葬偽
2002.09

 今回は、「葬偽」を読みくださりまして、まことにありがとうございました。
 たくさんの感想と、意見をくださり本当に感謝です。

 FCのあとがきにも書きましたとおり、これはほぼ実話です。そして、それは作者である、この松浦の私小説でもあります。
 ほぼ一緒というのはどこか? というより、最も違う場所は、中盤からすべてが違います。
 父親を病院に入れる話し合い、そして父の死。すべては私の思考による想像です。

 それがむごい。

 といわれると、具の音も出ませんが、この話はちょうどこのFC7のお題が発表された頃に起こったことがきっかけです。
 と、その前に、まずは、父親の今までを振り返った前半はすべて本当です。そこのところで言葉がたらず困惑された方が多かったので、補足しておくことにします。そんなとこよりもという方はすっ飛ばして下の方*2をお読みください。

 父親は田舎の小さな街で生まれました。彼の母親、つまり私の祖母ですが、は父親を生んですぐ産後の肥立ちが悪く死にました。もう十年近く前に五十周忌を済ませたほどです。
 父親の父親、祖父ですがは、父親を育てるために再婚、ここからは親戚(父親をべたがわいがりしたおばさん)の話なので、かなり偏りがある話だとは思うのですが、その親戚によると、一歳か、二歳かの子供を柱にくくりつけ大泣きさせたりしていたとか、それを見た彼の祖母、つまり私からするとひいばあさん? が後妻を追い出す形で引き取ったようです。

 そこでおかしいのは祖父の行動。なぜ子供を捨て後妻と街を去ったのか? その祖父もすでになくなってますが、かなり寂しい死に方です。
 小説の中にも書いたと思うのですが、道端で倒れ、発見は半日後。街の真ん中でホームレスが寝ていると捨てておかれた結果の死でした。
 悪いことはできない。ということでしょうか?(笑い)

 そして一人残された乳飲み子は、ひぃばあさんの溺愛のもと育ちます。彼女には祖父をはじめとする五人の子供がいます。下の娘、つまり上に書いた叔母と父とは姉弟同然で育ったので、可愛いのでしょう。
 その環境は父の昔話の中でもちらほらでてきます。ひぃばあさんは小さな商店を開いて居たそうで、そこの売り物のてんぷら(高知ではさつま揚げのことをてんぷらといいます。ここでもそうです)をすぐにくれたとか、揚げドーナツをくれたとか、しかし、父の話の中でひぃじいさんの話は出てきません。
 私が小さかった頃、毎週日曜日は安芸(阪神のキャンプ場で有名じゃないかしら?)に墓参りをしに行くついでに寄ったものです。それが日曜の過ごしかっただったのに、今でもひぃじいさんのことは口にしません。
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 さて、溺愛の中育った父親の話で、幼心に、この男は? と思った話にこんなのがあります。昔だから、いいのかな? とも思うのですが、父親は早生まれなので、近所の子供たちより一年早く学校に上がるのですが、祖母は友達と別れるのはかわいそうだと学年を遅らせたと言うのです。
 昔はそんなに甘かったのか、それとも祖母の力の融通が聞く田舎だったのか、とにかくこの話しでみょうに好きになれないひぃばあさんの遺影を見上げる私が居ました。

 父親が高校を卒業すると、祖母はコネで(高知の田舎ではコネが何より大事)公務員になりました。そのくらいからすでに酒は飲んでいたそうです。父親談
 父親の酒飲みは祖父の遺伝。しかしひぃじいさんも、親戚にもそれほど飲む人はいません。いや、そう見えるだけかも。しかし、うちの父親の酒飲みは親戚でも有名なほどですから、すでに若い頃からのんべぇだったのでしょう。
 そして飲酒運転中に人身事故を起こし、妻子のもとから逃げるように大阪へ行きました。
 その時には祖母はいなかったようですが、妻子も愛想をつかしたのでしょう。飲酒運転をし、その責任から逃げるような男を。
 そして大阪で母と知り合い、私が生まれます。

 父親は親に捨てられたと言う思いがあるのか、家族を愛することに惜しまない人でした。私が小学校に入る前などは二つの仕事を掛け持ちしていたし、日曜日のたびにどこかへ出かけてくれました。しかしまったく覚えてないのが父親のミスでしょうね。
 子供が物心つき始め、どこへ行きたいとせがむようになった頃には、すっかり毎週酒を朝からのみ、月曜はずる休みをするが定着していくのです。
 しかし子煩悩が変わることはなく、夏休みなどはどれほど遠くの営業に出かけていても家で食事を取る父親でした。

