったし、まったく、あいつら」

 里佳と槇は公園のベンチに座りアイスを同時になめた。その横に純也と臣人が立って二人を見下ろす。
「どうするかな、あいつ」
「さぁね、でも、謝っといてなんてあたし嫌だもの。言うなら自分で言えばいいでしょ」
 里佳は首をすくめた。
 その仕草に三人は笑う。

 机の上に紅茶を置いて遼二と加須美は黙っていた。
 ほのかな紅茶の匂いがする。
 遼二は頭を掻いて加須美のほうを見た。
「あ、えっと、冷めないうちに、どうぞ」
「ありがとう……、」
 会話が続かない―。
 加須美がなぜこの辺りに来たのか解からなければ、なぜ里佳と来たのかも定かではない。荷物が多いからと連れて来たにしろ、何故里佳と出会えたのか解からない。第一、加須美がここに居て楽しいのか分からない。
 遼二は深くため息をついて机に頭をつけた。
「頭が煮える」
「え?」
「……、あのさぁ率直に聞くことはできるんだけど、なんつうか聞けないなんかがあって、それがすんげー力で邪魔してて、そんなの無視して聞いたって大した事無いとは思うけど、もしそれがかなり自分にはダメージになりそうな気もするし、そんなことを悶々と思っている自分が結構腐ったやつだなぁとおもって、そんなこと考えている自分がすんげーあほらしく思えるは、つまらない奴だと思えるは、まったく、なんと言うか、」
「謝りに来たの」
 遼二は机に額をつけたままで横に座っている加須美を見上げた。
 加須美はその目に微笑みかけ、窓の外を見た。
 あの日見た小さな四角い空はそこに無く、ずっと向こうまで澄んでいるような空が見える。
「こちらの方面へ向かって行ってたら逢うんじゃないかしらと思って、そして偶然会えたなら、謝ろうと思って、」
「謝られる様な事は全然無いけど」
「吉岡君とはさよならしたわ。卒業式の解き終わるはずだった幼い気持ちを、いつまでも引きずってたの。君のような子が声をかけてくれた喜びをごまかさすために。ずっと、嘘ついて好きだと思い込もうとしてた気がする。今となって思えばだけど。あの時はそんなこと思ってなかったけどね。吉岡君が東京へ行って話しかけてくる会話が、高校自分私にだけしか解からなかった医学的な、勉強の会話じゃなくなったときから、すごく疎外感を感じてた。向こうの友達の名前も、映画の話も、面白くって楽しいのだろうけど、私は解からない。解かろうともしなかった気もする。お互いがお互いのことに対してもっと譲歩していればよかったのかもしれない。でもそんなことは今になって思えることで、あの時は譲歩も遠慮も何もかもしてた気になってた。君たちに一緒に居たくないのか? と聞かれた時、正直一緒に居たいなんていうのは円熟されない子供の気持ちだと馬鹿にしてた。でも違うのよ。一緒に居たいと思うのは、たとえば友達だって、家族だって同じで、好きな相手ならなおさら当然至極のことなんだって、吉岡君に気持ちぶつけて思った。あなたの話す言葉より、逢いたいとか、今すぐにでも帰りたいと言う言葉が欲しかったって、そしたら彼なんて言ったと思う?」
 加須美は茶目っ気たっぷりに遼二に微笑みかける。
 遼二は体を起こし首をひねる。
「君に毒されたんだろうって、思わず笑っちゃった。彼の最初で最後の嫉妬よ。でもそれをもっと早くして欲しかった。君に何かされて、だから俺が嫌になって、もっともらしいことを言って別れようとしてるって、」
「ちょっと、」
「そんなことあるわけ無いじゃないってちゃんと言ったよ、そして、吉岡君と君を比べたらずっと前に話を切り出してるって、比べれるほどのものじゃないじゃないって、」
「すんごーく痛いぞ、それ言われると」
「と思う。でも、言ってすっきりした。吉岡君が怒るのも無理ないと思うけど、すごくすっきりした。おかげで張られたけどね」
 遼二の顔が険しくなった。
「ありがとう、あなたがそうやって怒ったり、笑ったりしてくれたから気付けたのよ、もう気持ちのないものに振りを続ける必要がないって」
「大丈夫?」
 遼二の右の甲が加須美の頬に触れる。
「平気よ、もう、終わったことだもの。あの時はひどいこと言ってごめんなさいね、それから、これは、ここで言うのは忍ばれることなんだけど、」
 遼二は眉をひそめた。
「あたしが医者を目指す理由。あれは嘘。そういえばあなたは、いいえ、いろんな男の人は私に近づかないだろうって思ったの。眼鏡もその手段の一つ。メガネをかけて、お下げにして、規定どおりの制服を着て、生徒会長をする」
「トラウマ?」
「何?」
「いや、なんかあってそんな防御してるのかと」
「怖いんだと思う。お母さんと同じようになりたくないから」
「同じ?」
「お葬式のときお母さんが最初で最後すごい顔をしていったの。それ以降もちょくちょく怒られてたけど、そのときの顔は、怒るのとも、いたぶるとも違う、悲しくて、悲観して、憔悴して、とにかくすごい顔で、一人になるのは辛いから、絶対に自分より長く生きられる人を好きになりなさい。置いていかれるのは辛いわよ。ってね、小学校に上がって間もない子に言う言葉じゃないわよね、でもお母さんの精一杯の真実だと思う。置いていかれてその後の生活の不安とか、支えのなくなる不安。私には想像も出来ないけど、でも、それが結局言わせたんだからね、それで思ったの、最初から居なければ置いていかれるかもしれない不安も、居なくなるんじゃないかと思うこともないって、吉岡君の場合は、同じ目標があったから、そう同士だったのね、好きという相手だったわけじゃないかも」
