11 「愛の歌」

 レディー・アンは教室の出窓に腰掛けていた。腰掛けたまま数時間もぼうっとしていることがある。
 ネリーたちは顔を見合わせてため息を付くと、チェスター少尉の元へと行く。
「だめ、お兄さま。アン・トレイシーバーはまったく動こうとはしないわ。」
「まぁ、死んだ者から花が贈られたんだから。」
 チェスター少尉は帽子を被って外に出た。窓辺に座っているレディー・アンは見えるが、あの側に行けないのが歯がゆい。
(彼女の心をこれほどまでに縛っている奴って言うのは一体)
 チェスター少尉は軍司令部に向かい、軍人名簿を捜した。
「G、G、G。」
 Gの分厚い本を机の上に置き、それを開く。真新しく死亡と書き加えられている者や、戦地が記されている者もいる。
「ギーゼルベルト……、イツァ出身のトランペット担当。肺に穴が開いているため楽団としての役職に当たれず、楽団後援部隊として参加し、バルドー地区で死亡。死亡届及び、遺品譲渡人、ギルバート・アンギル。アンギル?」
 チェスター少尉は更にその続きを読む。
「ギルバート・アンギル。楽団の声楽担当。煙で喉が焼け声が満足に出ずに後援部隊に下がる。バルドー地区でギーゼルベルトの遺産相続人となる。出身、タリアのレンツェ。確か、ギーゼルベルトはイツァだったなぁ。ギーゼルベルト、出身イツァの首都トルリン。考え過ぎか。第一、ギルバート・トレイシーバーは四十。ギーゼルベルトは死亡時二十三。替え玉かと思ったが、考えすぎだな。」
 チェスター少尉は本を閉じた。
 翌日も、チェスター少尉はビクトリエンス校を訪れていた。しかし、今日は、レディー・アンは外で走り回っていた。
「レディ・アン?」
「チェスター少尉。ご機嫌いかが?」
「あなたの方は?」
「落ち込んでいても仕方がないわ。でも、考えると辛いけど。でも、辛い顔をしているのって、不幸を呼び込むでしょ。これ以上の不幸はそうないけど、もういいから。」
「レディー・アン、どうです近くを散歩でも?」
 レディー・アンは頷いて庭を歩いた。雪がくるぶしほどまで降り積もり、散歩するには寒かったが、二人は黙って小川近くまで歩いていた。
「ギーゼルベルトの死亡届を見てきました。」
「ギルの?」
 レディー・アンの声が震えている。チェスター少尉はレディー・アンをちらっと見下ろしてから、続けた。
「彼はやはり死亡している。親友というのはギルバードというタリア系アモリカ人らしい。三十日には、前線から一時帰国するという報告が入っている。」
「そう。ありがとう。」
「ギーゼルベルトを愛していた?」
「解りませんわ。まだ子供でしたもの。」
「羨ましい。」
「何がです?」
「彼がですよ。あなたの愛を胸に抱き、死んでもその中に居続けている。」
「チェスター少尉?」
「ジェラルドと呼んでください。」
 レディー・アンの手を握りしめチェスター少尉はレディー・アンの目を見入った。
 その時だった。学校から、街から、至る場所から歓喜の声が上がった。
 レディー・アンとチェスター少尉は学校に走り込むと、ミス・モニカがレディー・アンに抱きついた。
「戦争が終わったのよ。イツァが降伏したの。」
「本当?」
「ええ、本当よ。子供達もこれでやっと家に帰れるわね。」
 ミス・モニカと再び抱き合ったレディー・アンはチェスター少尉と抱き合う。その後、チェスター少尉は軍司令部へと向かった。
 戦争は終わり、戦犯容疑者の処理に終われ、気づけばすでに空気はゆるみ、小川には雪解け水が流れていた。
 久し振りにビクトリエンス校に行くと、レディー・アンは思いのほか元気らしく、庭の花壇に花を植えていた。
 レディー・アンは手袋を外してチェスター少尉を迎え入れた。
 学校は戦争以来疎開している状態で子供を預かっていたので、この三ヶ月間は親元にいるという。そして九月の新学期から、再開するという。だからやけに静かだったりする。
「お忙しいのね。」
「まぁ。」
「なかなかお出でじゃないから。」
「仕事ですよ。」
「そうね、軍人さんは大変だわ。」
「レディ・アン、私はあなたの機嫌を損ねたつもりはない。なのになぜあなたはそう機嫌が悪いのです?」
「なぜですって? あれほど毎日お出でだったじゃないですか。まるで戦争が終われば来なくても良くなったようで。毎日来ていたのは、まるで私じゃなくて、誰か別な人に面会じゃなかったの?」
「何を馬鹿な。」
「あら、そうかしら?」
「レディー・アン、私はあなたしか見ていないし、あなた以外考えられない。なぜそれが解らないのですか?」
 レディー・アンは口をつぐんだ。
「結婚して欲しい。」
 レディー・アンの瞳が揺れた。でも、すぐに顔を背けた。
「レディー・アン?」
「ごめんなさい。でも、だめだわ。」
「私が嫌い?」
「いいえ、あなたがそう言ってくださるのを待っていたわ。でも、そう、この先が解らないの。あなたと結婚して、私、」
「ギーゼルベルトは死んだんですよ。」
 レディー・アンは唇を噛みしめて聖堂に入っていった。
「私は、ギルを捜してる? ギルじゃないとだめ? でも彼は、死んだわ。もう、いないの。なのに、チェスター少尉の言葉を受け入れられなかった。私、ギル……。どうして約束なんかしていったの?」
 レディー・アンは聖堂の祭壇に俯せて泣き出した。
 静かな聖堂にレディー・アンの泣き声が響く。
あなたに逢いたい
この世のすべてに反逆しても
あなたの愛が欲しい
身を焦がして
滅びそうになっても
あなたのためなら惜しくはない
あなたに逢いたい
あなたに愛されたい
あなたに抱き締められたい
あなたは私の夢だ
この世のすべてから非難されたとしても
私は恐れない
あなたは私のすべて
あなたは私の半身
あなたに愛されるのなら
どんなことでも出来る
あなたに愛されたい
あなたに逢いたい