 私が中学に入学する年、父親は退職。その理由は、社長が息子に代わり折り合いがあわないだろう。というものだったらしい。
 父親は念願の行商商売を始め、貧しいながらもそれでも仕事を始め、私はそのおかげで高校を卒業できたし、妹も弟も卒業してます。
 しかし、その仕事も飲みすぎたらすぐに休み、行く気がしなければ休むといった感じ。その結果、自然消滅のような感じで辞めました。

*1
 私の新婚旅行後入院します。その時、肝臓の半分は肝硬変になっていて、白血球やら、糖やらは尋常で無い数値を計測しました。
 その時、医者からは一ヶ月が山だと言われました。
 母はパートをしながら付きっ切りの看病を、妹は看護学校の勉強をしながら、弟は就職活動をしながらの看病です。私はすぐに子供ができたので、看病には携わってません。
 そして半年ほどでしょうか、無事に退院。体調を整え、その年の年末には仕事に就くほどの回復振りを見せました。
 あのときの苦労はすっかり報われた。そんな感じを受けたのですが、しかし職場の改装に伴った失業で、また酒に溺れる日々。
 いや、その前から、仕事を始めたのだから飲んでもいいだろうと言う気持ちが生まれ、酔っ払ったままで仕事に出かけていたそうです。
 そして家でひっくり返り、妹に下の世話をさせた挙句二度目の入院。今度は一週間だといわれました。ノドに陰性の腫瘍を抱え、そこが切れると出血死すると言うのです。
 そして吐血。もうだめなんだと思ったのですが、奇蹟か、ただ単に心臓が強いのか、父親は復活。しかしその病院では実家の生活に影響を及ぼす(付きっ切りは困る)ので、やたらと電話をかけてこない病院に転院したのです。
 そこで父はものすごい回復力を見せ、医大でのどのガードの手当てをして(何度も塗らなきゃいけないのですが、えずくのが嫌で一回しかしてません)無理やり退院。
 すぐに酒を飲み始めました。

 その後、家族の非難が集まり、居心地が悪くなると勝手に入院するを繰り返したのですが、結果は、入っている間も飲む。出てきても飲む。で病院から受け入れてくれない態度を見せられています。

*2
 そして今年、FC7のお題告示の日、母から援助をしてくれという電話をもらいました。
 そもそも今までちらちらとは援助してきたのですが、弟夫婦や、妹にはもう少しというようなことは今までありませんでした。多分、それが鬱期でなければ私も旦那に黙って援助をしたかもしれない。
 でも時は鬱期、このまま小さな援助をしていても、それはすべて酒代になると考えた私は、この現状をどうにかしなきゃと言う気になったのです。

 遅いことだと思うだろうけど、親の飲酒に付き合ってきた子供は、極力その現状から逃げたいのじゃないかしら? 特に、酒を飲まなきゃいい人は、その心を強くさせる気がします。
 実際、高校の時にはすぐに部屋に上がっていました。あの匂いと、あの説教と、わけのわからない言葉の側に居たくなかったのです。
 その吐け口は母親に向かい、私たち兄弟は母親には迷惑をかけまいと、そう、道がそれることなくいい子に育ちました。
 私の嫌悪感は言われるまで気付かなかった。それまで父親も母親も好きだったけど、別にどうでもよかった。今すぐどうなるわけでも無いし、という気で居たけど、兄弟の中で私は父に対して愛憎がひどいといわれた。好きだからこその憎しみというやつです。
 好きだからこそ、酒を飲む父親はごみいかだと思うそういうたとえならわかるでしょうか?

 感想をいただいた中に、父親への愛情とか、憎しみについて書いてくださった方がいましたが、私は父親に感謝し、愛しています。でもその半面にある大人としての情が私の場合愛情と同じくらい憎しみであることは間違いないです。
 家族の中でいちばん疎ましく思っているのも私だと思うし、一番立ち直って欲しいと願っているのも私でしょう。それは長女だからなのか、いちばん最初に生まれ、溺愛されたからなのか、とにかくそういう心情が同居している私が、この状況を打開すると思い立った結末が、この「葬偽」でした

 嘘をついてまでも病院に入れ、三年は連絡も取らずに病院にいてもらう。三年後一泊の外泊ができるようになり、五年後退院する。ということが私の出した答えでした。
 その中には、援助金を酒代に変えるよりは、病院代ならまだましだと思った経緯があります。
 しかし、病院嫌いな父。それをいかに病院に入れるか。それが問題でした。
 怒鳴ろうと、なじろうと、なだめすかそうと、ほめようと動じなくなった廃人の父。しかし、本人の意思が無い限り病院は受け付けてくれません。
 嘘をついて、契約書を書いて、そして病院に押し込む。しか方法が無い。