 加須美は自分で事実を見つけ出して行っているようなおかしさで笑った。
「ごめんね、涙流されたとき、嘘に同情させたって、それがたとえ君の嘘でも、すごく後悔したの。早く言えばよかったけど、嘘をついていた理由とか、いろいろのことがまだ処理できてなかったのね。吉岡君が好きだからついたのかもしれないし、君があんまりもてるから、意地悪したのかもしれないし、とにかく嘘はよくないわね。ごめんなさい」
 加須美は軽く頭を下げ遼二を見た。
 意外にも遼二はきょとんと言う顔をしていた。
「怒らないんだね?」
「っていうか、そういうことは別に言わなくていいんじゃない? 将来誰かと結婚して、運良く子供が出来たのって笑えるじゃない、俺にわざわざ言いに来なくても、」
「でも、心配して、泣いてくれたじゃない。ああ、この人、噂とはちょっと違うんだなって、思ったの」
 加須美の笑顔に遼二は額を軸に机に目を向けた。
「それは、」
「ん?」
「人は人生において何度かの節目を迎える。その節目で変わる関わらないかでその後が変わってくる。最初は里佳にあったとき、ちょうど高校に入る前。確かに節目だった。節目というのがどのくらいのスパンでやってくるのか知らない、どういうタイミングを持って節目だとか、分岐だとか、岐路だとかわかりゃしない、今思えばあの時だと思うだけで」
 加須美は眉をひそめた。
 遼二の言っている言葉の意味が半分も理解できない。
「先輩と出会って、変わったと言われた。皆が言った。先輩はいい人だって。俺がいい奴になったからだって、でも本当にそう思う。あなたはいい人ですよ。わざわざ言いに来たし、やっぱり俺……、うん、あなたはいい人だ」
 言いかけた言葉を遼二は飲み込むように最後は大声を出した。
 体を起こし加須美に微笑みかける。
「自転車で送る。電車がよければ途中まで、」
「もし、ここに居たいって言ったら、どうする?」
 立ち上がりかけた遼二は目を丸くして加須美を見たが、すぐに口の端を緩め、
「そう言われてもこれじゃぁ居られる場所がない。片付けに、三日、一週間……、一ヶ月はかかるだろうか? それから先になる。それに、傷心の女性を止めるのは案外簡単なんだ。優しい言葉をかけて微笑めばいい。でも、先輩は家に帰らなきゃ。送ったついでにまた飯にありつけるかもしれない」
「本当に好きね、うちのご飯」
「俺旨いもの大好き」
「じゃぁ、電話入れとこうか?」
「いい、遠慮ない奴は嫌われるから」
 加須美は笑いながら立ち上がる。
 二人は部屋の真ん中で向かい合って思わず笑い出す。
「背、高いね」
「背、低いね」
「キスするにはしにくいかもね」
 遼二は黙って加須美を見下ろす。
 加須美は笑いながら部屋を出て行く。
 鉄板の階段を下りる音がする。
 遼二は追いかけるように部屋を出て、靴を履いた加須美より先に素足で土間に降り立つ。
「靴、」
「もう一段上がって、」
「でも、靴履いたし、」
 遼二の手が加須美の手を誘導して、加須美は一段上がる。
「これなら、しにくくはない」
「でも、どこへ行っても階段を探さなきゃいけないわね、これじゃぁ」
「どこにも行かない。ここでする」
 遼二のまじめな顔に加須美から笑顔が消える。
「俺、初めてだからよく解からないんだ。これが好きだというのかどうか。でも、先輩を大事にしたいし、ずっと笑顔で居てもらいたい。一緒に居たい。だから、好きだ。弱さに漬け込みたくないから、返事は要らない。今言うべきじゃないと思う。でも、もう、押さえられない。……、キスがしたい」
 暫くの沈黙の後加須美がくすっと噴出した。
「そうね、そうよね。いいわ、キスしましょ。でも条件がある」
 里佳とここへ向かう道すがら、里佳は面白いことを喋った。
「リョウちゃんと付き合うには、あの取り巻きが多すぎる。怖いでしょ、あの人たち。そもそもリョウちゃんが見境無く相手するからいけないのよね、だから、リョウちゃんが私だけを見るように禁欲が続けば考えるのだけど、あれはどうしてどうして、どうにもならん人種らしい」
 里佳の呆れながら喋ったあの言葉を思い出した。
「条、件?」
「誰とも、キスも、セックスもしないこと。浮気とか以前に、あなたが健全であること。それが出来たら考えるわ」
「先、輩?」
「弱さに漬け込まれるの、私も嫌なの。でも、あなたがいい人に思えてきたのはいいことだと思う。ここに遊びに来て、里佳ちゃんたちとも遊びたいとも思う。でもあなたがこのままであるなら、このままで終わる気がする。あなたと里佳ちゃんの関係の様にね、だから、」
「解かった」
「苦痛じゃない?」
「別に、」
 遼二が頷く。
「本当?」
 遼二は頷いたが、徐々に口を尖らせ、
「多分ね」
 とすねてみた。
 加須美はくすっと笑い、遼二の頬に頬を押し当てた。
 遼二はそのまま加須美を抱きしめる。
 暖かくって大きい体。
「がんばれ、少年」
 加須美と遼二は暫くそのままで笑いあっていた。
 初夏の日差しも、茜に変わった中で、二人はいつまでもお互いの体温の中で笑っていた。

 え? その後どうなったかって? その後は、……、別の話ということで
(Le partenaire qui veut embrasser ……Fin)















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