愛の歌


 レディー・アンはふいに口ずさむ。
(やっとこの意味が解る。ギル、私も、あなたに逢いたい)
 レディー・アンの歌声が久し振りに聖堂の窓を開け放した。

 チェスター少尉は聖堂内に戻るレディー・アンを追えずにいた。
「すみません、生徒達は?」
 チェスター少尉が振り返ると、イツァ人らしい堀の深い青年が立っていた。
「戦争が終わったから今帰省しているが、学校関係者?」
「まぁ。昔、ここの生徒だったものです。あなたは、軍人ですよね? ここも軍施設に?」
「いいや、私的な用事です。」
「あ、じゃぁ、ご存じですか? レディー・アンが今もここに居るかどうか?」
「レディー・アンの知り合い?」
「居るんですか?」
 青年の顔が笑顔で輝いた。
「今し方聖堂にはい……て。」
 聖堂の窓がすべて開き、レディー・アンのあの声が辺りに甘く、切なく優しく漂う花のように聞こえてきた。
 青年は鞄からバイオリンケースを取りだした。長い間土の中にでも置いていたような泥だらけの汚いケースの中に、生き抜くことを諦めなかった彼の意志のように、磨き抜かれたバイオリンがあった。
 彼は静かにその歌にバイオリンの弦を乗せた。
 チェスター少尉は青年を見た。
 彼が弾き初めて暫くして聖堂からレディー・アンが出てきた。
「ギル?」
「ただいま。」
「ギル!」
 レディー・アンは青年事ギーゼルベルトに走り寄り、その身体を捜すようにしっかりと抱き締めた。
「死んだって。」
「ああ、ギルベルトと言うタリア人が変わってくれたんだ。その人は、戦犯として以前君の父さんと捕まっていたんだ。そこでお父さんに助けられて、今度のことで助けて欲しいと言われたそうでね。」
「その人は?」
「死亡通知は行ったかい?」
「ええ。」
「彼は素晴らしいトランペットを吹いたよ。でも肺の穴が思いのほか大きくってね。俺と同じ年だというのに。」
「余命を人助けに役立つならってね。しかもなんの手違いか、俺は声楽担当だった。生憎と、君のようにうまくは歌えない。それが幸いしたのか、バイオリンは無傷だったし、今までボクはギルバート・トレイシーバーとして生きれた。」
 そう言った瞬間レディー・アンはチェスター少尉を見た。そしてギーゼルベルトの前に立つ。
「大丈夫だよ。俺は君に会いさえすればよかったのだから。嘘はいけない。そう教えているだろ? 君も。」
「ギル……。」
 レディー・アンは俯いてでも、両手を広げてその場を動こうとはしなかった。
「レディー・アンはあなたのプロポーズを受けるべきだと思う。あなたの方が将来の希望も、沢山の裕福も手に入れれるだろう。俺には、小さな宝石の欠片も送れないからね。それに、偽造は立派な犯罪だ。」
「だが、ギーゼルベルトは死んでいる。お前が例えそう名乗ったとしても、お前達が手を回して作った名前が生きているはずだ。しかもご丁寧なのは、アンギルという偽名は、レディー・アンと、ギーゼルベルトを合わせたものなんだな。一時期は思ったよ。替え玉でも使っていないだろうかと。でも、確かに、ギーゼルベルトは二十三で死亡している。」
 チェスター少尉は翻り歩き出した。
「チェスター少尉?」
「私は軍人だ、罪を見逃すことは出来ない。しかし、精巧且つ、人情的な好意に関して、私は寛大ではないが、見なかったことは出来ます。田舎に行かれることだ。ギルバート・アンギルと、アン・トレイシーバーとしてね。」
「チェスター少尉。」
 チェスター少尉は振り向かずに歩き去った。
 そして彼の言った通り二人はすぐに学校をあとにした。二人が立ち去ったあとで、イツァ人の生き残りの噂が出て、軍人がビクトリエンス校に探しに来た。しかもチェスター少尉が責任者だった。
 結果、イツァ人を匿っている形跡もなく、捜査は打ち切られた。
 レディー・アンは海の上にいた。
 大西洋を航海し、目指すはタリアの小さな港町だ。
「初めて帰る感想は?」
「どきどきして、怖いくらいだわ。」
「小さな家になると思う。宝石だって買えやしない。」
「いいの。あなたがいれば。そう。あなたに逢いたかったのだから。」
 甲板に降り注ぐ大西洋の太陽は、数日前まで戦闘機が飛んでいた灰色の空ではなく、透き通った青い空から降り注いでいた。
 二人の熱い口付けを恥ずかしがるように海鳥が飛行しすぎる。


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