 これが打開策だ。

 でも、それでいいのだろうか?
 本当に三年も我慢できるだろうか?
 肝臓は残り少ない部位のみで、すい臓やら、他の臓器を痛め黄疸が激しく出ている。  酒しか口にしないから骨と皮だけの体は、まるで白骨されたミイラのようだし  もし、三年我慢し、五年過ぎ、退院してきて、本当に飲まずにいられるのか?

 それとも、病院で死ぬか?

 それがめぐったとき、私のこの打開策は曇りを見せました。
 病院に入れることがすべてではない。

 では、現状のまま、酒代援助をするのか?

 最悪の事態を避ければ、母を少しでも救いたいと言う気持ちで、離婚させようということが頭をめぐりました。
 感想でもありましたが、離婚して家に帰ってきて家に入れず、結果一人寂しく病院でなくなった。という話。
 それに近いことが起こることは目に見えてました。
 父が一家の象徴として建てた家のローンはまだあります。その家を売り、慰謝料とし、母は実家に。では父は? 慰謝料で残ったお金で細々と暮らすには、家も、食事をするにも事欠くでしょう。
 弟夫婦の家は狭く、一人娘は父親を嫌ってかひどく泣きます。私の家は姑と同居です。妹は大阪にいます。誰が父の面倒を見るのでしょう?
 祖父と同じく一人寂しくどこかでのたれじぬ。しかない気がするのです。

 結局、人は死ぬのだし。

 とはいえ、やはり後味は悪いです。
 ではやはり現状のまま、母には我慢してもらって、父の死を、自然な死を願うばかりなのでしょうか?

 この葬偽で書きたかったことの本当は、今の現状をどうすればいいのかということだったのです。
 こんな身内の恥を書いてみっともないと思ったし、こんなことを書くなどという気もします。 しかし、私たちはすっかり行き詰っています。

 でも、この前、弟が言った一言がやけに虚しくそれでいて納得しました。

「他人がどうこう言っても、今まで僕らはやってきた。それでだめやったんやから、もう、誰がどんなことをしても無理で。結局毎日酒飲みの側にいて、あの小言を聞いて、嫌になるってことをして無い人に、「肝硬変で、もうすぐ死ぬ言うなら我慢したら?」とか言われても、結局のところ、じゃぁいつ死ぬがで? ってことになるろ? 我慢しいやって言う人がいちばん残酷で。結局誰もわかってくれんて。」

 だと思う。
 でも、周りに居たそういう人の話しを知っている人なら、こういう結果になったとか言う話が聞けるかもしれない。事実、数名は居たわけだし。
 しかしどの場合も悲惨極まりない結末ではあるのですがね。

 お酒が嫌い(まぁ、嫌いなんですけどね、美味しくないから。お酒なら、ジュースの方がいいよ。)ではないのです。宴会場も好きだし、たしなむ程度なら何も文句は言いません。うちの旦那も晩酌いっぱいぐらいなら(彼は肝臓が弱くいっぱいが限度ですが)文句は言わないし、気持ちよく注いであげます。
 しかし父親の量ははるかに超えてます。1リットルの焼酎を三日で飲み干す。そして少ないパートの稼ぎをあてに朝から晩まで飲み続けています。こうなったら、もう憎悪しか感じません。

 このあとがきを見て、どうこうしろという気は無いのです。ただ、感想をいただき、それに対するお礼を込めた文だと思ってください。
 さいごに、母が焼酎を机に置いたと言うのは、うちでは大ジョッキーに焼酎の水割りで飲むのですが、それを出した。ということです。これは8Kbという容量に引っかかったため削除したので、解らなかったと思います。
 私は偽善者です。やはり内心を見せることはできそうもありません。こう言うての話は自身のエゴが出すぎるので、控えて居たのですが、FCではこう言う話のほうが受けるのでしょうか? 前回を上回る感想にかなり動揺してます。出だしは感想がつかなかった所為もあって……。

 さいごに、この話を書き、これほどの反響があったこと、そして、同様のケースの話をしてくださった方、後味の悪い中最後まで読んでくださり、感想まで下さったかたがた。本当にありがとうございました。
 さまざまな感想をかてに精進していきたいと思っております。

2002.09.23





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